南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<雑記帳>追悼・水島新司先生!!

<目次>

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<はじめに>

 今月十日(令和4年1月10日)、『ドカベン』や『野球狂の詩』等で知られる、漫画家の水島新司先生が亡くなられた。まずは、ご冥福をお祈りしたい。

 とりわけ『ドカベン』は、私と同年代以上で知らない方はいないだろう。それほどの名作、まさに高校野球漫画の金字塔と言える作品である。私も高校野球好きの端くれ。この機会に、『ドカベン』が残した功績について考察することとしたい。

 

1.キャッチャーを“花形ポジション”へと押し上げる

 漫画『ドカベン』の最大の功績は、何と言ってもそれまで“地味”と言われていたキャッチャーを、“花形ポジション”へと押し上げたことだろう。

 今でもそうだが、野球の“華”はピッチャー。内野でいえばショート、次にセカンド。キャッチャーはどうしても、よく言えば「縁の下の力持ち」、悪く言えば「目立たない」ポジションというイメージが付きまとう。あの名将・野村克也氏が長年勤めたポジションであるにも関わらずだ。

 

 しかし『ドカベン』という作品によって、キャッチャーというポジションの魅力に目覚めた子供達は、当時多かったはずだ。

 

 確かにピッチャーは“野球の華”だが、それをリードするのがキャッチャーなのである。

また主人公・山田太郎とバッテリーを組んだのが、誰と組んでも変わらない速球派投手ではなく、軟投派で多彩な変化球を誇る里中智(さとる)だったというのも、巧い選択だったっと思う。里中だけでなく、山田のリードの力でピンチを切り抜けた場面も少なくなかった。

 

 さらに盗塁阻止の送球、本塁上のクロスプレー、全体への守備時における指揮等、キャッチャーの役割は意外に多く、重要である。『ドカベン山田太郎のプレーは、そのことに気付かせてくれたのだ。

 

2.水島先生の力を以ってしてもできなかったこと

 ただ……ここまで述べておいて何だが、私は『ドカベン』という作品が、あまり好きではない。嫌いというほどではないが、誰かに「好きな野球漫画を挙げよ」と言われたら、きっと別の作品(おそらく『ラストイニング』や『キャプテン』『プレイボール』等になる)を挙げるだろう。

 

 その理由は、物語の途中から、あまりにも主人公・山田太郎が“神格化”され過ぎてきたことだ。

 

 私は正直、野球の点の取り方は「ドカンと一発ホームラン」よりも、盗塁やエンドランを使った足攻でチャンスを作っていくやり方が好きだ。これはどっちが良いというよりも、好みの問題であるから、別に『ドカベン』を貶めるつもりはない。

 

 ただ高2編の途中辺りから、山田の決勝ホームランで勝つ試合が増えた。つまり、試合展開がワンパターンになってきたのだ。この辺りから、私は同作を読まなくなっていった気がする。

 

 もっとも、山田を“スラッガー”にしてしまったのは、当時の野球界では仕方なかったかもしれない。あの野村克也氏でさえ、ライバルでもあり友人の森祇晶氏と「あまりにキャッチャーの役割が軽視されている」とボヤいていたほどらしいのだから。

 

 今でさえ、元千葉ロッテマリーンズで現解説者の里崎智也氏は、名捕手の条件は“打つか・勝つか”と言っている。

 山田は、奇しくも里崎氏の言った二つの条件を、見事に満たしている。実際のリードは、大量点に近い失点を喫した試合もあり、本当に素晴らしかったかどうかは分からない。だが、甲子園4度の優勝捕手を、「名捕手」と呼ばない者はいないだろう。

 

 しかし、私は明訓の得点が山田のホームランに依存し始めた辺りから、『ドカベン』を読まなくなった。やはりホームランを量産しチームを勝利に導く存在でないと、まだまだ“名捕手”とは呼べない時代だったのかもしれない。それだけは、水島氏の力を以ってしてもできないことだったのではないかと思われる。

 

<終わりに>

 ただそれでも、『ドカベン』がキャッチャーというポジションの価値を押し上げたのは、間違いない。ドカベンに憧れ、あるいはドカベンになったつもりでキャッチャーを務めた子も多かったはずだ。また甲子園大会では、ずばり“ドカベン香川”(※故・香川伸之氏)というスターも生まれている。

 

 そして現在。プロ野球界には、着実に“キャッチャーのスター”も生まれ始めている。

 古田敦也城島健司に続き、甲斐拓也、森友哉……常勝チームを引っ張る名捕手の系譜は、確実に続いているのだ。

 願わくは、この中から“本物のスーパースター”の誕生を望みたい。水島先生も、天国でそれを待ち望んでいるはずである。