【目次】
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<外伝>
第78話 自分を信じろ!の巻
1.キャプテン谷口の決心
甲子園球場のスコアボードには、七回表を終了して聖明館が四対一で墨谷をリードと掲示されている。
墨高ナインの陣取る一塁側ベンチでは、キャプテン谷口を中心に円陣が組まれていた。
「見てのとおり、相手はリリーフを複数用意して、こちらが分析するすべを封じた。しかし臆することはない」
開口一番、谷口はそう話した。
「あと三イニング。われわれの野球をつらぬけば、必ず好機は回ってくるはずだ」
「しかし正直、痛いよな」
正直な思いを告げたのは、横井だった。
「いま投げてる二番手にだって手を焼いてるのに、そいつを攻りゃくしかけたとしても、向こうはまたつぎのリリーフを送り込んでくる算段だからな」
む、と戸室も同意する。
「しかも名門なだけあって、出てくるリリーフもエースとそん色ない力量だ。このままじゃ……」
三年生二人の言葉に、他のナイン達も押し黙る。
(二人が言うのも、もっともだ)
谷口も口をつぐんだ。
(このままだと向こうの思うように試合を進められてしまう。本当にもう、打つ手はないのか)
逡巡を察したのか、倉橋が「谷口?」と怪訝げな目を向ける。他のナイン達も前屈みの姿勢のまま、キャプテンの言葉を待つ。
しばし思案の後、谷口は胸の内につぶやく。
(こうなったら、そうするしかあるまい)
そして顔を上げ、再び口を開く。
「なあみんな。われわれはいま、どこにいるんだ」
丸井がやや戸惑ったふうに「こ、甲子園です」と答える。
「そう、甲子園に来て三回戦を戦っている。だからみんな」
谷口は微笑んで言った。
「いまこそ、もっと自分の力量を信じようじゃないか」
「キャプテン!」
意図を察したイガラシが声を上げる。
「それってデータのない相手投手を、正面から打ちくずそうってことですか?」
真剣な眼差しで、谷口は答えた。
「そういうことだ」
ええっ、と周囲からざわめきが漏れる。
「データもなしで、あの投手を」
「さすがになあ。ちょっと厳しいんじゃ」
そんな声が聞かれた。
「みんなが戸惑うのは分かる」
一旦ナインの戸惑いを受け止めた後、キャプテンは問い返す。
「でも、本当にできないのか?」
えっ、と丸井が声を上げた。他のナインも目を見上げる。
「思い出してみろ」
ふっと穏やかな表情になり、キャプテンは話を続けた。
「あの高岸はたしかに厄介なリリーフだが、うちはこれまでも、手ごわい好投手と何度も対戦して、そのたびに攻りゃくしてきたじゃないか」
やや声をひそめて、さらに付け加える。
「たとえデータがなくとも、あのレベルの投手を打ちくずせるだけの力を、われわれは身につけてきたんじゃないのか」
墨高ナインは、一様に神妙な顔でうなずく。
七回裏。規定の投球を受け終えたキャッチャー香田は、セカンドへ送球した。そしてマスクを被り、ホームベース奥に屈み込む。
(墨高のやつら、ずいぶん長く話し込んでいたようだが。この期に及んで策もあるまい)
ほどなくこの回の先頭打者、一番丸井が右打席に入ってくる。バットを短めに構え「さあこい!」と、気合の声を発した。
フン、と香田は鼻を鳴らす。
(気合いで打てりゃ、世話ねーぜ)
マウンド上では、高岸がロージンバックに左手を馴染ませる。
(こいつで様子を探ってみよう)
香田のサインに高岸はうなずき、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
内角低めのカーブ。丸井はバットを強振する。パシッと快音が響いた。大飛球がライト頭上を襲う。香田はマスクを脱いで立ち上がる。
「ら、ライト!」
香田の指示の声よりも先に、ライト甘井は背走し始めていた。しかしやがてポール際のフェンスに背中が付いてしまう。だがポールの外側に数メートル切れた。
「ファール!」
一塁塁審が両腕を大きく掲げる。
「フウ。あぶねえ」
香田は大きく息を吐く。
(こいつ小さいナリして、案外パワーあるじゃねえか)
しばし思案の後、香田は次のサインを出す。
(コレで誘ってみるか)
高岸はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
内角高めの速球。丸井は悠然と見送る。ズバン、と香田のミットが鳴った。アンパイアが「ボール、ハイ!」とコールする。
(うーむ。振り回してくるかと思いきや、つりダマにはのってこないか)
一塁側ベンチより「いいぞ丸井、ナイスセン!」と声援が飛ぶ。
(しかたない。きわどいトコ突いていくしかないか)
香田は三球目のサインを出し、ミットを外角低めに構えた。高岸はうなずき、しばし間合いを取ってから投球動作を始める。
外角低めの速球。丸井はバットをおっつけるようにしてスイングした。パシッと快音が響く。今度はレフト頭上を大飛球が襲う。
「れ、レフト!」
香田がマスクを脱ぎ叫ぶ。
「くっ」
レフト真壁は全速力で背走し、フェンスの数メートル手前でジャンプする。その精一杯伸ばしたグラブの先に、ボールが収まる。
「アウト!」
三塁塁審のコール。墨谷応援団の一塁側スタンドから「ああ……」と大きな溜息が漏れた。一方、聖明館の三塁側スタンドからは「助かったぜ」「いいぞレフト!」と安堵の声が聞かれる。
「くそっ、もうひと伸びたりなかったか」
丸井は悔しげに顔を歪め、ベンチへと引き上げていく。
「ナイスプレーよレフト!」
好プレーの真壁に一声掛けた後、香田はフウと小さく吐息をついた。
(あぶねえ。おっつけてあそこまで飛ばすとは、なかなかやるな)
一塁側ベンチでは、墨高ナインの数人が「おしいおしい」「ナイスバッティングよ丸井」と、好打を相手のファインプレーに阻まれた二年生に声を掛ける。
(なにもあわてることはねえ)
香田はマスクを被り直し、胸の内につぶやく。
(一人ずつアウトを取っていけばいいんだ)
ほどなく次打者の二番島田が、右打席に入ってきた。こちらもバットを短めに構える。
(こいつはミート重視か。それなら、またきわどいコースを突いていこう)
しばし考えた後、香田はサインを出す。高岸はうなずき、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
外角低めの速球。島田は左足で踏み込み、スイングした。ガッ、と鈍い音。
「しまった」
島田は頭上を仰ぐ。打球はバックネット方向への高いフライ。香田がマスクを脱ぎ、振り向いてダッシュする。
「くっ」
しかし香田の眼前で、ボールはバックネットに当たる。ガシャンと音がした。
「ちぇっ。打ち取ったと思ったのに」
香田は小さく舌打ちして、ポジションに戻る。
(だが、こいつは速球に振り遅れてる。このまま力押しでいけそうだな)
またも外角低めにミットを構え、香田は「もういっちょここよ」とサインを出す。
「む」
高岸はサインにうなずき、すぐさま投球動作へと移る。
初球に続き外角低めの速球。島田は「それっ」と、バットをはらうようにスイングした。カキッ、と快音が響く。
三遊間へ痛烈なゴロが飛ぶも、ショート小松が逆シングルで捕球する。そして素早いステップで一塁へ送球する。
「くそっ」
ベースを駆け抜けようとした島田の眼前で、ファースト福井が送球を受けた。
「アウト!」
一塁塁審のコール。打ち取られた島田は、ベンチに戻り「すみません」とチームメイト達に謝る。
「気にすんなって」
三年生の横井が後輩を励ます。
「あの当たりをとられちゃ、しかたねえよ」
一方、香田は渋面になる。
(またいい当たりされたな。そろそろやつらも、高岸のタマに目が慣れてきたか)
その時だった。
「た、タイム」
マウンドの高岸がアンパイアに合図し、「香田。ちょっと」と呼んできた。香田はすぐにマウンドへと駆け寄る。
「どしたい高岸。調子よくツーアウト取れたというのに」
「ああ。けど続けていい当たりされたのは、初めてだからよ」
「そりゃやつらも、そろそろおまえのタマに目が慣れてくる頃だからな。だが、そう心配あるまい」
なだめるように、香田は言った。
「まだ三点あるし、いざって時にはリリーフの有原も控えてる」
「うむ。それは分かってるんだが」
高岸は浮かない顔のままだ。
「なにか気になることがあるのか?」
香田が尋ねると、香田は「む」とうなずき、ちらっと墨高の一塁側ベンチを見やる。ちょうどキャプテン谷口が、次打者の倉橋を送り出すところだった。
「倉橋も思いきっていけよ」
「おうっ」
そんな会話が聞こえてくる。
「いい当たりされ出したのもあるんだが」
声をひそめて、高岸は言った。
「やつらここに来て、ずいぶん思いきりよく振ってくるようになったと思わないか」
高岸の言葉に、香田ははっとする。
「そ、そういや……」
その時、アンパイアがマウンドに歩み寄ってきた。
「そろそろいいかね?」
「あ、はい。もうけっこうです」
香田はそう返事して、高岸に言葉を掛ける。
「とにかくいままでどおり、きわどいコースを突いていこう。そうすりゃ大ケガすることはないはずだ」
「あ、ああ」
やがてタイムが解け、香田はポジションに戻った。ほぼ同時に、次打者の三番倉橋が右打席に入ってくる。
(こいつはパワーありそうなナリだな)
む、と香田はつぶやいた。ふとあることをひらめく。
(そうだ。やつらが打ち気にはやってるのなら、また誘いダマが使えるんじゃ)
香田はサインを出し、ミットをほぼ真ん中に構える。
(ツーアウト取ったことだし、こいつで試してみよう)
高岸はうなずき、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
ほぼど真ん中の速球。倉橋は悠然と見送った。ズバン、とミットが小気味よい音を鳴らす。「ストライク!」とアンパイアのコール。
「やはりはええな」
倉橋はそうつぶやくと、一旦打席を外し、数回素振りした。その姿を、香田は横目で観察する。
(甘いタマを平然と見逃しやがったな。つぎはコレで誘ってみよう)
二球目のサインを出し、今度はミットを真ん中低めに構えた。高岸はうなずくと、すぐに投球動作へと移る。
真ん中低めのチェンジアップ。倉橋は一瞬ぴくっと体を動かすも、バットは振らず。ボールは低めに外れ、カウント1-1。
(くそ、のってこねえな)
香田は渋面で返球した。そして次のサインを出す。
(しかたない。いままでのように、コースを突いて打ち取っていくか)
高岸はしばし間合いを取ってから、投球動作を始めた。そして外角低めのコースへ快速球を投じる。
倉橋はまたも手を出さず。アンパイアが「ボール!」とコールする。
(さすが三番なだけあって、いい目してやがる)
高岸に返球しようとする時、香田はちらっと相手ベンチを見やる。
(しかし監督の言うとおり、大したチームだぜ。普通リードされて終盤をむかえりゃ、バッティングに焦りが見られるものだが、まるでそんな兆しがねえ。こりゃ少しでも気を抜いたら、きっと痛い目にあうぞ)
束の間思案の後、香田は四球目のサインを出す。
(こいつでタイミングをずらそう)
む、と高岸はうなずき、今度はすぐに投球動作へと移る。右足で踏み込み、グラブを突き出し、左腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
内角低めのカーブ。倉橋のバットが回る。カキッ、と快音が響く。痛烈なゴロが三塁線を襲う。おおっ、と一塁側ベンチの墨高ナインの数人が身を乗り出す。
ところが次の瞬間、サード糸原が横っ飛びし捕球した。そのまま片膝立ちになり、素早く一塁へ送球する。
「くっ」
倉橋は一塁にヘッドスライディングする。間一髪のタイミング。
「あ、アウト!」
一塁塁審のコール。相次ぐファインプレーに、聖明館応援団の陣取る三塁側スタンドが沸き立つ。一方、墨高応援団の一塁側スタンドからは「ああ……」と大きな溜息が漏れる。
「ナイスプレーよ糸原!」
好守備のサードに声を掛けてから、香田はフウと一つ吐息をつく。
「やれやれ。どうにか三人で切り抜けたぜ」
一塁側ベンチ。惜しくも凡打に倒れた倉橋が引き上げてきた。
「わりい。ねらってたカーブだったんだが」
悔しがる倉橋を、谷口が「しかたないさ」と励ます。
「ありゃ向こうの守備がよかったんだ」
その隣で、戸室が「あーあ」と頭を抱える。
「三本ともいい当たりだったのに。ひとつでも抜けてりゃなあ」
「なに。ヒットこそ出なかったが、向こうは面食らっただろうぜ」
声を明るくしたのは横井だ。
「自慢のリリーフが、あれだけとらえられたんだからよ」
「横井さんの言うとおりです」
イガラシも同調する。
「それにいくらリリーフの枚数が多いからといって、全員の調子がいいとはかぎらないですし。あの二番手投手が打たれるのを見て、ほんらいの投球ができないってことも」
「なーるほど」
丸井がポンと両手を打ち鳴らす。
「こう考えりゃ、まだまだうちにチャンスはあるってこったな」
そしてキャプテン谷口が「みんな分かってるじゃないか」と、朗らかに言った。
「さあ。反撃ムードを消さないためにも、この回しっかり守っていこうよ!」
谷口の掛け声に、ナインは「オウッ」と快活に応えた。そして守備位置へと散っていく。
2.谷口登板
三塁側ベンチ。
「香田、高岸。ちょっと来るんだ」
聖明館監督が、バッテリー二人を呼んだ。
「は、はい」
「なんでしょう」
香田と高岸は、監督の前で直立不動の姿勢になる。
「二人とも、あまり相手を意識しすぎるなよ」
監督はまずそう告げた。
「やつらがそれなりに抵抗してくるのは、計算のうちだ。しかし何度も言うように、三点リードしてるうちが優位なのは間違いない。あと三イニング、その三点を使って逃げ切ればいいんだ」
二人は「はい」と声を揃える。監督はさらに話を続けた。
「いい当たりされ出したとはいえ、おまえ達の攻め方は悪くない。これまでどおり、きわどいコースに投げ込んでいけば、そうそう連打されることはないはずだ。それよりあまりやつらを意識して、ヘタに策を講じようとすれば、ぎゃくにつけ込まれるぞ」
監督はそう言うと、他のナインにも顔を向ける。
「なあおまえ達。この試合、たった四点で終わるつもりか? もっと点差を広げて、バッテリーをラクにしてやるんだ。いいな!」
聖明館ナインは「はいっ」と快活に応えた。
その時、甲子園球場にウグイス嬢のアナウンスが流れる。
―― 墨谷高校、選手の交代とシートの変更をお知らせいたします。ピッチャー片瀬君に代わりまして、岡村君が入りサード。サードの谷口君がピッチャーに、それぞれ入れかわります。
キャプテン谷口の登板に、墨高の一塁側スタンドが「おおっ」とどよめく。
(なるほど……)
聖明館監督は、胸の内につぶやいた。
(やつらも勝負にきたか)
八回表。軽快にボール回しを行う墨高野手陣の真ん中で、キャプテン谷口がマウンドにて投球練習を始めていた。速球、カーブ、シュートと持ち球を投げ込んでいく。
谷口登板に伴い、墨高はシートを変更した。ピッチャーの片瀬を下げ、岡村が谷口の抜けたサードのポジションに着く。
やがて規定の投球数を受け終えた倉橋が、二塁へ送球した。そしてマウンドに駆け寄る。
「見てのとおり厄介な打線だが、どう攻める?」
倉橋の問いかけに、谷口は「む」とうなずく。
「速球には強いようだし、変化球主体の投球がいいだろう」
「うむ。基本的にはそれでいいと思うんだが、やつらヤマをはってくるぞ」
「べつにかまわないじゃないか」
キャプテンは気楽そうに答える。
「たとえねらわれても、芯に当てさせなけりゃいいんだ」
えっ、と倉橋は目を見開く。
「おいおい。ずいぶん強気だな」
「ハハ。さっきああしてナインを鼓舞した以上、キャプテンのおれが手本にならなきゃ示しがつかんからな」
朗らかに言った後、谷口は表情を引き締める。
「だから倉橋も、強気でリードしてくれ」
「む。分かった」
そこまで言葉を交わし、倉橋はポジションに戻る。谷口はロージンバックを拾い、パタパタと右手に馴染ませる。
倉橋はホームベース手前に立つと、野手陣へ声を掛けた。
「しまっていこうよ!」
ナイン達は「オウヨッ」と、力強く応える。
アンパイアが「バッターラップ!」とコールした。ほどなくこの回の先頭打者、一番甘井が右打席に入ってくる。
「さあこい!」
甘井は気合の声を発し、初回と変わらずバットを長めに構えた。
(ほう。相手も気合を入れてきたな)
横目で打者を観察し、倉橋は「まずコレよ」とサインを出す。
「む」
谷口はうなずくと、足下にロージンバックを放り、ワインドアップモーションから第一球を投じる。
内角低めのカーブ。甘井は強振した。しかしチップさせるも、ボールは倉橋のミットに収まる。
「くそっ」
甘井は顔を歪めた。
(ねらってたというのに。なんて鋭いカーブなんだ)
打者は一旦打席を外し、数回素振りしてから打席に戻る。
(つぎもコレよ)
倉橋のサインに谷口はうなずき、すぐに二球目の投球動作へと移る。
またも内角低めのカーブ。甘井のバットが回る。ガッ、と鈍い音。打球は三塁側ファールグラウンドに転がった。
(く。また……)
甘井はマウンド上を睨む。
(なるほど、あの谷原が打てなかったわけだ。しかしこのおれが、二球続けて打ち損じるとは)
打者の様子を、倉橋が傍らで冷静に観察する。
(だいぶムキになっているな)
そして「つぎはコレよ」と、三球目のサインを出す。
谷口はうなずくと、今度はしばし間を取ってから、投球動作を始めた。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
「あっ」
外角低めの速球。ズバン、と倉橋のミットが鳴った。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアがコールし、右こぶしを高く突き上げる。
(しまった。ウラをかかれた)
見逃し三振に倒れた甘井は、引きつった表情で引き上げていく。一方、倉橋は「やれやれ」とつぶやいた。
(うまくいってくれてよかったぜ。さて、つぎは)
ほどなく甘井と入れ替わるようにして、二番小松が左打席に入ってきた。こちらもバットを長めに構える。
(きっと変化球が頭にあるだろうから、また速球でウラをかこう)
倉橋のサインに、谷口は首を横に振った。
(えっ。じゃあ、コレ?)
サインを変えると、谷口はうなずく。
(なるほど、念には念を入れてってことね)
投手の意図を理解し、倉橋はミットを内角低めに構えた。その眼前で、谷口が投球動作へと移る。
速いボールが、内角低めに投じられた。小松のバットが回る。しかし直球と思われたボールは、打者の手元でさらに内側に曲がった。ガッ、と鈍い音。打球は三塁側ベンチへと転がっていく。
「くっ、シュートか」
小松は顔を歪める。
(フフ。いくら速球が好きでも、まっすぐとシュートの区別もつかないようじゃな)
倉橋は含み笑いを漏らし、二球目のサインを出す。
(ちと打ち気にはやってるようだし、こいつで引っかけさせよう)
む、と谷口はうなずく。そしてしばし間を置いてから、二球目を投じた。またも速いボールが、今度は真ん中低めに投じられる。しめた、と小松はスイングした。
しかし次の瞬間、ボールはホームベース手前でストンと落ちる。
「うっ」
打者はこれを引っ掛けてしまう。ガキ、と鈍い音。セカンド正面に転がったゴロを丸井が難なくさばき、ファースト加藤へ送球する。
「アウト!」
一塁塁審のコール。ベースを駆け抜けた小松は、思わず膝に両手をつく。
(やられた。いまのはフォークか)
うつむき加減でベンチへと歩き出した小松に、次打者の香田が声を掛ける。
「どしたい二番。あれしきのタマを引っかけちゃって」
「おい香田」
小松は顔を上げ、険しい表情で言った。
「あのピッチャーを甘く見ると、痛い目にあうぞ」
「う、うむ」
味方の言葉に戸惑いながら、香田は右打席に入る。そしてバットを長めに構えた。
(なんでえ。あいつ自分が打ち取られたからって、けわしい顔しやがって)
一方、倉橋は打者の様子を観察する。
(あくまでも長打ねらいか。敵さん、あいかわらず強気なことで)
だが、と胸の内につぶやく。
(この三番は一発がある。まずは慎重にアウトコースを突いていくか)
外角低めにミットを構え、サインを出した。ところが、谷口はまたも首を横に振る。倉橋は苦笑いした。
(あ、こっちも強気でいくんだったな。それじゃあっと)
ミットを内角低めに移動し、二度目のサインを出す。谷口が今度はうなずいた。そして投球動作へと移る。
内角低めのカーブ。香田は一瞬ぴくっと体を動かすも、バットは出せず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。む、と香田は渋面になる。
(すげえカーブだぜ。しかもコースいっぱいか。これじゃ一、二番があっさり打ち取られるわけだ)
マウンド上。谷口はテンポよく、二球目を投じた。初球に続き内角低めのカーブ。香田のバットが回る。カキ、と音がした。打球は三塁側ファールグラウンドに転がる。
(よし、追い込んだぞ。最後は……)
倉橋のサインに谷口はうなずき、三球目の投球動作を始めた。そして指先からボールを放つ。シュッ、と風を切る音。
真ん中低めのフォークボール。香田はこれを引っ張る。打球はまたも三塁側ファールグラウンドを転がっていく。
(くそ。いまのは、わざとファールにしやがったな)
倉橋は顔を歪めた。その後、カーブ二球とシュート一球を投じたが、いずれもカットされる。
フン、と香田は鼻を鳴らした。
(そちらが変化球主体でくることは分かってんだ。でもこうしてカットしてりゃ、いずれしびれを切らしてまっすぐを投げてくるだろう)
その傍らで、倉橋が「そろそろいくか」と、七球目のサインを出す。谷口はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
内角高めの速球。香田のバットが回る。カキッという音。
(し、しまった。打たされた)
香田が唇を噛む。その眼前で、打球はレフト頭上に高々と上がる。
「オーライ!」
レフト横井は数歩後退しただけで、余裕を持って顔の前で捕球した。これでスリーアウト、チェンジ。
「ナイスピーよ谷口!」
「上位打線を相手に、よくおさえてくれたぜ」
墨高ナインはエースに声を掛けながら、足取り軽くベンチへと引き上げていく。一方、倉橋はフウと安堵の吐息をついた。
(どうにか最後はねらいどおり、高めのつりダマを打たせることができたな)
そしてマウンドを降りてきたエースに「さすがだぜ谷口」と、声を掛ける。
「なーに。これからさ」
谷口は何事もなかったかのように、淡々と応えた。
―― この後も谷口は力投を見せ、続く九回も聖明館打線を難なく三者凡退におさえたのだった。
一方、聖明館の二番手投手をとらえ出した墨高打線だったが、いずれも相手の好守によりヒットにはならず。
そして試合は四対一と聖明館リードのまま、九回裏の墨高の攻撃を残すのみとなったのである。
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