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<外伝>
第76話 頭脳戦!キャプテン谷口対聖明館監督の巻
1.集中打
―― 墨谷対聖明館の試合は、重苦しい展開のまま、中盤に差しかかっていた。
強打を誇る聖明館は、毎回のように塁上をにぎわせるも、墨高の先発松川のねばり強いピッチングとバックの攻守により、二回の一点のみにとどまっていた。
一方の墨高も、聖明館のエース福井から毎回のようにチャンスを作るも、福井ののらりくらりとしたピッチングを前に、どうしても得点が奪えなかった。
そしてむかえた五回表……
甲子園上空は、すっかり夜になった。星が瞬いている。
五回表の開始前。三塁側ベンチに陣取る聖明館ナインは、監督を中心として円陣を組んでいた。
「さすがは、ねばりの墨高だ」
ただ一人ベンチに座り、監督は言葉を発した。
「一点こそ奪ったものの、その後はしぶとく守りきられている。このままズルズルいけば、やがて向こうのペースになってもおかしくない」
ナイン達の間に緊張感が漂う。
「そこでだ」
しばし間を置いて、監督は話を続ける。
「この回、まっすぐとシュートに的をしぼって、一気にたたみかけよう」
「ということは」
香田が質問した。
「緩い変化球は捨てるということですか?」
「そのとおりだ」
指揮官は答える。
「カーブとチェンジアップは見逃すか、ファールにするんだ。そうしてねばっていれば、向こうのバッテリーは速球を投げざるをえなくなる。そこをねらい打て」
監督はさらに語気を強める。
「やつらのねばりにつき合う必要はない。この回で松川をたたいて、勝負を決めてしまえ」
ナイン達は「ハイ!」と、快活に応えた。
すでに守備位置に散った墨高ナイン。
「いいタマきてるぞ松川」
後輩の投球を受けながら、倉橋は相手ベンチを観察する。
(監督みずから円陣を組ませるとは。この回、勝負をかける気だな)
そして回の先頭打者、二番小松が左打席に入ってきた。
(まずコレで様子を見るか)
倉橋はサインを出し、ミットを外角低めに構える。松川はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
外角低めのカーブ。小松は悠然と見送った。コースいっぱいに決まり、アンパイアが「ストライク!」とコールする。
(反応しなかったな)
倉橋は訝しげな表情で、打者を見やる。
(つづけてみるか)
松川はサインにうなずき、二球目の投球動作を始めた。初球と同じく外角低めのカーブ。小松はまたも手を出さず。
「ストライク、ツー!」
アンパイアが右手を突き上げコールする。
(いまのは見向きもしない感じだったな。やはりまっすぐねらいか)
しばし思案の後、倉橋は次のサインを出す。
(ねらいダマを分かってて、そのとおり投げてやるほど、こっちはお人好しじゃねえぜ)
三球目。松川は、真ん中低めにチェンジアップを投じた。小松のバットが回る。カキッ、と快音が響いた。痛烈なライナー性の打球だが、大きく切れて一塁側アルプススタンドに飛び込む。塁審が「ファール!」と、両腕を掲げる。
(なんて速い打球なんだ)
倉橋は頬を引きつらせた。
(しかしいまのは、わざとファールにしたくさいぞ。やはりまっすぐを待っているのか)
一方、小松も思案を巡らせる。
(フン、さすがだな。速球ねらいに気づいてら)
一旦打席を外し、数回素振りする。
(だがねばってりゃ、そのうちしびれを切らすだろう)
四球目は外角のカーブ。小松はこれもカットし、打球は三塁側ベンチ前を転がる。五球目は真ん中低めのチェンジアップ。これは見送り、外れてワンボール・ツーストライクのカウントとなる。
(マズイな……)
正捕手は苦い顔になる。
(松川のやつ、ここまでだいぶ投げてる。これ以上ねばられちゃ、後がきつくなるぞ)
手振りで「ロージンだ」と伝える。松川が足下のロージンバックを拾い、右手に馴染ませる間、倉橋は思案する。
(ちとキケンだが、ここは打たせるしかない)
ようやくサインを決め、ミットを内角高めに構える。
(さあさあ。バックを信じて)
松川はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
小松がバットを強振する。パシッと快音が響いた。
「ら、ライト!」
鋭いライナー性の打球が、深めに守っていたライト久保の頭上をあっという間に越え、ワンバウンドでフェンスに当たり跳ね返る。
「くそっ」
久保はすぐさま捕球し、中継の丸井へと返球するが、小松はスライディングもせず悠々と二塁に到達した。ツーベースヒット。
(なんて見事なバットコントロールしやがるんだ)
倉橋は思わず苦笑いした。
(松川の重いタマに、振り負けるどころか、肘をたたんでフェンスまで運ぶとは)
そして三番打者の香田が、ゆっくりと右打席に入ってきた。
(おれが動揺しちゃいかんな。向こうがまっすぐねらいなのは、分かってるんだ)
束の間考えた後、一球目のサインを出す。そして外角低めにミットを構える。
(だったら、その打ち気を利用してやる)
松川はサインにうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。その指先からボールが放たれた瞬間、倉橋は「うっ」と顔をしかめる。
外角を狙ったはずのボールが真ん中に入ってしまう。パシッと快音が響く。痛烈なゴロが、横っ飛びしたファースト加藤のミットの下をすり抜ける。そのままライトのファールグラウンドを転がっていく。
「くっ」
またもライト久保が、フェンスに当たり跳ね返った打球を拾い、中継の丸井へと返球する。ボールを受けた丸井は「ああ」と溜息をつく。その眼前で、二塁走者の小松がホームベースを駆け抜ける。さらに香田は二塁ベース上に立つ。
連続ツーベースヒット。スコアボードがめくられ、聖明館の二得点目が表示される。
「しまった……」
マウンド上で、松川が唇を歪める
「た、タイム」
倉橋はアンパイアに合図して、マウンドへと駆け寄った。
「どしたい松川。ボール一個はずせと要求したのに、中に入ってきたぞ」
「すみません」
神妙な顔で、松川は小さく頭を下げる。倉橋はポリポリと頬を掻いた。
(ま、しかたあるまい。あれだけ毎回のように連打されりゃ、どうしたって神経をすり減らしてしまうよな)
後輩の左肩をポンと叩く。
「ま、あまり気ばらずいこうや。何度も言うように、バックを信じてな」
松川は「は、はい」と返事して、少し表情を和らげる。
倉橋がポジションに戻ると同時に、四番鵜飼が右打席に入ってきた。そしてバットを長く構える。長距離打者特有の威圧感ある雰囲気だ。
(外だぞ)
ミットを再び外角低めに構え、正捕手はサインを出す。松川はうなずき、セットポジションから第一球を投じた。
「あっ」
そのボールがホームベース手前でワンバウンドした。倉橋はミットを縦にしてボールを前にこぼす。ランナー香田は進塁しようとするが、倉橋がボールを拾ったのを見て、慌てて帰塁する。
(うーむ。どうもまっすぐだと、腕が縮こまってしまうようだな)
しばし思案の後、倉橋は「コレよ」とサインを出し、再びミットを外角低めに構える。
(これで力みが取れりゃいいんだが)
松川はサインにうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
外角低めのカーブ。鵜飼はぴくりとも動かず。コースいっぱいに決まり、アンパイアが「ストライク!」とコールする。
(やはり緩いタマは捨ててるみてえだな。それなら……)
倉橋は「つぎもコレよ」とサインを出す。
松川はうなずき、セットポジションから三球目を投じた。またも外角低めのカーブ。これもコースいっぱい。やはり鵜飼はバットを出さず。
(フウ。どうにか追いこんだぞ)
倉橋は小さく吐息をつく。
(最後もカーブでいくか。いや、何度も同じタマを続けると、やつらヤマをはってくる)
束の間考えた末、次のサインを出す。
(だったらコレで)
松川はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
真ん中低めのチェンジアップ。鵜飼ははらうようにバットを出した。打球は三塁側ベンチ方向へ転がっていく。ファール。
(いまのは、はなからフェアゾーンに飛ばす気がなかったようだな)
なるほど、と正捕手は合点する。
(さっきのミーティングで、緩いタマは捨てろと指示が出たんだな。だったら……)
倉橋はすぐに五球目のサインを出し、ミットを内角低めに構えた。
(こいつで引っかけさせよう)
松川はサインにうなずき、しばし間を置いてから、投球動作を始める。そしてシュートを投じた。しかし鵜飼は、躊躇なくスイングする。
パシッ。鋭いライナーが三塁線を襲う。サード谷口がジャンプするも及ばず、打球はレフト線の内側に落ち、さらに外へ切れていく。
「レフト!」
倉橋の指示の声よりも先に、レフト横井がクッションボールを処理し、中継のイガラシへ送球する。だがその間、二塁走者の香田はホームベースを駆け抜けていた。さらに打った鵜飼も二塁へ到達。
またもタイムリーツーベースヒット。スコアボードに、聖明館の三点目が表示される。
「くそっ」
ホームベース手前で、倉橋は唇を歪めた。
「シュートまで打たれるとは」
2.片瀬登板と聖明館ベンチ
サードのポジションにて、キャプテン谷口は渋面になる。
(いかん。ねらい打ちされてる)
そして「タイム」と三塁塁審に合図してから、一塁側ベンチへと走り寄る。
(しかたない……)
高橋、攻撃時はコーチャーを担当する一年生に声を掛けた。
「は、はい」
「ブルペンの片瀬を呼んできてくれ」
「分かりました!」
キャプテンの指示に、高橋は急いでベンチを飛び出す。一方、谷口はアンパイアの下へ駆け寄り、短く告げる。
「ピッチャー松川から片瀬に交代します」
うむ、とアンパイアは承諾し、バックネット裏へと走る。ほどなく、ウグイス嬢のアナウンスが流れてきた。
―― 墨谷高校、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー松川君に代わりまして、片瀬君。背番号12。
アナウンスの間、谷口が今度はマウンドへと歩み寄った。そのマウンド上では、正捕手倉橋が渋面で腰に手を当て、そして二年生投手の松川は青ざめた顔になり、肩で息をしている。ハーハーと呼吸音が聞こえる。
「スマン」
開口一番、倉橋は謝った。
「引っかけさせるつもりでシュートを要求したんだが、ものの見事に打ち返されちまって」
「うむ。しかたないさ」
苦心のバッテリーをねぎうように、谷口は言った。
「二人とも、よくがんばってくれた。これはもう相手をほめるしかない」
やがてライトのラッキーゾーンより、片瀬が駆けてきた。しかしマウンド上の重い空気を察してか、しばし押し黙る。
松川がぐっと顔を上げ、谷口と目を見合わせる。
「役割を果たせなくて、すみませんでした」
「いや。そんなことはない」
キャプテンはきっぱりと答え、二年生投手の左肩をポンと叩く。
「あの打線相手に、ここまでよく投げてくれたな。あとは体をしっかりケアしながら、ベンチでナインを盛り立ててくれ」
はい、と返事したその口元に、途中降板の悔しさがにじむ。そして片瀬のグラブの左手にボールを渡し、「たのんだぞ」と告げる。それから踵を返し、ベンチへと向かう。
松川がダッグアウトに引っ込むのを見届けてから、谷口は「さて片瀬」と一年生投手に向き直った。
「都大会以来の登板だが、準備はできているな?」
「もちろんです」
思いのほか片瀬は快活に返事する。
「見てのとおり手ごわい打線だが、バックを信じて思いきり投げるんだ。いいな!」
「はい! まかせてください」
端正な顔立ちの一年生は、微笑んで応えた。
「うーむ……」
三塁側ベンチ奥。聖明館監督は腕組みしたまま、グラウンド上の光景を見つめていた。その眼前では、リリーフ登板の片瀬がサイドスローのフォームで、キャッチャー倉橋相手に投球練習を行う。
(一気に突き放したいところだったが、やはりここで、うちの苦手な軟投派投手をぶつけてきたか。思ったとおり、あの谷口というキャプテン、手ごわい男だ)
そして「高岸!」とネクストバッターズサークルの次打者を呼び、手振りでサインを伝える。
(あの一年生投手は足を痛めているという情報もあるが。いずれにせよ、こうなったら一点ずつ追加していくしかあるまい)
やがてタイムが解け、五番高岸が左打席に入ってきた。その傍らで、キャッチャー倉橋は視界の端で打者を観察する。
(さっきまでは速球ねらいだったが、軟投派の片瀬に代わって、ねらいダマをどうしてくるか)
しばし思案の末、倉橋はサインを出し、ミットを外角低めに構える。
(まずコレで様子を見るか)
片瀬はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。サイドスローのフォームで、速球を投じた。
次の瞬間、高岸はバットを寝かせた。
「なにっ」
コン、と音がした。倉橋は目を見開く。高岸はボールをマウンドとホームベースの中間地点に緩く転がす。
片瀬は素早くマウンドを駆け下りた。しかし捕球した瞬間、足がもつれ転んでしまう。
「あ……」
何とか上半身を起こしたが、すでに高岸はベースを駆け抜けていた。一塁三塁オールセーフ。
「タイム!」
アンパイアがコールの後、少し屈んで尋ねる。
「だいじょうぶかね、きみ」
「は、はい。平気です」
そう言って片瀬は立ち上がり、倉橋と目を見合わせ「すみません」と頭を下げる。
「気にすんな」
正捕手は右手を差し出し、一年生投手を助け起こした。
「まさかバントしてくるなんて、こっちも思いもしなかったからな」
「ええ」
「それより、足はほんとうに平気なのか?」
「あ、はい。いまのはちょっとすべっちゃいまして」
ホッ、と倉橋は安堵の吐息をついた。そして相手ベンチを睨む。
(向こうの監督、片瀬の足が万全じゃないってこと、知ってやがったな。さすが、あの青葉部長の弟なだけあって、いやらしい采配してきやがる)
ほどなく谷口もそばに来た。
「片瀬。足を伸ばしてみろ」
「はい」
片瀬は言われた通り、膝に両手を当て、片足ずつ伸ばしていく。
「どうだ、痛みはないか?」
「ええ。なんともありません」
よかった、と谷口は微笑む。
「しかし二点追加されて、さらにピンチが広がっちまったな」
倉橋は渋面で言った。
「打順も下位に入っていくことだし。向こうはまた、バントで揺さぶってくるだろうぜ」
「む。おれもそう思う」
谷口は「片瀬」と、後輩に向き直る。
「バントはおれと加藤で処理する。たとえ真正面でも、おまえは反応するな」
「え、でも」
戸惑う後輩の左肩を、谷口はポンと叩く。
「こっちのことは気にするな。向こうのねらいは、おまえをバントで走らせて、自滅させることだ。そのテにわざわざ乗る必要はない」
「分かりました」
片瀬はようやく納得してうなずいた。その隣で、倉橋はちらっとネクストバッターズサークルを見やる。次打者の六番糸原が、マスコットバットで素振りしている。
「スクイズだろうな」
正捕手の一言に、キャプテンは「うむ」と同調する。
「あの監督のことだ。軟投派の片瀬から、連打で得点するのは難しいと判断するだろう。となると、いまいるランナーをかく実に返そうとしてくるはず」
「どうする、させるか?」
「ああ。もう一点くらいはしかたあるまい。それより大量失点を防ぐんだ」
谷口の言葉に、倉橋も「分かった」と腹を決める。
ほどなくタイムが解け、六番糸原が右打席に入ってきた。倉橋は「ココよ」と、ミットを真ん中に構える。
片瀬はうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。その瞬間、三塁走者の鵜飼がスタートを切り、糸原はバットを寝かせる。スクイズ。
倉橋は「やはり」と、マスクを脱ぎ立ち上がる。
コンッ。打球はマウンドの左側に緩く転がった。サード谷口はボールを拾うと、鵜飼を見向きもせず、素早く一塁へ送球した。
ようやくワンアウト。しかしスクイズを決められ、点差は四点に広がってしまう。
沸き立つ三塁側ベンチとスタンド。対照的に、墨谷応援団の陣取る三塁側スタンドからは「ああ……」と溜息混じりの声が漏れる。
「ワンアウト! さあ、ここからしっかり守るぞ」
重苦しいムードを振り払うように、キャプテン谷口は朗らかな声を発した。ナイン達も快活に「オウヨッ」と応える。
そして七番打者の真壁が、右打席に立つ。前と変わらずバットを長く持つ。
(また速球をねらってくるか。いや、ひょっとしてなにかしかけてくるかも……)
横目で打者を観察しつつ、倉橋はサインを出す。そしてミットを内角高めに構えた。
(そう好きにさせてたまるかよ)
片瀬はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。その瞬間、真壁も糸原と同様にバットを寝かせた。同時に、二塁ランナー高岸がスタートを切る。
「ん?」
真壁は投球の軌道に驚く。速球と思われたボールは、打者の手元でナチュラルにシュートした。
ガッと鈍い音。打球はマウンドとホームベースの中間地点への小フライとなる。片瀬が迷わずダッシュし、飛び付いた。そのグラブの先に、ボールが収まる。
「しまった」
ベースから飛び出してしまった高岸は、慌てて帰塁する。しかし起き上がった片瀬は、すぐさま振り向いてベースカバーのイガラシへ送球する。
高岸はヘッドスライディングするも、間に合わず。
「アウト!」
二塁塁審のコール。ダブルプレーとなり、これでスリーアウト。登板したばかりの片瀬のファインプレーに、今度は墨高応援団の一塁側スタンドがワアッと沸き立つ。
「ナイスガッツよ片瀬!」
谷口は右こぶしを軽く突き上げ、気迫の後輩を称えた。そしてピンチを切り抜けた墨高ナインが、足取り軽くベンチへと引き上げていく。
「くそ。やっちまった」
三塁側ベンチ。バントを失敗した真壁が、渋面で戻ってくる。
「ただのまっすぐだと思って油断したな」
ベンチ奥にて、聖明館監督は厳しい口調で言った。
「きのうのミーティングで、あの一年生のボールは、ナチュラルに小さく左右に曲がると言っておいたろう」
「す、すいません」
真壁は気まずそうに頭を下げる。
「まあ、すんだことはしかたがない」
少し口調を柔らかくして、監督は話を続ける。
「それより、ようやく追加点を取れたんだ。うちのペースで試合を進めるためにも、このウラをしっかり守り抜くことだ。いいな!」
ナイン達は「はいっ」と、力強く返事した。
3.谷口の気づき
一塁側ベンチでは、墨高ナインがキャプテン谷口を中心に円陣を組む。
「言うまでもないが、野球では取られたら取り返す。これが鉄則だ」
開口一番、谷口はそう告げた。
「点こそ奪えていないが、われわれも再三チャンスを作ってる。もうひと押しすれば、必ず向こうのエースを打ちくずせるはずだ。そのためにも各自ねらいダマをしぼって、しっかりミートすること。いいな!」
キャプテンの檄に、ナイン達は「オウヨッ」と快活に返事した。
(もうひと押しすれば、か……)
しかし当の本人は浮かない顔になり、この回の先頭打者丸井の背中を見送る。
(なんだろう。なにか見落としてる気がする)
谷口の眼前では、守備位置に散った聖明館内野陣の真ん中で、エース福井が投球練習を行う。初回から変わらず淡々とした表情だ。
(あの時折くる甘いタマ、なにかワケがあると思うんだが。いったいどんな意図が)
グラウンド上の光景を眺めながら、思案を続ける。
ほどなく既定の投球を受け終えたキャッチャー香田が、二塁へ送球した。そしてアンパイアが「バッターラップ!」と、ネクストバッターズサークルに控えた丸井を呼ぶ。
(ようし。反撃するためにも、おれっちが出塁しなきゃ)
丸井は決意して打席に入り、バットを短く構え「さあこい!」と気合の声を発した。
初球。内角低めにカーブが投じられる。丸井は手が出ず。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。
ちぇっ、と丸井は舌打ちする。
(こんなにキレのあるカーブをコースいっぱいに決められちゃ、そうそう連打はむずかしそうだな)
二球目。福井はサインにうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
「えっ」
丸井は目を丸くした。速球が真ん中やや外寄りの甘いコースに投じられる。つい見送ってしまい、アンパイアが「ストライク、ツー!」とコールする。
(しまったあ。おれっちとしたことが、あんな絶好球を見逃すなんて……)
福井はテンポよく、三球目の投球動作を始める。右足で踏み込み、グラブを突き出し、左腕を振り下ろす。
「うっ」
コースはど真ん中、しかしスピードを殺したチェンジアップが投じられた。丸井は上体が泳いでしまう。それでも掬い上げるように打ち返すが、打球はセンターほぼ定位置への凡フライ。鵜飼が顔の前で難なくキャッチする。ワンアウト。
悔しげに天を仰ぐ丸井。
「くそ。打たされちまった!」
ベンチにて一連の光景を眺めていた谷口は、思わず立ち上がる。
(そ、そうか! 分かったぞ。あの甘いタマの意図が)
それからベンチを出て、アンパイアに「タイム!」と合図してから、ネクストバッターズサークルの島田を呼び戻す。
「島田。ちょっとくるんだ」
島田は「は、はあ」と戸惑った表情で引き返してきた。やがてベンチ内に、再び谷口を中心に円陣が作られる。
「いいかみんな」
声をひそめて、谷口は切り出す。
「あの時々くる甘いタマだが、以後は捨てるんだ。見逃すか、追い込まれていたらカットしろ」
えっ、とその場にいる多くの者が声を上げる。
「あんな絶好球を打つなということですか?」
島田の問いかけに、谷口は「そうだ」と即答する。また周囲から、戸惑ったふうなざわめきが聞かれる。
「話は最後まで聞きましょうよ」
その場をとりなしたのは、イガラシだった。
「キャプテンがそう言うからには、なにかワケがあるんでしょう」
うむ、と谷口はうなずく。そして理由を述べる。
「あの甘いタマは、打ちいそぎを誘うためのワナなんだ」
今度はナイン達から「ああ」と溜息が漏れた。谷口はさらに話を続ける。
「一度絶好球を見逃すと、つぎこそは打たねばと、どうしても打ち気にはやってしまうだろう」
なるほど、と丸井が納得した声を発した。
「そして打ち気にはやったところに、緩いタマを使ったり厳しいコースを突いたりして、打たせて取るというわけですね!」
「そのとおり。さすが一番バッターだな」
谷口に褒められると、丸井は「へへっ、どうも」と照れて顔を赤らめる。
「自分がやられただけあって、説得力あるぜ」
横井の突っ込みに、丸井は「あっ」とずっこけた。周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
「とにかく。向こうのねらいが分かった以上、それに乗ることはない」
谷口が、やや語気を強めて言った。
「それとここまでの傾向からして、甘いタマを見逃した後は、こちらのあせりを利用して打ち取ろうと変化球を投げてくる可能性が高い」
む、と倉橋も同調する。
「いつくるか分からない甘いタマを待つより、ずっとねらいダマが絞りやすいな」
「そういうことだ」
谷口はナインの顔を見回し、さらに付け加える。
「材料もそろったことだし。この回なんとしても、点をもぎ取るぞ。いいな!」
ナイン達は「オウッ」と、力強く返事した。
ホームベース手前で、キャッチャー香田は屈み込み、相手ベンチの様子を観察する。
(とくにチャンスってわけでもねえのに。このタイミングでミーティングたあ、あの谷口という男なにを考えてやがる)
やがてタイムが解け、二番島田が右打席に入ってきた。
「ようし、こい!」
島田は気合の声を発し、バットを短めに握る。
(なんだこいつ、みょうにはりきっちゃって。まさか……)
香田はあることに思い至る。
(やつら、あのタマのねらいに気づいたんじゃ)
束の間考えてから、香田はサインを出す。
(たしかめてみるか)
福井はサインにうなずき、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
真ん中やや外寄りの速球。島田はぴくりとも動かず。アンパイアが「ストライク!」とコールする。
香田は横目で打者を見やる。島田は打席に入ってきた時と同じ、気合のこもった表情だ。
(いやな見逃し方だな)
胸の内につぶやく。
(いままでなら、しまったって顔してたのに、まるで表情を変えやがらねえ)
しばし思案の後、香田は二球目のサインを出す。
(コレならどうだ)
福井はうなずくと、すぐに投球動作を始めた。そして今度は、ど真ん中にチェンジアップを投じる。
打者は上体を崩さず。迷いなくバットが回る。カキッと快音が響く。
低いライナーが二塁ベース横を破り、外野へ抜けていく。ショート小松が横っ飛びするも及ばず。センター前ヒット。
島田は一塁ベースを回りかけたところで引き返し、「よしっ」と右手を軽く突き上げた。対照的に、キャッチャー香田は「くっ」と唇を歪める。
「ナイスバッティングよ島田!」
キャプテン谷口がヘルメットを被りながら、快打の後輩に声を掛けた。
三塁側ベンチ奥。聖明館監督は腕組みして、戦況を見つめる。眼鏡の奥の眼光は鋭い。
(ほほう。やはりあの谷口という男、こちらのバッテリーの意図を見抜いたか)
眼前のマウンド上では、福井が左手にロージンバックを馴染ませている。監督はひそかに思案を巡らせた。
(ここで福井がふんばれないようなら、つぎの手を打たねばなるまい)
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