目次
1.都内のバー・深夜零時
―― ここは東京都内のバーである。時刻は、間もなく深夜零時を迎えようとしていた。
墨谷二中校長は、一人ウイスキーを飲んでいる。ただしバーカウンターには座らず、店内の隅に置かれた、小さなテーブル席に腰掛けていた。
やがて、一人の青年がドアを開けた。カランコロンと鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ。席はどちらにいたしますか?」
口髭のバーテンダーが声を掛けてくる。
「あ、待ち合わせを……」
「かしこまりました。こちらです」
バーテンダーに案内されるまま、青年は校長の座るテーブル席に歩み寄った。そして校長が気づくと、深々と頭を下げる。
「こんばんは。校長先生、ご無沙汰しております」
「おお、今井君。すっかりオトナになったね」
二人は固く握手を交わす。
今井は注文を取りにきたボーイに「同じやつを」と告げる。するとほどなく、ボーイは校長が飲んでいるものと同じウイスキーのグラスを持ってきた。
校長が一瞬、眉をひそめる。
「ところで今井君。きみ、ちゃんと成人してるだろうね?」
「なにをおっしゃるんですか」
今井は苦笑いした。
「もう28です。子供だって、三人いますよ」
「ハハ、すまんすまん。冗談だよ」
今井はフフと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「それじゃ……校長先生。再開を祝して、乾杯!」
「うむ、乾杯!!」
二人はカチンとグラスを合わせると、そのままウイスキーを一気に飲み干す。
「くーっ。さて、今日来てもらったのはほかでもない」
真剣な表情で、校長は言った。
「今や都立校ながら強豪の一角・墨谷高校の監督となった今井君に、うちの学校がどう見えるか。率直な意見を聞きたいのだが」
「率直にですか? それはもう……素直に、凄いと思いますよ」
今井はきっぱりと答える。
「ぼくらが卒業した時にキャプテンとして指名した、谷口。彼を中心として、強力なチームが作られるだろうことは予想していましたが、まさかあの青葉をやっつけちゃうとは」
「む、そうだな」
「しかも谷口の代に終わらず、丸井、イガラシ君、近藤君の代で地方大会優勝。おまけにイガラシ君の代では、全国優勝も果たしましたからね。その後も、地方大会ではベスト4の常連。全国大会にも三度出場を果たしている。公立校としては、ほんと奇跡的ですよ」
「……ありがとう、今井君」
言葉とは裏腹に、校長は溜息混じりに言った。
「しかし、私が聞きたいのはそんなことじゃない。きみは今、『公立校としては奇跡的』だと言った。つまり今の戦績は、生徒達にかなり無理を強いていることの証明じゃないかと思ってね」
「ハハ。さすが、校長先生だ」
今井は朗らかに笑った。
「表面的な栄光におぼれることなく、冷静に全体を見渡しておられる。ぼくのような若造には、まだまだその領域には辿り着けません」
「……今井君。私は、君のお世辞が聞きたいわけじゃないぞ」
「分かってます」
今井はそう返事して、もう一杯ウイスキーを呷(あお)った。
「正直、このままだと危ないでしょうね」
校長は教え子の言葉に、うんうんと二度うなずく。
「元々うちは、青葉や和合のような強豪じゃありませんでした。それを谷口君、そして彼に続く優れたリーダーが、チームを引っぱり続けたからこそ、今の墨二中野球部があります」
グラスを置き、今井は「校長先生」と一つ尋ねる。
「野球部の指導体制は、今どうなっているのでしょうか?」
「そこが、アタマの痛いところなのだよ」
おかわりのグラスを注文してから、校長は話を続けた。
「一応、名目上の顧問は置いているがね。残念ながら、彼は野球専門じゃない。今のところ、歴代キャプテンが少しずつ書き足していった『野球部日誌』を参考に、現キャプテンと相談しながら、日々の練習メニューを組んでいるのが現状だ」
「なるほど。そうですか……現状、できる限りのことをやっているのは認めますが」
今井は溜息混じりに言った。
「高校野球を見てもお分かりでしょうが、今のアマチュア野球は、専門的な指導者を置いて効率的に強化していくというのが、フツウになっています」
「む。青葉や和合のやっていたことが、一般的になるということかね」
「ええ、そういうことです。となると今の墨二は、非常に中途半端な状態と言えます。目標こそ高いものの、はっきり言って指導体制は旧態依然……あ、失礼致しました」
「かまわないさ。続けてくれたまえ」
「あ、はい。ですから、けっきょく公式戦で勝ち続けることと、キャプテンのリーダーシップに大きく依存しているのです。どちらかが倒れれば」
「ハハ、まったく耳が痛いよ」
校長は声を上げて笑った。
「じつはもう、君の言ったことに近い現象は起き始めていてね。今年も春の選抜に出場できたのだが、初戦で無名校に大敗を喫してしまって」
「ああ……その試合なら、ぼくもテレビで見ていましたよ。あれは、選手個々の力量差が、相手とかなり離れていましたね」
「さすがに慧眼だね。それで選抜大会の後、数人の主力部員が退部してしまったんだ――こんなやり方じゃ、全国では勝てないと言ってね」
「なるほど……」
今井はどうこう口を挟まず、校長の話を最後まで聞くことにした。
「まあ、彼の言い分も分かるが……さっきも言ったように、うちには野球専門の指導者がいない。かといって、今さら勝利第一としないフツウの部活に戻すと言えば、今がんばってくれている現役の部員達が気の毒でね」
「よく分かりますよ。学校として、今の野球部をどのように位置付けるか。管理職としては、さぞアタマの痛い問題でしょう」
「うむ。そういうわけで、これまで華々しい結果を出してきたとはいえ、それを手放しで喜ぶわけにもいかなくてね」
そう言って、校長は深く溜息をつく。
「……あの、先生」
おもむろに、今井は財布から一枚の名刺を取り出す。
「ほほう。墨谷高校野球部監督・今井高史(いまいたかふみ)……か。ハハ、きみも本当に立派になったものだ」
名刺を受け取り、校長は感慨深げに言った。そして「すまないね」と言葉を付け足す。
「ほんらいは、かつて野球部のキャプテンとして、生徒会長として、我が校を引っぱってくれた、きみの現在の活躍を祝いたかったんだが。こちらの悩みを聞いてもらう場にしてしまって」
「いえ、そんなことはいいのですが……校長先生。ぼくの肩書を、もっとよく見ていただけますか」
「む……肩書?」
校長はメガネを上げ、名刺を目元に近付ける。
「スポーツ指導者人材派遣業……こ、これは?」
「高校野球なんかじゃ、ずっと以前からそうなっているのですが」
穏やかな笑みを浮かべ、今井は説明を始めた。
「もう現場の教員が、すべて運動系部活動の指導を担当するというのは、時代の流れに合わなくなっているのですよ」
「ほ、ほう……」
「一方でですね。高校、大学でスポーツのキャリアを終えた方の中には、まだまだその種目への情熱を消さずに持っている方も少なくありません。ぼくは今、この需要と供給のバランスの悪さを、何とか是正したいと思っています」
「なるほど。つまり運動部の監督は、必ずしも教員免許を持っている者じゃなくてもいいと」
「そういうことです」
今井は深く首肯した。
「というわけで……校長先生が、墨二中としてご決断なさるなら、我々が外部の有力指導者を斡旋することも可能です」
しかし今井は、そこで「ただし」と付け加える。
「いま申し上げましたように、あくまでも学校として、どう判断し決断されるかということが重要です。我々は、墨二中野球部が『これからも強くありたい』と望むなら、精一杯サポートさせていただけますが。そこまで力を入れなくても……と、校長先生や野球部関係者、何より生徒達の気持ちがどうなのか。ここをはっきりさせていただきたいのですが」
「……うーむ」
校長は癖なのかネクタイを締め直し、束の間黙り込む。そして、しばしの後、顔を上げ口を開いた。
「分かった。学校に持ち帰り、検討してみよう。そしてきみの言うとおり、何より生徒達の気持ちが大事だ。ここをしっかり確認の上で、再度きみに連絡させてもらいたいのだが」
校長の返答に、今井は満足げにうなずいた。
「承知致しました。お時間はいくらでも掛かってかまいませんから。我々は、校長先生と墨二中野球部の、正直な思いが聞けるのを待っております」
教え子の言葉に、校長は両手を差し出した。今井はそれを握り返す。二人は青春時代さながらの、熱い握手を交わした。
2.薫風のグラウンド
―― 校長と今井の邂逅から、約一ヶ月後。
野球部部室の影に、“ある人物”がノックバットを手に立っていた。ふと校舎の大時計に目をやる。
「三時半かあ。普段なら、大工の仕事が最も忙しくなる時間帯だというのに。父ちゃんたら、『なに迷ってやがんだ。すぐ行ってこい!』だもの」
そう独り言をつぶやきつつ、彼自身、自分の胸の内にある高ぶりを抑えられずにいた。
「なつかしいな。このグラウンドに顔を出すの、何年ぶりだろう」
グラウンドのホームベース奥に、墨二中野球部員は集合させられていた。その中には、春の選抜大敗後に退部した数名も含まれている。
「まったく……」
退部した者の一人、当時遊撃手を務めていた星川が言った。
「なんでおれまで、こんな弱小野球部のやつらのために、練習に顔を出さなきゃいけねえんだよ。こちとら、新しいシニアのチームを探すのに、忙しいつうに」
すぐに周囲の数人が、立ち上がり反応する。
「なんだと、この野郎!」
「調子に乗りやがって。きさまもあの試合に出てたんだから、責任はあるじゃないか」
「うるせえ! ひとがいくらチャンスを作っても返せないわ、ピッチャーは四死球で自滅するわ、おれ以外の野手陣はぽろぽろエラーするわ。あんなんで勝てるかよ!」
その時だった。眼前に歩いてきた校長が、大きく咳払いする。
「いい加減にしたまえ。いまさらギャーギャーわめかなくても、君達の気持ちは十分分かってる。要するに……君達は、勝ちたいのだろう?」
校長の言葉に、ナイン達は首を縦に振った。ただ一人、星川だけが唇を尖らせる。
「どうやっても勝てそうにないのが、問題なんでしょうよ」
オホン、と校長は再度咳払いした。
「君達の思いに応えるため、今日は新監督をお連れした。ひょっとして君達の中には、顔を知っている者もいるんじゃないかな」
校長が話を止めると、野球部室の影から、一人の男が飛び出してきた。大多数の部員達が「誰だ、あの人」「知らねえな。うちのOBか誰かか?」とざわめく。
そんな中、星川だけが「あっ!」と大声を発した。
「な、なんだよ星川」
隣の部員が、迷惑そうに耳をふさぐ。
「急に大声出しやがって。あいつ、そんなに有名人なのか?」
「バカめ! そんなことも知らねえから、きさまらは弱小なんだよ」
星川は後方へ体を向け、中腰になる。
「いいか、よく聞け。あの人は、うちの野球部が初めて全国優勝を果たした時の……」
その時、クスッと当人は笑う。
「星川君と言ったね。気持ちはうれしいが……自己紹介は、自分でさせてもらえないかい?」
「はっ、失礼しました! 出しゃばって申し訳ありません」
星川は向き直り、きれいに体育座りの格好になる。不遜な性格と思われた彼が、初めて見せる真摯な態度に、他の部員達は戸惑う。
そして――正面に立つ青年は、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「みなさん、はじめまして。墨二中野球部の卒業生で、元キャプテンの谷口タカオです!」
谷口と野球部員達の間を、風が走り抜ける。緑が強く香るような、薫風である。グラウンドの木々は、すっかり葉が青々と茂る。
初夏の日差しが、グラウンドに力強くも優しく注ぎ込んでいた。