【目次】
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<外伝>
第65話 苦しい立ち上がりの巻
1.谷口の不安
―― 甲子園大会は、三日目をむかえた。快晴である。
客席は、外野スタンドも含め、ほぼ満員の観衆で埋め尽くされていた。そして八時半から始まった第一試合が終わり、続く第二試合、いよいよ我らが墨高ナインの登場となる。
墨高ナインは、一塁側ベンチ裏の廊下に座っていた。やがて試合終了のサイレン、それから勝利校の校歌が聞こえてくる。
「終わったようだな」
静寂の中、倉橋がつぶやいた。
ほどなくベンチ出入口の二つあるドアのうち、奥側のドアが開き、戦い終えたチームの選手達が列を成して出てくる。どうやら試合に負けてしまったらしく、多くの者が目に涙を浮かべている。
「負けたチームの後とは、ちと嫌な感じだな」
戸室が囁き声で言った。すかさず倉橋が「これ」とたしなめる。
「縁起でもねえ。それに、失礼だろう」
あっ、と戸室は口をつぐむ。
敗者の重苦しげな列を見送りながら、谷口は深く溜息をついた。どうしても顔がこわばってしまう。
「どうした谷口」
倉橋が尋ねてくる。
「緊張してるのか?」
「あ、うむ。ちょっとね」
「まあ気持ちは分かるが、やれることはすべてやったんだ。自信をもっていこうぜ」
「ああ……そうだな」
その時、手前側のドアも開く。白いポロシャツ姿の球場係員が姿を見せた。
「墨谷高校のみなさん、おまたせしました。どうぞお入りください」
ナイン達は「はいっ」と返事して、一斉に荷物を手に立ち上がる。そして短い階段を上り、甲子園のベンチへと入っていく。
「三分でキャッチボールの用意だ!」
キャプテン谷口は、そう声を掛けた。
「はい!」
ナイン達は快活に応えて、準備を始めた。さすがに手慣れたもので、荷物をきれいに手際よく並べていく。
「ほう。きびきびとして、すばらしい」
グラウンドより、年配の係員が声を掛けてくる。
「これぐらい、すばやく行動してくれると、試合進行がスムーズになってたすかるよ」
係員がそう言った時には、もう数名がボールとグラブを手に、グラウンドに出ていた。ありがとうございます、と脱帽して頭を下げる。
やがて全員がグラウンドに出ると、一塁側スタンドから大きな拍手が沸き起こる。
「……あり?」
横井が目を丸くした。スタンドには、多くの墨高の一般生徒が駆けつけていたのである。
「この人数、ほぼ全校応援って規模じゃねえか」
そうだな、と傍らで戸室がうなずく。
「うちの学校、よくそんなカネあったな」
「寄付金じゃねえの?」
倉橋が割って入る。
「きっとOB会の本田さんや田所さん達が、近隣を駆け回って集めてくれたんだろう」
横井は「なるほど」と応える。
「だとしたら……後で、お礼言っとかなきゃな」
その時、スタンドから「おーいみんな」と、声が聞こえてきた。ナイン達が見上げると、金網際にOBの田所が立っている。
「あ、田所さん。来てくれたんですね」
谷口は微笑んだ。その周囲に、他のナイン達も集まってくる。
「へへっ。いてもたってもいられなくて、とうとう来ちまったぜ」
やや照れたふうに、田所は言った。
「中山達は仕事で来れないって言うからよ。やつらの分まで、応援させてもらうぜ」
「田所さんは、ヒマなんスね」
横井の突っ込みに、田所は「あら」とずっこける。
「よ、横井。きさま人がせっかく来てやったのに、余計なことを」
やがて墨高ナインは、ベンチ前でスタンド側を向き一列になる。そして脱帽した。
「応援よろしくお願いします!」
キャプテンの一言に、ナイン達は「オネガイシマス!」と続く。スタンドから、先ほどよりも大きな拍手が鳴り響いた。
それから墨高ナインは、二列になりキャッチボールを始めた。
一方、三塁側の城田ナインも、すでにキャッチボールを始めている。その列から離れたレフト側ファールグラウンドにて、城田のキャプテンにして正捕手の沢村、そして一年生ながらすでに主戦級投手だという矢野が、投球練習の準備をしていた。
「キャプテン。向こうのピッチャーが、投げます」
隣の丸井が、谷口に声を掛けてくる。
「まだ一年生なだけあって、だいぶ細いですね」
後輩の言葉に、谷口は「ああ」と返事した。
矢野は上背こそあるものの、細身である。がっしりとした体躯の沢村と比べると、より一層線の細さが目に付く。
その矢野が、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
風を切る音が、こちらまで聞こえてくるようだった。ズバアンと、キャッチャー沢村のミットを強く叩く。
「は、はやい……」
思わずつぶやきが漏れる。
矢野はその後、テンポよく投球練習を続けた。快速球だけでなく、大小二種類のカーブも投じる。速球はやや高めに浮いたが、カーブはいずれも低めに決まった。
「スピードは、佐野や村井に勝るとも劣らないぞ」
谷口の言葉に、丸井が「ええ」とうなずく。
「しかしコントロールは、ちょっとアバウトじゃありませんか。あれでよく地方大会を〇点台におさえてきましたね」
「だからこそじゃありませんか」
丸井の左隣より、イガラシが話に割って入る。
「速球派の投手だと、ヘタにまとまっているより、ああして適当にバラついている方が的をしぼりにくいでしょう」
「む、それもそうだな」
後輩の指摘に、丸井は渋い顔になる。
(イガラシの言うとおりだ)
谷口は、胸の内につぶやいた。
(闇雲に手を出してしまうと、打ちあぐねるばかりか、フォームをくずしてしまいかねない。となるとねらいは変化球か。しかしそればかりだと、相手に気づかれてしまうし……)
やがて先ほどの年配の係員が、再び声を掛けてくる。
「墨谷高校、そろそろシートノックの準備を始めてください」
「あ、はい。分かりました」
谷口が返事する間に、高橋と鳥海がベンチより、ノックバットとボール籠を取ってくる。そして他のナイン達は、素早くベンチ前に整列した。
「さすが、きびきびしてるね」
係員は、満足げに微笑んだ。
「行動の機敏さでは、君達が一番だよ」
ほどなく、球場アナウンスが流れる。
―― 墨谷高校、シートノックを始めてください。
アナウンスと同時に、墨高ナインは素早くグラウンドへ散っていく。そしてすぐに、高橋がボールを手にノックバットを構える。
「いきますよ。まず……サード!」
正面へのゴロを、谷口は軽快なフィールディングで捕球し、一塁へ送球する。
「もういっちょ、サード!」
谷口に続いて岡村も、ゴロを無難に捌いた。さらにショート、セカンド、ファースト、レフト……と、シートノックはテンポよく進んでいく。
ノックを受けるナイン達を見回し、谷口は安堵の吐息をついた。
「よかった。みんな動きはいいぞ。緊張感はあっても、プレッシャーに負けそうな者は一人もいない」
むしろ、と谷口は苦笑いを浮かべる。
「いちばん緊張しているのは、おれかもしれない」
またも顔がこわばってしまう。
「やるべき準備は、しっかりとやってきたのに。なんだこの嫌な予感は」
やがて規定の時間になり、墨高ナインは城田ナインとシートノックを交代した。
「……あれっ」
「どうしてここに」
数人が驚いた声を上げる。ナイン達がグラウンドから引き上げると、半袖のワイシャツにネクタイ姿の部長が、後列のベンチに座っていたのだ。
「おはよう諸君。遅れてすまない」
部長はひらひらと手を振った。頭には、墨高の野球帽を被っている。
「部長もベンチ入りするのですか?」
倉橋が尋ねると、「しちゃ悪いかね?」と怒ったような声が返ってきた。
「い、いえ。そういうわけじゃありませんが」
正捕手は苦笑いした。部長はフンと鼻を鳴らす。
「責任教師といってな。甲子園では、教員が一人ベンチに入らなきゃならん規則なんだと」
なあんだ、と丸井が安堵の吐息をつく。
「てっきり課題の回収に来たのかと……あっ」
途端、部長がぎろっと睨んだ。丸井は「ヤブヘビだった」と口をつぐむ。
「いくらワシでも、試合直前に課題の話をするほど、野暮じゃないさ。諸君らのジャマじゃしないから、安心したまえ」
そう言って、持ってきた紙袋から提出された課題を取り出し、手元に広げた。赤ペンも手に取り、どうやら丸付けするつもりらしい。
「フウ。ちとあせったぜ」
丸井が溜息混じりに言った。
「しかし、あんなに野球帽が似合わない人も、そういないよな」
「そんなことより……丸井さん、まだ出してなかったんスね」
イガラシに突っ込まれ、丸井は「あ」とずっこける。
墨高ナインは一旦ベンチに引っ込む。眼前のグラウンド上では、城田ナインがシートノックを行っていた。その誰もが軽快な動きを見せている。
「やはり伝統校なだけあって、うまいもんだな」
戸室が感嘆の声を上げた。
「しかし、谷原や川北を見てきたせいか、小さく見えますね」
暢気そうに言ったのは、井口である。
「たしかに一発の危険は少ないかもしれんが……」
傍らで、イガラシが険しい顔になる。
「その分、足でかき回されないように気をつけねえと。やつら機動力が武器のようだし」
「なんでそんなこと、知ってるんだよ」
間の抜けた幼馴染の発言に、イガラシは呆れたふうに言った。
「バカ。今朝の新聞に書いてたのを、きさま読んでねえのかよ」
一方、谷口と倉橋だけはベンチを出て、ライト側ファールグラウンドにて投球練習をしていた。谷口はワインドアップモーションから、ボールを投じる。糸を引くような速球が、倉橋のミットを構える外角低めに吸い込まれた。
「どうだ倉橋」
谷口が尋ねると、倉橋は「えっ」と意外そうな目になる。
「どうって……いつもどおり、いいんじゃねえの。コントロールは構えた所にきてるし、タマのノビもある。しかしめずらしいな」
そう言って、正捕手は返球してきた。
「おまえが自分の調子をたずねてくるなんて。ひょっとして、緊張してるのか」
「え……ああ。ちょっとね」
谷口は素直に認めた。
その後、速球、カーブ、シュートそしてフォークと投げ込んでいく。やがて城田ナインがベンチに引き上げ始めたタイミングで、倉橋がこちらにやってきた。
「どのボールも悪くなかったぞ。この調子で投げられたら、そうそう打ちこまれることはないと思うぞ」
「あ、うむ」
この時、谷口は「そうか」とあることに思い至る。
「どうしたんだ?」
「考えてみりゃ、相手打線をよく知らずに投げるなんて、久しぶりだよな」
たしかに、と倉橋はうなずく。
「それでおまえ、さっきから気をもんでたのか」
「ああ。できれば点を取られる前に特ちょうをつかんで、松川に継投したいが」
グラウンド上では、係員がトンボを手に数人で整備を行っている。その間、二人はベンチに戻り、ナイン達にベンチ前で整列するよう伝えた。
両軍ナインが整列を終えたところで、バックネット下の扉が開き、四人の審判団が姿を現す。球場内が、にわかにざわめく。
そして、いよいよその時が来た。
「両チーム集合!」
アンパイアの合図に、墨高と城田の両ナインが、一斉にグラウンドへと駆け出す。そしてホームベースを挟み、互いに向かい合うようにして並んだ。
「これより墨谷対城田の一回戦を行います。一堂、礼!」
「オネガイシマス!!」
挨拶が済むと同時に、墨高ナインは守備位置へと散っていく。一方、先攻の城田ナインはベンチに下がる。その時、球場内は大きな拍手に包まれた。
墨高にとっての甲子園での初試合が、こうして幕を開けたのである。
2.先制攻撃
谷口の七球目の練習球を捕ると、倉橋はすかさず二塁へ送球した。その矢のような軌道に、スタンドから「おおっ」とざわめきが漏れる。
「ようし」
倉橋がマスクを被り、屈み込むのとほぼ同じタイミングで、ウグイス嬢のアナウンスが流れてきた。
―― 一回の表。城田高校の攻撃は……一番、センター栗原君。
傍らで、細身ながら長身の打者が、左打席に入ってきた。鋭い眼光で、倉橋とマウンド上の谷口を、交互に睨む。
「さてと……どう、攻めたものかな」
倉橋が「まずココよ」とアウトコース低めにミットを構えた次の瞬間、アンパイアが「プレイボール!」とコールする。そして球場内に、試合開始を告げるサイレンが鳴り響いた。
マウンド上。谷口はワインドアップモーションから、第一球を投じる。
要求通りのアウトコール低め、ボール一個分外した速球。しかし栗原は右足を踏み込み、引っぱり込むようにしてスイングした。
「な、なにっ」
倉橋の眼前で、鋭いライナーがジャンプしたサード岡村の頭上を越し、レフト線のぎりぎり内側に落ちる。三塁塁審が、白線の内側を指差し「フェア!」と叫ぶ。
レフトの横井が回り込み、どうにかフェンスに当たる前に捕球した。しかしその間、栗原は一塁ベースを蹴ってさらに加速し、二塁ベースへ左足から滑り込む。
「くそうっ」
横井は中継のイガラシに返すのが精一杯。ツーベースヒット、ノーアウト二塁。
「あ……あんな低めをきれいに打ち返すとは」
マスクを被り直しつつ、倉橋は唇を歪める。
「このバッター、よほどアウトコースが得意らしいな」
ほどなく二番烏丸(からすま)が、右打席に入ってきた。こちらは小兵ながら、すばしっこそうな雰囲気の打者である。
「まさか三盗はねえと思うが」
打者を横目に、倉橋は思案を巡らせる。
「なにか小ワザを仕かけてくるかもしれねえ。それにしても……」
マウンド上の谷口と目を見合わせ、小さく溜息をつく。
「ほとんど情報もなく、互角以上の相手と戦うってのが、こんなに不安なことだとはな」
初球。倉橋は「つぎもココよ」と、またもアウトコース低め、ストライクから外した速球を要求した。谷口はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
「……えっ」
思わず、倉橋は目を見開いた。
烏丸は前の打者と同じく、アウトコースのボール球を踏み込んで打ち返した。痛烈な当たりが、ワンバウンドで一・二塁間を抜けていく。打球が速すぎたのが幸いして、二塁ランナーは三塁ストップ。しかしノーアウト一・三塁とピンチが広がってしまう。
「よく打ったぞ烏丸」
「さあ、矢野も遠慮なくいけ!」
いきなりのチャンスに沸き立つ城田の三塁側ベンチ。その中で、一人険しい表情の者がいた。白髪混じりの初老の人物。城田高校野球部監督である。
「やれやれ。どうにかアウトコースねらいの策が当たってくれたわい」
そう溜息混じりにつぶやく。
「墨谷は情報収集と分析に長けているらしい。これが本当なら、うちの弱みを見抜かれるのは時間の問題。そうなる前に、一点でも多く取っておかねば」
マウンド上。倉橋は「スマン谷口」と、苦い顔で言った。
「様子を探るつもりが、ねらい打ちされちまって」
「しかたないさ」
谷口は小さく首を横に振る。
「なにせこっちは、城田の情報をほとんど知らなかったんだからな。彼らがアウトコースに強いことが分かっただけでも、よしとしよう」
「む。今の一、二番のバッティングを見る限り、そうとう外角打ちを練習してきてるようだからな。となれば……」
腕組みして、倉橋は話を続けた。
「やはり内角を攻める方がいいのか」
「む……しかしそれ一辺倒だと、ぎゃくにねらい打ちされかねん」
「けどやつら、外したタマでも打ち返してきやがったんだぞ」
「分かってる」
ちらっと相手ベンチを見やり、谷口は告げた。
「フォークを使おう」
「ああ、なるほど」
倉橋は目を見開く。
「たしかにフォークなら、ねらわれてもマトモに打ち返すのはむずかしいからな。あと、もう一つ」
さらに正捕手は尋ねる。
「守り方はどうする? 前進守備、バックホームのシフトを敷くか」
「……いや。ここは、アウトを一つずつ取っていくことを優先しよう」
谷口はそう言って、周囲を見回した。他のナイン達は、それぞれのポジションで所在なさげである。
「みんないきなりのピンチに、浮足立ってる。ここでムリして守備が乱れると、大量失点しかねない」
同感だ、と倉橋は応えた。
「最少失点におさえれば、十分挽回のチャンスはあるからな」
「うむ。それじゃあ倉橋、みんなへの指示をたのむぞ」
「まかせとけって」
それだけ言葉を交わし、正捕手はポジションに戻る。谷口は足下のロージンバックを拾い上げ、右手に馴染ませた。
やがてタイムが解け、右打席に三番矢野が入ってくる。
「こいつクリーンアップの一角まで、まかされてるのか。よほど期待されてるやつらしいな」
マスクを被りつつ、倉橋はつぶやいた。そして苦笑いする。
「おっと。感心してる場合じゃねえな」
まずココよ……と、倉橋はインコース低めに構える。谷口はうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。そしてカーブを投じる。
その瞬間、一塁ランナーの烏丸がスタートを切った。コースに決まったものの、倉橋は送球できず。これで二・三塁となった。
「くそっ……こっちが投げられないと分かって、仕かけてきやがったな」
二球目。倉橋はサインを出し、再びインコース低めに構える。そして谷口は、今度は速球を投じた。矢野のバットが回る。
パシッ、と快音が響いた。大飛球がレフト横井の頭上を襲う。
「し、しまった……」
マスクを脱ぎ、倉橋は唇を歪める。その眼前で、横井が懸命に背走し、とうとうフェンスに背中がついてしまう。
しかし打球はさほど伸びず、フェンス手前で落ちてくる。横井はそれを捕球し、中継のイガラシに返した。二人のランナーは、それぞれタッチアップする。
イガラシは返球を受けると、三塁へ矢のような送球を投じた。球場が「おおっ」と沸き立つ。しかしさすがに間に合わず、烏丸は三塁を陥れる。
この間、三塁ランナーの栗原がホームベースを駆け抜けていた。僅か四球、城田が一点を先取する。
「よしよし。まずアウト一つ取ったぞ!」
倉橋がナイン達に声を掛ける。
マウンド上にて、谷口はフウと吐息をつく。
「あぶなかった。いまのは、ヤマをはられたな」
迎えた四番沢村も、右打席に入った。
倉橋は、今度はアウトコースに構え、サインを出す。谷口はうなずき、再びセットポジションから第一球目を投じた。
ボールは速球と同じ軌道ながら、ホームベース手前ですうっと沈む。しかし沢村は、強引に引っぱたいた。
バシッ。痛烈なゴロが、二遊間を襲う。
「くわっ」
センター前へ抜けるかと思われたが、セカンド丸井が横っ飛びして捕球した。そして膝立ちになり、一塁へ送球。三塁ランナーの生還は許したものの、ツーアウト目を奪う。
「うーん、二点目も許しちまったか」
倉橋は渋い顔になった。
「序盤に点を取られることは想定してたが。いきなり二失点というのは、ちと痛いな」
その時「倉橋!」と、マウンドから呼ばれる。エース谷口が笑んでいた。
「まだ初回だ。切り替えていこうよ」
キャプテンの言葉に、正捕手は「ああ」と応える。
マウンド上。谷口は「うーむ」と唇を結ぶ。
「二点はしかたないにしても、早く相手打線をおさえる手がかりをつかまなければ。これ以上の失点はナインの士気にかかわる」
眼前では、五番今井が左打席に入ってきた。比較的小兵の城田ナインにあって、その大柄な体躯が目を引く。
「いかにもパワーヒッタータイプだな」
キャッチャー倉橋とサインを交換し、初球。谷口はインコースへカーブを投じた。今井はこれを引っぱるが、打球は一塁側スタンドに飛び込む。
「どうも今のは、わざとファールにした感じだ」
続く二球目。同じくインコースに、今度は速球を投じる。今井はこれを捉えた。ライト線に鋭いライナーが飛ぶも、僅かに切れてファール。
「……くっ」
谷口は唇を歪めた。
「さすが伝統校のバッターだ。ねらいダマとちがっても、こうして対応するすべを身につけてる。しかし、なんとかしなければ」
三球目。一転してアウトコースに、フォークボールを投じた。今井は体勢を崩しかけるが、おっつけるようにして左方向へ打ち返す。
「うっ」
打球はジャンプしたイガラシの頭上を越え、前進してきた横井の前で弾んだ。レフト前ヒット、ツーアウト一塁。
「ふぉ、フォークまで。ああしてとっさに打ち返すとは」
谷口は目を丸くした。
「やはり、そうとうアウトコース打ちをきたえてきたようだぞ」
打たせていくしかないか、と胸の内につぶやく。そして後方を振り向き、他のナイン達に声を掛ける。
「いくぞバック!」
ナイン達は「オウヨッ」と力強く応えた。
ツーアウト一塁。迎えた六番伊予は、細身の右打者だ。打席に入ると、さっとスパイクで足下を均し、バットを短めに構える。
「長打の心配はなさそうだが……」
バッテリーは初球、二球目と、速球をインコースに続けた。いずれも決まり、あっという間にツーナッシングと追い込む。
「インコースには手を出さないか。あくまでも、アウトコースねらいに変わりないか」
三球目。谷口はまたもインコースに、今度はカーブを投じた。伊予の腰付近を巻き込むようにして、キャッチャー倉橋のミットに吸い込まれる。打者は手が出ず。
「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」
アンパイアのコールに、谷口はホッと安堵の吐息をついた。
三塁側ベンチでは、快活な声が聞かれる。
「よーし。幸先いいぞ」
「この調子で、どんどん点差を広げていこうぜ」
しかしその中で、城田監督は険しい表情を崩さなかった。その眼前では、墨高ナインが足取り軽くベンチへと引き上げていく。
「いきなり二点を取られたというのに、まるで動揺する様子が見られない。さすが予選で谷原を破ってきたチームだ。これぐらいの劣勢は、想定ずみということか」
そして監督は、ナイン達に声を掛ける。
「おまえ達、気を引きしめていけよ。ねばり強さが墨谷の特ちょうだ。回が進めば進むほど、相手は力を出してくるぞ。そうなる前に点差をつけて、やつらの戦意を喪失させてやるんだ。いいな!」
城田ナインは「はいっ」と返事する。
監督はさらに「沢村、矢野」と、バッテリーを呼んだ。二人は指揮官の前で、直立不動の姿勢になる。
「知ってのとおり、相手は谷原の村井を打ちくずした打線だ。マトモに打たれて点を取られるのは、ある程度仕方がない。しかし四死球が絡んでのムダな失点は禁物だぞ」
「は、はい!」
「分かりました」
そして城田ナインも、足早に一回裏の守備へと散っていく。
3.墨高のねらい
一塁側ベンチ奥にて、墨高ナインは円陣を組む。
「……いいかみんな。目先のヒットより、まず情報を集めることだ」
囁き声で、谷口はナイン達に告げる。
「さっきの投球練習を見る限り、高めの速球と小さく曲がる速いカーブは、追いこまれるまでは捨てた方がいいと思う。ねらいは、大きなカーブと低めの速球」
なるほど、とイガラシが僅かに笑んだ。
「こっちのねらいダマを向こうがいつ投げてくるか、その傾向を探ろうってわけですね」
「そういうことだ」
谷口はうなずく。
「とにかくこの試合、あせらないことだ。二点は取られてしまったが、われわれの力なら、十分ひっくり返せる。まずはじっくり見ていこう。いいな!」
キャプテンの言葉に、ナイン達は「オウヨ!」と快活に応えた。
やがてアンパイアが「プレイ!」とコールし、一回裏が始まった。この回先頭打者の丸井は、右打席に立つ。
「さあこい!」
マウンド上。矢野がロージンバックを足下へ放り、キャッチャー沢村のサインにうなずくと、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。
バシッ。初球は、アウトコース高めに大きく外れる。
「悪くないぞ矢野。ちゃんと腕はふれてる」
沢村はそう言って、一年生投手に返球した。丸井は「はあ?」と首を傾げる。
「いまので悪くないって……あいつ、やはりコントロールはさほどよくなさそうだな」
二球目。またも速球が、今度はインコース高めに飛び込んできた。丸井は「うっ」と一瞬身を引いてしまう。決まってワンストライク。
「け、けっこう迫力あるじゃねえか」
丸井は一旦打席を外し、数回軽く素振りする。
「まるで昔の井口を見てるようだぜ」
三球目は、またもインコース高めの速球。これは外れてツーボール。さらに四球目は、アウトコース低めの速球。これはコースいっぱいに決まり、イーブンカウントとなる。
「なんでえ。いいコースに、来る時は来るじゃねえの」
バットを短く握り直し、次の投球に備える。
「さあて……決めダマに、なにを投げてくるかだな」
そして四球目。矢野は、初めて変化球を投じてきた。アウトコース低め、小さく曲がる速いカーブ。
「くっ……」
はらうように出した丸井のバットは、空を切る。バシッ、とキャッチャー沢村のミットが鳴った。空振り三振。
「ちぇっ。変化球がくることは予想してたのに、届かなかったが」
丸井は唇を歪めつつ、ベンチへと引き上げていく。
後続の二番島田は、丸井とすれ違い際に「今のカーブだな?」と問うた。ああ、と丸井はうなずく。
「気をつけろよ島田。手元で鋭く曲がるから、当てるのもむずかしいぞ」
「分かった」
それだけ言葉を交わすと、島田は左打席に入る。
「あのタマは左の方が、軌道を追いやすいだろう」
すぐに矢野が、投球動作を始めた。
その初球、インコース高めに速球が飛び込んでくる。外れてボールとなったものの、島田は「ほう」と、思わず目を見張る。
「細身のわりに、威力のあるタマだな。ヘタに手をだしちゃ打ち上げちまう」
二球目は、アウトコースに大きなカーブ。これも僅かに外れ、ツーボールとなる。
「これはさっきのカーブとちがうな。スピードはないが、その分落差がある。ねらってりゃ打てないこともないが、速球をまっているとタイミングを狂わされそうだぜ」
島田はぺっと唾で両手を湿らせ、バットを握り直す。
続く三球目、今度はアウトコース低めに速球が投じられた。島田は「きたっ」と、踏み込んでスイングする。
パシッと快音が響いた。鋭いライナーがレフト線を襲う。三塁側ベンチが、一瞬「おおっ」と沸きかける。しかし打球は僅かに切れ、ファール。
「くそっ、少し振り遅れちまったか」
走りかけていた島田は、唇を噛み打席へと戻る。
「だが……高めに比べると、少し威力は落ちるようだな」
スパイクで足下を均し、バットを構え直した。
四球目は、速球がアウトコース高めに外れ、スリーボールとなる。しかし五球目は大きなカーブがアウトコース低めに決まり、ついにフルカウント。
「追いこまれちまったか。となると、最後はおそらく……」
そして六球目。矢野はアウトコース低めに、あの速いカーブを投じてきた。
「や、やはり」
島田は左足を踏み込み、スイングした。しかしミートはできず。ガキッと鈍い音。三塁線の外側に、高々とフライが上がる。
「オーライ!」
城田のサードが、顔の前で難なく捕球した。これでツーアウト。
「く……ダメか」
悔しげに引き上げる島田。その背中に、沢村はフフと含み笑いを漏らす。
「いまのカーブは、ねらってもそうそう打てるタマじゃねえよ」
一方、島田は次打者の倉橋とすれ違い際、「スミマセン」と頭を下げた。
「なんとか出塁したかったんですが……」
倉橋は「なーに」と笑って、後輩を励ます。
「あれだけタマを投げさせたんだ、上出来さ。城田はこれまで、あの矢野が一人で投げてきたって話だし。じっくり見て、九回までに攻りゃくすりゃいいんだ」
「は、はいっ」
右打席に入った倉橋は、やはりバットを短めに構える。
「あの高めの速球、丸井も島田も手を出さなかったが……どれくらいの威力なんだ」
マウンド上。矢野はしばし間を置いてから、投球動作を始めた。その初球は、アウトコース高めの速球。これを倉橋が強振する。
ガシャンと音を立て、ボールはバックネットに当たる。ファール。
「く……ねらったのに、振り遅れちまったか」
倉橋は苦笑いする。
「これじゃ一、二番が避けるはずだぜ」
矢野は、今度は間を置かず二球目を投じてくる。アウトコース低めに大きなカーブ。決まってツーストライク、あっという間に追い込まれる。
「うーむ。大きなカーブは、合わせられないこともなさそうだが。まえの二人の打席を見るかぎり、おそらく二球続けてくることはないだろう」
そして三球目。矢野は初球と同じく、インコース高めに速球を投じてきた。倉橋は肘を畳むようにしてスイングした。
カキ、と音がした。打球は外野まで飛んだものの、さほど伸びは出ず。城田のレフトが白線寄りに走りながら、これも難なく捕球した。スリーアウト、チェンジ。
「ちぇっ、やられたか」
一塁ベース手前で倉橋は立ち止まり、腰に手を当て溜息をつく。
「思ったよりあっけなかったな」
「うむ。もう少し抵抗してくると思ったが」
一塁側ベンチ。気楽そうな城田ナインの中にあって、一人渋面の者がいた。キャッチャーの沢村である。
(今の攻撃……墨高のやつら、打つというより、ボールをじっくり見てる感じだったな。初出場のチームが二点を先制されて、あんな冷静でいられるものなのか)
その時「沢村」と、声を掛けられる。監督だった。
「おまえが墨谷を警戒するのは、正しいと思うぞ。新聞によると、やつらは予選でこういう展開から、何度もひっくり返して勝ち上がったそうだ」
「ええ。やはり相手の特ちょうをつかんで対応するのが、うまいのでしょうね」
「だからといって、今あせることはない」
指揮官は穏やかな口調で言った。
「むしろ、向こうをあせらせることだ。そのためには……」
「今のうちにリードを広げておく、ですね」
「そのとおり。分かってるじゃないか」
「はい。やつらがうちの特ちょうをつかむまえに、なるだけダメージを与えてやりますよ」
矢野は力強く応える。
「そうだ、その意気だ」
語気を強めて、監督はうなずいた。
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