南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第60話「なるか!? 夢の甲子園への巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

 

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【目次】

  

 

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 第60話 なるか!? 夢の甲子園への巻

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1.思わぬピンチ

 七回裏、ワンアウトランナーなし。

二点をリードされた東実だが、三番佐野に打席が回ってきた。しかし前の回までの力投により、肩で息をしている。

「まだ二点なんだ。あと三イニング、じゅうぶん追いつける」

 しかし……と、佐野は胸の内につぶやく。

「さっきの打席では、打ち気にはやってると見透かされたからな。残りも打席も少ないし、今度は慎重にいかないと」

 初球。イガラシは速球を、外角低めに投じてきた。決まってワンストライク。

「くそっ、初球からカウントを取りにきたか。ねらってりゃ……」

 二球目も、またしも外角低めに投じられた。佐野のバットが回る。しかしボールはホームベース手前で、鋭く内側へ曲がる。

 佐野は空振りした。思わず「あぶねえ」とつぶやきが漏れる。

「もし当たっていれば、ピッチャーゴロだ。あのヤロウ……まるでこっちのねらいを、全部見透かしてるみてえに」

 三球目。佐野はわざと、打席の内側の白線ぎりぎりに立った。

「こうなったら、せめて内角を投げにくくさせてやる!」

 強気のイガラシは、構わずカーブを投じてくる。しかし佐野は、よけずにボールの軌道を目で追う。次の瞬間、ボールがユニフォームを掠めた感触があった。

「デッドボール! テイクワンベース」

 アンパイアが一塁ベースを指差す。イガラシは僅かに顔を歪めた。一方、佐野はフウと安堵のため息をつく。

「曲がりすぎたのか。まだ、うちにツキは残ってるようだ」

 

 

「あちゃあ、余計なランナーを出してしまったか」

 マウンド上。イガラシは渋い顔で言った。

「つぎは四番か。この回も入れて、まだ三イニング残ってるし。ここは打ってくるだろう」

 ほどなくイガラシの眼前で、四番村野が右打席に入ってくる。バットを短めに握り、気合をこめて「こい!」と声を発した。

「けっ。気合で打てりゃ、世話ねえぜ」

 初球、イガラシはあえてカーブを投じた。今度はインコース低めいっぱいに決まり、ワンストライク。村野はやや腰が引け、手が出ない。

「ハハ、あれじゃ内角は打てないと言ってるようなもんだぜ」

 そして二球目。キャッチャー倉橋が「つぎはココよ」とサインを出す。イガラシはうなずき、すぐに投球動作を始めた。

 今度は速球を外角低め、ただしボールとなるコースに投じる。

「……えっ」

 その瞬間、村野はバットを寝かせ、一塁方向へ転がした。

「よ、四番がバントだと!?」

 イガラシは一瞬面食らったが、すぐに「ファースト!」と指示を出す。

 鋭くダッシュしてきた加藤は「いける!」と判断し、二塁へ送球した。ところが佐野の足が一瞬早く、判定はセーフ。ベースカバーの丸井は急いで一塁へ転送するが、これも間に合わず。フィルダースチョイス、一塁二塁オールセーフとなってしまう。

「し……しまった」

 加藤は唇を噛んだ。切りかえましょう、とイガラシは声を掛けた。

「いまのは強いゴロだったし、誰だって二塁へ投げてますよ。佐野の足が速かったんです」

「あ、うむ。すまんイガラシ」

 それでも加藤は謝る。イガラシは「だから切りかえましょうって」と、苦笑いする。

「しかし……思わぬかたちで、ピンチをむかえたな」

 やがて次打者の五番小堀が、右打席に入ってくる。

「ここであの五番か。ちとメンドウなやつに回ってきたぞ」

 イガラシは気を引き締め直し、倉橋とサインを交換する。

 

 

 三塁側ベンチ。東実監督は、厳しい表情で思案を巡らせていた。

「もう七回。ここで一点でも返さないと、厳しいな」

 それにしても……と、感心げにうなずいた。

「タイムも取らないとは。よほどこのピンチを切り抜ける自信があるのだろうな」

 この時、監督は「そうだ」とつぶやく。あることが脳裏に閃いたのだ。

「バッターは小堀だ。向こうのバッテリーも、いまは打者を打ち取ることしか頭にないだろう。仕かけるなら、今だ!」

 そして監督は、二人の走者へ「走れ」とサインを出す。佐野と村野は、一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに「了解」の合図をした。

 

 

 初球のサインは、カーブだった。しかも「外にはずせ」と要求が付け加えられる。

「なるほど。まずは、ねらいダマを探ろうってことか」

 イガラシは納得し、すぐさまセットポジションに着く。そしてしばし間をおいてから、投球動作を始めた。

 その瞬間、二人のランナーが同時にスタートを切る。

「なにっ。ダブルスチールだと!?」

 急に球種を変えることもできず、イガラシはそのままカーブを投じた。

 小堀はランナーを助けるため、わざと空振りする。倉橋は三塁へ送球しようとしたが、さすがにカーブでは間に合わず、投げることもできない。

 ワンアウト二・三塁。墨高、ピンチを広げられてしまう。

「た、タイム!」

 倉橋がアンパイアに合図して、内野陣をマウンドに集めた。

 

 

「まず一つアウト優先でいいな?」

 マウンド上。キャッチャー倉橋の念押しに、全員うなずく。

「ああ。ここは一点くらいやっても、いいと思うぞ」

 気楽そうに言ったのは、横井だった。

「べつに打たれてピンチになったわけじゃない。やつらは、まだイガラシをとらえることはできてないからな」

「おれもそう思います」

 加藤も同調する。

「最悪タイムリーを浴びて同点になったとしても、佐野はあの様子じゃ、もう投げられないでしょうし。相手が倉田なら、残りの八、九回でじゅうぶん勝ち越せますよ」

 キャプテン谷口は、しばしチームメイト達の話を聞いていたが、やがて「イガラシはどう思う?」と一年生投手へ話を向けた。

「もちろん、ぼくも賛成です。ただ……」

 渋い表情で、イガラシは答える。

「何となくですけど、向こうはスクイズをやってくる気がするんですよ」

 えっ、と他のメンバーは驚いた声を発した。

「五番にスクイズか?」

 倉橋が懐疑的に問い返すが、イガラシは「はい」と迷いなく答える。

「けっきょくあの五番も、ここまでノーヒットですし。東実からすれば、最悪ここで一点でも返さなきゃ、ほぼ負けです。となれば……スクイズもありじゃないかと」

 正捕手は「なるほどね」と納得した顔で、さらに思案を巡らせる。

「ということは、前進守備を敷いた方がいいのか?」

 いいえ、とイガラシは可笑しそうに言った。

「どうせ一点やるつもりなら、スクイズさせてやりましょうよ」

「あ、たしかにな」

 倉橋は苦笑いして、頬をポリポリと掻く。

「よし。じゃあ、決まりだな」

 気を取り直して、正捕手は力強く言った。

「ゴロはすべて、一塁へ送球だ。三塁ランナーにはかまうなよ」

 そう言って、もう一つ付け加える。

「ただし送球は、すばやくな。わずかだが、ツーランスクイズをやってくる可能性もあるからよ。いいか、絶対にスキは見せるな!」

 内野陣は「オウッ」と返事して、再び守備位置へと散っていく。

 倉橋も踵を返しかけた時、ふとあることに気付いた。そしてサードのポジションに着いた、谷口のもとへ駆け寄る。

「おい谷口。どうして、いまなにも発言しなかったんだ?」

 キャプテンはフフと、柔らかな笑みを浮かべた。

「だってみんな、やるべきことは分かってるじゃないか。おれが特別に、なにかを言い足す必要もないかと思ってな」

「む……そういえば、そうだな」

 倉橋も口元で微笑む。

「なあ谷口。このチーム、ほんと変わったよな」

「えっ?」

「昨年までなら、こういう時、おまえがアレコレ指示を出して、どうにか乗り切ってたじゃねえか。それが今じゃ、自分達で答えを見つけ出すようになっちゃってよ」

 ハハ、と谷口は可笑しそうに笑う。

「なんだか……もうおれは、いなくていいみたいだな」

「いや、そうじゃねえよ」

 ふいに倉橋が、真顔になり言った。

「やつらが、ああして自分達で考えられるようになったのは……おまえがそこまで、みんなを引っぱってくれたからだ。おまえの功績だよ、谷口」

「こ、功績だなんて。そんな大げさな」

 谷口は頬を赤らめる。倉橋がプッと吹き出した。

「なんだ、照れてるのか?」

「か、からかうなよ。こんな時に!」

「ハハハ。そう怒るなって」

 正捕手は笑い声を上げて、ポジションへと帰っていく。

 谷口もポジションに戻ると、今度はセカンドの丸井が駆け寄ってきた。なにやら困惑したような表情である。

「……あの、キャプテン」

「今度は丸井か。どうした?」

「倉橋さん、ずいぶん余裕な感じでしたけど……気づいてないんでしょうか?」

「気づいてない? なんのことだ、丸井」

「イガラシのことですよ」

 えっ、と谷口は小さく声を上げる。

「まさか……イガラシ、どこか傷めてるのか?」

「ちがいますよ。ということは、キャプテンも気づいてないんですね?」

 丸井は「ちょっとお耳を拝借」と、囁き声で言った。

「イガラシのやつ、ここまで……まだノーヒットピッチングなんですよ」

「えっ、そうだったのか!?」

 危うく、谷口は大声を出しそうになった。

 

 

2.イガラシの余裕

 ほどなくタイムが解かれ、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。

 マウンド上。イガラシの眼前では、堀井が長々とバットを構える。それがかえって「ウソくさいな」と、イガラシは感じた。

「あの小堀ってやつは、パワーはあるが振り回すタイプじゃない。ヒッティングにしても、ここは長打をねらう場面じゃないはずだ」

 そしてイガラシはセットポジションに着く。

 果たして初球。投球動作を始めると同時に、やはり小堀はバットを寝かせた。同時に三塁ランナーが突っ込んでくる。予想通りスクイズだ。

「……うっ」

 しかしイガラシが内角高めに投げ込んだ速球を、小堀は打ち上げてしまう。ピッチャー前への小フライ。

「しまった!」

 小堀が叫ぶのが聞こえた。イガラシは数メートルほどダッシュして捕球し、ランナーの飛び出した三塁へ素早く送球する。

「くっ……させるか」

 だが佐野は、すでに身を翻し三塁へダッシュしていた。そして頭から滑り込む。

「せ、セーフ!」

 三塁塁審のコールに、球場内は「おお……」と深い溜息に包まれる。

「フフ、さすが佐野だ。しぶといね

 マウンド上のイガラシは、むしろ満足げに笑う。

 ツーアウトとなるが、なおも二・三塁。東実は、一年生ながら好打者の六番中井に打順が回った。イガラシは再度、表情を引き締め直す。

「さてと、こいつは要注意だ。もう小ワザを仕かける場面じゃなくなったからな」

 初球。右打席に立った中井へ、イガラシは遅いシュートを投じた。

 中井は、これを思い切り引っぱる。パシッと快音が響いた。ライナー性の打球がレフト線を襲う。しかし、ポール際で左へ切れてファール。

「引っぱってきたか。どうやらコイツ、打ち気にはやってるな」

 二球目。今度は、真ん中低めにチェンジアップを投じる。

「……おっとっと」

 タイミングを外された中井のバットは、あっさり空を切った。これでツーナッシング。

「ちぇっ。あいかわらず、意地の悪いピッチングをしやがる」

 中井はそうつぶやき、一旦打席を外して数回素振りした。

「だがおれも、そんなに甘くないぜ。見てろ」

 その言葉通り、中井はそこから粘る。際どいコースを三球見極め、さらに四球ファールにした。ボールカウントは、ツー・スリーとなる。

「へえ、なかなかやるな」

 感心げに、イガラシは口元に笑みを浮かべた。

「全部の球種に当てるとは。さすが、プロに指名されたアニキのいる男だぜ」

 一方、中井はイガラシの表情にムッとする。

「あのヤロウ、笑みなんか浮かべやがって。二点リードしてるからって、うち相手に余裕を見せるとは。痛い目にあわせてやる!」

 つい力んで構えてしまう中井。それをイガラシは、見逃さなかった。

「……だいぶ力が入ってるな」

 迎えた投球十球目。イガラシは速球を、なんと真ん中高めに投じた。

「なにっ、真ん中だと!?」

 手を出す中井。だが力んだスイングでは、捉えることができず。センターへの凡フライ。

「オーライ!」

 センター島田が周囲に声を掛け、一歩も動かずに難なく捕球した。

「きのうのお返しができたぜ」

 そうつぶやき、イガラシはマウンドを後にする。

 

―― つづく八回表。追加点をねらう墨高だったが、佐野の後を受けた倉田の力投の前に、三者凡退におさえられた。

 しかしその裏、イガラシの快投は止まらない。下位打線ながら二つの三振を奪うなど、こちらも東実の攻撃を三人で終わらせたのである。

 そして決勝再試合は、墨高が二点リードのまま、最終回の攻防を残すのみとなった。

 

 

「さあ墨高、最後に追加点といこうぜ」

「いける、いけるぞ甲子園」

「あと一イニングだ、ガンバレ!!」

 九回表。打席へと向かう倉橋は、観客達の声援を不思議な気持ちで聞いていた。

「そうか。あと一イニングなんだな……」

 右打席に入り、足下の土を均す。

「でも、なんだか不思議だ。まるで緊張しねえ。なんつうか……すっきりした気分だ」

 眼前のマウンド上。倉田が、外角へカーブを投げ込んでくる。

「や、やはり!」

 倉橋はおっつけるように、バットをスイングした。打球はジャンプしたファーストの頭上を越え、ライト線のぎりぎり内側に落ち、フェンスへ転々としていく。

「フェア!」

 塁審のコールを聞く前に、倉橋は一塁ベースを蹴り、二塁に到達した。ツーベースヒット、ノーアウト二塁。

「フン。どうせ苦手コースを突いてくると思ったが、分かってて打てないほど、おれも甘くねえんだぜ」

 フフと含み笑いを漏らす倉橋。一方、マウンド上の倉田は顔を歪める。

 そして次打者は、前の打席でホームランを打っている四番谷口だ。東実のキャッチャー村野は、屈み込んだままである。

「ほほう勝負か。やつらも、いい度胸してる」

 その時、三塁側ベンチより「タイム!」と声が聞こえた。東実監督である。ダッグアウトの前に出て、「倉田、村野」とバッテリーの二人を呼ぶ。

「倉田。ちょっと投げ急ぎすぎだぞ」

 監督の指摘に、倉田は「はい……」とうつむき加減で返事する。

「監督、つぎは四番ですが?」

 キャッチャー村野が尋ねる。

「歩かせますか」

「いや……それはかえって、危険だ」

 監督は静かに答えた。

「つぎのイガラシも当たってる。それにうちは、二点負けてるんだ。流れを呼びこむためには、ここで相手のクリーンアップをおさえなければ、どうにもならない」

 三人の様子を遠巻きに眺める者がいた。今はライトを守る、東実のエース佐野である。

「……ダメだ」

 佐野は一人、ゆっくりと首を横に振る。

「倉田じゃ、墨谷の勢いは止められまい」

 やがて倉田と村野のバッテリーは、それぞれのポジションに戻る。すでに谷口が、右打席に立っていた。

 初球。真ん中低めをねらったチェンジアップが、高めに入った。

「……し、しまった」

倉田が声を上げる。

 パシッ。打球は深めに守っていたセンター熊井の頭上を、あっという間に越えた。そのままワンバウンドでフェンスに当たり、跳ね返る。

 二塁ランナーの倉橋は、三塁ベースを蹴り、小走りでホームベースを駆け抜けた。その間、谷口はセンター熊井が打球の処理にもたつく間に、一気に三塁へ左足でスライディングする。ボールは、中継の杉谷に返っただけ。

 タイムリスリーベースヒット。墨高が大きな一点を追加し、点差は三点へと広がる。

 マウンドに片膝をつく倉田。その時、彼の背中に「立て倉田!」と叫ぶ者がいた。ライトを守るのエース佐野である。

「打たれても堂々としてろ! おれは敗戦処理のために、きさまにマウンドをゆずったおぼえはないぞ!!」

「は、ハイ!」

 先輩の声援に、倉田はようやく立ち上がる。

それでも、やはり墨高の勢いを止めることはできなかった。続く五番イガラシには、簡単に三遊間を破られる。レフト前タイムリーヒット。墨高、四点目。

しかし倉田も意地を見せ、どうにか後続の三人は打ち取った。この回二点は失ったものの、リリーフの一年生は拍手を贈られる中、ベンチへと引き上げていく。

 

 

3.その瞬間……

 九回裏の守備前。墨高ナインは、全員がダッグアウト前に集まった。その中心にいるのは、もちろん谷口である。

「さて、なにを言うべきか」

 しばしキャプテンは、考え込む。そしてチームメイト達の顔を見回した。

 これから守りに着くピッチャーのイガラシ、キャッチャー倉橋、ファースト加藤、セカンド丸井、ショート横井、レフト岡村、センター島田、ライト久保。コーチャーの高橋と鳥海。今日は控えの半田、鈴木、戸室、井口、片瀬、根岸、旗野、松本、平山。

 谷口自身も入れて総勢二十一名、皆それぞれ引き締まった表情である。

「みんな。もう、なにも言うことはない」

 正直な思いを口にした。

「さあ、残りアウト三つだ。そこに落ちている甲子園への切符を、ベンチも含め全員の力で拾いにいこう。いいな!」

 墨高ナインは、全員が「オウヨッ」と力強く応えた。

 

 

 ガキッ。鈍いゴロが、二塁方向へ飛んだ。

「……よっと」

 セカンド丸井が数メートル前進し、リズムよく捕球して一塁へ送球する。

「アウト!」

 塁審のコール。それだけで、一塁側応援スタンドが大きく沸いた。

「ナイス丸井」

「あと二人だ。みんな、落ちついていけ!」

 なんでえ、と丸井は苦笑いする。

「こんなの、ただの凡ゴロじゃねえか。しかもさわぐのは、まだ早いってえの」

 だがその時、あれ……と不思議な気持ちがした。

「ヘンだな。あとアウト二つで、甲子園が決まるってのに。おれっちたら……もっと試合をしていたいって、みょうな気分になってやんの」

 丸井の眼前で、セカンドゴロに倒れた一番杉谷が、うなだれたまま引き上げていく。

 カキ、と乾いた打球音がした。打席で二番竹下が、唇を歪める。彼の視線の先で、高いフライが三塁側のファールグラウンドに上がる。それを墨高のキャプテン谷口が、全速力で追いかけていく。

 打球はフェンス際まで飛んだ。しかし、それ以上は伸びない。

 ガシャッと、背中がフェンスに当たる音がした。谷口がジャンプして、左手のグラブを高く伸ばす。その先に、ボールが収まる。

「あ、アウト!」

 一塁側スタンドはさらに沸き上がった。一方、敵側である三塁側スタンドからは、谷口の好プレーに「ああ……」と大きな溜息が漏れる。だがほどなくして、拍手が沸き起こる。それが次第に大きくなっていく。

 へえ、と丸井は吐息混じりに言った。

「敵さんも、なかなか粋(いき)なことをしてくれるぜ」

 

 

 ツーアウト、ランナーなし。そして東実の打順は、エースにして三番の佐野へと回る。

「ランナーがいなくてよかったぜ」

 マウンド上。イガラシは一人、つぶやいた。

「四点あるといっても、もしランナーがいたら、一発出ればカンタンに二、三点入っちまう。そしたら、また分からなくなるからな」

 眼前では、佐野が左打席に立ち、こちらに鋭い眼光を向ける。

「……やはり。最後まであきらめるつもりは、ないようだな」

 口元に笑みが浮かぶ。

「それでこそ、東実のエースだぜ。ただ悪いが……今回はきっちり、しとめさせてもらう。でないと向こうもまた勢いづいてくる。なにより佐野とは、来年まで対決していかないといけねえからな」

 倉橋とサインを交換し、イガラシは第一球を投じた。

 初球は、外角低めにボール気味の速球。佐野のバットが回る。パシッと快音が響くと同時に、速いゴロが三塁線を襲う。

 谷口が左へ飛ぶが、そのグラブの先を打球が弾く。

「ファール、ファール!」

 三塁塁審が、伸ばした両腕で三塁側方向を指す。

「あ、あぶねえ」

 イガラシは苦笑いした。

「ボールにしておいてよかったぜ。ストライクなら、まちがいなく三塁線を破られてた」

 

 

 いつの間にか、一塁側スタンドは静まり返っていた。誰もが固唾を飲み、投手と打者の一挙手一投足を見守る。

 谷口夫婦も同様だった。ハァ……と、母が深く溜息をつく。

「こんなに緊張するのは、久しぶりだよ」

「おい。ちょっと黙ってろ」

 父が軽く睨む。

「あのタカが、大きく羽ばたこうとしてるんだ。しっかり見てようぜ」

「フン。酔っ払いに言われたかあないね」

 母の鋭い突っ込みに、父は「あら」とずっこける。

 

 

 一方、田所ら野球部OB達も、静かに見守っていた。

「……そういやあ、おれの最後の試合もこの球場で、相手は東実だったな」

 田所は胸の内につぶやく。

「たしかあん時、『谷口がいるかぎり、いつか雪辱してくれる』と言ったが……ちとできすぎだぜ。まさか甲子園をかけた決勝で、それを実現してくれるとはな」

 そう口に出して、田所は「いやっ」と首をブンブン横に振る。

「まだ終わっちゃいねえ。最後の最後まで、試合は分からないってことを、おれは谷口に教えられたんじゃねえか」

 いささか挙動不審な元キャプテンを、後輩達は訝しげに見つめる。

「どうしたんだ、田所さんは」

 山本が囁き声で言った。太田が「うーむ」と渋い顔になる。

「よほど目の前の光景が、信じられないんだろう。ちと心配だな」

「ああ。ちょっとおかしく……」

 ガチン。二人の頭に、ゲンコツが振り下ろされる。

「きさまら、また人をバカにしやがって」

 田所が仁王立ちになっていた。二人は思わず抱き合う。

「そ、そんな……こんな時に」

「まさか聞こえてるとは」

 三人のやり取りに、中山が「なにやってんだか」と溜息をつく。傍らで、山口がププッと吹き出した。

 

 

 二球目。内角低めに投じられたチェンジアップを、佐野は辛うじてバットに当てる。鈍いゴロが、一塁側ベンチ方向へ転がっていく。

「な、なんてやつだ。いまのタマに当てるとは」

 さしものイガラシも、一瞬顔を引きつらせた。だがすぐに、表情を引き締める。

「まったく、たいしたしゅう念だぜ。だが……しゅう念なら、うちも負けちゃいない」

 迎えた三球目。イガラシは外角低めをねらい、カーブを投じた。ボールは大きな弧を描き、打者の膝元へ吸い込まれていく。

 佐野は手が出ない。数秒間の沈黙――そして、アンパイアが右こぶしを掲げた。

「……ストライク、バッターアウト! ゲームセット!!」

 その瞬間、神宮球場は唸りのような大歓声に包まれた。

 

 

 試合終了から数分後、谷口とイガラシはダッグアウト前にて、新聞記者・清水のインタビューを受けることとなった。

「谷口くん、イガラシくん。まずは優勝おめでとう」

 二人は揃って「ありがとうございます」と一礼する。

 清水はニヤッと笑みを浮かべ、「イガラシ君」と呼んだ。イガラシは訝しく思い、つい谷口と目を見合わせる。

「キミには、もう一つ『おめでとう』と言わなきゃいけないね」

「……えっ、なんのことです?」

 その返答に、清水と谷口は同時に「あっ」とずっこける。

「ぼく、なにかしましたっけ?」

「なにかしたどころの話、じゃないと思うんだが……」

 清水の言葉に、イガラシはますます首を傾げる。

「イガラシ。おまえほんとうに、知らないのか?」

 今度は谷口が尋ねた。

「いいえ、なにも」

「ゲームセットの時、倉橋もなにも言わなかったのか?」

「はい。あの……なんだか二人で、ぼくにインタビューしてるみたいですけど」

 谷口は、清水と一緒に溜息をつく。

「ちょっと、お二人とも」

 イガラシは苦笑いした。

「そろそろ……なんのことか、教えていただけません?」

 その時だった。「おーいイガラシ!」と、ベンチ奥から倉橋が怒鳴る。なぜかスコアブックを手にしていた。

 倉橋は走り寄ってきて、イガラシの両肩を強く叩く。

「テッ。な、なんなんスか?」

「おまえ、知ってたか」

「もう……倉橋さんまで。いったい、なにをです?」

 清水が小さく溜息をつき、そして返答した。

「イガラシ君。きみは今日、ノーヒットノーランを達成したんだよ」

 えっ、とイガラシは目を丸くする。

「決勝戦ノーヒットノーランというのは……都大会史上、初の快挙だ」

「……なんだ、そんなことですか」

 思いのほか醒めた返事に、他の三人はガクッと頭を垂れる。

 その後、しばらく他の質問に答えて、清水記者のインタビューは終わった。彼が「つぎは甲子園で会おう」と踵を返してから、谷口はもう一度尋ねる。

「イガラシ。記者さんの話では、歴史に残る快挙だそうだが……なんとも思わないのか?」

「だってそんな個人の記録、どうだっていいじゃありませんか。試合に勝てれば、ぼくはそれで満足です」

 傍らで、倉橋は「あきれたやつだ」と苦笑いする。

「……そんなことより」

 ふとイガラシが、微笑みを浮かべた。

「ぼくはこれからが、楽しみなんです。甲子園がどんな場所で、どんな相手と戦うことになるのか。いまはそのことで、アタマがいっぱいで……」

 ハハ、とキャプテン谷口が笑いかける。

「おまえらしいな。けどイガラシ、これだけは言わせてくれ」

 そう言って、右手を差し出す。イガラシは一瞬照れた顔になる。

「今日の勝利は、おまえの力投がもたらしてくれたものだ。ありがとう」

「そ、それはドウモ……」

 イガラシはその手を握り返し、また微笑んだ。

 

 

 三塁側ベンチ。墨高ナインの喜び合う光景を、佐野は睨む目で凝視していた。

「……くやしいか?」

 ふいに声を掛けられ、ハッとする。振り向くと監督が立っていた。

「ワシもくやしい。おまえ達はよくやってくれたが、ワシの打った手がことごとく裏目だった。これはワシの責任だ」

「そんな……監督、もうなにもおっしゃらないでください」

 強い口調で、佐野は応える。

「今日の負けは、ぼくらの力不足です。それ以外ありません。でも幸い……ぼくらには、あと一年あります」

「……ああ、そうだな」

 僅かに表情を緩め、監督はエースの右肩をポンと叩いた。

 

―― かくして墨高は、都大会優勝を果たし、初の甲子園出場を決めたのだった。しかもイガラシの決勝戦ノーヒットノーランというオマケつきである。

 言うまでもなく、春の甲子園4強の谷原、佐野と倉田の強力投手陣をようする東実を連破しての初優勝に、多くの者が感動をおぼえたのだった。

 そしてこの三週間後。キャプテン谷口率いる墨高は、いよいよ甲子園の大舞台へ乗り込むこととなったのである。

 

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