【目次】
【前話へのリンク】
<外伝>
第43話 流れを引き寄せろ!の巻
1.村井攻略の糸口
五回裏。ツーアウトながら死球の加藤を二塁、敬遠のイガラシを一塁に置く。墨高、久々の好機到来である。
「丸井、ちょっと来るんだ」
打席へ向かいかけていた丸井を、キャプテン谷口が呼び戻す。
「えっ。は、はぁ……」
戸惑いながらも、後輩はこちらに駆けてくる。
「なんでしょう」
「丸井。カーブをねらうんだ」
谷口は短く告げた。えっ、と相手は驚いた目になる。
「早いカウントでも?」
「うむ。力まず、ランナーを返すことを意識してな」
分かりましたと返事して、丸井は踵を返す。
「そりゃ、どういうこったい」
バットを手に、倉橋が問うてきた。次は彼の打順である。
「村井は早打ちを誘うために、わざと真ん中近くに集めてきてるから、追いこまれるまで変化球は見逃すって話だったんじゃ」
「ほころびが見つかったんだ」
そう返答すると、正捕手は「なんだって」と目を見開く。
「ここまで村井さんは二死球、いずれもカーブです。それと……」
傍に来ていた半田が、後を受けて説明する。
「さっきヒット性の当たりをされたのも」
「なるほど、言われてみりゃ」
横井がパチンと両手を合わせた。いつの間にか、ナイン全員が集まってきている。
「カーブだけは、思うようにコントロールできてなかったのか」
グラウンド上では、丸井が必死の形相で食い下がっていた。村井の快速球、シュートを辛うじてバットに当てる。
「ファール! ワンボール、ツーストライク」
アンパイアのコール。丸井は一旦打席を外し、ペッと唾で両手を湿らせる。そして「こんな感じかな」とバットを短く握り直し、打席に入り直す。
けどよ……と、戸室が首を捻る。
「なんで今まで、誰も気づかなかったんだ」
半田が「そ、それは」と苦笑いする。
カキと鈍い音が響いた。バックネット手前のファールフライ。丸井は「しまった」とバットを放り、走り出す。
「ああ……」
周囲から溜息混じりの声が漏れた。キャッチャー佐々木がゆっくりと後退し、難なく顔の前で捕球する。スリーアウト、チェンジ。
横井が「なるほど」と、渋い顔になる。
「ぜんぶミスしてくれるわけじゃないのね」
ええ、と半田はうなずく。
「今のようにきっちり決まる時もあります。それに、わざと真ん中に投げたりもしてたので、ちょっと分かりづらくて」
戸室も「たしかに」と同調した。そして谷口へ顔を向ける。
「なあ谷口。読めないタマにねらいをしぼって、ほんとうにだいじょうぶなのか」
「カーブねらいで正解ですよ」
ちょうど帰ってきたイガラシが、話に割り込んだ。隣に丸井も並ぶ。
「ぼく二塁から見てましたけど。今のカーブは低めにこそきましたが、さほど落差はなかったので」
また数人が「なんだって」と、目を丸くする。
「ちとシャクですが、そうなんスよ」
丸井がポリポリと頬を掻きつつ、苦い顔で言った。
「すくうようにバットを出したら、思ったよりキレがなくて。それでボールの下をたたいちゃいました」
眼前では、グラウンド整備が始まっていた。白いポロシャツ姿の係員が、いくつもスパイクに抉られた土を、トンボできれいに均していく。束の間、球場内の空気が緩む。
「とにかく、やっとつかんだ攻りゃくの糸口だ」
やや語気を強め、谷口は告げる。
「これを大事にしよう。そして、なんとしても点をもぎ取るんだ」
キャプテンの檄に、ナイン達は「オウヨ!」と力強く応えた。
バックネット裏。先に決勝進出を決めた東実ナインが、手前の二列に陣取る。皆ユニフォームの上からジャージを着ていた。
「なかなか墨高も、やりますね」
感心げに、一年生の倉田が言った。
「毎回ピンチの連続で、くずれるのは時間の問題と思ったのですが。どうにか三点で食い止めてますよ」
む、と傍らの佐野がうなずく。彼こそ倉田の青葉学院中学からの先輩にして、東実の二年生エースだ。
「倉田。おまえは谷原の打線、おさえる自信あるか?」
「え……いやあ、どうスかね」
先輩の意地悪な質問に、倉田は苦笑いする。
「今年の谷原は、全国優勝もねらえるって話ですから」
「ハハ。なんでえ、たよりない返事だな」
眼下では、ちょうどグラウンド整備が完了したところだった。係員がトンボを手に引き上げていく。
「おい村野」
佐野はふと振り向き、真後ろの大柄な少年に声を掛けた。
「このさい墨谷に勝ち上がってもらって、決勝で雪辱を果たすってのも悪くあるまい」
うむ、と相手がうなずく。
「やつらとマトモに戦って、けっきょく一度も勝ててないからな」
この村野も、佐野や倉田と同じ青葉学院出身である。佐野とは当時よりバッテリーを組む。
「三点差は、ちと厳しいだろうが」
佐野の言葉に、村野も「ああ」と同調する。
「いくらおさえてもノーヒットじゃ、勝ち目がないぜ」
その時、傍らでオホンと咳払いが聞こえた。三人は思わず姿勢を正す。
「おまえ達、たのもしいじゃないか。ええっ」
佐野の隣に座っていた東実監督が、前方へ険しい視線を向けていた。痩身ながら顎髭と鋭い眼光。名門野球部の指導者らしい威厳ある風貌である。
「あいにくだが我々の今大会の打率は、墨谷よりも下だ。うちが戦ったとしても、おそらく似たような結果だろう」
周囲のナイン達は、互いにバツの悪そうに目を見合わせた。
「どこが来ても、明日は厳しい試合になるぞ」
視線をグラウンドへ向けたまま、東実監督はトーンの低い声で告げる。
「昨年のような苦杯をなめたくなければ、両チームともしっかり分析するんだ。いいな!」
監督の檄に、東実ナインは「はいっ」と声を揃えた。
一塁側ベンチ。グラウンド整備を見届けつつ、谷原ナインは六回表の攻撃に備える。
「もう六回か」
キャプテン佐々木が、溜息混じりに言った。
「じわじわとリードを広げているが、完全にとどめを刺すには至ってない」
「なに、三点あれば十分さ」
エース村井は、あくまでも強気である。
「おまえの意気は買うけどよ」
しかし佐々木は、渋い表情を崩さない。
「これだけチャンスを作って、思うように得点できないとなれば、つぎに影響が出る。なんとかあのイガラシを打ちくずして、すっきり試合を終わらせたいが……」
その時だった。この回先頭打者の辻倉が「きゃ、キャプテン!」と声を上ずらせる。
「むっ……な、なんだと!」
佐々木は思わず目を見開いた。後輩の指差す先で、端正な顔立ちをした細身の投手が、ゆっくりとマウンドへ向かう。
その投手、片瀬が姿を現した瞬間。驚きとも戸惑いとも取れる声が、墨高応援団の陣取る三塁側スタンドから漏れ響く。
「こ、ここで片瀬だって?」
「今大会、ほとんど投げてなかったんじゃ」
おいおい……と、一番打者の坂元が苦笑いした。
「味方さえ困惑させてるじゃねーか」
しかし当の墨高ナインに、戸惑いの色は感じられない。
「いけ片瀬! おまえのチカラ、谷原に見せつけてやるんだ」
「バックがついてる。思いきりいけっ」
坂元の隣で、二番打者の宮田が「なんでえ」と鼻白む。
「ありゃ始めから予定してた顔だな。しっかし、ちとバクチがすぎるんでねえの」
む、と坂元も同調した。
「たしか試合前に、井口と並んで投球してたやつだろ。目くらましかと思いきや……ほんとうに出てくるとは」
その片瀬が、すぐに投球練習を始める。サイドスローのフォームから、一球二球と速球を投げ込む。さらに大小のカーブ。
「さっきも言ったが、三山戦で一イニングだけ投げてる」
マネージャーが手帳をめくり、ナイン達に説明する。
「いま見たように速球と大小のカーブで、打たせて取るタイプだそうだ」
「ちぇっ。なんでえ、墨高のやつらめ」
坂元は唇を尖らせる。
「うち相手に、一年生の慣らしをさせようとは」
「まてよ坂元」
たしなめる口調で、佐々木が言った。
「忘れたのか。今年の墨谷の一年生が、粒ぞろいだって話」
そうだったな、と坂元が肩を竦める。
「先発の井口ほどじゃないが、けっこう速いな」
強打者の大野が、マウンド上へ鋭い眼差しを向けた。
「カーブも鋭い。ただ、コントロールは荒いようだ」
そうだな、と佐々木もうなずく。
「キャッチャーの構えは真ん中なのに、タマがばらついてる。甘く入ったところをねらい打ちすれば、攻りゃくできそうだな」
「む。もっとも……さっきのイガラシのように、スピードをおさえてなければだが」
やがて片瀬が、既定の投球練習を終えた。そして自然な動作で、足もとのロージンバッグを拾い、右手に馴染ませる。こちらが驚くほど、落ち着き払った表情だ。
「なんにせよ、油断は禁物だぞ」
おもむろに、監督が口を開く。
「うちを研究し尽くしている墨高が、なんの根拠もなく、あのピッチャーを起用してくるはずがない。きっとワケがあるはずだ」
「は、はいっ」
快活に応える谷原ナインの表情に、僅かながら戸惑いの色が浮かぶ。
2.伏兵・片瀬登板!
六回表。墨高は片瀬登板に伴い、またもシートを一部変更していた。
まず戸室がベンチに下がり、イガラシが再びショートに着く。また横井もライトに戻り、レフトには岡村が入る。
「バッターラップ!」
アンパイアのコールを聞いてから、辻倉は左打席に入った。
「ちと探ってみるか。なにせどんなピッチャーか、よく知らねえんだし」
眼前の片瀬が、ロージンバックを足もとに放る。やはり自然な動作だ。その口元には、僅かながら笑みさえ浮かぶ。
「よくもまぁ……うち相手に、そうやって脱力できるものだ」
辻倉は、さすがにムッとした。
「きさまの余裕を泣きヅラにしてやるぜ」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と右手を掲げる。
片瀬はすぐに投球動作を始めた。まず振りかぶると、後方へ上半身を捻じり、弓のように引いた右腕をほぼ平行に繰り出す。躍動感のあるサイドスローのフォームだ。
ズバン。速球が、真ん中に構えた倉橋のミットより、ボール一個分ほど低めに飛び込んできた。ストライク、とコールされる。
キャッチャー倉橋が「ナイスボール!」と声を掛け、素早く返球した。
「なんだい、今のタマは」
辻倉はひそかに吐息をつく。
「さっきのイガラシのように、出し惜しみしてたわけじゃないようだな。あれじゃ、うちのバッティング投手の方が、もちっとましなタマ投げるぜ」
二球目。今度はインコース低めに、速いカーブが投じられた。辻倉の膝元、コースいっぱいに決まる。これでツーストライク。
「ほう。いまのカーブは、鋭かったな。こりゃカンタンには打てないだろう。しかし変化球の方がコントロールつくなんて、変わったやつめ」
けど……と、胸の内につぶやく。
「いくら鋭いからって、空振りするほどじゃない。これはファールにして、速球だけねらい打てば、どうにでもなる」
迎えた三球目。片瀬がボールを離した瞬間、辻倉は「きたっ」と内心で叫ぶ。まさに狙っていた速球が、ど真ん中に飛び込んできた。ためらわず強振する。
ガッ、と鈍い音がした。三塁方向へ凡ゴロが転がる。
「し、しまった……」
辻倉はバットを放り、走り出す。しかし三塁手谷口が、流れるようなフィールディングで捌いた。一塁送球、あっさりワンアウト。
「バカめ。真ん中だからって、力みやがって」
凡打に倒れた辻倉を、次打者の浅井が怒鳴る。
「先頭はまず出塁することが基本だろう」
「す、スミマセン……」
一年生は肩を竦め、バツの悪そうに引き上げていく。
「どうやら、うまくいったようだな」
倉橋はマスクを被り直し、ひそかに安堵の吐息をつく。
「しかもあの様子じゃ、なぜ打ちそこねたのか気づいてない。こりゃ案外イケるかも」
ほどなく浅井が右打席に入ってきた。倉橋は「これね」と、速球のサインを出す。片瀬はうなずき、すぐさま投球動作へと移る。
カキ。浅井の強振したはずの打球は、しかし力なくレフトへ上がった。
「オーライ」
この回からレフトに入る岡村が、難なく捕球した。
「ツーアウト!」
片瀬の掛け声に、野手陣は力強く応える。
「いいぞ片瀬、ナイスピッチング」
「バックがついてる。この調子で、思いきりいけっ」
対照的に、浅井はとぼとぼ帰っていく。
「たった一球でアウトかよ」
すれ違い際、次打者の坂元が嫌味をぶつける。
「先頭は出塁するのが基本だと、よく言えたもんだ」
浅井は「す、スマン……」とうなだれた。
「フン。口ほどにもないやつめ」
なおも毒づきつつ、坂元は「とはいえ……」と胸の内につぶやく。
「ミート力の高い二人が、打ちそんじたんだ。何かあると思った方がよさそうだな」
坂元は左打席に入ると、それまで寝かせていたバットを立てた。この小さな変化を、キャッチャー倉橋はすぐに気付く。
「ほう、さすがトップバッター。探りを入れてきたな」
初球は、アウトコース低めの速いカーブ。坂元はピクリとも動かず、決まってワンストライク。二球目はインコース低めに、同じく速いカーブ。これも打者は手を出さず、あっという間にツーナッシング。
「カーブを続けて見送ったということは、やはり真っすぐの球質をつかみたいようだ」
続く三球目。倉橋は速球のサインを出し、真ん中にミットを構える。
「それなら……これよ」
片瀬はうなずき、すぐに投球動作を始めた。
シューッと音を立て、速球が飛び込んでくる。しかしホームベース手前で、ボールは急激に外へ逃げる。うっ……と坂本はバットを出し、辛うじてカットした。
「そ、そうかっ」
すかさず坂元はタイムを取り、後続打者へ「おい宮田!」と叫ぶ。
「気をつけろ。やつのボール、手元で小さくシュートしてるぞ」
なにっ、と宮田は声を発した。さらに後方の一塁側ベンチ、谷原ナインからもざわめきが漏れる。
「さすが一番打者。よく見破ったぜ」
「こうなりゃこっちのみんだ。坂元、ねらっていけ!」
やるな、と倉橋はつぶやいた。それでも口元に含み笑いが浮かぶ。
「だが……何でもそうやって、計算どおりに事が運ぶと思うなよ」
迎えた三球目。倉橋はまたも、ミットを真ん中に構えた。そこへ片瀬がワインドアップのフォームから、右腕をしならせ速球を投げ込む。
坂元は「きたっ」と言わんばかりに強振した。ところがボールは、さっきと打って変わり内側に喰い込んでくる。
「……うっ」
両肘を窮屈にしながらも、坂元は辛うじてバットに当てた。打球は三塁線の外側に鈍く転がる。ファールとなり、カウントはツーナッシングと変わらず。
「ど、どうなってんだ」
さしもの一番打者も、驚嘆の声を漏らした。
「さっきと同じスピードで、今度はぎゃくに曲がるだと」
傍らで、倉橋はフフとほくそ笑む。
「おあいにくさま。そちらが荒れ球に弱いことは、とっくに調べがついてるんだ。こいっ片瀬。やつらの精密機械のようなバッティング、くるわせてやれ!」
一方、坂元は数回素振りしてから、打席に入り直した。
倉橋は「む」と目を見開く。打者がバットの握りを短くし、立ち位置を前にずらしたからだ。バッターボックスの白線ギリギリである。
「……ほう。打つポイントを前にして、曲がりっぱなを叩こうってんだな」
それでも慌てず、涼しい顔でサインを出す。
「だったら、つぎはコレよ」
四球目。片瀬が投球動作を始めると同時に、坂元はバットを早めに始動する。
しかし投じられたのは、スローカーブだった。打者が「あっ」と大きく体勢を崩し、前へつんのめる。ガッと鈍い音。ホームベース後方への凡フライ。
「オーライ!」
倉橋がマスクを脱いで数歩後退し、難なく顔の前で捕球する。
「アウト。スリーアウト、チェンジ」
アンパイアのコールと同時に、片瀬がフウと吐息をついた。そして他のナイン達の輪に加わり、ベンチへと駆け出す。
「す、スゴイぞ片瀬!」
まず声を掛けたのは、二塁手の丸井だった。
「さすが復活の男だぜ。あの谷原を、手玉に取っちまうとは」
「いえ、そんな先輩」
片瀬は淡々と応える。
「たった一イニングおさえただけじゃありませんか」
そのクールな表情、微笑みを湛えた目。正捕手は「おうおう」と呆れ顔で言った。
「なんだい、あっけらかんとしやがって。見かけによらず豪胆なやっちゃ」
殊勲の一年生は「ど、ドウモ」と苦笑いする。
「……む、そういやあ」
ふと一塁手の加藤が目を見開く。
「向こうを三人でおさえたのは、初めてだな」
丸井も「おおっ、言われてみれば」とうなずいた。
「もう一つあるぞ」
そしてキャプテン谷口が付け加える。
「準備していた作戦が、初めて成功したじゃないか」
ナイン達は互いに目を見合わせ、ああ……と感嘆の声を発した。
ベンチに戻り、谷口はすぐさま「みんな集まれ」と号令を掛ける。ダッグアウト手前で、墨高ナインは素早く円陣を組んだ。
「いよいよ風が吹いてきたぞ」
そう谷口は切り出す。
「谷原といえども、すべてが完璧というわけじゃない。ねばり強く戦っていれば、必ずチャンスはくるんだ。さあ、今こそ流れを引き寄せるぞ」
キャプテンの激励に、ナイン達は「オウヨ!」と力強く応えた。
3.反撃開始!
半開きの玄関に、真夏の日差しが流れ込んでくる。
ここは荒川近くの下町にある、谷口宅である。ステテコ姿の父が、首のタオルで汗を拭いながら、戸の建てつけの修理作業に勤しんでいた。
金槌で釘を打ち付ける音。そこにラジオ実況のアナウンサーの声が重なる。
―― さあ六回裏。三点を追う墨高は、クリーンアップに回る好打順。先頭バッターは、ここまで巧みなリードの光る三番キャッチャー倉橋君。ここで出塁して、四番の谷口君につなぎたいところです。
フゥ……と、父は大きく吐息をついた。
「やれやれ、もう一息だな」
その時、パタパタと背後の廊下から足音が聴こえた。振り向くと、妻――谷口の母が、お盆に麦茶を載せて持ってきている。
「あ、アンタ聞いたかい。この回、タカに打順が回るんだってよ」
「おう。そんじゃ、ちょっと手を休めるかい」
父が玄関先に腰掛け、麦茶をがぶ飲みした。
「ぷはぁ、生き返るぜ。ようし……かっとばせー、ターカーオ!」
勇んで声援を送るも、母に「バカ」と窘められる。
「タカはこのつぎだよ。暑さにオツムまで、ゆで上がったんじゃないのかい」
「おーきなお世話だ!」
憎まれ口を叩き合いながらも、二人は壁際に置いたラジオに耳を傾ける。
「……それにしても」
ふと訝しげに、母が腕組みして尋ねる。
「おまえさんにしちゃ、さっきずいぶんあっさり引き下がったじゃないのさ」
「なんでえ今さら。おまえが早く玄関を直せって、うるさいからだろう」
「そうだけどさ。いつものアンタなら、せがれの晴れ舞台だとか何とかいって、居座ろうとするのに」
フフ、と父は口元に笑みを浮かべた。
「な、なにがおかしいんだい」
「おまえ見たかい。タカの堂々とした姿と、それを頼もしく見つめる仲間達の目をよ」
一人息子を褒められ、さしもの母も相好を崩す。
「そ、そりゃ……アタシだって、ずいぶんたくましくなったとは思ったけどさ」
「む。タカはもう、立派な漢(おとこ)だ。こうなりゃ親としては、静かに見守るだけよ」
父は感慨深げに言った。しかし母は、フンと鼻を鳴らす。
「なんだか知らないけど。あたしゃもう少し、学生の本分に返ってほしいものだけどね。あの子、また二つも成績を下げちゃって。来年で卒業だってのに」
どこまでも現実的な発言に、父は気を削がれた。
「さーて。そろそろ買い物に行かなくちゃ」
そう言い残し、母は廊下の奥へ消えていく。
「ちぇっ。これだから、女ってやつは」
一人愚痴をこぼしつつ、父はラジオに聴き入る。
「がんばれよタカ、墨高」
そう胸の内につぶやきながら。
―― マウンド上には、この回も谷原のエース村井君が上がります。五回までノーヒットピッチング。なんと村井君は、昨秋から都大会で無失点記録を継続中です。いっぽう打席には、墨高の三番倉橋君。この六回こそ、一矢報いることができるでしょうか。
マウンド上。村井がワインドアップモーションから、第一球を投じた。一瞬真ん中の速球かと思われたボールが、鋭く変化してアウトコースいっぱいに決まる。
「ストライク!」
アンパイアのコール。右打席にて、倉橋は「へへっ」と苦笑いした。
「あいかわらず、すげえ角度で曲がるシュートだこと」
けどよ、と胸の内につぶやく。
「三打席目ともなりゃ、さすがに目も慣れてくるぜ。きれいに打ち返すのは難しいにしても、当ててファールにするくらいなら、どうにかやれそうだ」
二球目、アウトコース低めの速球。僅かに外れボール。続く三球目は、初球と同じシュート。これも際どいコースだったが、倉橋に見きわめられた。
ツーボール・ワンストライク。キャッチャー佐々木は、ひそかに唇を噛む。
「くっ……ボールには手を出さないか。村井を攻りゃくするために、どいつもこいつも相当きたえてきたようだな」
続く四球目を、正捕手はしばし逡巡する。
「カーブを使いたいとこだが、今日はどうも制球がイマイチだ。かといって……ほかのボールじゃ、ねばられて球数が増えちまうし」
マウンド上より、村井が「どうした佐々木」と問うてくる。
「ピンチでもねえのに、なに迷ってるんだ」
「な、なんでもない」
ようやく決心し、佐々木はサインを出す。
「やはりカーブにしよう。ちゃんとコースに決まる時もあるし、急に投げなくなったら……向こうにあやしまれるものな」
村井はサインにうなずき、すぐに投球動作へと移る。右足を踏み込み、その指先からボールを放つ。
次の瞬間、佐々木は「あっ」と声を漏らした。インコース低めに投じたはずのカーブが、真ん中に入ってくる。
「……き、きたっ」
失投を逃さず、倉橋はバットを振り抜いた。
パシッと小気味よい音が響く。ライナー性の打球が、ジャンプした村井の頭上を破り、外野の芝の上で弾む。センター前ヒット。
「や、やった!」
ネクストバッターズサークルにて、谷口が小さく右こぶしを突き上げた。その後方で、ベンチの仲間達も湧き上がる。
「よし、これでノーヒットは脱したぞ」
横井が安堵の顔になる。傍らで、戸室が「さすが三番」と声を弾ませた。
「甘く入ったのを、逃さず打ち返したぜ」
ナイン達の声援は、やがて後続の谷口へと向けられる。
「つづけよ谷口」
「思い切っていきましょう!」
「スミヤの四番のおそろしさ、見せてやれっ」
一塁ベース上。倉橋は「やれやれ」と吐息混じりにつぶやく。
「初ヒットまで、長い道のりだったぜ」
傍らで、一塁コーチャーの高橋が「ナイスバッティングです」と声を掛けてくる。
「む。半田の読みどおりだが、こんな失投がくるとは」
「これで一気に行きたいところですね」
意気上がる一年生に、倉橋は「どうかな」と渋い顔で応えた。
「向こうの出方次第だ。カーブをねらわれてること、さすがに気づいてるだろうし」
マウンド上。佐々木が駆け寄ると、村井は「スマン」と苦笑いした。
「また真ん中に入っちまった。どうも今日は、制球がイマイチだな」
「すんだことはいいさ。それより……」
正捕手は後方に顔を向ける。次打者の谷口が、ちょうど右打席に入るところだった。
「つぎは四番だ。ここまでノーヒットとはいえ、いい当たりもされてる。明らかにカーブをねらわれてるし、他のボールにするか?」
エースは「いや」と、首を横に振った。
「速球とシュートも当ててきてる。ねばられると球数が増えるし、一本調子じゃますますねらい打ちされかねん」
おい、と佐々木は睨む目になる。
「だったら、ちゃんと制球しろよ。ここまで二本塁打のバッターなんだぞ。つぎあんなタマ投げたら、まちがえばフェンスを越されかねん」
「わ……分かってるって」
やや引きつった笑みを浮かべ、村井はうなずいた。
「プレイ!」
アンパイアのコール。右打席にて、谷口はバットを短めに握る。
「かならずカーブがくる」
そう胸の内につぶやいた。
「谷原のことだ。ねらわれていると分かれば、なおさらそのボールで打ち取ろうとするはず」
マウンド上。ほどなく谷原のエース村井が、セットポジションから投球動作を始める。
ズバン。快速球が、アウトローいっぱいに決まった。谷口は悠然と見逃す。続く二球目、またもアウトローに今度はシュート。僅かに外れ、ワンボール・ワンストライク。
谷口は一旦打席を外し、軽く素振りした。
「いまの二球は、探りを入れてきたな」
アンパイアに「どうも」と一礼して、打席に戻る。
「つぎこそ……」
三球目。ボールが村井の指先から放たれた瞬間、谷口は「きたっ」と目を見開いた。
読み通りのカーブ。しかし倉橋へ投げたように真ん中ではなく、インコース低めの厳しいコースに飛び込んでくる。
それでも谷口は、迷いなく強振した。バシッと小気味よい音が響く。
「な、なんだとっ」
マスクを脱ぎ捨て、佐々木が叫んだ。
鋭いライナー性の打球が、レフトフェンス際でワンバウンドして跳ね返る。それを視界の端に、谷口はバットを放り駆け出していた。
まず一塁ベースを蹴る。ハッ、ハッ……と心地よく息が弾んだ。まさに無我夢中で、谷口は二塁ベースに頭から滑り込んだ。その間、一塁走者の倉橋は三塁に到達。
ツーベースヒット、ノーアウト二・三塁。
「ようし、ついに流れを引き寄せたぞ!」
起き上がってユニフォームの土をはらい、谷口は強く右こぶしを握る。
「スゴイぞ谷口。あの村井から、長打を放つとは」
「いけ墨高、このままたたみかけろっ」
「さあチャンスだ。つづけよ島田!」
三塁側スタンドで、数人の観客達が興奮気味に言った。試合前半は静まり返っていた墨高応援団が、それまでの鬱憤を晴らすかのように盛り上がる。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ! かっとばせー、しーまーだっ。
大歓声の中、島田が右打席に入る。すかさず二塁ベース上の谷口から、手振りでサインが送られた。五番打者は「えっ」と、一瞬戸惑う。
「の、ノーサイン? カーブねらいじゃなく……あっ、そうか」
しかしすぐに、島田はその意図を察した。
「立て続けにカーブを打たれたもんで、そろそろ変えてくるってことか。それなら、ほかのタマに的をしぼりゃいいワケだ。ねらうとすれば……」
やがてセットポジションから、村井が投球動作を始める。右足を踏み込み、グラブを突き出し、そして左腕をしならせる。
ほぼ真ん中の速いボール。それがホームベース手前で、外へ鋭く曲がる。
「きたぞ、やはりシュート!」
島田はボールの軌道に逆らわず、バットを振り抜いた。
カキッ。低いライナーが、あっという間に一・二塁間を破る。その瞬間――三塁側ベンチの墨高ナイン、そしてスタンドの応援団が、一斉に立ち上がった。
「よしっ、抜けた!」
「タイムリーだっ」
ベンチのナイン達の声が、スタンドの観客達の「ワアッ!」という声に搔き消される。
谷原の右翼手が回り込み、ライト線寄りに転がる打球をシングルハンドで押さえた。その間、倉橋がゆっくりと生還。さらに二塁ランナー谷口も三塁を蹴り、一気にホームへ突進していく。
「くそっ」
強肩の右翼手が、直接バックホームした。ワンバウンドのストライク返球。キャッチャー佐々木が捕球し、そのままタッチへいく。だが差し出したミットの下を、滑り込んだ谷口の左手が潜り抜ける。
「セーフ、セーフ!」
アンパイアが二度、両腕を交差させた。
顔を上げ、谷口はフウと安堵の吐息をつく。一方、佐々木は唇を歪めた。さらにマウンド上では、村井が片膝を付く。
「まさかシュートも打たれちまうとは」
エースの視線の先。スコアボードの一枠がめくれ、墨高に「2」の数字が記された。
二点タイムリーヒット、二対三。墨高はついに谷原のエース村井から、この夏初めて得点をもぎ取り、一点差へと詰め寄ったのである。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】