「プレイボール2」谷原戦―幻の決着場面―
―― 墨谷対谷原の準決勝は、誰もが予想しえぬ展開となっていた。
まず八回裏。谷原が8点を奪う猛攻を見せ、大勢を決めたと思われた。
しかし続く九回表、今度は墨谷が猛反撃。どとうの単打攻勢でいっきょ6点、なんと同点に追いついたのである。
延長戦に入ると、試合はさらに激しさを増していく。
十回表。墨谷がついに1点勝ち越すも、その裏すかさす谷原が追いつく。その後は一進一退の攻防が繰り広げられ、十三回を終えて13対13という壮絶な試合となった。
さらに回は進み、十四回以降は互いに得点できず。そして――とうとう、十八回の攻防を残すのみとなったのである。
その十八回表。墨谷はツーアウト二塁と、久しぶりにチャンスを作る。バッターは2番丸井である。
「ハァ、ハァ……くそっ」
右打席にて、丸井は肩を上下させながら、短くバットを構えていた。視線の先には相手投手ではなく、二塁走者のキャプテン谷口が映る。
「ふつうの安打じゃダメだ。せめて外野の間を抜いて、ゆっくりですむように」
八回から継投とはいえ、強打の谷原打線に粘投してきた谷口は、疲労から足下がおぼつかない。走るどころか、立っているのがやっとの様子だ。
一方のマウンド上。谷原のエース村井も、息を荒げていた。グラウンド上の誰もが、もはや満身創痍の状態である。
「あの村井だって、もう限界なんだ。なんとかしねえと」
胸の内につぶやき、丸井は相手エースを睨む。
ほどなく村井が、投球動作へと移る。セットポジションから、右足を踏み込みグラブを突き出し、左腕を振り下ろす。
シューッと音を立て、速球が飛び込んでくる。
「……くわっ」
丸井は思い切りよく振り抜いた。ライナー性の打球が、センター頭上を襲う。味方ベンチが「おおっ」と湧きかける。
「ぬ、ぬけろ! ……あっ」
しかし谷原の中堅手が、背走しながらジャンプ一番、グラブに収めた。土壇場で飛び出した好プレーに、内外野のスタンドから拍手が起こる。
「くそう! ……って」
悔しさのあまり、丸井はバットを投げつける。勢い余り、そのまま尻もちをついた。
攻守交代。最後の守備につく墨高内野陣は、自然とマウンド上に集まる。その輪の中で、この回も続投する谷口は、膝に両手をつき顔を上げられない。
「お、おい。だいじょうぶかよ」
正捕手倉橋が、心配げに尋ねる。するとキャプテンは「心配するなって」と、顔を上げ微笑みを浮かべた。
「しかしだな」
「なに。どうせ、この回かぎりなんだし。それに……代われる投手もいないのだから」
谷口の返答に、さしもの倉橋も口をつぐむ。傍らの松川、イガラシ、井口。この日登板した者は、皆傷つき、自分の身を保たせるだけでやっとだ。
「……しゃーねえな」
溜息混じりに、倉橋は言った。
「もうこれで最後なんだ。悔いのない一球を、投げてこいよ」
「ああ、分かってる」
谷口は苦しげながらも、満ち足りた表情でうなずいた。
やがてタイムが解け、墨高ナインは守備位置へと散っていく。
眼前で、谷原の打者が左打席に入ってきた。しかし相手の顔が、ぼやける。握っていたロージンバックが、指先からすべり落ちる。
「くそっ。目が、かすんで……」
その時だった。
「ガンバレ谷口!」
スタンドから声がした。振り向くと、先輩の田所が小さく右こぶしを突き上げる。
「みんながついてる、思いきりいけっ」
田所に呼応するかのように、周囲からも歓声が沸き起こる。
「そうだ、いけ谷口!」
「谷原なんかに負けるなよー!!」
さらに応援の声は、グラウンド上にも広がる。
「打たせましょう。あとはバックが、なんとかします」
ショートのイガラシが声を張り上げる。その横で、丸井が「キャプテン、まかせてください」と泣き顔で叫ぶ。
「さあ、バックを信じて」
「気合でいきましょう!」
仲間達の声に、谷口は目を穏やかにした。
「み、みんな……ありがとう」
そして谷口は、投球動作へと移る。左足を踏み込み、グラブを突き出し……
カーン。谷原の打者が、真ん中の速球をフルスイングした。打球はレフト頭上を越え、フェンスに直撃する。打者は悠々と二塁へ到達。
「やはり……こりゃもう、ちと厳しいな」
倉橋はマスクを脱ぎ、小さくかぶりを振る。
「けど、ここまでチームを引っぱってくれたのは……谷口なんだ。ここまできたら、もうアイツの気のすむようにさせてやるか」
次打者に対して、谷口はまるでストライクが入らず。スリーボールからの四球目も、高めに大きく外れてしまう。
「ボール、フォア!」
アンパイアのコールと同時に、打者は一塁へ歩き出す。
ホームベース手前で、倉橋は腰に手を当て、うつむき加減になる。どうする……と、一人つぶやいた。
「もう一度タイムをかけるか? いや……ムダに時間を使えば、ますます谷口を疲れさせるだけだ。もう作戦も何も、ねえんだし」
むかえるは、谷原の四番佐々木だ。それでも倉橋は、ミットをど真ん中に構える。
「打たれたら、しゃーない。それよりも……ここは力のかぎり、投げこんでこい!」
その初球。痛烈なゴロが、マウンド方向へ打ち返された。そのまま谷口の、左足首を直撃する。激痛に、エースは一瞬膝をつく。
「……うっ」
「た、谷口!」
しかしエースは、膝をついたまま眼前のボールを拾うと、素早く一塁へ投じた。思いのほか速い送球が、一塁手井口のミットを鳴らす。
「アウト!」
一塁塁審のコールと同時に、スタンドから割れんばかりの拍手と歓声。
「ナイスプレーよ、谷口」
「おまえは男の中の男だぜっ」
谷口は安堵の溜息をつき、激痛をこらえ立ち上がる。そしてマウンドに向かいかけた倉橋を「いいんだ」と制す。そして背後の野手陣に顔を向けた。
「ワンアウト! あと二つ、がっちりいこうよっ」
キャプテンの掛け声に、こちらも疲労困憊なはずのナイン達が「オウヨ!」と、力強く応える。
カーン。今度は、セカンド頭上へのライナー。しかし丸井が高くジャンプして、グラブの先に引っ掛けた。
「……てっ」
そのまま土の上に転がった。二人の走者は、慌てて帰塁する。
「どうだ見たか!」
起き上がり、丸井は雄叫びを上げる。
「墨高を……谷口さんを、負けさせはしない!!」
後輩からの返球を捕り、谷口は微かな笑みを浮かべた。
ツーアウト二・三塁。立て続けの好プレーに沸き返っていた球場内が、ふと静寂に包まれる。六番打者が左打席に入るのを見届け、谷口もセットポジションに着く。
「さ、ここよ」
倉橋がサインを出し、またもミットを真ん中に構える。谷口は「む」とうなずき、しばし間を取ってから、投球動作へと移る。
左足を踏み込み、グラブを突き出し……その刹那だった。
「……あっ」
マスクの中で、倉橋は口をあんぐりと開けた。他のナイン達も「え……」と、その場にいる誰もが言葉を失う。
ガシャン。谷口の指先から放たれたボールは、倉橋の頭上を遥か高く越え、バックネットに当たった。
「し、しまった……」
倉橋が慌てて、ボールを捕りに走る。そして谷原の三塁走者が、まるで弾かれたように本塁へと突っ込んでいく。
「へいっ」
谷口は痛む足を引きずるようにして、本塁ベースカバーへ走る。倉橋がボールを拾うなり、すかさず送球した。
グラブを構える谷口。その体が次の瞬間、膝から崩れ落ちえる。
ボールは倒れ込んだ谷口の頭上をすり抜け、三塁側ベンチへ転がっていく。その間、谷原の三塁走者は頭から滑り込んでいた。
もう誰も、ボールを捕りにいく者はいない。
「セーフ、ゲームセット!!」
アンパイアの無情のコールが、激闘の終わりを告げた。
<完>