【目次】
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第30話 みんなの力で!の巻
1.谷口に恋人!?
川北撃破の四回戦から、一日が過ぎた。
墨高ナインは、誰一人として浮かれることなく、次戦へ向けて取り組む。来る日曜日には五回戦、さらに中二日で準々決勝が控える。
いっぽう昨年に続く野球部の快進撃に、学校中が湧いていた。今年はシード校となり、しかも強ごうの一角を打ち破ったことで、否応なく甲子園への期待が高まるのであった。
午前八時。生徒玄関前の掲示板には、人だかりができている。
――野球部五回戦進出! 強ごう川北破る!!
掲示板には、縦幅一メートル程度の壁新聞が貼られていた。そこに枠で囲われた大見出しが踊る。新聞部が作成したもので、野球部の活躍が写真付きで紹介されている。
「どいたどいた」
「はい、ちょっとすみませんね」
丸井は同学年の鈴木と一緒に、集団の中へ割り込む。人混みを掻き分け、どうにか掲示板の前に辿り着いた。そして「おおっ」と、目を見開く。
「す、すごい。ついおとといのことだってのに、こんなぎっしり……」
傍らで、鈴木が「そういえば」とつぶやいた。
「朝練習に来た時、クラスの新聞部のやつを見かけたなぁ。こんなに早くと思ったが、新聞を仕上げるためだったのか」
「へぇ……新聞部も気合入ってんな。うれしいじゃねぇか」
感心した丸井だったが、すぐに顔色を曇らせる。
「なんでぇ、俺っちの写真は使われてねーのか。谷口さんや倉橋さんはともかく、あとは松川やイガラシって。俺もけっこう、いいプレーしたのに」
「……ふあぁ、しゃーないさ」
鈴木が欠伸混じりに言った。
「じっさい目立ったのは、その四人だもの。とくにイガラシは、打って投げての大活やくだったし」
「けっ。最後にバッターを一人、しとめただけ……む」
ふと小見出しの一つが目に留まる。そこには「キャプテンの光るリーダーシップ」とあった。丸井は思わず、顔を近付ける。
「なになに……『試合の要所で、キャプテン谷口君の采配が光った。得点のチャンスを見逃さず、ピンチには冷静。彼のリーダーシップが、墨高を勝利に導いた』だと。ほえー、いいコト書いてるじゃありませんか」
数秒前の不機嫌から一転して、丸井は満面の笑みを浮かべた。
「どこの誰がか知らないが、よく分かってらっしゃる。やっぱり世の中、見てる人は見てるものだねぇ……ウンウン、ぐすん」
なんだか泣けてきた。尊敬する谷口を褒められると、なによりも嬉しい。
「……お、オメーな」
鈴木が呆れ顔になる。
「スネたり笑ったり泣いたり、忙しいやっちゃな」
「ほっとけ」
その時、なぜか周囲がわざめき出す。
「……おい。あれって、野球部の丸井と鈴木じゃないか」
「こっそり見にきたのね。二人とも、なんて奥ゆかしいのかしら」
ひそひそ話す声も聴こえてきた。まるで有名歌手でも見かけたような反応に、丸井は赤面してしまう。鈴木と一緒に、おそるおそる振り返る。
他の生徒達が、温かな眼差しを向けていた。
「……へ、へへっ」
「どうもどうも」
二人は照れ笑いを浮かべ、ついうつむき加減になる。その眼前で、応援団の三年生らしき男子生徒が、すっと進み出る。
「ガンバレよ野球部。おまえ達は、われわれの誇りだ」
そしておもむろに、彼は「せーの」と合図する。すると他の生徒達が、一斉に大きく掛け声を発した。
「フレーフレー墨高。フレッフレッ墨高、オーッ!」
掛け声が終わると同時に、拍手と歓声が湧き起こる。
「応援してるって、他のメンバーにも伝えてくれ」
「つぎの試合が楽しみだぜ」
「負けるなよ。こうなったら、いっそ甲子園だ!」
二人は照れながら、並んで「ありがとうございます」と深く会釈する。そして逃げるように、玄関へと駆け出した。
「いやぁ……知らないうちに、こんな盛り上がってたとは」
廊下を歩きながら、丸井は吐息混じりに言った。
「む! しかし、ああして注目されるのも、いいもんだな」
鈴木が傍らで、にやけ面になる。
「そのうち女の子から、ラブレターなんかもらっちゃったりして。ムフフ」
「こら、ばか言ってんじゃねーぞ鈴木」
暢気な同級生を窘める。
「谷口さん言ってたろ。これから相手はどんどん強くなる、少しでも気を抜いたらやられちゃうぞって。だいたい、オメーはもちっと精進しねぇと、来年も試合に出られ……」
ところが、鈴木はもう話を聞いていなかった。ふいに「ちょっと丸井」と、こちらのワイシャツの袖を引っ張る。
「なんだよっ、人が話してる時に」
「あ、あれを見ろよ」
相手は目を丸くして、囁くように言った。
「なんだよ。ったく……え、ええっ!」
つい声を上げてしまい、丸井は慌てて口元を覆う。
手前の角を曲がると、十数メートル先に図書室がある。そこに谷口が、一人の女子生徒と向かい合わせで立っていた。
「……た、谷口さん。なにを」
丸井は目眩を覚える。まるで脳天を思いきり殴られたような気分だった。
「まさか、あの人って……谷口さんの恋人?」
その女子生徒は、肩までの髪、くっきりとした目鼻立ちの聡明そうな容貌である。なにやら話しながら、時折笑顔がこぼれる。一方の谷口は、頬を赤らめ明らかに照れた様子だ。
「さっすが谷口さん。やはりキャプテンともなると、モテモテだぁ」
おどけた口調で、うなずく鈴木。丸井は「そんなばかな」と、大きくかぶりを振る。
「まだそうと決まったわけじゃ。だいたい、谷口さんは恋なんてガラじゃ」
「そりゃオメ、失礼じゃないか」
澄ました顔で、鈴木は言った。
「谷口さんだって、男だもの。恋ぐらいするだろうさ」
ぐっ、と丸井は声を詰まらせる。確かに否定できない。
その時だった。背後から一人の足音が近付いてくる。やがて「なにしてるんスか?」と、馴染みのある声が降ってきた。
振り向くと、そこにイガラシが立っていた。
「どうしたんです、二人とも。そんなところでコソコソしちゃって」
「おい、シーッ!」
丸井は慌てて、口の前に人差し指を立てた。
「は、はぁ」
声を潜め「あれを見ろよ」と、前方をちょんちょんと指さす。
「あれって……む、そういうことですか」
後輩は、くすっと笑みを浮かべる。
「へぇ、きれいな人じゃないですか。やるなぁ谷口さん」
そう言って、すぐ真顔に戻る。
「で……どうして丸井さんが、そんなにうろたえてるんです?」
「どうしてって、そりゃオメ……ええと」
つい口ごもってしまう。イガラシの言うように、自分が狼狽える謂れはないのだ。仕方なく、もっともらしい理由を述べる。
「あ、ほら。いまチームにとって、大事な時期だろ。恋にうつつを抜かして、野球に集中できないようなことがあったら、困るじゃねーか」
「……ふむ、なるほど」
意外にも、イガラシはあっさり納得した。
「それは言えてますね」
「だ、だろっ。もちろん俺だって、人の恋路をジャマするほど野暮じゃねーが。谷口さんには、ちゃんと大事なことを忘れずにいてほしいのよ」
「ええ、よく分かります」
一つうなずき、イガラシは飄々と答える。
「でしたら……ぼくの方から、いま谷口さんに伝えてきます。キャプテンが野球に集中できるかどうか、丸井さんが心配してましたよって」
「わーっ、ばか!」
前に出ようとする後輩を、丸井は慌てて制した。
「オメ……そりゃちと、野暮ってもんだろ」
「は、はぁ」
イガラシは鈴木と目を見合わせ、肩を竦める。そして「あれ?」と、ふいに視線を宙に泳がせた。
「急にどしたい」
「あの人、どこかで見たおぼえがあるんスよ」
意外な返答に、丸井は「えっ」と目を丸くする。
「なんでぇ、おまえの知り合いかよ」
「いえ。知り合いというほど、よく顔を合わせてたわけじゃないはずですけど。はて、どこで見かけたんだっけな……」
しばし腕組みして考えた後、イガラシはふいに「丸井さん」とこちらを見やる。口元にフフと、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「やはり、気になっちゃいますか?」
「どーいう意味だ。こんにゃろ、また人をからかいやがって」
「人聞きの悪い。それによしましょうよ、こんな所で」
「テメーが余計なことぬかすからだろう」
ついムキになってしまう。
「おい丸井、どしたんだ。廊下で大声なんか出したりして」
「どうしたもこうしたも……むっ」
声の主がイガラシでないことに、丸井はハタと気付く。
「なんだい三人とも。こんな所で、コソコソしたりして」
恐る恐る振り返ると、そこに当の谷口が立っていた。
「あ……き、キャプテン」
「なにやら深刻そうに見えるが。よほどの心配事でもあるのか」
「は、はい。ちょっと野球のことで」
「なるほど。俺でよければ、相談に乗るぞ」
「ええっ……い、いえ」
親切な谷口の提案に、丸井はますます慌てる。
「もう平気です。ちゃんと自分達で、解決しましたからっ」
「む、ならいいが。しかし……前向きな丸井がそこまで悩むなんて、めずらしいな」
傍らで、イガラシと鈴木がどうにか笑いをこらえている。
「いったい、どんな悩みだったんだ?」
キャプテンは、なおも怪訝そうに問うてくる。
「きっ昨日のミーティングを、振り返ってたんですよ」
頬を引きつらせ、丸井は苦し紛れに言った。
「どんどん相手も強くなることだし、自分達のやるべきことに集中しよう。人のことを詮さくしてるヒマはないぞって」
「そ、そうだな」
谷口が苦笑いを浮かべる。その横で、イガラシと鈴木は「あーあー」とずっこけた。
放課後、いつものように全体練習が始まった。
すでにランニング、ストレッチ、キャッチボールとこなし、いまはランナーを置いてのシートバッティングが行われている。
「つぎは、ツーアウトランナー一塁だっ」
キャッチャー倉橋が、内外野に散るナイン達へ声を掛ける。
「この状況で、気をつけるべきことはなんだ?」
「捕った後の判断だろう」
正捕手の問いかけに、いまはショートを守る横井が即答する。
「ツーアウトだと、走者はバッターが打つのと同時にスタートを切る。判断が遅れれば、つぎの塁へカンタンに進まれちまう」
それに、とサードに着く岡村が意見を付け足す。
「内野ゴロなら、二塁フォースアウトをねらうか、すぐ一塁へ投げるかという判断も早くしないと。少しでも迷ったら、オールセーフにされちゃいます」
「そのとおりだ。二人とも、よく分かってるじゃねーか」
倉橋はうなずきながらも、厳しい顔つきのまま言った。
「しかし実際に動けなきゃ、意味ねーぞ。これは全員に言えることだからな」
ナイン達は「おうよっ」と快活に応える。
「よし。じゃあいくぞ……谷口?」
正捕手の傍らで、キャプテン谷口がうつむき加減に立っている。倉橋に呼ばれ、ようやく「え……ああ」と顔を上げた。
二塁ベース横。やっぱりヘンだ、と丸井は胸の内につぶやく。
谷口さんたら。いつもなら、もっとみんなを引っぱってくれているのに。それが今日は、さっきから口数も少ないし、あんなふうにうつむいちゃったりして。やっぱり、あの子のことを……
カキッ。ライナー性の打球がややスライスしながら、ライト線に落ちる。丸井は中継に走った。長打コースの打球。右翼手の鈴木が、回り込んで押さえた。
「へいっ」
丸井の掛け声と同時に、鈴木が返球してくる。ところがボールは高く逸れ、二塁ベース付近まで転々とした。丸井は「あちゃー」と慌てて追いかける。その間、ランナー役の一年生高橋が楽々と生還した。
「こら鈴木! きさまどこ投げてんだっ」
すかさず倉橋の檄が飛ぶ。
「ゼイゼイ……す、スミマセン」
息を弾ませつつ、鈴木は苦笑いした。
「慌てちゃって、つい」
「言い訳してんじゃねぇ。いまのは二・三塁で止めなきゃいけない場面だぞ。中継プレーの送球は正確にいけと、何ベン言ったら……」
その時、谷口が「少しいいか」と割って入る。
「鈴木。おまえは長打の時の中継プレーで、送球が乱れるクセがある。慌てるのは無理もないが、せめてカットマンが処理できるように、低く投げるのを意識してみろ」
「低く投げる、ですか?」
「そうだ。頭を越されたらどうにもならんが、バウンドの送球なら、ゴロさばきの上手い丸井がなんとかしてくれる」
「は、はいっ」
谷口の助言に、鈴木が安堵の顔になる。どうやらノーバウンドで投げなければという気持ちが、動きを硬くしていたようだ。
へへっ、ゴロさばきが上手い……かぁ。
丸井はつい顔がにやけてしまう。思いがけず谷口にほめられたのが、内心うれしくてたまらないのだ。
「……よし。鈴木、丸井。いまの打球、もう一度いくぞ」
キャプテンの掛け声に、二人は「はいっ」と声を揃える。
カキッ。再びライナー性の打球が、ライト線へ。鈴木は回り込むと、今度はワンバウンドながら捕りやすいボールを返した。その間、ランナー役の高橋が三塁を回る。中継の丸井は、すかさず本塁へ送球した。
ホームベース上のクロスプレー。高橋の滑り込んだ右手を、倉橋のミットが阻む。
「アウト! 鈴木、いまの送球はよかったぞ。丸井もナイスプレーだ」
キャプテンに褒められ、鈴木は「ど、ドウモ」と顔をほころばせた。
「ばーか。調子にのんなよ」
同級生を軽くにらんだ後、丸井はひそかに胸を撫で下ろす。
あいかわらず的確なアドバイス。なんにしても、よかった。やっぱり谷口さんは、こうでなくちゃ……って、あり?
安堵しかけたのも束の間、ふいに谷口が深く溜息をついた。
た、ため息? やっぱりヘンだぞ。まさか谷口さんに限って……恋にうつつを抜かして、野球に集中できないだなんて。
「丸井さん。なにボーッとしてるんですか」
声を掛けてきたのは、イガラシだった。どうやら横井とショートを交替したらしい。
「余計なことを考えている間に、つぎが来ますよ」
「む……ああ、分かってらい」
カキッ。高いバウンドの打球が、セカンドのほぼ正面に飛ぶ。丸井は「まかせろっ」とダッシュし、ボールを難なくグラブに収めた。しかし二塁へ転送しようとした瞬間、その右手からぽろっとボールがこぼれ落ちる。
「れ……ハハ、俺っちとしたことが」
丸井は赤面しながら、ボールを拾い直した。
「ほら、言わんこっちゃない」
二塁ベースカバーに入っていたイガラシが、口元を緩めつつ言った。明らかに笑いを堪えている。
て……てやんでぇっ、ヒトの気も知らねぇで。
胸の内で毒づきながらも、プレーに集中を欠いていたことは確かなので、なにも言い返せない。バスンと左手のグラブを叩き「さあこいっ」と気合を入れ直す。
2.恋人(?)の正体
全体練習の後。ナイン達とトンボ掛けをしつつ、谷口は周囲に呼びかけた。
「これから部室にて、ミーティングを行う。個人練習はその後にしてくれ」
「ミーティングって、次戦に向けてか?」
戸室の質問に、キャプテンは「そうだ」と首肯する。
「これから相手が強くなるのはもちろん、自分達のコンディションを整えることも重要になってくる。その辺も含めて、しっかり確認しときたいからな」
はいっ、とナイン達は返事した。
「すまんが、みんなは先に集まっててくれ。俺はちょっと打ち合わせてくるから」
谷口はそう告げて、一足先にグラウンドから引き上げていく。そしてトンボを倉庫横の籠に戻し、校舎へと向かう。
「む……打ち合わせって、誰と」
二塁ベース付近を均しつつ、丸井は言った。
「そりゃ半田だろ」
傍らで加藤が答える。
「もうじき帰ってくる頃だろうし」
「れ……そういや半田のやつ、見かけてねぇな。ハラでも下してんのか」
「は、はぁ?」
加藤が困惑した顔になる。
「偵さつに決まっているだろう」
三遊間付近を均していた横井が、やや呆れ顔で言った。
「聞いてなかったのか。今日うちと八強を争う三山と明善が、四回戦に臨むんだ」
「えっ。ああ、そうでしたね」
ぽかんと口を開けてしまう。言われてみれば、誰かがそんな話をしていた気がする。きっと上の空だったのだろう。
横井が「どしたい丸井」と、背中を軽く小突いてくる。
「てっ」
「なんだかさっきから、ソワソワしやがって」
「ど、ドウモ」
苦笑いするほかない。周囲の何人かが「プクク」と吹き出す。
ほどなくナイン達は、トンボを片付け部室へと集まった。長机を二つ中央に引っぱり出し、各自椅子に腰掛ける。
「よっこいせーと」
丸井は、同学年の加藤と鈴木の間に座った。向かい側にはイガラシや久保、井口ら一年生メンバーが並ぶ。
「そういやぁ……けっきょく半田のやつ、どっちを見に行ったんだ」
左端の席で、戸室が何の気なしに言った。
「たしか同じ時間に、別会場だったろう」
む、と隣の横井がうなずく。
「直近でぶつかりそうなのは三山だが、俺は明善の方が気になる。なんたって昨夏、うちが負けた相手だし、あの東実も倒してる」
「たしかに明善は、不気味ですね」
同意したのは、昨夏からレギュラーの島田だった。
「メンバーの入れ替わった秋も、しっかり決勝に進んでましたから」
「もっとも勝ち上がりは、組み合わせにもよるぞ」
加藤が渋い顔で、口を挟む。
「それに侮れないのは、三山だって同じだ。もともと四強に迫るくらいの強ごうだし、昨夏は専修館に大敗したものの、秋には八強入りしてシードをとってる」
「……し、しっかし」
溜息混じりに言ったのは、一年生の久保だった。
「高校野球ともなれば、やはりスケールがちがいますね。谷原や東実だけじゃなく、ちょっと手を伸ばしたら甲子園へ手の届きそうな実力校が、ウヨウヨ」
「な、なぁに」
戸室が口元で微笑む。
「そこまで気負うこともないさ。たしかにツワモノぞろいだが、しっかり対策してのぞめば、いまのうちなら五分以上の勝負に持ちこめる」
「……ええ、それは認めますがね」
やや難しげな顔で、イガラシが割って入る。
「戸室さんの言うように、ちゃんと対策さえすれば、もうどことでも十分やれると思います。ただ問題は……その時間が、今後どれくらい取れるかって話ですよ」
「ああ、そうか」
後輩の鋭い指摘に、横井が頭を抱えた。戸室は「急にどしたい」と訝しむ。
「忘れたのか戸室。昨年うちが明善にやられたのは……相手どうこうより、こっちが準備できてなかったからだろう」
「む。そ、そういやぁ」
戸室も思い出したようだ。
「あんときゃ聖稜と専修館をうっちゃった時点で、みんな疲れ果てて、とてもつぎを考える余裕はなかったものな」
「それに、まえも言ったが……今年もあまり条件は変わらないぞ」
一つ吐息をつき、横井は話を続ける。
「どうしても大会が進むにつれて、つぎの試合までも感覚が短くなっていくからな。じっくり対策する時間は、もうそんなに取れない。じっさい昨年は、専修館をやっつけるのに手一杯で、明善のことはまるで調べられなかったし」
「それだけじゃありませんよ」
イガラシがまた口を挟む。
「四強クラスの中でも……やはり谷原と東実は、別格です。この二校と戦う準備は、他チームへの対策と同時に進めないと。偵さつするにしても、一試合や二試合では情報がたりないでしょう」
たしかに、と横井は首肯する。
「そうなると、いままでみたく半田にすべてまかせるのも、ムリがあるってことか。といって大会序盤のように、みんなで手分けして偵察つうのも、ちとムズカシイぜ。なにせ自分達の練習もあるからな」
大多数の者が「ううむ」と考え込む仕草をした。どうやら簡単な状況でないことを、誰もが感じ取ったらしい。
その時、パタンと部室のドアが開く。
「す、スマン。みんな待たせたな」
ようやくキャプテン谷口が戻ってきた。
「おかえりなさい。れ……半田は?」
丸井が首を傾げると、谷口は「それがな」と苦笑いする。
「ついさっき部長に聞いたが、半田から遅くなると電話があったらしい。なんでも、前の試合がだいぶ長引いたようだ」
「そ、そういやぁ」
思い出したように、加藤が発言した。
「けっきょく半田のやつ、どこの偵さつに行ったんですか」
「明善のゲームだ」
谷口は答えた。
「なんたって昨夏負けているし、新チームになってからも上位に顔を出してる。優先度としてはこっちだと判断した」
「しかし直近で当たるのは三山ですよ。そこもシード常連ですし、侮らない方が」
もっともな加藤の質問だ。谷口は「分かってるさ」とうなずき、意外な言葉を返す。
「だから三山の方は、べつで頼むことにしたよ」
「べ、べつでって……」
訝しげな加藤をよそに、谷口はふいにドアの方へ歩み寄る。
「さ、どうぞ入ってください」
キャプテンの思わぬ一言に、ナイン達はざわめいた。そして再びドアが開く。
「……む、ああっ」
丸井は、思わず声を上げた。
部室に入ってきたのは、今朝がた図書館前にて谷口と親しげに話していた、あの女子生徒だった。さらに彼女の背後から、別の女子生徒と男子生徒が二人ずつ続く。
件の女子生徒は、ふと丸井に視線を向ける。そして微笑みかけた。
「久しぶりね、丸井君」
「あ、ドウモ……へっ?」
つい妙な声を発してしまう。谷口の恋人かもしれない女子生徒が、なぜ自分の名前を知っているのか。頭がまるで追い付かない。
「みんなに紹介しておこう」
右手を差し出すようにして、谷口は言った。
「こちら、新聞部のみなさんだ」
言われてみれば、五人とも左腕に「新聞部」の腕章を巻いている。
「なんだ丸井、おぼえてなかったのか」
キャプテンは少し困ったような顔をした。
「ほら墨二時代、インタビューしに来てくれた」
「え……あっ、そういやぁ」
ようやく思い出す。女子生徒ともう一人、メガネの男子生徒の面影が、中学時代の記憶と重なった。二人の真っすぐな質問に、谷口がタジタジになっていた姿が印象的だ。
「うむ、それで見覚えがあったのか」
真向いの席で、イガラシが両手をポンと鳴らす。
「なるほどキャプテン、考えましたね。新聞部に偵さつの協力を頼むなんて」
ああ……と、ナイン達から吐息混じりの声が広がる。
「そのとおりだ」
口元に笑みを浮かべ、谷口は言った。
「以前にも話したように、ここからは時間との戦いだ。きわめて短期間のうちに、続けて実力校と当たる。この状況から、うちの部員だけで偵さつするのは、ちとムズカシイ」
そこで……と、キャプテンは新聞部の五人に顔を向ける。
「彼らに協力してもらえないかと思ったんだ。こと調べものに関しては、数段長けている人達だからな」
「け、けどよ」
横井が唇を尖らせる。
「その人ら、野球はズブの素人じゃないか」
「なにを言ってる。みんな、今朝の壁新聞を読んだろう」
すかさず谷口は反論した。
「横井、おまえも絶賛してたじゃないか。記事を書いた人は、野球をよく知ってると」
「え……そうなの。あの新聞は、君達が作ったのか」
「鈍いやつめ、いまごろ気づいたのか」
傍らで、戸室がからかう。
「う、うるせぇよ」
ムキになる横井を「まぁまぁ」と宥め、谷口は話を続けた。
「俺もあれを読んで、驚いたよ。こっちが教えてもいないのに、試合のポイントをよくつかんでいたから。そこでひらめいたんだ」
「ほんとタイミングがよかったわね」
女子生徒は、口元を抑えクスクスと上品に笑う。
「こちらとしても、つぎは直接インタビューさせてもらいたいと考えてたもの」
インタビューという言葉に、ナイン達から「おおっ」と声が漏れる。
「かっくいい。まるでプロ野球のスターみたいスね」
「む! みんなから、キャーキャー言われたりして」
根岸と鈴木が目を見合わせ、にやけ面になった。丸井は「バーカ」と窘める。
「ほう、交換条件というわけか」
感心げに言ったのは、倉橋だ。
「偵さつを手伝ってもらう代わりに、こっちも取材に協力すると」
谷口は「ああ」とうなずき、ふと苦笑いを浮かべた。
「もちろん……こういうこと頼むのは初めてだし、心配もあった。いまからでも部員の誰かを球場へ行かせようかと、実はさっきまで悩んでたよ」
あっ、と丸井は小さく声を上げた。谷口が練習中、ずっと上の空だった理由が、ようやく腑に落ちる。少なくとも恋にうつつを抜かしていたわけではないらしい。
「丸井さん」
呼ばれて振り向くと、イガラシがおどけた口調で言った。
「よかったですね」
「ど、どーいう意味だよっ」
こちらの胸の内を言い当てられ、ついムキになる。傍らで、谷口が「なんの話だ?」とでも言いたげに、首を傾げた。
「……ウフフ、それじゃあ」
女子生徒がまた上品に笑い、思わぬ一言を告げる。
「交渉が成立したところで。さっそく……キャプテン谷口さんに、インタビューをお願いしようかしら」
「え、ええっ」
谷口は分かりやすく、頬の辺りを引きつらせた。
「まだなにも、考えてませんが……」
「あら、そうかしこまらなくてもよくってよ。谷口さんの、キャプテンとしての率直な胸の内を聞かせてもらえたら」
「……は、はぁ」
赤くなるキャプテンに、周囲から「ププッ」と笑い声が漏れる。
「では。まず今大会の目標を、聞かせてください」
「も、目標ですか……ええと。みんなでがんばって、甲子園へ行くことかな」
「あなたが入部してから、野球部は一昨年が三回戦、昨年が準々決勝進出と、着実に力をつけてきています。その秘訣を教えていただけますか」
「ぼ、ぼくだけの力じゃありません。みんなでがんばったからです」
女子生徒は「なるほど」と手帳に記しつつ、質問を続ける。
「この先も強敵との対戦が続きます。厳しい試合を勝ち抜いていくために、どのような心構えが必要になってくるでしょうか」
「そうですね。まずは……しっかり相手を研究することと、がんばって練習すること」
谷口の返答に、女子生徒は眼鏡の男子生徒と目を見合わせる。そして二人とも「フフフ」と吹き出した。
「な、なにかおかしいかい」
「だって谷口さん。がんばる、がんばるって……中学の時と、言うことがちっとも変わらないですもの」
「あっ……」
キャプテンはさらに赤面し、うつむき加減になる。
「ぷっ、ククク……ヒャハハハ」
「も、もうダメ。くるしー」
ナイン達はとうとう堪えられなくなり、腹を抱えて笑い転げた。
3.ありがとう
「ただいまぁ。遅くなりました……れ?」
ちょうど谷口へのインタビューが終わったタイミングで、制服姿の半田が帰ってきた。まだ笑いが止まらないチームメイト達を、訝しげに見やる。
「みなさん、どうかされましたか?」
「い、いいんだ。なんでもない」
谷口は苦笑い混じりに言って、一つ咳払いした。
「それより……全員そろったことだし、いよいよ三山戦について話そうか」
次戦の話になってことで、ようやくナイン達は表情を引き締める。
「では、ぼくの方からお伝えします」
すでに腰掛けていた新聞部員のうち、眼鏡の男子生徒が立ち上がる。彼もまた墨谷二中出身であり、かつて件の女子生徒と一緒に、谷口へインタビューしに来ていた。
「ええと、これお借りしますね」
男子生徒は、チョークを手に告げる。
「三山高の特徴として、投打ともにオーソドックスな野球ということが言えます。まずピッチャーについてですが……」
こう切り出すと、黒板にポイントを記しつつ話を進めた。相手投手の利き腕、身長、球種、癖。ただ細かいというだけでなく、そのどれもがまさに必要としていた情報であることに、ナイン達は驚きを隠せなかった。
「つぎに、三山の攻撃面ですが」
さらに解説は続く。
「打者一人一人の分析については、先ほど谷口さんに資料をお渡ししたので、そちらをご覧ください。全体的な特徴としては、まず左バッターが多いのと、上位下位ともにパワーヒッターがそろっているということが言えます」
「そのわりに……ここまでの四戦、得点じたいは少ないようだけど」
手帳を広げ、半田が質問を挟む。
「さすが半田君。よく調べていますね」
相手は、素直に感心して言った。
「パワーヒッターが多いせいか、どうしても振り回しがちで、やや確実性に欠けます。とくに左投手が相手になると、打ちあぐねる傾向があるようです」
左投手というフレーズに、ナイン達の視線が井口へと集中する。当の本人は「フン」と鼻を鳴らす。次戦は、彼が先発予定になっていた。
「さて……こちらからの説明は、以上ですが」
チョークを置き、男子生徒はこちらに向き直る。
「なにか、ご質問はありませんか?」
「……じゃあ、一ついいですか」
まず挙手したのは、イガラシだった。
「先ほど、三山のピッチャーは、あまりインコースへ投げてこないと言ってましたけど。たとえば得点圏にランナーがいたり、中軸打者を迎えたりした時など、状況によってちがいはないのですか」
「なるほど、よい指摘ですね」
相手は微笑んで言った。
「たしかに今日の試合では……得点圏にランナーを置いた時、何度かインコースにも投げてました。ただそこへコントロールするのは苦手なようで」
「ほう……苦手、ですか」
「ええ。それで死球を与えたり、甘く入って痛打されたりしていました」
それでかぁ、と半田が小さく声を上げた。
「三山のピッチャー、あまり防御率はよくないもの」
「ふむ。タマは速いが、コースによって制球がばらつくタイプということですね」
イガラシも納得してうなずく。
その後、男子生徒はもう数名の質問に答えた。ナインとのやり取りが済むと、谷口は立ち上がり「ありがとう」と礼を述べる。
「まさか、ここまで調べてくれるとは思わなかった。ほんと感謝します」
「い、いやぁ。谷口さんに渡してもらったチェックリストが、役に立ったんですよ」
相手は照れ笑いを浮かべ、谷口から渡されたというチェックリストを取り出した。
B5サイズ程度のメモ用紙に、項目がびっしりと記されている。あまりの多さに、ナイン達の多くはぎょっとした。横井がじとっとした目をキャプテンへ向ける。
「俺らでもアタマ痛くなりそうなのを、よくもまぁ野球部でもない者に」
谷口は「アハハ」と、バツの悪そうにうつむいた。
ほどなく新聞部メンバーは、野球部の部室を後にした。
すでに五時半を回っている。この後は各自が散って、それぞれの個人練習に当てる時間となっている。
「……もう一つ。今後の練習について、いまで話しておこう」
ナイン達の前に立ち、谷口はそう告げた。
「明日から、バッティング練習を二部に分けて行う。一部目は通常の距離。そして二部目は、三メートル短くする」
なるほど、と倉橋がうなずく。
「やはり直近の試合へ向けた準備と、並行してやっていくしかないか」
「へ……並行してって、なにを」
井口が呑気そうなに言った。すぐに「マヌケめ」と丸井が窘める。
「谷原と東実をやっつける準備に、決まってるだろ」
途端、周囲がざわめく。谷口は「そうだ」と首肯した。
「かりに準々決勝を突破したとして、つぎの谷原戦まで中二日しかない。しかも準決勝と決勝は、連戦になる。同時に進めていかないと、間に合わないんだ」
「……そ、それについてですが」
おずおずと挙手したのは、半田だった。
「一部目は三山じゃなく、もう明善戦の対さくを始めるべきだと思います」
ほう、と谷口は小さく吐息をつく。
「明善のピッチャー、そんなによかったのか」
「ええ。あの……昨年ぼくらが負けた時のエースと、よく似てるんです」
「うわっ、例のクセ球を投げてくるタイプか」
横井が溜息混じりに言った。墨高は昨夏、明善のエースの癖球を最後まで打ち崩せず、零封を許している。
「はい。明日くわしく説明しますが、いまのエースもかなり打ちづらそうでした」
そう言って、半田はつぶらな瞳をパチクリさせる。
「それに……三山に関しては、新聞部の人の話を聞く限り、特別な対さくは必要なさそうだなって。いまの墨高なら、普通にやっても打ち崩せそうですし」
「うむ。よし……分かった」
後輩の助言に、谷口は即決した。
「さっそく明日から、明善の対策も始めよう。片瀬」
ふいに呼ばれ、端正な顔立ちの一年生は「は、はい」と戸惑いの声を上げる。
「一番タイプが近いのは、おまえだ。頼むぞ」
「わ、分かりました」
しかしキャプテン、と加藤が尋ねる。
「いろいろやりすぎたら、こっちのバッティングフォームを崩しちゃうんじゃ」
「うむ。たしかに、その危険はある」
谷口は、あっさり認めた。
「練習だけじゃない。この先、ケガしたり調子を落としたりで、ほんらいの力が出せない者も出てくるだろう」
やや語気を強め、キャプテンは言った。
「だからこそ……みんなで力を合わせて、戦うんだ」
迫力ある言葉に、ナイン達は静まり返る。
「幸いにして、うちは昨年よりも選手層が厚くなった。たんに頭数が増えたというだけじゃなく、誰もが自分のやるべきことを理解して、日々取り組んでいる。われわれの強みを、いまこそ生かすんだ」
やらなきゃね、とイガラシが渋い顔でつぶやく。
「できること全部やっても、敵うかどうか分からない相手なんですよ。どんなに難しかろうが……やらなきゃ、悔いが残るだけでしょう」
「そうだ、その意気だ」
軽くこぶしを握り、谷口は全員に顔を向けた。
「みんなも、そのつもりでいいな?」
ナイン達は、声を揃えて「おうよっ」と応える。
「……うーむ、それにしても谷口」
ふと横井が、頭を抱えて言った。
「さっきの言葉、なんで新聞部の人に言わなかったかね。いい見出しになったのに」
あっ、と谷口はずっこける。周囲がまた「プクク」と吹き出す。
やがて一旦解散となり、ナイン達は個人練習の準備を始めた。ある者は用具を外へ持ち出し、またある者はランニングシューズに履き替える。
谷口は、部室を出ようとする一人の男を呼び止めた。
「戸室、スマン。ちょっといいか」
「お、おう」
気のいい戸室は、やや戸惑いながらも、こちらに歩み寄ってくる。
「どしたい谷口」
「……悪いな戸室。ここまで、あまり試合に出してやれなくて」
ハハ、と戸室は笑い声をこぼす。
「なんでぇ、そんなことか」
肩が弱いという難点はあるものの、この戸室も十分レギュラーの資質を有している。ただイガラシをショートで起用する関係で、外野はどこでも守れる横井をレフトに回さざるを得ず、必然的に戸室が割を食う形となっていた。
「って、まさか。気にしてたのか」
問い返され、思わず口をつぐむ。
「あ……あのな、谷口」
声を明るくして、戸室は言った。
「このさい、ハッキリ言っておくけどよ。うちの野球部が、甲子園だなんて大それたこと口にできるようになったのは、おまえのおかげだ」
口元に笑みを浮かべ「俺はそう思うぜ」と付け加える。
「いや。それはみんなが、がんばってくれたから」
「この期に及んで、謙そんはよせって」
苦笑いして、相手は話を続ける。
「ま、だから俺としては……おまえの好きなようにやって欲しいってこった。俺だけじゃなく、倉橋も横井も、みんなそう思ってるだろうぜ」
「……うむ。分かった」
谷口は微笑んで応える。
「ありがとう、戸室」
「よせやい。照れるじゃねーか」
首を横に振りながらも、戸室は嬉しそうに笑った。
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