南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第49話「不穏な決勝戦の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  

 

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<外伝> 

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 第49話 不穏な決勝戦の巻

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1.満身創痍の墨高ナイン

 

―― 神宮球場は、この日も大勢の観客がつめかけていた。

 夏の甲子園出場をかけた東京都大会も、いよいよ決勝。墨谷対東実の一戦を残すのみである。

 東京上空は、ここ数日の快晴から一変して、分厚い雲におおわれていた。どこか遠くで、雷鳴も聞こえてくる。なにやら不穏な雰囲気の漂う試合前だ。

 

 

「はい、押さないで押さないで」

「一塁側観客席入り口は、こちらですよ」

 球場周辺では、係員達が観衆の波に吞まれそうになりながらも、必死に声を張り上げている。

「そこの兄ちゃん、チケットを見せておくれ」

「ああ、はいよ」

 そして一塁側スタンド。まだ試合開始まで間があるというのに、客席はすでに大多数が埋まっている。

「母ちゃん、ここでいいだろう」

「ええ。あたしゃ、どこでもかまやしないけど」

 客席の最上段。その右隅の二席に、谷口夫婦は腰を下ろした。

「しかしこれ、一雨(ひとあめ)きそうだね」

 母はそう言って、足下に傘を置く。

「きのうまで、あんなに晴れてたってのに。やだねえ」

「だったら、きのう来りゃよかったのに」

 父は大工の鳶服姿で、苦笑いする。

「えれえニュースだったんだぞ。初めてシード校になった墨谷が、春の甲子園4強の谷原を倒したって」

「そんなことは、どうだっていいんだよ」

 熱っぽく語る父に、母はあっさり言い放つ。

「ど、どうでもいいって……」

「あたしゃ、あの子が心配なんだよ」

 母は溜息混じりに言った。

「きのうも夜遅く帰ってきてたじゃないか。しかもひどく疲れ切って。おまけに夜中近くまで、机に向かって『おれがやらなきゃ』とかブツブツつぶやきながら、思いつめた顔しちゃってさ」

「なに、心配いらねーよ」

 父は立ち上がり、へへっと笑い声を漏らす。

「こないだも言ったろう。あいつはもう、立派な漢(おとこ)だ。ちと酷だが、漢にはな、どんなに苦しくても立ち向かわなきゃならない時があるのさ」

 腰を下ろし、夫は穏やかに言った。

「タカが精一杯戦ってきたら、たとえどんな結末だったとしても、あたたかく出迎えてやろうじゃないか」

 ふん、と母は呆れ顔で鼻を鳴らす。

「カッコつけちゃって。それはなんだい?」

 彼女が指差した風呂敷包みからは、一升瓶の先がのぞいている。父はバツの悪そうな笑い声を上げた。

「ハハハ……こ、これは、その……景気づけに」

 言い訳する夫の傍らで、妻は水筒の蓋を開け、熱い茶を飲み下す。夫は妻に背を向ける格好になり、コップに一升瓶の焼酎をぐびぐびと注ぎ、一気飲みした。

「プハァ、うめえっ」

「調子に乗るんじゃないよ!」

 すかさず母がゲンコツを喰らわせる。

「テッ! な、なにしやがるんだいっ」

「ったく。家でもどこでも、隙あらば酒をくらいやがって」

「どこでもって……人をのんべえみたいに言うんじゃねえよ!」

 まるで夫婦漫才のような二人のやり取りに、周囲からはプククと笑いが起こった。

 

 

 一塁側選手出入口。その手前に、ちょっとした広場があった。そこにキャプテン谷口を始め、墨高ナインは円座になり、各自ストレッチをしている。

「みんな、しっかり体をほぐしておくんだぞ」

 谷口の掛け声に、ナイン達は「は、はい」と返事した。心なしか、いつもより元気がない。

 うーむ、と谷口は僅かに首をひねる。

「どうもみんな、きのうの激戦の疲れが抜けきってないようだ」

 谷口の真向かいで、二年生の丸井が「オイッチニ、サンシ」と屈伸運動をしていた。そして動きを止め、隣で体育座りをしている同学年の加藤へ声を掛ける。

「おい加藤、何か手伝おうか」

 ところが、すぐに返事がない。膝の前で両手を組み、虚空を見つめぼんやりとしている。

「……か、加藤?」

「ハッ。あ、ああ」

「どうしたってんだよ。そんな、さえないツラしやがって」

「わ、ワリィ」

「ほれ、両足を前に伸ばすんだ。前屈いくぞ」

 丸井はそう言って、加藤の両肩に触れた。その途端「え……お、おいっ」と、思わず大声を上げてしまう。

「な、なんだよ丸井」

「びっくりするじゃねえか。急に大声出したりして」

 倉橋と戸室が文句を言うが、丸井は答えない。代わりに、加藤の隣で屈み込む。

「加藤。おまえの体、すごく熱いぞ」

 すぐに半田が「なんだって」と、慌てて救急箱を手に駆け寄ってきた。そして右手で加藤の額に触れる。

「たっ、大変だ!」

 半田も素っ頓狂な声を発した。さすがに全員がストレッチを止めて、黙り込む。

「すごい熱だ。加藤くん、今すぐ医務室……いや、なるだけ早く病院へ連れてかないと」

 谷口が半田と目を見合わせ、こっくりとうなずく。

「スマン半田。加藤をひとまず、医務室へ連れてっくれ」

「分かりました。さ、加藤くん」

 半田が助け起こそうとしかけると、加藤は「ちょ、ちょっと待ってください」と焦点の定まらない目で言った。

「きのうのミーティングで、今年の東実は小ワザと機動力に優れてるって話だったじゃありませんか」

 まるで絞り出すような声である。

「ぼくが抜けたら、ファーストの守備が……」

 しかしそこまで言いかけ、加藤はゴホッゴホッと激しく咳き込む。

「そら見ろ」

 叱り付けるように言ったのは、倉橋だ。

「こんな体で無理したら、ヘタすりゃ肺炎にでもなりかねんぞ」

「で、ですが……」

 加藤は左こぶしを握り、無念そうに目を瞑る。

「……なあ加藤」

 ふと谷口が、穏やかな声を発した。

「忘れてないか。試合は、今日で終わりじゃないんだぞ」

 その言葉に、加藤はハッとした目でキャプテンを見上げる。

「谷口の言うとおりだ」

 傍らで、倉橋が言葉を重ねた。

「今日のところはチームを信じて、まず体を治すんだ。甲子園のために」

 加藤はしばし口をつぐんだ後、小声で「はい」と返事した。その表情に悔しさがにじむ。

 ほどなく、加藤は半田に付き添われ医務室へと向かった。そこで戸室が「れ……そういや」と、周囲を見回しつぶやく。

「島田のヤツもいないじゃねえか」

「ああ、島田さんなら」

 憂う目で答えたのは、イガラシだ。

「さっき吐き気がすると言って、トイレに」

 その時、おもむろに横井が「す、スマンみんな」と挙手した。

「じつはおれも、さっきからハラが痛くてよ。悪いが、ちとトイレに行かせてくれ」

 そう言って立ち上がると、周囲が心配げな目を向ける。

「よ、横井」

 谷口が声を掛けた。

「念のため、医務室へ行った方がいいんじゃないか」

 なーに、と横井は笑って見せた。

「こんなのすぐ治るさ。心配するなって」

 言葉とは裏腹に、横井は苦しげな顔でそそくさと円座から抜けていく。

「やれやれ、まいったな」

 渋い顔で、正捕手倉橋がつぶやく。

「レギュラーが三人も不調とは」

 谷口も「うむ」と首肯した。

「想定はしてたが、やはり何人かメンバーの入れ替えを考えねば」

 ああ、と倉橋が腕組みする。

「こういう時のために、控えのやつらにも、何度か途中出場で経験を積ませてるが」

「む。しかし、さすがに決勝戦で先発となると……うっ」

 そう言いかけ、谷口はふいに顔をしかめる。

 訝しむ倉橋の前で、谷口は屈み込み、左足のスパイクを脱いでソックスを足首まで下げる。白い湿布が貼られてた。それを剥がすと、まだ赤く腫れている。

「おいおい」

 倉橋が苦い顔で言った。

「おまえこそ、平気なのか」

「だ、だいじょうぶさ」

 谷口は新しい湿布と取り換えると、ソックスとスパイクを履き直し、笑って立ち上がる。

「今日のマウンドは、松川とイガラシにまかせてある。あの二人なら経験豊富だし、大崩れすることはないだろう」

「む、おれもそう思うが……」

 キャプテンと正捕手の視線の先。松川とイガラシは、近距離でキャッチボールを始めている。二人とも肩慣らし程度の様子だ。

「しかしサードだからって、ラクできるわけじゃねーぞ」

 まだ倉橋は渋い顔である。

「倉橋」

 ふいに谷口が、強い口調で言った。

「みんなで必死に戦ってきて、ようやくたどり着いた初めての決勝戦だ。みんなの士気を高めるためにも、キャプテンのおれが先頭に立たなきゃならないんだ」

 揺るぎない決意のこもった言葉に、さしもの正捕手倉橋も思わず口をつぐむ。

 

―― 強豪・谷原撃破を果たした墨高ナイン。しかしその代償は、あまりにも大きかった。

 十六回にもおよぶ死闘により、ナイン達は心身ともに消耗し、ケガ人も続出。ベストコンディションとはほど遠い状態で、怪腕・佐野擁(よう)する東実との決勝に挑まなければならなかったのである。

 

「……お、いたいた!」

 その声に墨高ナインが振り向くと、二人の男が息せき切らせ立っていた。一人は長袖の白いワイシャツに眼鏡を掛けた長身の男。もう一人はジャケット姿で左肩に機材を担いだベテラン風カメラマン。二人とも、左腕に「毎朝新聞」の腕章を巻いている。

 谷口は、二人の顔に見覚えがあった。

「あっ、どうも。お久しぶりです」

「やあやあ、こちらこそ。われわれのことを覚えていてくれたんだね」

 眼鏡の記者は微笑んだ。

「ええ。中学の時、青葉との再試合に取材しに来てくださって以来ですから……四年ぶりですか」

「ああそうか。もうそんなにたつかね」

 記者は感慨深げにうなずく。そして背後のナイン達に目を向ける。

「そちらの丸井君、それからイガラシ君、久保君とは、たしか昨年の選手権へ向けての合宿で、ちょくちょく話をさせてもらったかな」

 話を振られ、イガラシと久保は少し照れた顔で「ど、ドウモ」と会釈する。一方、丸井も会釈したものの、ムスッとした表情だ。そしてイガラシの耳元でささやく。

「なんだよあの記者連中。おれっちらのことを覚えてたんなら、もっと早く取材に来てくれてもよかったじゃねえか」

 イガラシは「まあまあ」と苦笑いして、先輩をなだめる。

「大手の新聞社ですし、中学とちがって有力校も多いですから、なかなかうちの番に当たらなかったんでしょう」

 それに……と、後輩はふと真顔になる。

「うちは取材慣れしてませんからね。つい余計なことをしゃべっちゃて、それを他校に知られるよりは、結果的によかったじゃありませんか」

「うーむ、そりゃそうだけどよ」

 丸井はまだ不服そうだ。

 記者はすぐに、キャプテン谷口へのインタビューを始めていた。その隣では、カメラマンが谷口や他のナイン達の様子を撮影している。

「しかし中学に続いて、墨高でもチームをここまで強化するとは。谷口君、きみのリーダーシップは大したものだな。なにか、その秘訣(ひけつ)はあるのかい?」

 記者の質問に、谷口は困惑顔になる。

「秘訣と言われましても……ぼくらはただ、自分達にできることを精一杯がんばっただけですから」

「なるほど。ところで、あれだけの激闘(げきとう)だったわけだし。ナインの疲労具合も相当だろう」

 答えづらい質問に、キャプテンは渋い顔になる。

「は、はあ……でもそれは、相手だって同じ条件ですから」

「しかし東実の左腕の二枚看板は、盤石(ばんじゃく)だよ。なにせここまで、全試合無失点できてる」

「え、ええ。佐野君の投球は、ぼくらもきのうの第一試合で見ましたが、ほんとうに素晴らしいの一言でした」

「うむ。佐野もそうだが……もう一人倉田という、まだ一年生だが力のある投手も控えてる。ちなみに二人とも、あの青葉学院の出身だそうだが」

「はい、それは聞いています」

「谷口君達にとっては、墨二時代から何度も対決してきた相手だ。もう対策はバッチリなんだろうね?」

「え、はぁ……それは」

 谷口はちらっと、倉橋と目を合わせた。正捕手は無言で首を横に振る。お互いに「そろそろ潮時だな」の合図だ。

「もちろん注意すべき相手ですが、ほかにも手強い投手はいましたから」

 何とか誤魔化しの返答をすると、記者はニヤリとして「ほほう」とうなずく。

「現段階で、多くは語れずか。これはますます楽しみだ」

 その時だった。記者の背後から、馴染みの顔か現れる。

「ようよう、そこの記者さん」

 そこには、ポロシャツ姿の墨高野球部OB・田所が立っていた。

「さっきから聞いてりゃ、疲れ具合とか相手投手の攻りゃく法とか。そんなデリケートな質問、これから試合って時に答えられるはずないでしょうが」

 頼れるOBの登場に、谷口は安堵してさりげなく後ずさりする。

「た、たしかに。これは失礼しました」

 記者は素直に頭を下げた。

「うんうん、分かりゃいーんスよ」

 田所は口元に笑みを浮かべつつ、数回うなずく。

「ところで……あなたは一体?」

 記者がもっともな質問をすると、OBは「はりゃっ」とずっこける。

「き、記者さんよう。このおれを知らずして、よくも墨高を取材できますね」

 両手を腰に当て、田所は少し威張って答えた。記者は「はあ……」と困惑顔になる。

「このおれこそ、今の墨高野球部の基礎を作った先代キャプテン・田所さんよ」

 おどけているとも本気ともつかない言い方に、数人の部員がププッと吹き出す。

 記者は信じ込んだようで、眼鏡越しに「おおっ、きみが」と目を輝かせた。一方、カメラマンはじとっとした目を相方に向ける。

「で、ではさっそく」

 再び、記者は手帳を開きペンを手に取った。

「田所元キャプテン。墨高野球部がここまで強くなった過程を、お話し願えますか」

「うーむ、そうスね。話せば長くなりますが……」

 元キャプテンは腕組みして顎に手を当て、やや格好つけたポーズを取る。その様子を、背後でナイン達が呆れ顔で眺める。

「おっ、そうだ!」

 ふいに田所が、両手をパチンと鳴らす。そして谷口の左肩に、ポンと手をのせた。

「この谷口に、おれがキャプテンとしてのイロハを教えこんだ時の話からしましょうかね」

 その言葉に、実情を知るナイン達は「あーあー」とずっこけた。ひょうきんな元キャプテンに、谷口は隣でクスッと笑う。

 

 

2.東実ナインの決意

 

 三塁側選手出入口。その手前の広場では、東実ナインが同じく円座になっている。こちらは監督以下、選手全員が正座して目を瞑り、黙想を行っていた。

「……よし、そろそろいいだろう」

 監督の一言で、全員が姿勢を体育座りに変える。エース佐野、正捕手村野……ほとんどのレギュラー陣が余裕さえ感じる笑みを浮かべる中、ただ一人、一年生左腕投手の倉田の表情が、やや冴えない。

「どうした倉田。どこか具合でも悪いのか」

 顎髭(あごひげ)を少し蓄えた東実監督が、憂う目で問う。

「い、いえ。その……」

 一年生は苦笑いして答える。

「ちょっと緊張しちゃいまして」

「だらしねえの」

 倉田の中学時代からの先輩、エース佐野が笑い飛ばす。

「地方予選でそうなるんじゃ、とても甲子園のマウンドには上がれねえな」

「まあ、そう言うなよ佐野」

 細身の一年生を庇ったのは、正捕手の村野である。やはり彼も青葉学院出身であり、佐野とは当時よりバッテリーを組む。

「地方予選とはいえ、一年生で決勝の先発マウンドに上ることは、そうあることじゃないからな」

 正捕手は、今度は真剣な眼差しになり、一年生投手と目を見合わせる。

「いいな倉田。いざとなったら、おれのミットだけ見て、思いきり腕をふるんだ。そうすりゃ、あとは野手陣がなんとかしてくれるさ」

「は、はい」

 村野の言葉に、倉田はようやく表情を和らげる。

「……オホン」

 その時、ふいに監督が咳払いをした。途端、東実ナインの間にピリッとした空気が漂う。

「まさかとは思うが。今でもまだ、墨谷を格下だと思い込んでいる者が、いるんじゃあるまいな」

 監督の言葉に、ナイン全員が押し黙る。

「昨秋のブロック予選決勝で、我々は墨谷に苦杯をなめさせられた。そして我々が今大会をノーシードからやっとかっと勝ち進む間に、やつらは都内の有力校を次々に倒し、ついにはあの谷原をほうむった。分かってるな、おまえ達」

 しばし間を置き、監督はさらに話を続ける。

「もはや墨谷は、都内屈指の強豪へと成長した。むしろこちらが格上に挑むつもりで戦わないと、やられてしまうぞ」

「ええ、もちろん油断はしません」

 ふいに声を発したのは、佐野である。

「しかし、そう怖れることもありませんよ。もう墨谷のやり口は分かってるじゃありませんか」

 不敵な笑みを浮かべつつ、エースは言い放った。

「相手をじっくり研究して、長所を封じ短所を突く。このやり方で、墨谷は相手との力量差を埋めてきました。ですが……それを逆手に取れば、やつらの力は半減します」

 フフ、と佐野は笑い声を漏らす。

「連中には、これまでもたびたび苦い思いをさせられてきましたからね。今度こそ、やつらの泣き顔を拝ませてもらいますよ!」

 指揮官は腕組みして、「佐野」と静かに呼びかける。

「おまえのことだ、ぬかりはあるまい。しかし墨谷のおそろしさは、追いつめられれば追いつめられるほど、今まで以上の力を出してくることだ。やつらを倒すには、大胆さと細心さの両方が必要だ。それを忘れるんじゃないぞ」

 なおも笑みを湛えた目で、佐野は「ええ、分かってます」と返事した。

「おまえ達もいいな」

 今度はナイン全員を見回し、指揮官は告げる。

「墨谷は強い。だが勝利への執念なら、我々も負けちゃいないはずだ。名門・東実の名にかけて、死にものぐるいで甲子園出場の切符をもぎ取ってこい!!」

 監督の檄に、東実ナインは「はいっ!」と力強く声を揃えた。

 

 

3.戸惑う墨高ナイン

 

 一塁側選手控え室は、ざわついていた。

「おいおい、どうなってんだよ」

「なに考えてんだ、東実のやつらめ」

 三年生の倉橋と戸室が、ほぼ同時に驚きの声を上げる。二人を含め、墨高ナインの視線の先には、黒板に貼られた東実のスタメン表があった。

 

<東実スターティングオーダー>

 1(遊)竹下 【3年】

 2(二)三嶋 【3年】

 3(右)佐野 【2年】

 4(捕)村野 【2年】

 5(三)中井 【1年】

 6(一)中尾 【1年】

 7(中)山井 【1年】

 8(左)鶴川 【2年】

 9(投)倉田 【1年】

 

「ま、まさか……」

 ナイン達の後方で、データ収集担当の半田が青ざめている。

「東実は三回戦から、ピッチャー以外、不動のスタメンだったのに。よりによって、この決勝で変えてくるなんて」

 うつむき加減になり、震え声で付け加える。

「せ……せっかくきのう、各打者の特ちょうについてミーティングしたのに」

「落ちつけ半田」

 キャプテン谷口が、諭すように言った。

「ひょっとしてうちと同じように、向こうにも何かアクシデントがあったかもしれない」

 うむ、と倉橋が言葉を重ねる。

「もしくはスタメンのやつらが、調子を落としているとか」

「調子を……そうだっ」

 半田はふいに声を上げると、持ってきたリュックサックの中を探る。そしてほどなく、一冊の薄茶色のスクラップブックを取り出した。

「半田さん、それは?」

 近くに来ていたイガラシが尋ねる。

「これかい? これは対戦相手について、新聞部の人達と協力して作ったデータ集さ。ほら……川北、三山、明善、谷原、そして東実。ちゃんと付箋に書いて、分類してるだろう」

「なるほど。これをもとにして、今までの試合の作戦を立ててたんスね」

 興味深げに眺める後輩をよそに、半田は頁(ページ)をめくっていく。

「えーっと……東実、東実……あった」

 やがて該当の頁を開く。そこには、東実の各打者のデータが、顔写真付きで細かく掲載されていた。

「おおっ」

「すげえ、こんなに細かく」

 感嘆の声を上げるナイン達。一方、半田はさらに各打者のデータを食い入るように見つめ、比較していく。

 

(記述例)

 背番号13(内野手)竹下【3年】

【成績】一回戦 三犠打(スクイズ) (0-0)  ※四回より代打出場

    二回戦 左安打(二盗)   (1-1)  ※四回より代打出場

    三回戦 四球 四球(二盗)  (3-0) ※六回より代打出場

   準々決勝 四球(二盗・三盗) 三安打(セーフティバント

 遊飛 二ゴロ 四球 (3-1)  ※先発出場

    準決勝 四球(三盗) 右安打(二盗)一犠打 (1-1) ※先発出場 

 <通算> 8-3 犠打2 四球5 死球0 盗塁5

【特徴】

  ・左投左打  ・身長167 体重55

  ・選球眼◎  ・パワー△  ・小ワザ◎  ・足◎

  ・簡単にフライを打ち上げることがある

 

「……ダメだ、分からない」

 やがて半田が、落胆した顔で言った。

「これだけ細かく書いてるのにか?」

 倉橋が尋ねると、半田は「ええ」とうなずく。

「ここ数試合、調子を落としているバッターがいないか調べてみたんですけど、とくに見当たらないんですよ。それどころか、ここまで最高打率の選手や、最多本塁打のバッターまで外してる。もしケガが原因じゃないなら、彼らはいったい何を……」

「なあ、半田」

 おもむろに、キャプテン谷口が尋ねた。

「代わって出場する四人だが、ひょっとして……駿足か小ワザの巧い選手が多くないか?」

「え……あっ、なるほど」

 半田は弾かれたように体を起こし、代わって出場の竹下、三島、山井、鶴川の四人に鉛筆でチェックを入れる。やがて「ほんとだ」とつぶやく。

「フン、そういうことか」

 戸室が腕組みしつつ、笑って言った。

「やつら秋の大会で、谷口にシャットアウトを許してるからな。力押しの攻めじゃ、うちには通用しないと判断したんだろう」

「おおっ、なるほど」

 パチンと両手を鳴らしたのは、丸井だった。

「さしもの東実も、うちの投手陣におそれをなしたか」

「……うーむ。そりゃ、どうだろうな」

 倉橋が渋い顔で、首を傾げる。

「あのブロック予選から、もう半年以上が経過してる。打撃強化するには十分な時間があったはずだ。そもそも一度零封(れいふう)を許したくらいで、メンバーをごっそり入れ替えるつうのも、あまり合理的じゃないと思うが」

 正捕手の傍らで、片瀬が「たしかにそうですね」と首肯する。

「むしろ当時のメンバーをきたえ上げた方が、ずっとうちの投手陣を崩せる可能性が高くなるはずです」

「そ、それもそうか」

 丸井が唇を結び、右肘を左手の甲にのせ考えるポーズを取る。

「……ふむ。分かってるのは、今年の東実の一年生は、あの佐野を頼りにして、青葉出身のやつがたくさん入部してるってことぐらいか」

 渋い顔で言ったのは、倉橋だ。そしてふいに「そうだ」と、小さく声を上げる。

「おい井口」

 正捕手は、近くにいた井口に尋ねた。

「はい?」

「たしかおまえ、昨年の中学の地方大会で、倉田のいた青葉と戦ったろう」

「え、ええ」

「その時のメンバー、倉田以外にも何人か混じってたんじゃないのか」

「うーむ……そうスね。言われてみれば、見覚えのある名前もあるような気もしますが……」

 井口は腕組みして、束の間考え込むような仕草をした。しかし、やがて「スミマセン」と小さく首を振る。

「打者一人ひとりの特ちょうとかは、さっぱり」

「ま、そりゃしかたないでしょうね」

 おもむろに久保が口を挟む。

「あの時の青葉は、井口にほとんど手も足も出なかったからな」

「へへっ、まーな」

 井口が少し威張ったように、両手を腰に当てる。

「もうちょっとでノーヒットノーランてとこまで行けたんだが、九回に一本許しちまった」

「おいおい。そんな昔話してる場合かよ」

 正捕手は、口をへの字に曲げる。

「これまで敵をじゅうぶん研究することで、われわれは力量ある相手と互角に戦うことができた。そのデータが使えないとなると……」

 その時だった。

「まてよ倉橋」

 ここでキャプテン谷口が口を開く。

「な、なんだよ谷口」

 倉橋はやや驚いた目になる。

「おまえの一言でひらめいた。これはひょっとすると、向こうの奇襲(きしゅう)作戦かもしれないぞ」

「き、奇襲だと?」

「ああ。今おまえが言ったとおり、相手を研究するのがうちの戦法だ。東実はそれを分かったうえで、データの少ない打者をぶつけてきたんじゃないか」

 あっ、と倉橋は口を開く。

「そういうことか」

「し、しかしキャプテン」

 井口が口を挟む。

「データ分析されるのをさけるためなのは、分かりますけど。代わったやつが、どいつもこいつも小兵なバッターばかりなのは、どういうわけでしょう」

「む。それもおそらく、奇襲のうちだろう」

 真顔で、キャプテンは答えた。

「何の特ちょうもないバッターじゃ、序盤の数回をムダにしてしまう。それより小ワザを使えるバッターを始めに起用して、こっちのピッチャーを少しでも疲れさせようって思惑なんだろう」

「な、なるほど。ただ……やつらの意図は分かりましたけど」

 苦い顔で尋ねたのは、丸井だった。

「東実ほどのチームが、うち相手にそこまでしますかね?」

「やるさ、彼らなら」

 キャプテンは、さらに眼差しを鋭くする。

「彼らはもう、われわれを格下とは見ていないだろう。秋のブロック予選で敗れ、今大会は谷原を下し勝ち上がってきたんだ。警戒して当然だろう」

 ごくり、と丸井が唾を飲み込む。

「……あ、あの。みなさん」

 その時、ふいに朴訥な声を発した者がいた。松川である。

「相手のバッターのことは、おれと倉橋さん、イガラシで何とかします。みなさんは、倉田と佐野の両投手を攻りゃくすることに、集中してください」

 普段の温和な彼からは想像もつかないほど、力強い発言だった。

「ま、松川くん」

 そこに半田が言葉を重ねる。

「ありがとう。でも、バッテリーだけに任せるわけにはいかないよ。ぼくも試合中、気づいたことがあったら、すぐに伝えるから」

「お……おい半田」

 なぜか鈴木まで口を挟む。

「敵をじっくり観察して、クセや弱点を見つけるって、そうカンタンなことじゃないだろ」

「あ、うん。そりゃね」

「だったら、おまえは相手打者を観察するのに専念しろよ。スコアブックは、おれが付けてやるから」

「ほ、ほんとうかい? 助かるよ、鈴木くん」

 半田は微笑み、鈴木と握手を交わす。その傍らで、丸井が「おおっ」と大仰な声を発した。

「めずらしく、いいこと言うじゃねえか鈴木。ようし見てろよ東実。おまえらの隠してる戦法、開始早々に丸裸にしてやるぜ!」

 右こぶしを突き上げ、鼻息を荒くする丸井。その時鈴木が「ねえ……」と、なぜかバツの悪そうに笑った。

「ところで……スコアブック書き方って、どうやるんだっけ?」

 間の抜けた一言に、半田は「あらっ」とずっこける。

「フフ。三人とも、たのもしいじゃないか」

 キャプテン谷口が、満足げな笑みを浮かべた。しかしほどなく、表情を引き締める。

「しかしあの東実が、うち相手に大きくメンバーを代えてきたんだ。きっと死にものぐるいで戦いを挑んでくる。そしてもう一つ」

 やや声を潜め、谷口は話を続けた。

「今日のうちは、はっきり言ってベストなコンディションじゃない。ケガや体の不調で出られない者、きのうの疲れが抜けきっていない者もいる」

 ここで全員の視線が、黒板のもう一つのスタメン表に集まる。島田、加藤、横井。三人ものレギュラーの名前が消えていた。代わりに岡村、戸室、井口の名前が記されている。

 

<墨谷スターティングオーダー>

 1(遊)イガラシ 【1年】

 2(二)丸井   【2年】

 3(捕)倉橋   【3年】

 4(三)谷口   【3年】

 5(右)井口   【1年】

 6(一)岡村   【1年】

 7(投)松川   【1年】

 8(左)戸室   【3年】

 9(中)久保   【1年】

 

「しかし……だからといって、臆することはない」

 キャプテンはここで、語気を強める。

「われわれは創部以来、初めて準々決勝を突破し、そしてきのうは目標の一つだった谷原撃破も果たした」

 いつの間にかキャプテンの周囲には、ナイン達の輪ができていた。

「今日もきっと苦しい試合になるが、われわれが気持ちとチカラをひとつに合わせれば、乗り越えられるはずだ」

 少し間を置き、谷口は右こぶしを握り力強く告げる。

「さあ……今日も勝って、みんなで甲子園へ行くぞ!」

 ナイン達もいつものように、精一杯の声で応える。

「オウヨ!!」

 その時、コンコンと控室のドアがノックされた。谷口が「はい」と返事すると、白いポロシャツ姿の球場係員が入ってくる。

「ミーティング中に失礼します。今、ベンチの用意ができました。どうぞ移動なさってください」

 谷口は「ありがとうございます」と礼を言い、それからチームメイト達に視線を戻す。

「ようし。いくぞ、みんな!」

 

 

 控室を出て短い通路を歩き、一塁側ベンチへと向かう墨高ナイン。誰もが気合の入った凛々しい表情だ。

 ただ一人、浮かない顔をした者がいた。イガラシである。用具バッグを左肩に掛け、ややうつむき加減で歩く。

「松川さん」

 ひとつ前を歩く先輩に、声を掛ける。

「む、どうした?」

「右手の指先のマメ、ほんとうにだいじょうぶなんスか?」

 なんだよ、と松川は苦笑いする。

「おれも信用ねえんだな。きのう、並んで投球練習したじゃないか。おれのボールに、なにか物足りなさでもあったかい?」

「あ……いえ、そういうわけじゃ」

「しょうがねえな。ほれ」

 二年生投手は、右手の指を広げて見せる。出血は見られないが、瘡蓋(かさぶた)は塞がったばかりのようだ。

「まだ瘡蓋は残ってるがな。これぐらい、どうってことないさ。おれだって、ダテに何年もピッチャーやってないからな」

「は、はい」

 返事して唇を結ぶと、松川は「どうしたんだよ」と微笑んだ。

「そんな浮かない顔するなんて、イガラシらしくもない。なにか心配事でもあるのか」

「……いえ」

 ベンチのドアを開けたイガラシの視界に、ほの暗い雨雲が飛び込んできた。

「雨か」

 持っていた用具バッグを所定の場所に置き、胸の内につぶやく。

「まさか、東実のねらいって……」

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