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第23話 たくましい墨高ナイン!の巻
1.乱闘勃発!?
「……ちきしょう、ムリだったか」
屈み込んだまま、倉橋が唇を結ぶ。右手をだらりと下げていた。
「た、タイム!」
谷口は三塁塁審に合図して、さっと駆け寄る。
「倉橋……ああっ、これは」
右手の指先が、赤く腫れている。さっき死球を受けた箇所だ。打撲なら数日で治るだろうが、もし骨折だと今後の出場自体が危ぶまれる。いずれにしろ、この試合は交代せざるを得ない。
「スマン、よけそこねちまって」
倉橋が苦笑いする。
「なに言ってる。これは不可抗力だ、しかたないさ」
「……ち、ちょっと」
ふいに背後から、井口がのぞき込んでくる。
「さっきぶつけられたやつスね。あのピッチャー、やりやがったな」
後輩は「うーっ」と唸るような声を発した。バカ、と倉橋が突っ込む。
「不可抗力だと言ったろう。井口おまえ……こんなんでアタマにきて、自分のピッチングができなくなったりしたら、元も子もないぞ」
「う……は、はぁ」
倉橋は、自らアンパイアに交代を告げ、ベンチに下がった。半田から氷袋を受け取り、患部に当てる。その眼差しが、無念そうにグラウンドへと向く。
代わりにマスクを被るのは、根岸だ。慌てて準備を始めている。
谷口が振り向くと、井口はマウンド上で、足元の土を蹴り上げた。なにやらブツブツつぶやきながら、目を三角にしている。
マズイな、と谷口は思った。倉橋の退場は痛いが、それ以上に井口が心配だ。あの様子では、だいぶ頭に血が昇っている。これで調子を崩すようなら、早めの交代も考えないと。
一声掛けようと思った時、イガラシがマウンドへ走り寄った。
「おい井口。怒るのは分かるが、それをプレーにぶつけろよ」
「……う、うむ」
「俺も正直アタマにきてる。おまえのピッチングで、すかっとさせてくれ」
いいタイミングで声かけてくれたな、と谷口は目を細める。倉橋の退いた今、こういうイガラシの気配りは、本当にありがたい。
やがて捕手用プロテクターを装着した根岸が、ベンチから駆けてきた。
「キャプテン、準備できました」
快活に言うので、少し安堵する。
「む。急な出場ですまないが、気楽にな」
「ええ……しかし、そうも言ってられないでしょう。井口があの様子ですし」
谷口は苦笑いした。あんな態度を見せては、誰だって気づく。
「ま、それは上級生がフォローしていく。おまえはキャッチングに集中してくれ」
「分かりました!」
力強く返事して、根岸はホームベース奥に立った。そして声を張り上げる。
「バッター四番からです。みなさん、しまっていきましょーっ」
一年生捕手の初々しい掛け声に、ナイン達は「おうっ」と応えた。
マウンド上。はらわたが煮えくり返るのを、井口は抑えられずにいた。
あ、あの松下ってヤロウ……よくも倉橋さんを! キャプテンの同窓だかなんだか知らんが、こっちが黙ってりゃ調子に乗りやがって。目にモノ見せてやるっ。
回の先頭打者は、その松下からだ。右打席に入りスパイクで足元を均すと、他の打者と同じくベース寄りに立ち、バットを寝かせる。
「ふん、四番のくせにバスターか。いつまでも小賢しいテを使ってんじゃねーよ」
井口は振りかぶり、第一球を投じた。快速球が打者の肘付近を襲う。
バシッ。松下は大きく上体を仰け反らせたが、よけきれず二の腕を掠めた。アンパイアが「デッドボール!」と告げ、一塁ベースを指さす。
「わりぃ、引っかけちまった」
白々しく弁解する。
「おい井口。いい加減、落ち着けよ」
セカンドの丸井が声を掛けてくる。
「は、はい。以後気をつけます」
通り一遍の返事をした。丸井は「ほんとだな?」と、疑わしそうに睨む。
その時だった。ふいに根岸がタイムを取り、マウンドに駆け寄ってくる。なんだよコイツも説教する気か……と思いきや、相手は思わぬ言葉を発した。
「こら井口。てめぇ中途半端なコト、してんじゃねぇよ」
「おう……へっ? いまなんつった」
「袖をかすめるぐらいで、仕返しになるかっ。やるなら顔か背中だろ!」
「はぁ? ま、まて根岸」
つい間の抜けた声を発してしまう。
「いくらなんでも顔はマズイだろ」
「じゃあ背中だ。つぎの五番は同じ一年だし、遠慮することはねぇ。向こうが二度とナメた真似できねぇように、やっちまえよ」
「む、気持ちは分かるが……あいにく俺は左投げだ。右バッターの背中には、ちと投げづれぇんだよ。さっき当てた本人にやり返したから、やつらも十分ビビってるだろ」
「んだよおめぇ。見かけによらず、根性ねーな」
さすがに、井口は苦笑いする。
まったく、なんで俺がなだめなきゃなんねぇんだよ。ふつうピッチャーを落ち着かせるのが、キャッチャーの役目だっつうに。これじゃ、あべこべじゃないか。
「もういいから帰れ。肩が冷えちまう」
「ちっ。しょーがねぇな」
がしっと土を蹴り上げ、根岸は踵を返す。
なんだよアイツ。ただのお調子者かと思ってたら、こんなに気が短かったとは。俺よりガラの悪いやつ、初めて見たぜ。あんなんでリードなんてできるのかよ。
続く五番打者は、大橋という一年生だ。中学野球の名門・青葉学院の出身である。
井口は、この大橋と面識があった。昨年の中学選手権の予選にて、大橋のいた青葉と井口率いる江田川は、準決勝で対戦。その時は、江田川が完勝を収めている。
因縁にこだわっているのか、大橋はこちらを睨んだ。井口はムッとして、睨み返そうとするが、その前に根岸が座ったままマスクを取る。
「おい、そこのノッペリづら」
「……の、のっぺりだと?」
「いきなりヒトを睨みつけて、どういう了見だ。ガラ悪いぞ」
アンパイアが「さっさとマスクを被りなさい」と注意する。
井口は溜息をついた。ガラ悪いのは、おめぇだよ……とひそかにつぶやく。後方で「あのバカなにやってんだ」と、丸井が青筋を立てる。
「こら井口。おまえが根岸をたきつけたんだろっ」
「そ、そんな丸井さん……」
慌てて首を横に振る。
ようやく根岸がマスクを被り、サインを出す。これは倉橋と同じものだ。間違っちゃいないだろうなと不安に思いながらも、井口は投球動作へと移った。
初球。大橋はバットを寝かせると、それを引きながら捕手のマスクにぶつける。明らかな挑発行為だ。こんニャロ、わざとやりやがったな……と、井口は詰め寄りかけた。
その時、根岸が右手のひらを「まて」と言いたげにかざす。された本人が一番激高しそうなものだが、今回に限ってそれをしない。井口は、かえって不気味に感じた。
あいつ……後でまとめて仕返ししてやろうとか、思っちゃいめぇな。
そして二球目、一塁ランナーの松下がスタートを切る。根岸が二塁へ送球しようとすると、大橋はファースト側へつんのめり、捕手の視界を塞ぐ。しかし一年生捕手は、構わずスローイングした。
「……ぐっ」
ボールは至近距離で、大橋の背中を直撃した。相手はその場にうずくまる。
根岸はマスクを脱ぎ、平然と立ち上がった。そして大橋を一瞥もせず、傍らのアンパイアに尋ねる。
「守備妨害じゃありませんか?」
「いや、故意とは認められない」
「分かりました……だとさ、ノッペリづら。痛い思いした甲斐があったな」
「……こ、このヤロウ」
大橋は起き上がると、根岸の胸倉をつかんだ。
「きさまっ。ヒトにぶつけといて、なんて言い草だ」
「はぁ? 陳腐なラフプレーしかできないくせに、どの口がぬかしやがる」
「なんだと!」
慌ててアンパイアが、試合を止める。それと同時に、両チームの選手達がベンチから飛び出し、グラウンドに入り乱れる。
いまにも殴り掛かろうとする大橋を、松下が「落ち着け」と引き離す。根岸は早くも冷静さを取り戻したと見え、自分からその場を離れた。
「おい! 送球を当てておいて、あやまりもしねぇのか」
「よく言うぜ。初回から、危険球ばかり投げやがって」
血の気の多い者が、あちこちで言い争いを始める。それを数人が止めに入った。双方の応援団が陣取る内野スタンドも、騒然としてくる。
「……や、やめんか!」
アンパイアが一喝した。
「ここをどこだと心得る。神聖なグラウンドで、事もあろうにののしり合いを始めるとは、不徳がすぎるぞ。日頃の練習の成果をぶつけるために、ここへ来たんじゃないのかね!」
さすがに両軍ナインは、静まり返る。
「手は出さなかったようだから、いまは注意に留める。しかし、今後もしスポーツマンシップに反する言動がなされた場合、その限りではない。退場させられたくなかったら、お互いフェアプレーを心がけたまえっ」
どうにか事なきを得たことに、井口は安堵する。ただどうしても、相手に一言伝えたいことがあった。ランナーに戻ろうとする松下を「あ、ちょいと……」と呼び止める。
「なんだい?」
松下は意外にも、穏やかな目で応じた。
「あの……やりすぎたのは、悪かったです。けど、主力がケガさせられちまったら、そりゃ腹も立ちます。そこんとこ、分かってくれませんかね?」
「うむ、きみの言うとおりだ。すまなかった」
神妙にうなずき、相手エースは踵を返す。
2.松下の焦り
まだ球場内がざわめく中、イガラシは小走りにポジションへと帰る。
やるじゃないか根岸。たしかに井口の気性を考えりゃ、言って聞かせるよりも、ああするのがベターかもな。ま、ちと……やりすぎだが。
くすっ、と含み笑いが漏れた。
「こ、これ。笑いごとじゃないぞ」
傍らで、谷口がたしなめてくる。
「あと少しで乱闘になるトコだったんだからな」
「まぁまぁ。突っかかってきたのは向こうですし、こっちは誰も手を出さなかったんですから。それに……キャプテンも気づいてたのでしょう?」
尋ねてみると、相手は「まあな」と苦笑いした。
「だと思いましたよ。いつものキャプテンなら、とっくに止めてるはずですものね。それでぼくも、あえて静観してました」
「む。しかし誤解してる者もいるだろうから、念のため確認しようと思う」
「ええ、それが賢明ですね」
谷口はタイムを取り、内野陣をマウンドに集める。
「あ……ほら根岸、おまえもだよ」
加藤に促され、根岸が少し遅れてやって来た。
「まったく。開いた口がふさがらないぜ」
やはり丸井が、説教を始める。
「キャッチャーの役目は、ピッチャーも含めてチームを盛り立てることだろ。一番おまえが冷静さを失って、どうすんだよっ」
根岸はバツの悪そうな顔で、黙って聴いている。
「まってくれ丸井。じ、じつはな……」
谷口が庇おうとするのを、イガラシは「キャプテン」と制した。
「ちゃんと本人に説明させましょう。ほれっ根岸、みんな心配してるぞ」
「せ、説明って。なんのことだよ」
訝しむ丸井のすぐ横で、根岸は深く頭を下げた。
「……スミマセン。ぜんぶ、芝居でした」
井口が「へっ?」と、間の抜けた声を発した。
「ふぬけたツラしてんじゃねーよ」
その脇腹を、イガラシは右肘で小突く。
「テッ、なにしやがる」
「井口。そもそも根岸は、おまえを気づかったんだ。ちゃんと聞いてやれ」
「え……そりゃ、どういう」
相棒に顔を向けられ、根岸は頭を掻きながら話し出した。
「ベンチから見てて、だいぶ井口が我を失ってたもんで。こりゃマズイと思ったんです」
当人は「いっ?」と妙な声を上げる。
「といってコイツは、言って聞くようなやつじゃないですし。どうしようか考えた挙句……こっちから煽ってやれば、かえって目が覚めるんじゃないかと。ま、ちょっとやりすぎて、相手を怒らせちゃいましたけど」
「……ほほう」
丸井はじとっとした目を井口に向ける。
「いい相棒にめぐまれて、シアワセだな」
「ど、ドウモ」
なんだよ、と加藤が溜息混じりに言った。
「ヒトをおどかしやがって。こちとら、気が気じゃなかったんだぞ」
「ははっ、そうですよね。スミマセン」
根岸は苦笑いして、もう一度頭を下げる。
「しかし……とっさにそういうテを打つとは、肝が据わってるじゃないか」
一年生捕手に、キャプテンは穏やかな眼差しを向ける。
「初めての公式戦、それも急な出場で、この豪胆さは大したものだ」
「そ、そんな……ドウモです」
顔を赤らめ、根岸はうつむき加減になる。
「……ところでよ、井口」
ふいに丸井が、にやっとして一年生投手を見やる。
「オマエさんにも言わなきゃならんことがあるな」
殴られると思ったのか、井口は「ひっ」と身を縮めた。
「こんニャロっ」
その背中を、ぽんと丸井は叩く。
「……へっ?」
顔を上げると、先輩は微笑んでいた。
「仕返しすんのは、ホメられたことじゃねぇがな。でもよ……俺がおまえの立場なら、きっと同じことをしてたろうぜ。味方がケガさせられりゃ、黙ってられねーよな」
「ま、丸井さん……」
「それと松下さんへの意見、後ろでしっかり聞いてたぞ。イイコト言うじゃねぇか」
ふふっと、イガラシは笑い声をこぼす。
「な、なにがおかしいんだっ」
キッと丸井が目を向けた。
「……いえ。やっぱり丸井さん、いい人だなって」
あらっ、と相手はずっこける。
「てめぇ。なんだその、イヤミっぽい言い方は」
「よしましょうよ、試合中に」
「おまえがヘンなこと言うからじゃねぇかっ」
分かりやすく丸井がムキになる。周囲のナイン達は、こらえきれず吹き出した。
二塁ベース上。松下は腰に手を当て、唇を噛んだ。
大橋のやつ。あの一年生キャッチャーを揺さぶろうとして、自分がアタマに血をのぼらせてどうすんだよ。ミイラ取りがミイラになりやがって。いっぽう墨高は、チームがまとまり始めた。これじゃ当初のねらいと、反対じゃないか。
打席には、その大橋が立つ。心なしか落ち着きがない。
「さあ、しっかり守っていこうよ!」
「おうよっ」
眼前では、タイムを解かれた墨高ナインが、それぞれのポジションへ散っていく。その中心で、井口がすぐに投球練習を始める。
「良くない流れだな……」
松下は、ひそかにつぶやいた。
ここは大橋の一打に、期待するしかない。十分近く中断して、ピッチャーも肩が冷えてるはず。失投してくれりゃ、もうけもんだが……しかしツーストライクだったな。
やがて試合再開が告げられた。
さっきと同じく、大橋はバスターの構えをする。ほどなく井口が、セットポジションから再開後の第一球を投じた。
ほぼ真ん中高め、ボール気味の速球。大橋のバットが回る。
「スイング! バッターアウトっ」
くそぅ。大橋め、あんな吊り球に手を出しやがって。
打順は下位に回る。松下は、かなり焦りを感じていた。六番以下のメンバーで、まともに井口を打ち返せそうな者はいない。
もはや相手のミスに、期待するしかないな。こうなりゃイチかバチか……
マウンド上。井口が再びセットポジションから、投球動作へと移る。その瞬間、松下はスタートを切った。
「走ったぞっ」
「キャッチャー!」
相手内野陣の声をすり抜けるように、三塁ベースへ頭から滑り込む。めいっぱい伸ばした右手の指先を、しかしグラブが壁のように塞ぐ。
「アウト!」
三塁塁審のコールが、耳障りなほど響く。
「ナイス送球よ、根岸」
起き上がろうとする松下の頭に、かつてのチームメイト谷口の声が降ってくる。
バカな。スタートは完ぺきだったし、向こうも三盗までは予測してなかったはず。なのに……あの一年坊、とっさの反応で、なんて正確な送球するんだ。
「松下」
目を見上げると、谷口が右手を差し出していた。
「いいチャレンジだった。一瞬あせったよ」
相手の手をつかみ、立ち上がる。
「よく言うぜ。こういう練習、ずっと積んできてたんだろ」
「まぁ、それなりにね」
微笑んだ旧友の眼差しに、松下は余裕を感じ取った。
踵を返し、ベンチへ向かう。ほどなく「ストライク、バッターアウト!」と、アンパイアの声が響いた。小さくかぶりを振る。
これは、もう……ダメかもしれんな。
3.猛攻
けっきょく城東は、二回表を零点に抑えられた。
墨高はその裏、先頭の井口がホームランを放ち、あっさり二点目を奪う。これで勢いに乗ると、下位打線の連打にエンドランも絡め、一塁三塁とさらに攻め立てる。
スクイズでくる、と松下は予測した。
さっき足を使われた。墨高のやつら、うちの内野守備を揺さぶりにきてる。しかもバッターは、なんでもできる丸井だ。ここでスクイズまで決められたら、つぎはなにをしてくるんだと、みんな混乱しちまう。向こうはそれをねらってる。なんとしても食い止めないと。
「松下がんばれっ」
「俺達がついてる、思いきっていけぇ!」
チームメイト達が声を掛けてくる。
「おうっ、たのむぞ」
そう返事して、松下はセットポジションにつく。
眼前では、丸井が数回素振りして、右打席に入ってきた。小柄ながらスイングは鋭い。しかも中学の頃より、動作に柔らかさが加わっている。
初球。松下は、外へウエストした。
視界の端で、やはり丸井がバットを寝かせる。よし、はずした……と思った直後、松下は「なにぃっ」と声を上げてしまう。
コンッ。丸井は伸び上がるようにして、バットの先端に当てた。
ボールは一塁線の手前に転がる。松下がマウンドを駆け下りた時、三塁ランナーの加藤が滑り込んできた。右手でさっとホームベースをはらう。すかさず一塁へ送球し、辛うじて打者走者はアウトにする。
「……ふぅ。あぶなかった」
安堵の吐息をつき、丸井が引き上げてきた。そしてこちらに笑いかける。
「さすがですね」
「な、なにがだよ」
「スクイズ、やはり読んでましたか」
松下は、思わず口をつぐんだ。
スクイズを読まれてると分かってて、それでもやってきただと?もし外されても、成功させる自信があったんだな。あれだけ荒れ球も混ぜたってのに……墨高のやつらには、まるで効いてないのか。
もはや試合の流れを、松下に止めることはできなかった。
この後、二番島田にストレートの四球。続く三番根岸には、得意のカーブをレフト前へ弾き返される。とうとうワンアウト満塁。
そして……墨高の四番、谷口へと打順が回る。
松下は、肩で息をし始めていた。
ダメだ。どうあがいても、向こうの勢いを止められない。もういっそ大橋にスイッチすべきか。いや……この流れじゃ、火に油を注ぐだけだ。くそっ、どうすりゃいいんだ。
こちらの焦燥に関わらず、容赦なくプレイが掛かる。
どうにかフォームを崩させようと、またワンバウントを足元へ投じた。谷口は後ろへ飛んでよける。少しも動じる様子はない。
「た、タイム!」
その時だった。キャッチャーの内山が、マウンドへ走り寄ってくる。
「おい松下。もうムダ球は、投げるな」
悲壮感の漂う眼差しで、告げられた。
「いまさら、なに言ってやがる。真っ向勝負が通じる相手じゃ……」
「強がりはよせ。もう体力、残ってないだろ」
「だ……だから、どうだってんだよ!」
つい口調がきつくなる。
「まだ二回だぞ。ここで試合を捨てようってのか」
「そうじゃねぇよ」
内山はそう言って、ふっと微笑む。
「どうせなら、真っ向勝負してやれ」
思わぬ提案に、松下は目を見開く。
「えっ、おい。本気かよ」
「もちろん危険は承知だ。けど、いろいろ策を講じてみたものの、やつらには通じないじゃないか。それはおまえだって、分かるだろう?」
「う、うむ」
「だったら思いきって、敵の大将を討ちにいこう。もし上手くいったら、また流れを引き寄せられるかもしんねぇ」
さらに内山は、もう一言付け加える。
「それに……あの四番は、おまえのダチ公なんだろ。ちゃんと決着つけろよ」
相棒の心意気を、松下は嬉しく思った。
「分かった。悔いのないボールで、勝負させてもらう」
タイムが解け、松下は投球動作へと移る。こちらに正対する谷口の口が「く、来るな……」というふうに動く。
再開後の初球。アウトコースいっぱいに、速球が決まる。
「ナイスボール!」
「いいぞ松下、その調子で攻めろっ」
チームメイト達が声援する。松下は不思議と、力の湧いてくる気がした。
続く三球目。城東バッテリーは、カーブを選択する。これは勝負球のつもりだ。サインにうなずくと、松下は左足を踏み込み、グラブを突き出し右腕をしならせる。
パシッ。快音が響くと同時に、城東の左翼手が背走し始めた。
打球はぐんぐん伸びる。まだ、伸びる。そして数秒後……白球は、レフトスタンド中段に飛び込んだ。満塁ホームラン。
マウンドに片膝をつき、松下はひそかに苦笑いした。
城東はここで、エース松下が降板。リリーフに一年生の大橋が送られた。
ネクストバッターズサークルにて、イガラシは片膝立ちになる。
眼前のマウンド上では、リリーフの大橋が慌てた様子で投球練習を行っていた。試合展開もあってか、その表情は険しい。
「大橋、思い切っていけよ」
降板した松下が、サードのポジションから声援する。
「気持ちで負けるな。しっかり腕を振るんだ」
明るく後輩を励ます姿に、イガラシは感心した。満塁ホームランを浴び、七点差に広げられた直後である。なかなかできることではない。
「七点がなんだっ。すぐに取り返してやる!」
「あきらめなるなよ。ねばり強く戦えば、なにかが起こるぞ」
松下を習うように、他のナイン達も掛け声を発し続けている。
まいったね、ぜんぜん士気が落ちないぜ。こんなに早くエースピッチャーが降板すりゃ、ふつうはガックリくるものだが。やはり、まだまだ気は抜けないな。
ほどなくバッターラップの声が掛かり、イガラシは右打席に入る。
大橋は、まずアウトコースへ速球を投じた。その一球で、こりゃ本調子じゃないな……とすぐに気づく。ストライクとなったものの、ややボールが高い。
そして二球目。またもアウトコースへ、今度はカーブが投じられる。変化球を狙ってたイガラシは、躊躇なく振り抜いた。
「れ、レフトっ。いやセンター!」
松下が叫ぶ。ライナー性の打球が、左中間を切り裂いた。イガラシは一塁ベースを回り、さらに加速した。二塁ベースも蹴り、迷いなく三塁へ向かう。
「ボール、サード!」
ようやく中継の遊撃手へとボールが渡り、すぐにサードへ送球。松下が捕球するより一瞬早く、イガラシの右手が三塁ベースをはらう。スリーベースヒット。
「……ははっ、さすがだな」
起き上がると、松下が声を掛けてきた。
「左中間への当たりで、いっきに三塁をおとしいれるとは。やられたよ」
「松下さん」
僅かに口元を緩め、イガラシは返答した。
「城東があきらめてないこと、分かります。だからぼくらも手を抜きませんよ」
松下は目を細め、むしろ満足げにうなずく。
「ああ。分かってるさ」
ピッチャー交代後も、墨谷打線の勢いは止まらない。早い回からの登板でアップが十分でなかった大橋に、容赦なく襲いかかる。なんとこの回、いっきょに九点を奪った。
いっぽう守っては、次戦以降を見据えた投手起用を行う。
井口が三回をノーヒットに抑えると、四回には松川へと継投。こちらも難なく三者凡退に抑える。さらに迎えた五回は、谷口が登板することとなった。
攻撃の手をゆるめない墨高は、続く三回に四点、四回にも五点を追加。そして……
マウンド上。谷口が、周囲に声を掛けた。
「最後まで気を抜くなよ。向こうはまだ、あきらめてないぞ!」
ナイン達も、それに応える。
「集中を切らすなっ」
「アウトを一つずつ、大事に取っていこう」
セカンドのポジションにて、丸井は小さく溜息をついた。
谷口さんたら、さっきからニコリともしないで。やはり複雑だろうな。俺っちだって、けっこうツライもの。松下さんとの最後の対決が、こういう展開じゃ……
その時だった。
「松下、思い切っていけ!」
「みんな下を向くな。最後まで喰らいつくぞ」
「そうだ。なんとしても一点取るんだっ」
一塁側ベンチより、城東ナインの声援が響く。誰もが必死な形相だ。
ひょえぇ……城東のやつら、まだ士気は衰えてないのかよ。これだけ大差がつけば、投げやりになってもおかしくないのに。松下さん、いいチーム作ったんだな。
「丸井」
ふと谷口に呼ばれる。
「は、はいっ」
「つぎは松下からだ。なにか仕かけてくるかもしれんから、それも頭に入れておけ」
「ええ、心得てますとも」
「む。いつもどおり、しっかりたのむぞ」
なるほど、と胸の内につぶやく。
城東があきらめてないこと、谷口さんは分かってたんだな。それで点差が開いても、ぜったいに手は抜かないぞって。そうだよな……必死でぶつかってくる相手には、こっちも全力で立ち向かわにゃ。
その松下が、右打席に入ってくる。
すでに疲れ切っている様子だが、眼光の鋭さは変わらずだ。味方から真っ向勝負を促されたのか、もうバスターの構えはしない。さあ来いっ、と気合の声を発した。
初球。インコース高めいっぱいに、谷口の速球が決まる。松下は手が出ない。
「……は、速い」
呻くような声が漏れた。同時に、城東ベンチがざわめく。
「な、なんだよ。いまのスピード」
「あのピッチャー、コントロールだけかと思ってたら」
「うむ。昨年戦った時より、ずっと速くなってる」
ははっ、ようやく谷口さんの恐ろしさを思い知ったか……と笑いかけるのを、ふと丸井はこらえる。周囲の思惑をよそに、眼前の二人は真剣だ。
二球目は、またもインコース高めの速球。今度は果敢にスイングしたものの、松下のバットは空を切る。
「ま、松下ガンバレ!」
「あきらめるな。俺達がついてるぞっ」
味方の声援に、松下は一瞬口元を緩めた。
そして三球目。インコース低めに、谷口はフォークボールを投じる。松下の気力のスイングを嘲笑うかのように、膝元から鋭く落ちた。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールと同時に、谷口はバッターに背を向ける。短く吐息をつき、そして周囲を見回す。
「……ワンアウト。あと二つ、かく実にいこう!」
キャプテンは、久しぶりに微笑んだ。
けっきょく谷口は、三者三振で試合を締めくくる。終わってみれば五回コールド。十九対〇の大差をもって、墨高は初戦を飾ったのだった。
試合後の挨拶が済み、谷口は他のナイン達と一緒に、ベンチへ引き上げていく。
「……た、谷口っ」
ふと背中越しに呼ばれる。振り向くと、松下が立っていた。
「や、やぁ松下」
どう答えていいものか、さすがに戸惑う。
「そう気を使わないでくれよ」
松下は笑って言った。目元に、涙のあとが見える。
「正直、まいったよ。墨高は強いな」
「ははっ。そうか、ありがとう」
こう答えるのが精一杯だった。相手はうなずくと、右手を差し出してくる。
「谷口。ぜったい行けよ、甲子園!」
旧友の手を握り返し、谷口は「ああ」と短く返事した。
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