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第12話 イガラシ対箕輪打線!!の巻

1
なおも雨の降り続く駒沢球場。五回表を終えてスコアは5-3、墨高は二点のビハインドを追う。
一塁側ベンチ手前で、墨高ナインは攻撃前の円陣を組む。
「いいかみんな!」
キャプテン谷口が快活に掛け声を発した。
「あの児玉は春の甲子園で、優勝校相手に力投した投手だ。打ちくずすのはカンタンじゃない。しかし…今の箕輪に、彼以上の投手はいない。少しでもねばって、なんとか攻りゃくの糸口をつかむんだ。いいな!!」
谷口の檄に、ナインは「オウヨッ」と応える。
やがて円陣が解かれた後、イガラシは控え捕手の根岸に声を掛けた。
「根岸、ちょっとつき合ってくれ」
「よしきた」
二人は足早にブルペンへと向かう。距離を置いて根岸が屈み込むと、イガラシは「いくぞ」と一声掛けてから投球を始めた。ズバン、とミットの音。
そんな後輩の姿を、谷口は複雑な眼差しで見つめる。
(あと四イニングもあるのか。箕輪相手に、こんな悪天候で……)
傍らで、イガラシと同じ一年生の久保が溜息混じりに言った。
「やれやれ。イガラシのやつ、こんなに早く投手復帰しちゃったか」
谷口は「久保」と呼びかけ、尋ねてみる。
「じっさいどうなんだ。昨年の選手権で、彼はそうとうムチャしたそうだが」
「え、ええ……」
久保は僅かに目を伏せる。
「なにせあの時は、激戦につぐ激戦でしたからね。選手権の後…あいつひと月ばかり、コップも持てないくらいでしたから」
「そ、そうだったのか……」
谷口が渋面になる。久保は少し笑って話を続けた。
「とうめん内野手だって言われた時は、ホッとしたくらいなんです。それに…あっ、これはここだけの話なんスが……」
おどけて言った後、声をひそめて告げる。
「イガラシのやつ、医者に言われたらしいんスよ。また肩を壊すようなことがあれば、二度と野球ができなくなるかもしれないって……」
谷口の顔が引きつる。
「に、二度と……」
バックスクリーンのスコアボードには、アウトカウントのランプが二つ灯る。
マウンド上。箕輪の二年生投手児玉が、ロージンバッグを右手にパタパタと馴染ませていた。その眼前で、険しい表情の倉橋が、バットの握りを短くして構える。
児玉が投球動作を始めた。力強いワインドアップモーションから、左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕をしならせる。
ボールは打者の背中付近から鋭く曲がり、キャッチャー中谷がミットを構える内角低めに飛び込む。倉橋は「う…」と顔を歪め、スイングできず。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。中谷は「ナイスボールよ!」と投手に一声掛けて返球する。
(な…なんてカーブだ。あの高さから低めいっぱいに……)
倉橋は目を見開いた。一方、児玉はフンと鼻を鳴らす。
(のけぞらずにいられるたあ、さすが四番だぜ)
ホームベース奥にて、中谷が右手の指でサインを伝えてきた。
(おつぎはこれよ)
児玉は「む!」とうなずき、プレートに足を掛けた。間を置かず二球目を投じる。シュッ、と風を切る音。
一転して外角高めの速球。倉橋は「くっ……」と慌ててスイングしてしまう。
ガッ。凡フライがファースト堤野の頭上へ力なく上がる。打者は「くそ!」とバットを放り、走り出す。
「オーライ!」
堤野が周囲へジェスチャー混じりに声を掛け、難なく額の前で捕球した。
「アウト、チェンジ!」
一塁塁審のコールを聞いて、箕輪ナインは互いに声を掛け合いながら、足早にベンチへと引き上げていく。
「いいぞ児玉!」
「さあ、つぎこそ墨谷にトドメを刺してやろうぜ!!」
他方、一塁側ベンチ。墨高ナインから「ああ・・」と溜息が聞かれる。
「く…倉橋まで、あんなカンタンに打ち取られるたあ……」
三年生の横井がうめくように言った。さらにベンチ隅のキャプテン谷口は、渋面で胸の内につぶやく。
(まいったな。あの児玉という投手、打ちくずすのは容易じゃないぞ)
そしてネクストバッターズサークル。次の五番打者として控えていたイガラシは、苦笑いしてバット片手にベンチへと向かう。
(やれやれ、さすがだ……)
小柄な一年生投手の横顔に、マウンドから降りてきた児玉が微笑を浮かべる。
「この箕輪に歯向かうたあ、いい度胸してるじゃねえか!」
相手投手の眼差しをよそに、イガラシは表情一つ変えずベンチに戻る。バットをケースに収め、グラブを手にしたところで、谷口が呼びかけた。
「イガラシ」
「はい」
振り向いたイガラシに、谷口は励ますように言った。
「このぶんだと根比べになりそうだが、臆することはない。バックもついてる」
「ええ」
一年生は快活に答える。
「あの箕輪と真っ向勝負できる、またとない機会ですからね。それに……」
ちらりとバックネット方向に目を向けた。雨天の中、なおも佐野ら東実の三人組が、興味津々とグラウンドを見つめている。
「ああして東実にぼくらの試合ぶりを見られてるんです。なんとしても逆転して、墨谷につけ入るスキなんかないってこと、思い知らせてやりますよ!」
その力強い発言に、谷口は僅かに目を伏せる。
「む、そうだな……」
イガラシは首を傾げた。
「キャプテン?」
「えっ、ああ……なんでもない」
谷口は苦笑いして、小さく右こぶしを突き上げる。
「これだけ闘志があれば、きっと箕輪とも渡り合えるさ。ただ……」
そこまで言って、谷口は口ごもる。
「は、はあ……」
困惑するイガラシ。しばし二人とも押し黙る。
「イガラシ、なにしてんだ!?」
その時、グラウンドから倉橋が呼んだ。
「あっ……はい! 今、行きます!」
イガラシは「どうも」と谷口に会釈して、ベンチを飛び出す。
谷口はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。小柄な背番号「6」の背中が、雨のグラウンドへと消えていく。
マウンドに立ったイガラシは、スパイクで足下をガッガッと固める。
(谷口さん。どうも、まだおれの肩を気にしてるようだな……)
表情を険しくして、胸の内につぶやく。
(だったら…なおのこと、弱みを見せるわけにはいかねえな!)
一方、一塁側ベンチ手前。箕輪ナインはエース東を中心に、円陣を組む。
「見てのとおり、あのイガラシは多彩な変化球を織り交ぜてくる。どれでも合わせる気でいたら、彼の術中にはまってしまうぞ」
厳しい表情で告げた後、東は声をひそめて言った。
「だが、気になることもあった。そうだな寺沢?」
話を向けられ、細身の寺沢が答える。
「ああ。前の武内に投げた落ちるシュートは、きっちり外角低めに決まってたが…おれに投げたカーブは、真ん中に入ってきた」
「な、なるほど!」
長身の上林がニヤッと笑みを浮かべた。
「あのイガラシ、まだうまくカーブをコントロールできないつうことか!」
東はゆっくりとうなずく。
「そこまでは言い切れん。だが……少なくとも、落ちるシュートほどの精度はなさそうだ」
「とすると…ねらいダマはカーブ?」
小柄な山野が問うてくる。東は首を横に振った。
「いや、あのボウヤのことだ。こっちがカーブをねらえば、それを察して球種を変えてくるだろう。ねらうのは……落ちるシュートの方だ!」
「まてよ東」
清水が怪訝げに眉をひそめる。
「落ちるシュートをねらったとしても、けっきょく向こうが気づけば球種を変えてくるのは同じじゃねえのか? どっちみち読まれちまうなら、コントロールの甘いカーブを打つのがよさそうに思えるが」
この発言に、山野も「た、たしかに……」と同調する。
「考えてもみろ」
東は表情を引き締めて言った。
「いくら多彩な変化球があるといっても、投手が勝負どころで頼るのは、いちばん自信のあるタマだ」
「そういうことか……」
キャッチャー中谷が目を見開く。
「さっき井口にしたように、イガラシの頼みのツナをねらい打ちするってわけだな!」
「うむ。有望なプレーヤーとはいえ、まだ一年生だ。平気ではいられまい」
東の言葉にうなずくと、中谷は周囲を見回して言った。
「いいかみんな! イガラシをたたけば、もう墨谷に打つ手はない。箕輪の底力、今こそ見せつけてやれ。いいな!!」
正捕手の檄に、箕輪ナインは「オウッ」と応える。
しかし東は僅かに目を伏せ、胸の内につぶやく。
(もっとも…イガラシがそうやすやすと、こっちの策にハマるとは思えん。あの谷口くんが、さっきのピンチに切り札として送りこんできた男だからな!)
東は顔を上げ、視線を一塁側ベンチに移した。ダッグアウト端に立つキャプテン谷口が、グラウンドへと向けている。
「……?」
エースは小さく首を傾げた。
(谷口くん、みょうにけわしいな。中谷の言うように、もう墨谷にはピッチャーがいない。さしもの彼も気が気じゃないのだろうか……)
やがて雨中の駒沢球場に、ウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 六回表、箕輪高校の攻げきは…九番、センター青山くん!
細身の青山は左打席に入ると、バットの握りを短くして構えた。それからマウンドのイガラシに向かって叫ぶ。
「さあこい!」
打者の傍らで、倉橋はマスク越しに目を丸くした。
(ほう。箕輪のバッターが、こうも闘志むき出しでくるたあ……)
それからイガラシと目を合わせ、表情を険しくする。
(気をつけろ。やつら、いよいよ本気で向かってくるぞ!)
アンパイアが「プレイ!」とコールしてから、倉橋は右手の指でサインを出す。
(あちらさんの気迫に押されぬよう、こっちも強気でいこうぜ!!)
イガラシは冷静な表情で「む…」とうなずき、プレートに足を掛けた。そしてワインドアップモーションから投球動作へと移る。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角低めの速球。青山はスイングせず。ズバン、とミットの音。
「ストライク!」
アンパイアのコール。倉橋は「ナイスボールよイガラシ!」と一声掛けて返球してから、ちらりと打者を見やる。
(ちいとも打つ気がなかったようだな。ボールを見きわめようつうこったろうが……)
困惑しながらも、正捕手は二球目のサインを示す。
(そんなら、さっさと追いこんでやれ!)
イガラシはうなずくと、すぐに投球動作を始めた。
またも外角低めの速球。青山は悠然と見送った。倉橋のミットが乾いた音を鳴らす。
「ストライク、ツー!」
打者の傍らで、倉橋は眉をひそめる。
(ま、またかよ……)
マウンド上。スタッと返球を受けたイガラシは、渋面で胸の内につぶやく。
(なんだか、イヤな感じだぜ……)
一方、青山はフッと小さく笑う。
「意外に速いが、おどろくほどじゃねえな!」
倉橋は少しうつむいて、しばし思案する。
(ここで何球も使いたくねえし、つぎで終わらせるとするか)
それからイガラシと目を合わせ、三球目のサインを伝える。
(こいつでしとめてやれ!)
イガラシは「む…」とうなずき、プレートに足を掛けた。そしてテンポよく三球目を投じる。シュッ、と右腕が風を切る。
外角低めのスピードボールが、鋭くシュートしながら沈む。しかし青山はバットをおっつけるようにして、投球を打ち返した。
カキッ。痛烈なライナーがジャンプしたショート横井の頭上を越え、レフト戸室の前でワンバウンドした。バシャッと泥水がはねる。
正捕手は「く…」と顔を歪めた。
(読まれちまったか。それにしたって、落ちるシュートをああもカンタンに……)
一方、マウンドのイガラシはつぶやく。
「へえ。うまく打ったものだな……」
ネクストバッターズサークルでは、長身の上林が一年生投手の横顔を睨む。
「すずしい顔しやがって。今に泣きっ面を拝ませてもらうぜ!」
そして、またウグイス嬢のアナウンス。
―― 一番、ショート上林くん!
上林は右打席に入り、バットを寝かせて構えた。倉橋は「むっ」とマスク越しに打者を見上げる。
(箕輪のことだ、素直に送ってくるとは思えんが……)
イガラシと目を合わせ、倉橋はサインを出す。
(念のため、こいつからいこうか)
一年生投手は「なるほど」とうなずき、セットポジションに就いた。少しボールを長く持ち、投球動作へと移る。
その瞬間、上林はさっとバットを立てた。前進していたサード岡村とファースト加藤が「うっ」と慌てて戻る。
イガラシの投球。外角のスピードボールが、またも鋭くシュートしながら落ちる。
上林は左足を踏み込み、バットを振り抜いた。パシッ。低いライナーが二塁ベース横を破る。セカンド丸井が横っ飛びするも届かず。打球はセンター島田の前で弾む。ランナー青山は二塁ベースを回りかけたところで引き返す。
ホームベース手前で、倉橋は「まいったな…」と顔を歪める。
「読まれたんじゃなく、はじめから落ちるシュートをねらってやがったのか!」
マウンド上。イガラシは足下のロージンバッグを拾い、小さく笑んだ。
「さすがだな。箕輪のトップバッターをまかされるバッターなだけあるぜ」
他方、三塁側ベンチ。
「ナイスバッティングよ上林!」
「さあ、ここでまた突き放してやろうぜ!!」
箕輪ナインが快活に掛け声を発する。
「東。おまえの作戦どおりじゃねえか」
山野がベンチ端のエースへ言った。
「頼みのタマを連打されたんじゃ、あのイガラシもたまったものじゃあるまい!」
東は「あ、うむ……」と曖昧に返事する。
「どうした?」
傍らで、キャッチャー中谷が怪訝げに尋ねた。
「見ろよ中谷」
エースは声をひそめて答える。その視線の先で、イガラシは右手にロージンバッグをパタパタと馴染ませている。白粉が舞う。
「あいつ。動じるどころか、笑ってやがるぜ」
グラウンド上。倉橋は「た…タイム!」とアンパイアに合図して、マウンドのイガラシへと駆け寄る。
「おいイガラシ! 落ちるシュートを連打されたからって、あまり気にするなよ」
「気にするって、なにをです?」
イガラシはあっけらかんと言った。
「な、なにがって……」
一年生投手の返答に、正捕手は困惑する。
「あの箕輪が相手なんですよ」
事もなげにイガラシは言い放つ。
「ぜったいに打たれないタマなんて、あるはずないじゃありませんか。そんなこと気にするヒマに、このピンチをどう切り抜けるか考えるのが先決でしょう」
「うむ、それはそうだが……」
倉橋は少し眉をひそめて、頬をポリポリと搔く。
「ぼくならだいじょうぶです。それより倉橋さん」
ふいにイガラシは表情を険しくした。
「やつらのことです、またなにかしら揺さぶってくるかもしれません。みんなのリードたのみましたよ!」
「あ、ああ……」
まだ戸惑いながらも、倉橋はきびすを返す。
「しかし、たいした男だ」
ホームベース奥でマスクを被り、正捕手は微笑を浮かべた。
「このピンチに、誰より冷静でいられるんだからな!」
マウンドのイガラシは、じっと三塁側ベンチを見つめる。その視線の先で、箕輪のエース東と正捕手中谷が並び立ち、鋭い眼差しをグラウンドへと向けている。
「さっきの井口にといい、今のおれにといい……わざと決めダマをねらうとは考えたな」
一年生投手は不敵に笑う。
「だが…そうと分かってやられるほど、おれは甘かないぜ!」
三塁側ベンチ。東はネクストバッターズサークルの次打者を呼ぶ。
「清水!」
「むっ……?」
打者が振り向くと、エースは帽子のつばを摘まみサインを伝えた。
「なんだい、揺さぶれって……」
清水は困惑した表情を浮かべる。
「いつもなら初球からたたみかけるとこじゃねえか。東のやつ、いやに慎重だな」
ここで、またウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 二番、サード清水くん!
清水は左打席に入り、バットを短くして構えた。その傍らで、倉橋は少し目を伏せて思案する。
(ノーアウト一二塁か。ここも送ってはこねえだろう。箕輪としちゃ一気に攻めたいとこだろうしな……)
倉橋はイガラシと目を合わせ、右手の指でサインを伝える。
(ここらでチェンジアップも使っていこうぜ。打ち気のバッターをかわすには、ぴったりのタマだろう)
ところがマウンドの一年生投手は、首を横に振った。
「えっ?」
首を傾げる先輩捕手に、イガラシはバックネット方向を指し示した。そこには東実の三人が座り、相変わらずグラウンドを見つめている。
(ダメですよ。佐野たちがてい察中だというのに、こんなに早く新球を見せちゃ)
倉橋は「おいおい」と苦笑いを浮かべた。
(こんなピンチに、手の内を隠す余裕なんてねえはずだが……)
束の間考えた後、正捕手は別のサインを出す。
(しかたねえ。こいつで詰まらせよう)
イガラシは「む…」とうなずき、セットポジションに就く。さっと左足を上げ、投球動作へと移る。
その瞬間、清水はバットを寝かせた。サード岡村、ファースト加藤がダッシュする。さらにイガラシもマウンドを駆け降りる。
内角のシュート。ところが清水は素早くバットを引く。バシッ、とミットの音。
「ボール!」
アンパイアのコール。ホームベース前で、イガラシは渋面になる。
「なんでえ、やらないのかよ」
倉橋は「ナイスボールよ!」と返球しながら、チラッと打者を見やる。
(みょうだな……)
正捕手は胸の内につぶやく。
(ここは打つにしても送るにしても、はっきりさせていい場面のはず。それをまた揺さぶってくるたあ、やつらなにを考えてやがる……)
イガラシがマウンドのプレートに足を掛けた。倉橋もマスクを被り直し、ホームベース奥に屈む。
(念のため、つぎもこれよ)
正捕手のサインに、イガラシはうなずく。眼前で清水がバットを構え直した。一年生投手はセットポジションに就き、二球目を投じる。
初球に続いて内角のシュート。またも清水はバットを寝かせた。
再び岡村、加藤、イガラシがダッシュする。しかし打者はさっきと同じくバットを引いた。バシッ、とミットが鳴る。
「ボール!」
アンパイアのコールと同時に、ボールカウントのランプが二つ目も灯る。
「ま、また?」
倉橋は首を傾げた。
(箕輪め、いったいなにを……)
そこまで考えて、正捕手はハッとした。思わず相手ベンチを睨む。視線の先で、箕輪のエース東がなおも厳しい眼差しをグラウンドへと向けている。
(やつら、まさかイガラシを疲れさせようって気じゃあるめえな!?)
一塁側ベンチ。墨高のキャプテン谷口も表情を険しくする。
(まだそうと決まったわけじゃないが。だとしたら、ちとまずいぞ……)
他方、三塁側ベンチ。
「お…おい、見ろよ東!」
東の傍らで、キャッチャー中谷が笑いかけた。
「墨谷のキャッチャーもキャプテンも、けわしい顔してやがるぜ。おまえの作戦が効いてきたようだな!」
しかしエースは冷静に答える。
「たった二球じゃ、まだ分からんよ……」
グラウンドでは、倉橋がマスク片手にうつむき加減になる。そこに「倉橋さん!」とマウンドのイガラシが呼びかけた。正捕手はハッとして顔を上げる。
「た、タイム!」
倉橋はアンパイアに合図して、マウンドへと駆け寄る。
「どうも向こうは前に飛ばす気がないようですし、さっさと追いこんじゃいましょう」
あっけらかんとイガラシは言った。倉橋は「えっ?」と戸惑う。
「そんなことして……やつらがヒッティングに切りかえてきたら、どうするんだ?」
「いえ、それはないと思います」
一年生投手はきっぱりと答える。
「こっちの決めダマを連打して、精神的優位に立てたんです。相手がいやなことをする箕輪の野球なら、当然ヒッティングの場面でしょう。それをしなかったということは……」
「な、なるほど……」
倉橋は目を見開いた。
「畳みかけるより揺さぶろうってのが、やつらの作戦つうわけだ!」
イガラシは「ええ」とうなずいた。
「よし。それなら追いこんで、様子をうかがうとするか」
正捕手の言葉に、一年生投手は「はい!」と快活に応える。
「それじゃ、サイン頼みます」
「オウヨッ」
そこまで会話を交わし、倉橋はポジションに帰りかけた。しかし、またマウンドへと振り向く。
「……?」
怪訝げに首を傾げるイガラシ。倉橋は神妙な顔で告げる。
「イガラシ。箕輪が相手とはいえ、これは練習試合なんだ。ここで打たれたからって、どうということもねえんだからな」
「なにを言うんですか倉橋さん」
イガラシは少し笑って言った。
「そんな気でいたら、おさえられるものもおさえられなくなってしまいますよ!」
「う…うむ。それはそうだが……」
倉橋は苦笑いして、胸の内につぶやく。
(こいつ。ほんと谷口と、同じことを言いやがる……)
ほどなくホームベース奥に戻り、倉橋はマスクを被り直す。それからチラッと三塁側ベンチを見やった。エース東がなおも険しい眼差しをグラウンドへと向けている。
(しかし……こうしてつぎからつぎへと策を打ってくるのを見ると、よほど箕輪はイガラシを警戒しているようだな)
やがて清水が左打席に入り直し、再びバットの握りを短くして構えた。アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。
マウンドのイガラシと目を合わせ、倉橋は右手の指でサインを出す。
(さ、どうやら打ってこねえようだし……)
イガラシは「む…」とうなずき、プレートに足を掛けた。そしてセットポジションから投球動作へと移る。
その瞬間、やはり清水はバットを寝かせた。サード岡村、ファースト加藤がまたダッシュする。イガラシも投球と同時にマウンドを駆け降りる。
外角低めの速球。清水は素早くバットを引く。倉橋のミットが乾いた音を立てる。
「ストライク!」
アンパイアのコール。捕球と同時に、倉橋は二塁送球の構えをした。ランナー青山は身を翻して帰塁する。
(ここでスチールはないと思うが、いちおう警戒しとかねえとな……)
返球してから、倉橋は屈んで次のサインを伝える。
(おつぎもこれよ)
一年生投手はうなずくと、セットポジションから次の一球を投じた。またもバットを寝かせる清水。ダッシュする岡村、加藤、そしてイガラシ。
やはり清水はバットを引いた。ズバン、とミットの音。
「ストライク、ツー!」
アンパイアがコールの後、両手の指を二本ずつ立てて示した。
「ツーボール、ツーストライク!」
返球を受け、イガラシはチラッと三塁側ベンチを見やる。
(さて、どうしてくるかな……)
一年生投手の視線の先。東は苦笑いを浮かべた。
(まいった。よく頭の回るぼうやだ……ん?)
東はふと、打席の清水と目が合う。小兵の打者はこちらに鋭い眼差しを向けている。
(やらせてくれよ東。相手投手を揺さぶるのは、二番のおれの仕事だ!)
エースは僅かに笑んでうなずいた。
(分かった、やってみろ清水!)
清水は正面に向き直ると、マウンド上のイガラシを睨んだ。
(いくぜ一年坊主! 箕輪の野球ってモノを、たっぷりと味わわせてやるぜ!!)
相手打者の気迫に、イガラシは渋面になる。
(ここへきて、箕輪のやつら……どいつもこいつも目の色を変えてきたな!)
一年生投手の眼前で、正捕手が次のサインを出す。
(追いこんだことだし、こいつで引っかけさせてやれ)
イガラシは「む…」とうなずき、セットポジションに就く。その瞬間、清水はバットを寝かせて構えた。
「えっ……」
倉橋は一瞬戸惑う。しかしイガラシと目を合わせ、首を横に振る。
(かまうな。どうせ素直に送ってくるはずがねえんだ!)
そのままイガラシは投球動作へと移る。
バントに備え、岡村と加藤がダッシュした。ところが投球の瞬間、打者は素早くヒッティングに切り替えた。
外角のスピードボールがククッと曲がり、さらに外へ逃げていく。
清水はバットをはらうようにスイングした。カキッ。しかし打球は三塁側ファールグラウンドへ転がっていく。
「ファール!」
三塁塁審がコールと同時に、頭上で両手を交差した。倉橋は顔を歪める。
(み、箕輪のやつら……まさか!?)
続く六、七、八球目もファールとなった。一塁側ファールグラウンドに二球、三塁側ファールグラウンドに一球転がる。
イガラシは間を取るように足下のロージンバッグを拾い、右手に馴染ませる。パタパタと白粉が舞う。
「ハハ…こりゃ効くぜ。まったく手段を選ばねえ。これも箕輪の野球つうわけかい」
一方、倉橋は三塁側ベンチを睨む。
(勝っているチームがファール攻めたあ……いくらイガラシを打ちあぐねてるからって、練習試合でやることじゃあるまい!)
そこに一塁側ベンチより、谷口が「あわてるな倉橋!」と呼びかける。
(落ちつくんだ。まだそうと決まったわけじゃない。ここはまず、最初のアウトを取ることに集中するんだ!)
倉橋は「た、谷口……」と渋面でつぶやき、グラウンドへと向き直る。そしてナインへ声を掛けた。
「ノーアウト一二塁よ! しっかり守っていこうぜ!!」
正捕手の掛け声に、墨高ナインは「オウヨッ」と応える。
一方、三塁側ベンチ。ダッグアウト隅に立つ東は、僅かに表情を曇らせた。無意識に、そっと自分の右肩を押さえる。
傍らで、正捕手中谷が怪訝げに尋ねた。
「どうした?」
東は苦笑いして答える。
「あ……いや、なんでもない」
他方、倉橋はマスクを被り直し、あることを決心する。
「ようし。どのみち前へ飛ばす気がねえなら……」
それから右手の指でサインを伝えた。イガラシは僅かに笑んでうなずく。
「さすが倉橋さん、強気だぜ!」
雨中のマウンドで、イガラシはロージンバッグを放り、セットポジションに就く。
打席の清水は、やはりバットを寝かせる。そして一年生投手が投球動作を始めた。またも岡村と加藤がダッシュする。
投球の瞬間、清水はまたもヒッティングに切り替えた。
外角低めのスピードボールが、鋭くシュートしながら沈む。清水は「う……」と顔をしかめつつ、バットを放り投げるようにスイングする。
ガッ。辛うじてバットの先端にボールを当てた。打球は三塁側ファールグラウンドを鈍く転がっていく。
倉橋はマスク越しに顔を歪めた。
(く……また当てやがった!)
一方、清水はホッと安堵の吐息をつく。
「これが落ちるシュートか。ベンチで見るより、ずっとキレがあるぜ!」
三塁側ベンチ。東は帽子のつばを摘まみ、清水へサインを出した。打者は一旦打席を外し「バントね……」と渋面でうなずく。
「これだけ揺さぶったんだし。あとはクリーンアップにまかせるとするか!」
清水は打席に戻ると、今度はヒッティングの構えをした。ホームベース奥の倉橋は、小さく首を傾げる。
(今の一球で作戦を変えたのか? それなら……)
マウンド上。イガラシは「む…」とうなずき、プレートに足を掛けた。しばし間を置いてから、投球動作へと移る。
投球の瞬間、清水はバットを寝かせた。慌てて岡村と加藤がダッシュする。
またも外角に落ちるシュート。コンッ。清水はちょうどマウンドと一塁線の中間地点に鈍く転がした。イガラシがマウンドを駆け下りて捕球するも、すでに二塁ランナー青山は三塁へ右足でスライディングしている。
「くっ……」
イガラシは三塁封殺を諦め、素早く一塁へ送球した。清水はベースへ頭から滑り込む。間一髪のタイミング。
「アウト!」
一塁塁審のコール。イガラシは「ちぇっ」と舌打ちする。
「当たり前のようにスリーバントを決めるたあ、さすが箕輪の二番だぜ!」
ここで、またウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 三番、ピッチャー児玉くん!
児玉は右打席の白線手前で立ち止まり、チラッと相手捕手を見やる。
(おれが打って返したいとこだが、ここはおそらく……)
ポーカーフェイスで児玉が打席に入ると、倉橋はすっくと立ち上がり、ホームベースを外して反対側の左打席奥に移動する。
ネクストバッターズサークル。次打者の堤野は「なにっ!?」と青筋を立てた。硬式用バットとマスコットバットを合わせ、ビュッ、ビュッと力任せに振り回しながら、一人胸の内につぶやく。
(児玉を歩かせて、四番のおれと勝負たあ……生意気な!!)
そしてイガラシが山なりのボールを四球投じる。
「ボール、フォア! テイクワンベース!」
アンパイアがコールと同時に、一塁ベース方向を指さした。児玉はバットをそっと足下に置き、ゆっくりと一塁へ歩き出す。
(塁が空いているとはいえ、一年生が満塁で四番勝負を選ぶとはな!)
児玉はベースに就くと、マウンドを振り向いて僅かに笑みを浮かべた。
―― 四番、ファースト堤野くん!
堤野は両手をペッペッと唾で湿らせた後、バットを担ぐようにして打席へと向かう。
「一年生のくせに、いい度胸してやがる。だが……おれとの勝負を選んだこと、後悔させてやるぜ!」
四番打者は右打席に入り、スパイクで足下を均す。それからバットの握りを長くして構えた。マウンドの相手投手を睨み、気合の声を発する。
「さあ、こい!」
打者を横目に、キャッチャー倉橋は思案を巡らす。
(打ち気満々だな。ここはゴロを打たせて、ダブルプレイをねらうとするか)
そしてイガラシと目を合わせ、右手の指でサインを伝える。
(内角のシュートで引っかけさせてやれ!)
ところが一年生投手は、首を横に振った。
(なに? しょうがねえな、それじゃ……)
倉橋はサインを変える。しかしイガラシは、またも首を横に振る。
(イガラシのやつ。この期に及んで、なにを悩んでやがる!?)
正捕手は首を傾げた。眼前の一年生投手は、思いのほか平静さを保ってこちらを見つめている。ここで堤野が「タイム!」とアンパイアに合図して、一旦打席を外す。
(フフ…ここにきて、サインが決まらないのか。あのイガラシも、絶体絶命のピンチとあっては、さすがに平常心を保てないようだぜ!)
ほどなく堤野は「どうも」とアンパイアに合図して、打席に戻りバットを構え直す。一方、倉橋はなおも困惑の表情を浮かべる。
(シュートもカーブもダメだって? かといって直球じゃ、カンタンにミートされちまうし……えっ、まさか……)
正捕手はあることに思い至り、前の二球と異なるサインを出した。マウンドの一年生投手は、僅かに笑んでうなずく。
(ば……バカな!)
倉橋は驚いて目を見開いた。
(落ちるシュートだと!? ねらわれてると分かってて、なんでまた……)
その時、背後でアンパイアがコホンと咳払いする。
「まだかね?」
倉橋は「あ、どうも……」と曖昧に返事して、またイガラシと目を合わせた。
(分かったよ。どっちみち、かく実におさえられる保証なんてねえんだ。おまえの度胸に賭けてみようじゃないか!)
ようやくイガラシがプレートに足を掛ける。しばし間合いを取った後、セットポジションから投球動作を始めた。さっと左足を上げて踏み込み、右腕を振り下ろす。
内角へスピードを抑えたボールが投じられた。それが鋭くシュートしながら沈む。
「なにっ!?」
堤野は戸惑いながらスイングした。しかしタイミングがずれ、上体が泳ぐ。カキッ。打球は三塁側スタンドに飛び込む。
「そうか!」
思わず倉橋は声を上げた。
(なるほど…イガラシのやつ、考えたな! スピードを落とすことで、ねらわれているのを逆手に取るとは!!)
他方、堤野は顔を歪め、呻くようにつぶやく。
「ねらわれてるのを知ってて……あのヤロウ、どこまでナメやがるんだ!」
三塁側ベンチ。すかさずエース東が「堤野!」と呼びかける。
「落ち着くんだ。ムキになってふり回すと、墨谷の思うツボだぞ!」
打者はハッとして「あ、うむ……」とうなずく。
堤野が打席に入り直すのを待ってから、倉橋は次のサインを出す。
(さあ、向こうが面食らっているうちに……)
イガラシは「む…」とうなずき、今度は間を置かずに二球目を投じた。
一転して内角のスピードボール。しかし、またも鋭くシュートしながら落ちる。
「く……」
堤野は窮屈なスイングを強いられる。ガッ。投球はバットの先端に当たり、三塁側ファールグラウンドを鈍く転がっていく。
「く…くそっ、ねらってたはずが……」
堤野の顔に、焦りの色がにじむ。
他方、ネクストバッターズサークル。次打者の五番中谷は、眼差しを険しくしてグラウンド上の光景を見つめる。
(まずいな。ここをしのがれるようなことがあれば、流れが墨谷に渡ってしまう……)
そして打席の堤野は、バットの握りを短くして構えた。
(なりふりかまってる場合じゃねえ。どうあってもランナーを返さねえと!)
打者の変化に、倉橋は「ほう」と眉をひそめる。
(バットを短く持って、ミート打法できたか。気をつけろイガラシ。箕輪の四番バッターが、とうとうプライドを捨てて向かってくるぞ!)
マウンド上。イガラシは静かな佇まいで、相手打者を見つめ一人つぶやく。
「相手の嫌なことをやるのが箕輪の野球か。だったら……」
プレートに足を掛け、セットポジションから投球動作へと移る。スパイクの左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
「そのもくろみごと……たたきつぶしてやる!!」
内角低めのスピードボール。鋭くシュートしながら打者の膝下へ落ちる。
「うっ……」
堤野はスイングするも、バットは空を切った。倉橋はミットを下向きにして、すくい上げるように捕球する。
「ストライク、バッターアウト!」
雨中にアンパイアのコールが響く。ファースト加藤が「おおっ!」と声を上げた。さらにセカンド丸井が「ナイスピーよイガラシ!」とマウンド上の後輩へ呼びかける。
「や、やられた……」
三振を喫した堤野は唇を歪め、足取り重くベンチへと向かう。三塁側ベンチの箕輪ナインから「ああ・・・」と大きな溜息が漏れた。
2
ダッグアウト隅に立つ東は、苦笑いを浮かべてつぶやく。
「ここまでやるとは……!」
横を向くと、他のナインが伏し目がちになっていた。ベンチ内に重苦しい空気が漂う。
「おい、まだツーアウトだぞ。顔を上げろ!」
エースの檄に、箕輪ナインは「オ・・オウッ」と応える。ただその表情は硬い。
(しかし……まずいね、どうにも。せっかく高まったナインの士気が……)
東の視線の先で、イガラシが「ツーアウト!」と掛け声を発した。周囲の墨谷ナインも力強く応える。
「いいぞイガラシ!」
「この調子で、箕輪をねじふせてやれ!!」
東はうつむき加減になり、束の間思案する。
(もう一手、あるにはあるが……)
エースは浮かない顔で、また自分の右肩をさする。その時だった。
「タイム!」
ふいにネクストバッターズサークルの中谷が、アンパイアへ合図した。そしてベンチに駆けてくる。
「な、中谷……?」
戸惑うエースをしり目に、正捕手は他のナインへ呼びかけた。
「みんな。ちょっと来てくれ」
今しがたベンチに戻ってきた堤野が「どうした?」と返事して、歩み寄ってくる。さらに他のナインも集まってくる。
「お…おい。急にどうしたってんだ?」
怪訝げな東に、中谷は振り向いて小さく笑む。
「心配するな、悪いようにはしないから」
「中谷……」
正捕手はナインへ向き直り、神妙な顔で言った。
「ねらいダマを直球に変えるんだ。やつは変化球こそ多彩だが、直球はそれほど速いわけじゃない。しっかり引きつけて打ち返そう」
「む…理屈は分かるが、そうカンタンにいくものか?」
小兵の清水が渋面で尋ねてくる。
「おれや堤野の打席で分かったろうが、やつはこっちの出方によって、自在に投球を変えられる投手だ。直球ねらいだと分かれば、きっとまた……」
「分かってる」
中谷は短く答えた後、声をひそめてさらに言った。
「だったら……やつが直球を投げるまで、てってい的にファールでねばるんだ。そうすりゃ向こうのバッテリーもしびれを切らして、いつか球種を変えてくるだろう」
正捕手の発言に、ナインから「ええっ」と驚嘆の声が上がる。その傍らで、エースは言葉を失う。
「……!」
大柄な武内が「おいおい……」と溜息混じりに割って入る。
「たかが練習試合で、しかも一年生相手にそこまでやる必要があるのか?」
「武内。もう……たかがなんて言える状況じゃないってことぐらい、おまえにも分かるだろう?」
中谷が鋭い眼差しで発した言葉に、武内は思わず息を呑む。
「う、うむ……」
正捕手はかすかに表情を和らげ、さらに話を続ける。
「ここでイガラシを止めなければ、間違いなく墨谷は勢いづく。それで負けでもしたら、おれ達はまた自信を失うことになる。そんなことにさせないためにも……なんとしてもイガラシを打ちくずすんだ。いいな!」
中谷の檄に、箕輪ナインは「オウッ」と力強く応えた。しかし東は一人、複雑な表情のまま黙り込んでいる。
「……」
その背中を、中谷がポンと叩く。
「東、すまん」
エースは「え?」と目を見上げる。
「いい気分がしないのは分かってる。昨年の甲子園で、相手に同じ攻め方をされて、おまえは……」
そこまで言うと、中谷は言葉を切り、どこか切なげな笑みを浮かべた。
「中谷……」
困惑したようなエースに、相棒捕手は力を込めて告げる。
「東、おれはなんだってやるさ。もう一度おまえと優勝旗を握るためならな!」
一方、一塁側ベンチ。
「やれやれ。どうにかヤマをひとつ越えられたが……」
墨高のキャプテン谷口は、厳しい表情で雨中のグラウンドを見つめる。
「ただ打ち取られる箕輪じゃない。きっとなにか、つぎのテを打ってくるはず!」
そして、またウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 五番、キャッチャー中谷くん!
中谷は右打席に入り、こちらもバットの握りを短くして構えた。その立ち姿に、キャッチャー倉橋は表情を険しくする。
(やたら話しこんでたようだが……ツーアウト満塁で、そう策もあるまい)
倉橋はホームベース奥に屈み、イガラシと目を合わせ、右手の指でサインを示す。
(とはいえ箕輪からすりゃ、このチャンスを逃したくないはず。慎重にいくぞ!)
マウンド上。イガラシは「む…」とうなずき、プレートに足を掛けた。そしてセットポジションから投球動作へと移る。
その瞬間。中谷はバットを寝かせ、三塁ランナー青山がホームへ突っ込んできた。さらに上林と児玉もスタートする。
倉橋がマスク越しに「なに!?」と声を上げる。サード岡村とファースト加藤が慌ててダッシュする。さらにイガラシも「く……」とマウンドを駆け降りる。
打者を巻き込むような内角のカーブ。鋭く変化するもコントロールしきれず、ホームベース手前でショートバウンドする。中谷は「おっと」と身をよじりながらバットを引く。
「うっ……」
倉橋が咄嗟に両膝をつき、ボールを前に弾いた。すぐにそれを拾い上げ、三塁送球の構えをするも、青山は「とったか!」と反転して素早く頭から帰塁する。
正捕手が立ち上がると、アンパイアが「ほれ」と替えのボールを渡してきた。
「どうも」
受け取ったボールを返球して、倉橋は軽く一年生投手を睨む。
(まったく、ヒヤッとさせやがって)
イガラシは苦笑いして、小さく頭を下げた。それから渋面で胸の内につぶやく。
(やれやれ。曲がりが大きいぶん、まだうまく制球しきれないな……)
一方、倉橋はマスクを被り直し、渋面でチラッと中谷を見やる。打者は鋭い眼差しで、ぬかるんだ足下をガッガッと固めている。
(満塁でバントエンドランだと? いくら四番を打ち取られたからって……箕輪め、なにを考えてやがる!?)
倉橋は眉をひそめながらも、正面へと向き直り次のサインを伝える。
(転がされて、またエラーしないともかぎらねえ。なるべく当てさせないタマでいこうよ)
マウンド上。一年生投手は「よしきた!」とうなずき、再びセットポジションに就く。眼前で、中谷がまたバットの握りを短くする。
しばしの間合いの後、イガラシはさっと左足を上げた。
その瞬間、中谷がまたバットを寝かせ、三人のランナーがスタートする。岡村と加藤、さらにイガラシまでも一斉にダッシュする。
内角低めの落ちるシュート。ところが中谷は、初球と同じくバットを引いた。倉橋がミットを逆手にして捕球する。バシッ。
「ストライク!」
アンパイアのコール。
「このっ……!
倉橋はすぐさま送球の構えをするも、やはり青山は身を翻して手から帰塁した。後続のランナーもそれぞれ戻る。
(どういうこったい?)
投手へ返球して、正捕手は首を傾げた。
(バントエンドランにしちゃ、いやに帰塁が早いじゃねーか)
やがて中谷が打席に入り直す。そして今度は、始めからバットを寝かせて構えた。思わぬ打者の動きに、倉橋は渋面になる。
(こいつ、なにをねらってやがる!?)
中谷はバットを寝かせたまま、傍らの相手捕手へ煽るように言った。
「どしたいキャッチャー。さっさと投げさせろよ」
打者の挑発を無視して、倉橋はイガラシと目を合わせ、次のサインを出す。
(気にするな。どうせヒッティングに切りかえるに決まってる)
雨の降りしきるマウンド上。イガラシはまたもセットポジションに就き、投球動作を始めた。その眼前で、中谷はまたバットを寝かせる。しかし投球と同時に、ヒッティングへ切り替えた。
内角低めの落ちるシュート。中谷はバットをはらうようにして、その先端にボールを当てた。ガッと鈍い音がして、打球は三塁側ファールグラウンドへと転がっていく。
表情を変えない中谷。その傍らで、倉橋は眼差しを険しくする。
(ま…まさか、こいつ……!?)
続く四、五、六球目もファールになった。打球は三塁側と一塁側、さらにバックネット方向へ転がる。
「た、タイム!」
イガラシはアンパイアへ合図して、間を取るように足下のロージンバッグを拾い、右手に馴染ませる。パタパタと白粉が舞う。
「ハア、ハア・・・くそっ」
一年生投手は、僅かながら息を弾ませる。
倉橋はマスクを脱ぎ、たまりかねたように「おい!」と打者を怒鳴りつけた。
「一年生相手にファール攻めたあ、やってくれるぜ! それでも甲子園優勝校かよ!?」
しかし中谷はプイと横を向き、吐き捨てるように言い返す。
「おまえ達には分からねーよ!」
思わぬ相手打者の一言に、倉橋は束の間言葉を失う。
「なっ……」
他方、一塁側ベンチ。
「こ、ここまでやるとは……」
キャプテン谷口は固く唇を結び、雨中のグラウンドを見つめる。
「いちばん恐れていたことが……!」
谷口の視線の先。グラウンドでは、倉橋がうつむき加減で思案を巡らす。
(くっ……打つ気のねえ相手に、どうすりゃ……)
その時だった。
「倉橋さん!」
マウンドよりイガラシが呼んだ。正捕手が振り向くと、一年生投手は左肩に手を当て、サインを伝えてくる。ハッとする倉橋。
(なに? ま…真っすぐだと!?)
倉橋と目を合わせ、イガラシは僅かにうなずいた。
「ハア、ハア・・・」
マウンドの一年生は、相手打者を睨みつける。
「いいさ。打つ気がねえんなら、打とうって気にさせてやるよ!」
一方、倉橋は「おいおい……」と渋面でつぶやく。
(あの冷静なイガラシが、いつになく熱くなってやがる……!)
他方、三塁側ベンチ。箕輪のエース東は、右肩をさすりながら、打席の中谷を切なげな眼差しで見つめる。
(中谷……)
グラウンド上。倉橋はマウンドの一年生と目を合わせ、静かにうなずいた。そしてミットを内角高めにずらす。
(分かったよ。ただし、ここはゴロを打たせたくねえ。高めを振らせるんだ!)
イガラシは口元で僅かに笑む。
「さすが倉橋さん、強気だぜ!」
ロージンバッグを足下へ放り、イガラシはプレートに足を掛けた。その眼前で、中谷がまたバットを寝かせて構える。
「これで……」
イガラシが投球動作を始めた。その瞬間、中谷はまたもヒッティングに切り替える。
「終わりだ!」
気迫の声と共に、イガラシは右腕を振り下ろす。
内角高めの速球。中谷は肘を畳むようにして、バットを強振した。
カーン! 快音を残し、打球はレフトスタンドのポール際を襲う。倉橋がバッとマスクを脱ぎ、立ち上がる。
「し…しまった!」
イガラシは後方を振り向いた。レフト戸室が懸命に背走するも、すぐにフェンスまで行き着いてしまう。
しかし打球は、ポール際でスライスした。三塁塁審が「ファール!」とコールして、両腕を大きく上方へ広げる。
倉橋はホッと安堵の吐息をつく。
「あぶねえ。やられたかと思ったぜ……」
さらにマウンド上。イガラシはレフト方向を見つめたまま、顔を引きつらせる。
「か…完全に、ねらわれた……」
一年生はプレートを外し、ぬかるんだ足下をスパイクでガッガッと固めた。おもむろに帽子のつばを摘まみ、息を弾ませる。
「ハア、ハア・・・」
その姿に、中谷は右打席の手前で足を止める。
「悪く思うなよ……」
中谷は胸の内で、相手投手へ呼びかけた。
「おまえ達が挑もうとする道のけわしさを、今のうちに思い知るがいい!」
マウンド上。イガラシは苦しげな顔で、なおも力投を続ける。
「く…くそっ」
しかし九球目、十球目、十一球目……と、中谷はさらにファールした。打球は内野スタンド、ファールグラウンド、バックネットへと飛ぶ。カキッ、ガッ、カキ……と乾いた音が、グラウンドに響き渡る。
一年生投手の後方。守備に就く墨高野手陣は、誰もが言葉を失っていた。ファースト加藤が帽子を取り、落ち着きなげに額の汗を拭う。サード岡村が虚空に目を泳がせながら、右手でグラブをボスンと叩く。そしてセカンド丸井が、心配そうに後輩を見つめる。
「い、イガラシ……」
しかしショート横井がハッとして、右こぶしを突き上げ周囲へ呼びかけた。
「おい、なにをボヤッとしてる!? こんな時こそ投手を鼓舞するんだ!!」
三年生の言葉に、墨高ナインは「オ・・・オウッ!!」と応えた。そして丸井がマウンドの一年生へ檄を飛ばす。
「いけイガラシ! 遠慮するこたあねえ、たたきのめせ!!」
どこか間の抜けた発言に、横井は「あっ」とずっこけた。
再びホームベース奥。キャッチャー倉橋は、意を決したように顔を上げる。
(よし、こうなったら……!)
それからマウンドのイガラシと目を合わせ、右手の指でサインを出した。一年生投手は「えっ……」と目を見開く。
(ちぇ、チェンジアップ……!?)
イガラシは息を弾ませながら、チラッとバックネット方向を振り向いた。雨中の観客席では、なおも東実の佐野、村野、倉田の三人が、グラウンドを興味津々に見つめている。
「イガラシ!」
倉橋は一年生投手へ呼びかけた。
(ここはもう、なりふりかまってる場合じゃねえ!)
先輩捕手の鋭い眼差しに、イガラシはハッとする。
(それより…こんな策にやられるおまえじゃねえってこと、見せつけてやれ!!)
マウンド上。一年生は無言でうなずき、プレートに足を掛けた。その視線の先で、中谷は変わらずバットを寝かせて構える。
イガラシはセットポジションに就き、しばし間合いを取る。ほどなく、さっと足を上げて投球動作を始めた。眼前で、またも中谷はヒッティングに切り替える。
スピードを殺したボールが、外角低めに投じられた。それがホームベース手前でスウッと沈む。
「うっ……」
中谷は上体を崩しかけるも、バットをおっつけるようにしてスイングした。
カキッ。痛烈なゴロが、二塁ベース横を襲う。
イガラシが「あっ」と声を発した。三塁側ベンチの箕輪ナインが「おおっ!」と身を乗り出しかける。
その時だった……
「くわっ」
セカンド丸井が横っ飛びして、ショートバウンドでグラブに捕球した。すかさず、ショート横井が二塁ベースカバーに入る。
「ヘイ!」
横井の掛け声に反応するように、丸井は片膝立ちで二塁へ送球した。一塁ランナー児玉が「くそっ」とベースへ頭から滑り込む。間一髪のタイミング。
「アウト! チェンジ!!」
二塁塁審がコールと同時に、高く右こぶしを突き上げた。三塁側ベンチの箕輪ナインから「ああ・・・」と溜息が漏れる。
マウンド上。イガラシは息を弾ませながら、好守の上級生へ呼びかける。
「な、ナイスセカン!」
丸井はハッとして顔を上げるも、しばしうつむき加減で言葉を失う。
「……」
イガラシは首を傾げ、怪訝げに尋ねる。
「丸井さん、どうかしましたか?」
二年生は顔を上げると、苦笑いして答えた。
「い…いや。べつに……」
一塁側ベンチ。墨高のキャプテン谷口は、バックスクリーンのスコアボードを見つめている。その視線の先で、箕輪の六回表の得点枠に「0」が記される。
谷口は表情を険しくして、溜息混じりにつぶやいた。
「あと守りは三回か……」
やがて雨天の中を、墨高ナインが小走りにベンチへと引き上げてくる。
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