南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第12話「河川敷のミーティングの巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  

 

【前話へのリンク】

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第12話 河川敷のミーティングの巻

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※ 文中、墨高ナインが豆乳を飲むシーンがあります。これは、あくまでもOBの田所が、差し入れで持ってきそうなモノとして浮かんだので、書いただけです(なお、豆乳を飲んでいる野球部は、実際に存在します)。もちろん豆乳の効果を喧伝するためではないので、誤解なさらぬようお願い申し上げます。

 

1.OB田所が見た、墨高野球部の成長

 

 荒川近くに差し掛かると、野球の声が聴こえてきた。三叉路を左折すると、すぐに河川敷グラウンドの光景が飛び込んでくる。

「……おっ。やってるやってる」

 軽トラックのブレーキを踏みながら、田所はつぶやいた。ユニフォーム姿の後輩達が、いつものように白球を追っている。

 田所が、墨高野球部の練習に訪れるのは、約一ヶ月ぶりだ。あの谷原に、衝撃的な大敗を喫した日以来である。

 ショックを受けたであろう後輩達を励ましたかったが、話もそこそこに片瀬を病院へ連れて行くことになり、ほとんど何も言えずじまいだった。さらにあの後、家業が急に忙しくなり、母校へ顔を出す時間すら作れずにいた。

 まったく。商売繁盛はありがてぇが、この大事な時期に、OBとして何もできなかったのは心苦しいぜ……

 路肩に車を停める。降り立った瞬間、田所はびくっとした。

「よぉし。つぎは、ワンアウト一・三塁だ」

 ノックバット片手に、倉橋が野太い声を響かせる。

ダブルプレーをねらうか、バックホームか、それとも確実に一つアウトを取るか。一瞬でも迷ったら、傷口を広げてしまうぞ。判断はすばやく、いいな!」

 おうっ、とナイン達は力強い声を発した。

 どうやらシートノックの最中らしい。各ポジションに一人ずつ、さらにランナーも置き、かなり実践的だ。学校のグラウンドよりも広く使えるので、余ったメンバーは離れた場所で、個人ノックを行っている。

 マウンドには、松川が立っていた。また一塁ランナーとして、田所がスカウトした一人、駿足の岡村を置く。

 倉橋がバットを構える。その刹那、松川は一塁へ牽制球を放った。

「……わっ」

 岡村は逆を突かれたが、間一髪セーフ。

「松川、いい牽制だぞ!」

 キャプテンの谷口が、サードのポジションから声を掛けた。松川は微かにうなずく。

「おい岡村」

 今度は、倉橋が後輩に助言する。

「いまの牽制でびびってたら、相手をラクにするだけだぞ。ひるまず、つぎも長めにリードを取れ。バッテリーとしては、こういうランナーが脅威だからな」

 岡村は「はいっ」と返事して、自らを奮い立たせるように短く吐息をついた。

 倉橋が、今度はバットを振る。速いゴロが、三遊間へ飛んだ。あらかじめ深めに守っていたイガラシが捕球し、まず三塁ランナーを制してから、二塁へ。そのままセカンドの丸井、ファーストの加藤へと渡り、六-四-三のダブルプレーが完成する。

 三塁ランナー役は、島田が務めていた。すぐにキャプテンの声が飛ぶ。

「島田。安全第一もいいが、もうちょっと内野手にプレッシャーを掛けろよ」

「あ……スタートを切るふりをするとか、ですか?」

「そういうことだ。もし送球されても、俊敏なおまえなら、十分還れるだろ」

「は、はい」

 谷口は他の野手陣に向き直り、厳しい顔つきで言った。

「ほかのみんなにも言えることだが、ここまで来たら、どれだけ細かい部分まで徹底してやれるかだ。どんなプレーが効果的か、各自しっかり考えろ。そして決めたら、迷わず実行するんだ。いいなっ」

「はい!」

 眼前の光景に、すげぇ……と田所はつぶやいた。

 こりゃとても、いぜんのように「よっおまえら」なんて、気楽に入っていける雰囲気じゃねぇ。一所懸命なのはずっとだが、なんつうか、一人一人の顔つきが全然ちがう。谷原、そして箕輪と戦った経験が、こんなにもあいつらを変えたのか。

 トラックの傍らに座り、しばらく眺めていることにした。

 にしても……松川のやつ、見違えるほど牽制うまくなったな。あの岡村が、刺されそうになるなんて。

 グラウンド上。倉橋が「スクイズ!」と叫び、三塁線へ緩いゴロを転がす。サードの谷口は鋭くダッシュし、まるでボールを叩くようにグラブトスをした。キャッチャー役の根岸が捕球し、タッチアウト。

「くそっ、うまくすべり込んだと思ったのに」

 ホームベースを島田がバチっと叩き、悔しがる。谷口は「おしかったな」と励ました。

「走塁じたいは、よかったぞ。ただ頭からすべるのではなく、回り込んでベースの隅をはらうようにしたろ。こんなふうに、ちょっとした工夫が大事なんだ」

「あ、ありがとうございます」

 キャプテンはまた、全員に呼びかける。

「いまの島田の走塁、みんなも頭に入れておけ。確実にやれることをやる。こういうスキのない野球をめざそう」

 ナイン達は「おうっ」と返事した。

 遠巻きに一連の光景を眺めながら、田所は深くうなずく。あいかわらず、うまい言い方しやがるぜ……と、胸の内につぶやく。

 結果ではなく、それぞれの工夫と積極性を尊重するキャプテンの姿勢。またナイン達もよくそれに応え、緊張感はありながらも前向きな気持ちで取り組んでいる。

 これは一日やそこらで、作られる雰囲気じゃないな。日々の積み重ねだ。毎日、こんなふうに練習してたら……なるほど、強くなるワケだ。

 それから十球程度打った後、倉橋がライトの鈴木を呼んだ。

「は、はいっ」

 怒られると思ったのか、鈴木が肩を竦める。

「なにビクついてんだ」

 倉橋は苦笑いした。

「そろそろ個人ノックに回れ。代わりに、久保をこっちによこしてくれ」

「あ、はい……」

 やや安堵した顔で、鈴木は走り出す。

 田所が視線を移すと、個人ノック組には半田と数人の一年生が入っている。そのうちの一人、久保が鈴木と入れ替わり、ダイヤモンドへと駆けていく。また、ノッカーは三年生の横井が務めていた。

「おーい。平山と松本」

 倉橋が、個人ノック組の一年生二人に声を掛ける。

「二人もそろそろ呼ぶから、しっかり準備しておけよ」

「はいっ」

「わ、わかりました!」

 田所は、ごくんと唾を飲み込む。

 なるほど。レギュラー組、控え組と分けているんじゃなく、数人ずつ入れ替えながら両方させてるのか。つまり全員をレギュラーとして扱うってことだな。粒ぞろいの一年生のチカラを見込んでのことだろうし、公平っちゃ公平だが……させられる方は大変だぞ。

「ほら松本。いくぞっ」

 横井が速いゴロを打つ。松本は、少し間を置いてからダッシュした。ところが捕球しようとした時、打球がイレギュラーして横に逸らしてしまう。

「す、すみません」

「捕れたかどうかよりも……いま一瞬、迷ったろ?」

「はい」

「その迷いが、試合では命取りになるぞ。出るなら出る、待つなら待つ。さっきキャプテンも言ってたが、決めたら迷うなっ」

「わ、分かりました」

 へぇ……と、田所は吐息をついた。不覚にも、うるっと涙腺が緩んでしまう。

 あの頼りなかった横井が、後輩にここまで的確なアドバイスをできるようになるとは。ここで二年以上過ごして、やつも成長したなぁ。

 田所の感涙をよそに、横井はもう一度速いゴロを打つ。

 松本が、今度は鋭くダッシュした。またもボールはイレギュラーして、捕球し損ねたが、体に当てて止める。すかさず拾い直し、キャッチャー役の平山に送球した。

「オーケー。ナイスプレーよ、松本!」

 横井は、軽くこぶしを突き上げた。

「おまえはグラブさばきがうまい分、きれいに捕ろうとしすぎるクセがある。悪いこっちゃねぇが、よほどきれいなグラウンドじゃない限り、こんなイレギュラーはけっこうあるんだ。そんな時は、いまのように体で止めりゃいい」

「はいっ。どんな打球でも、せめて前にこぼして、必ずアウトにして見せます!」

 素直な一年生に、横井は目を細める。

「そうだ、その意気だっ。よし……つぎは、旗野いくぞっ」

「よしきたっ」

 田所は、しばし後輩達の成長ぶりに見惚れていたが、やがてハタと気付く。

 い、いけね。こうしてただ見てるだけじゃ、来た意味ねぇや。ちったぁ手伝わないと。差し入れも持ってきたし、それに……大事な伝言もある。

 よしっ、と立ち上がり、河川敷の斜面を下りていく。タイミングを見て、こちらから話しかけるつもりだったが、ナイン達にすぐ気付かれてしまう。

「た、田所さん。おひさしぶりですっ」

 横井が、まず声を掛けてきた。それに続いて、他のメンバーも練習を止め、脱帽して次々に挨拶してくる。

「こんにちはっ」

「ようこそ先輩。どうぞ、こちらに」

 田所は慌てて、右手を大きく左右に振った。

「い、いいから。俺にかまうな。気にせず、練習を続けててくれ」

 イガラシが「ははっ」と、笑い声を上げた。

「後輩思いの奥ゆかしいOBの方で、ぼくら幸せですね。そう思いませんか、丸井さん」

「あ、うむ。そうだな……って、こらイガラシ。俺が出しゃばりだって言いてぇのか」

 丸井はぎろっと、イガラシを睨む。途端、同じ墨谷二中出身の久保と加藤が、同時に吹き出した。その傍らで、島田が困ったような顔になる。

「……おい。てめぇら言いたいことは、ハッキリ言うもんだ」

「よしましょうよ。せっかく、田所さんがいらしてるのに」

「先におまえが、ヘンなこと言うからじゃねぇか」

 田所は、苦笑いしていた。

 イガラシのやつ……入部当初はもうちょいおとなしかったのに、これが地か。ずけずけ言うタイプといやぁ、倉橋もそうだったな。いまは周りも実力者ばかりだから、イガラシが浮き上がってしまう心配はなさそうだが。

「……も、もういいだろう」

 その倉橋が、笑いを堪えながら言った。

「忙しい先輩が、こうして見に来てくださってるんだ。いいとこ見せようなんて、気負う必要はねぇが、気の抜けたプレーだけはするんじゃねぇぞ」

 ナイン達の「はいっ」という返事とともに、練習が再開される。

 田所は、そのまま個人ノック組に付き添うことにした。もう一度ノックバットを持った横井に、「代わるぜ」と声を掛ける。

「後輩のコーチもいいが、それだとおまえの練習ができねぇだろ」

「えっ、だいじょうぶですよ。交替ずつやってますし。今年の一年生、中学でキャプテンしてたやつ多いので、みんなノック打てるんスよ」

「ほぉ。いや、遠慮はいらねーよ。じつはな……おまえらが谷原に負けたりケガ人が出たりして大変だった時に、OBとしてなにもできなかったのが、ちと引っかかってたんだ」

「……は、はぁ」

 横井が納得したような戸惑うような、曖昧な声を発した。

「ま、これは俺の勝手なんだが。ようするに……俺はいつでも、おまえ達のチカラになりたいってこった。だから気にしないで、なんでも言ってくれ」

「そっそれじゃあ、おねがいします」

 ノックバットを差し出すと、横井は十メートル程度下がった。そこに他の内野手も二人。さらに二十メートルほど後方には、外野手の三人がそれぞれ控える。

「さ、思いきりお願いします!」

 後輩の掛け声に、田所は「おうよっ」と答える。平山からボールを受け取り、左手でぽんっと浮かせ、バットを振った。

 しかし、ボールはバットを掠めただけで、田所の足元に転がる。

「……れ、おかしいな。このところ仕事ばっかで、ちと体がなまっちまって」

「センパーイ。無理しなくて、いいっスよ」

 横井が、妙に間延びした言い方をした。

「ケガでもされて、仕事にさわったりしたら、ぼくらも引っかかっちゃいますし」

 明らかにからかう口調だ。周囲の部員達も、一斉に吹き出す。

「ば、バーロイ! てめぇなんかに、心配される筋合いなんか、ねぇよ」

 田所はボールを拾い、もう一度バットを振り抜く。

 今度は手応えがあった。痛烈なゴロが飛ぶ。田所が「外野カバー」と言いかけたその時、横井がボールに飛び付く。バシッと音が鳴る。

 起き上がった右手に、ボールが握られていた。すかさず片膝立ちになり、送球する。ワンバウンドながら、平山はほとんどミットを動かすことなく捕球した。

 よ、横井のやつ。いつの間に、こんな腕を上げやがったんだ……

「田所さん、どうしたんです。あんぐり口を開けちゃったりして」

 ユニフォームの土をはらいながら、横井は涼しい顔で言った。後ろの数人が、またも「ぷぷっ」と吹き出し、腹を抱えている。

「まさか。もう、疲れちゃったとか?」

「ば、バカヤロー! てめぇごときが、気取りやがって」

 再びバットを構え、田所は言い放つ。

「ここから続けざまにいくからな。ほれ、後ろのやつらも構えろ。覚悟しやがれっ」

 言うやいなや、ボールを立て続けに打ち返す。カキ、カキッ……と、小気味よい音が響いた。さすがにグラブが間に合わず、外野まで転がる。

「おらぁ、どしたい。口ほどにもねぇ」

 挑発すると、横井が唇を尖らせる。

「みょうなタイミングだからですよ。まともに打ってくれたら、ちゃんと捕れますって」

「言ったな。これなら、どうだ」

「さぁ来いっ」

 火を吹くような田所の打球に、後輩達は負けじと喰らい付いた。

 

 

2.打倒・谷原への誓い

 

 日曜日とはいえ、もはや墨高ナインに休日という気分はない。

 この日も早朝から、軽いランニングと体操に始まり、キャッチボール、柔軟運動、そしてシートノック・個人ノックと、ほぼノンストップで進められていく。

 ノックの後も、僅かな休憩を挟んだだけで、ほどなく筋力トレーニングが開始された。

 

「……八十二、八十三……ほら。みんながんばれっ」

 キャプテン谷口の掛け声に、ナイン達は「おうっ」と応えた。全員で輪になり、腕立て伏せを行っている。この前に五十本ダッシュも消化しているから、すでに半数近くの部員は顔が苦しげだ。

 既定の百回を終えると、ナイン達は一斉に倒れ込む。

「はぁ。長かった」

「こ、これは……きくぜ」

 谷口は、あえて「みんな起きろ」と厳しい口調で告げた。

「これぐらい序の口だ。上級生は、夏の大会がどれだけ体力を消耗するか、よく知ってるだろ。一年生もよくおぼえとけ。あの炎天下で、何試合も勝ち抜かなきゃいけないんだ。相手より先にバテちゃ、話にならないぞ」

「……わ、わかってるよ」

 横井が息を荒げながらも、むくっと起き上がる。周囲もそれに習った。

「よし。つぎは、いつものように二人一組になれ。腹筋と背筋を五十回ずつ」

 はいっ、とナイン達はすぐにペアを作り、腹筋から始める。なんだかんだで、こちらの意図を理解してくれているな……と、谷口は満足した。

 谷口は、半田とペアを組んだ。OBの田所には、鈴木に付いてもらう。実力と意欲の両面で、とりわけ心配な二人だった。

 まだ半分もいかないところで、半田が「ううっ」と苦しげな吐息を漏らす。

「息が上がるのが、ちょっと早すぎるぞ」

 あえて厳しい言葉を掛けた。

「マネージャーの仕事にかまけて、自分も選手だってことを忘れちゃダメじゃないか。もしケガ人が出たら、君にも出番が回ってくるぞ」

 少し口調を柔らかくして、話を続ける。

「半田。うまい下手は、いい。それよりも……うちの野球部は、全員ができることを一所懸命やる。この精神を大事にしたい。君もその一翼を担っていること、忘れるな」

「……は、はい」

 顔を歪めつつも、半田はどうにか回数をこなしていく。その傍らで、鈴木も腹筋を続けている。時折小さい角度で止めようとして、田所に「妥協すんな」と叱責されたが。

 谷口は、何とか二人が五十回をこなしたタイミングで、次の指示を与えた。

「半田と鈴木。二人には、別メニューを与える」

 筋力トレーニングから解放され、二人が安堵の表情になる。すかさず「カン違いするなよ」と叱り付けた。

「二人とも、ちょっと基礎的な体力が不足している」

「は、はいっ」

「すみません……」

 背筋をぴんと伸ばして返事するので、「そんなにかしこまらなくても」と苦笑いが浮かぶ。

「そこで……これから河川敷の端から端まで、ダッシュしてもらう。せいぜい二百メートル程度だから、四十本はいけるだろ」

 二人が同時に「よ、四十本!」と声を上げる。

「これを苦しいと感じているうちは、夏の炎天下の試合で、まともにプレーできやしない。ほれ、少しは上級生として意地を見せて来い」

 観念したのか、二人は目を見合わせ「やるしかないか」とでも言いたげに、うなずく。

「田所さん。そのまま二人に、付いててもらえますか?」

 谷口がそう頼むと、田所は「まかせとけ」と快く引き受けた。

「さ、そうと決まったら……行くぞ二人とも」

「はい。お、おてやわらかに」

 鈴木が泣きそうな声で言うのを、元キャプテンは「甘ったれんな!」と一蹴した。他の部員達は、二人を幾分同情するような目で眺めている。

「この期に及んで、ダッシュ四十本たぁ……ちと気の毒だな」

 走るのが苦手な井口は、溜息混じりにつぶやく。

「なに他人事みてぇに言ってやがる」

 井口の真向かいで、根岸とペアを組むイガラシが、辛辣に言った。

「全体練習の後、俺はいつも十キロ走に出ているが、今日はおまえもつき合ってもらう。箕輪戦でよく分かったと思うが、強い相手にねばり強く投げるには、絶対的な体力が不可欠なんだ。その点、おまえはまだ足りない」

「そんな急に……く、倉橋さんの許可も取らないと」

 井口が引きつった顔で言うと、ちょうど腹筋を終えた倉橋が「俺がなんだって?」と口を挟む。いつも既定より倍の回数をこなすので、少し時間が掛かっていた。

「あ、倉橋さん。後でこいつを、ランニングに連れ出してもかまいませんか?」

 イガラシの質問に、倉橋はにやっと笑う。

「おう、もちろんだとも。なにも遠慮するこたぁない」

 正捕手の返答に、井口はがくっと肩を落とす。

 当のイガラシは、根岸と代わって腹筋運動を始めると、あっという間に五十回を終えてしまった。涼しい顔で「たりねぇな」とつぶやき、さらに回数を追加する。

「おまえ……少しペース配分とか、考えないのか」

 ペアを組む根岸が、呆れ顔で尋ねる。

「朝一人で、ランニングやら筋トレやら、散々こなしてたろ」

「なにが? あれでも午後から練習試合があるってんで、だいぶ軽めにしといたんだ。これだと物足りないから、やっぱり昼食の後にでもするかな。根岸、手伝ってくれよ」

「手伝うだけだよな? 俺までつき合わされるのは、カンベンだぞ」

「ったく、だらしねぇ。そんなんだから、このまえの練習試合で、四つも盗塁を許しちまうんだよ」

「かっカンケーねぇだろ」

「いいや大アリだ。おまえはまだ、顔つきといいプレーといい、控え丸出しなのさ。そりゃ相手にナメられる。倉橋さんから正捕手を奪うぐらい、もっと必死になんねえと、また走られ放題だぞ」

 倉橋は、二人の会話に「ぷっ」と吹き出した。

「わ、わーったよ」

 腹筋の体勢になり、根岸が言い放つ。

「百でも二百でも、つき合ってやる。こうなりゃ勝負だ。イガラシこそ、先にバテて、泣くんじゃねぇぞ。そんで……正捕手の座も、奪ってやる」

「ばかっ。失礼だぞ」

 イガラシに肘で小突かれ、あっ……と根岸が青ざめた。倉橋が「ほぉ」と凄む。

「いい度胸だな、根岸。やれるもんならやってみろよ」

「そ、そういう意味じゃ。やはり正捕手は倉橋さんじゃないと」

「安心しろ。志が高いと、感心してるのさ。そんなら……後のキャッチャー練習で、もっとビシバシやんねぇとな。覚悟しとけ」

「は、はい。ううっ」

 根岸は、涙目で返事した。

 練習風景を眺めながら、谷口は目を細めた。日々の厳しい練習に、ナイン達は何だかんだ言いながらも、誰もが前向きな姿勢で取り組んでいる。キャプテンとして、それが何よりも嬉しい。

 これなら、と胸の内につぶやいた。一月後には、夏の大会が開幕する。時期的にも、ちょうど良いタイミングだ。

 みんなに、そろそろ伝えていい頃だろう。谷原の攻略法を……

 

 すべてのメニューを消化した後、墨高ナインは一日の仕上げとして、神奈川の昨夏八強のチームと練習試合を行う。

 谷原、箕輪と対戦したナイン達にとって、もはやこのレベルの相手は問題にならなかった。谷口ら主力を温存した布陣ながら、五対〇と完勝を飾る。

 

 

「……れ、けっこう飲みやすいスね」

 水筒のコップを一口含み、横井が不思議そうな顔で言った。

「へっ。そ、そうなのか」

 戸室が手元をのぞき込んでくる。

「ああ、おまえも飲んでみろよ」

 横井に勧められるがまま、戸室も少量ながら飲み下す。

「む……ほ、ほんと。けっこうイケるぜ」

 二人の背後から、丸井が「ぼくにも一口」と手を伸ばす。

 試合後。グラウンド整備を済ませると、ナイン達は河原近くに集まった。しばし一息つく彼らに、田所から差し入れの豆乳が振る舞われる。

「おまえら慌てんな」

 田所はそう言って、持ってきたバッグから別の水筒を三本取り出した。

「ちゃんと全員分あるから、みんなでやってくれ」

「……む。飲みやすいどころか、おいしいスね」

 倉橋が珍しく、目を丸くする。

「そうだろう。この豆乳は、俺んちの近所の豆腐屋でしか扱ってない、上等なやつだからな。クセのある他の店のとは、一味ちがうわけよ」

 田所が得意げに言うと、横井がすかさず「よく田所さんの給料で買えましたね」と軽く突っ込んだ。先輩は「ありゃっ」と、分かりやすくずっこける。

「よ、余計なお世話だっ。ふふ……聞いて驚くな。この豆乳は、俺がそこの店主に頼んで、おまえらのために準備してもらったのよ」

「ええっ」

 根が生真面目な倉橋は、憂うように眉をひそめる。

「そ、そりゃ……ありがたいスけど。ちゃんと採算は取れてるんですか?」

「なぁに。うちの電器店とそこの豆腐屋は、古いつき合いでな。冷蔵庫が故障したりなんかした時に、うちが格安で修理を請け負ってるんだよ。そのよしみでな」

「でも……どうして、豆乳を?」

 鈴木が質問する。

「そりゃ、おめぇ。体にいいからに決まってんだろ」

 田所が答えると、横から丸井が補足した。

たんぱく質だから、骨や筋肉をじょうぶにするんスよね。ケガの予防にもなるとか」

「……そ、そうなんだよ」

 どうやら持ってきた本人も、よく分かっていなかったらしい。口調がしどろもどろだ。

 加藤が「それにしても」と、首を傾ける。

「この豆乳、キンキンに冷えてますね。まるで、さっき冷蔵庫から出したみたい」

「へへっ。よくぞ、聞いてくれました」

 妙に破顔して、田所は答えた。

「この水筒、いわゆる魔法瓶ってやつでな。冷たいものでも熱いものでも、そのまま保つことができるのさ。今度、うちで新発売するんだ」

「ちゃっかり自分の店の宣伝、してるじゃないスか」

 また横井が突っ込む。周囲から、どっと笑い声が上がった。

 夕方の穏やかなひと時。それを破るように、谷口はパンパンと、強く手を叩いた。ナイン達が一斉に、こちらを振り向く。

「休んでいるところ、すまない。みんなに話しておきたいことがある」

 丸井が気を利かせ「立ちますか?」と尋ねてきたが、谷口はそれを制した。

「いや、座ったままでいい。そのかわり……全員しっかり聞いてくれ」

 しばし間を置いてから、話の趣旨を告げる。

「あの谷原と、どうやって戦うのかという話だ」

 途端、辺りを緊張が走る。

「この夏、俺はほんきで甲子園をねらいたい」

 キャプテン谷口は、きっぱりと告げた。

「そのつもりで、強化を進めていきたいのだが……みんなはどうだろう」

 倉橋がすぐに「異論はねぇよ」と答えた。

「この一ヶ月半。俺達はずっと、谷原を倒すことを目標としてきた。その結果、あの箕輪高とも善戦したばかりか、他地区のシード校を圧倒できるまでになれた。こうなりゃ甲子園を射程に収めないと……むしろ、はり合いがねぇよ」

「なるほど。他のみんなも、倉橋と同意見なのか」

 少し間はあったが、ほどなく次々に声が上がる。

「もちろんじゃないですか」

「あれ……俺はとっくに、そういうつもりでしたけど」

「やってやりましょう!」

 中には無言の者もいたが、否定の顔つきではない。あの半田や鈴木でさえ、真剣な面持ちで聞いている。そして、全員が深くうなずいた。

 谷口は立ち上がり、チームメイト達へ「ありがとう」と一礼する。

「よし。全員の気持ちが固まったところで、具体的な話をしていこう」

 そう告げて、いったん谷口も座り込んだ。

「谷原について触れる前に、じつは……もう一つ懸念していることがある。上級生は、昨年かなり痛感したことと思う。すなわち日程だ」

 ああ……と、数人が溜息を漏らす。

「下級生のために、少し補足しておく」

 回想しながら、努めて端的に話を続けた。

「昨夏の五回戦で、われわれは優勝候補の専修館を破った。ところが疲労の蓄積により、続く準々決勝では力を発揮することができず、明善高に完敗した。今年も事情はほぼ変わらない。大会が進むにつれ、中二日や中一日、さらに休みなし……と厳しい日程になる」

「ち、ちょっと待て」

 戸室が挙手して発言する。

「昨年とは、だいぶ状況がちがうだろ。今回はシードを獲ったことで、俺達の試合は三回戦からだ。少しは余裕も……」

「おまえ分かってねぇな」

 横から、倉橋が答える。

「そりゃ準々決勝で終わるのなら、昨年よりは余裕あるだろうさ。けど、その先も勝ち進むとなったら、決勝まで数えると六戦。試合数は、じつは昨年と変わらねぇんだ」

「おまけに……相手のレベルも、全然ちがうぞ」

 横井が苦笑いを浮かべる。

「五回戦以降は、あの聖稜や専修館クラスのチームと連戦になる。そこまで乗り越えて、やっと谷原戦だからな。よほどうまく戦わないと……もたねぇよ」

 雰囲気が暗くなったので、谷口はとりなすように言った。

「まぁまぁ。今年は、少なくとも昨年よりも選手層が厚くなったし。あれほど消耗することはないと思う」

 やや声のトーンを落とし、話を進める。

「それより心配なのは、谷原と、どんな日程でぶつかるかだ。かりに準決勝だとしたら、勝っても翌日には決勝を戦わなければならない」

 ここで束の間、谷口は瞑目した。そして口を開く。

「俺が、もっとも恐れているのは……あの東実が、谷原戦の前後にくる場合だ」

 キャプテンの言葉に、周囲がざわめく。

「もちろん現段階で、決まったわけじゃない。しかし……これを想定しておかないと、いざそうなった時に慌ててしまう。」

 谷口は「そこで、だ」と、膝を進めた。

「この二試合、投手陣を分担して臨もうと思う」

 まず反応したのは、イガラシだった。

「なるほど。どちらか一方の試合にしか、登板させないというわけですね」

「ふふっ。さすが飲み込みが早いな」

 後輩の聡明さに、満足する。

「万全の状態でも、難しい相手だ。疲労で調子を崩していれば、まちがいなくメッタ打ちにあう。せめて先発投手は、ベストコンディションでのぞませたい」

「おい、谷口」

 ふいに倉橋が、問うてきた。

「そこまで考えてるなら、もう誰をどの試合に投げさせるかってとこまで、構想できてるんじゃないのか」

「……ああ」

 谷口は、短く答えた。またも周囲から、どよめきが起こる。

「しかし、それは後で倉橋と相談してから、ちゃんと決めようと」

「いや。きっと相談してもしなくても、結論はそう変わらねぇよ」

 倉橋は、穏やかな目で言った。

「それより、せっかく全員いるんだ。いま明らかにして、みんなで戦い方のイメージを共有した方が、ずっとチームのためだと思うが」

「……そうか。分かった」

 束の間、谷口は瞑目した。やがて口を開く。

「まず谷原戦。先発は、井口。そして後半、俺が継投する」

 井口はしばし無言だったが、イガラシに脇腹を小突かれ、ようやく「はいっ」と返事した。

「つぎに東実戦。こっちの先発は、松川。そして継投は、イガラシだ。また展開によっては、こっちも俺が、どこかで登板しようと思う」

「……ふむ。いいんじゃないの」

 にやっと倉橋が笑う。どうやら、ほぼ同じ考えだったようだ。

「その根拠も聞かせてくれたら、ありがてねぇな」

「もちろんさ」

 谷口はうなずき、質問に答える。

「谷原戦に、井口を起用したい理由は……彼の図太さと負けん気を買ってのことだ」

 井口が「いっ?」と妙な声を発した。ばーか、とイガラシに突っ込まれる。

「はっきり言って、谷原打線を完全に抑えることは難しい。ある程度の失点は覚悟しなきゃならない。だからこの試合は、打たれても打たれても、最後まで闘志を失わないことが不可欠だ。井口なら、それができると思う」

 ここで一つ吐息をつき、キャプテンは話を進めていく。

「一方で、東実戦はちょっと展開が読めない。なぜなら彼らも、うちをかなり警戒しているからだ。エース自ら偵察にやって来るくらいだからな。そこで……経験豊富な松川、さらに箕輪相手に力投したイガラシを起用したい。二人なら、相手に応じた投球ができる」

 その時、イガラシが挙手した。

「……あの、ちょっといいですか」

「うむ。なんだ?」

「谷原戦のことです。いくら井口が図太いといっても……あまり考えたくはないですけど、たとえば序盤で五、六点取られるようなことがあれば、そりゃ替えざるをえないじゃないですか。その場合、キャプテンが早い回から投げなきゃいけなくなります」

 二、三度うなずき、谷口は口を開いた。

「言いたいことは分かる。早い回からリリーフして、終盤までもつかってことだろう?」

「あ、はい」

「その件について……イガラシ。おまえにはもう一つ、役割を与える」

 さしものイガラシも「えっ?」と、目を丸くした。

「もし井口が序盤で捕まった場合は、おまえを緊急リリーフとして送りたい。一イニングだけでもしのいでくれたら、俺は余裕を持って登板できる」

「……ああ、なるほど」

 イガラシはすぐに首肯した。

「ち、ちょっと待ってください」

 丸井が口を挟む。

「つまりイガラシだけ、二試合投げるってことになるじゃないですか。いま一イニングだけっておっしゃいましたけど、相手が相手ですし、そうなるとも限らないですよ。次戦に疲れを残していたら、いくらイガラシでも」

「丸井。そのケースなら、あえて考える必要はない」

 谷口はそう言って、静かに微笑んだ。

「というのも……イガラシがそんなに長く投げなきゃいけなくなるということは、つまりうちの負けだ。東実戦にしても同様。そして敗色濃厚となれば、いずれの試合も、俺が最後のマウンドに立つ。だから、次戦のことは考えなくていい」

 ごくんと、丸井が唾を飲み込む。

「みんなも腹を決めてくれ」

 一転して、キャプテンは厳しい口調になる。

「投手陣だけじゃない。この二試合は、チーム全員が役割を果たさなければ、負ける。そのつもりで、明日からの練習に取り組んでほしい」

 そう言って、今度は口調を明るくした。

「あ、そうそう……もう一つ言っておくことがある」

 谷口は、ある一人の部員に顔を向けた。

「片瀬。立ってくれ」

「……え。あ、はい」

 思わぬ指名に、片瀬は戸惑いながらも立ち上がった。

「ケガでつらかったろうが、よくがんばってくれているな。おまえが復調したら……この二試合、もっと余裕を持って投手起用ができる」

「キャプテン。それはぼくにも、出番があるかもしれないってことですか?」

「そういうことだ」

 本人よりも、周囲がざわめく。

「みんな静かにしろ」

 倉橋が、一喝した。

「片瀬のボール、ほとんどのやつは見たことないだろ。言っておくが、いまレギュラーの者でさえ、簡単には打てねぇぞ。こいつの実力は、俺が保証する」

「あ、あの……キャプテン」

 立ったまま、片瀬がおずおずと言った。

「ぼくだけじゃなく、他のピッチャーもそうだと思うのですが、あの谷原打線をどうやって抑えていくか。その具体策がまだ見えません」

 谷口は、内心苦笑いする。痛い所を突かれたと思った。冷静で穏やかな質だが、長らく怪我と戦ってきたからか肝が据わっており、そして賢い。

 オホン……と、ふいに田所が咳払いした。

「その点について、おまえらに朗報を持ってきた」

 すぐさまナイン達の視線が、気のいいOBに集中する。

「じつはな。昨日……あの谷原高の近くに、営業へ行ってきたんだ。そしたら、近所の住人が噂してたのよ。再来週、招待野球ってのがあるらしい。都の高野連主催でな」

 ナイン達は、一様に考え込む仕草をした。

「招待野球って?」

「はて、そんなもの……あったっけ」

 田所は、笑って言った。

「おまえらが知らないのも、無理はねぇよ。なにせ、今年からだからな。まだ対戦カードも正式に決まってないらしいから、新聞報道もされてない。しかし、すでに第一シードの谷原には打診があり、やつら引き受けたそうだ」

「そりゃいいっスね!」

 ぽん、と丸井が膝を打つ。

「この機会に、やつらをじっくり偵察する。各バッターの弱点も、そん時に探り出すことができるじゃねぇか」

「……で、でも」

 加藤が、引きつった顔で言った。

「ぎゃくに……やつらの強さを、見せつけられるだけたったりして」

「いや、それも心配いらねぇよ」

 胸を張って、田所は答える。

「聞いて驚くな。来るのは……なんと、広島の広陽(こうよう)。さらに大阪の、西将(せいしょう)学園だ」

「へえ、広陽に西将ですかっ」

 全国大会に詳しい片瀬が、真っ先に声を上げる。

「えっ。そんなに、強いのか?」

 加藤が尋ねると、片瀬は深くうなずく。

「強いも何も……広陽は、昨夏の全国準優勝校。この春も四強まで進んでます。そして、なんといっても西将は、春の優勝校。準決勝で、あの谷原を破ってるんです」

 片瀬の言葉に、ナイン達はざわめく。

「まあ、そういうこった」

 田所は、吐息混じりに言った。

「そこは天下の高野連ってわけよ。谷原にコテンパンにされるような、ヘボいチームを呼んだりしたら、メンツにも関わるからな」

「……ていうか、先輩」

 なぜか横井が、田所に流し目を向ける。

「な、なんだよ」

「豆乳とか魔法瓶とか、どうでもいい話してないで、こっちを先に聞かせてくださいよ」

「ど、どうでもいいとはなんだっ。こちとら後輩のためにだな」

「もちろん感謝はしてますがね。ただ、ちと前置きが長すぎるかなと」

「そりゃ、おめーの辛抱がたらねぇんだ」

 倉橋が「あーあ」と、わざとらしい溜息をつく。

「あいかわらず、すぐムキになる先輩だぜ。わかってても、つい高めの吊り球に手を出しちまうタイプだな」

 正捕手の的を射たOB評に、ナイン達は吹き出した。

 

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