南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第62話「いざ、甲子園へ!!の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

 

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【目次】

  

 

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 第62話 いざ、甲子園へ!!の巻

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1.祝勝会にて

―― 練習再開から四日間。墨高ナインは、初の甲子園出場という偉業にも誰一人浮つくことなく、日々の練習に取り組んでいた。五日後には、いよいよ甲子園へ出発の日が迫る。

 普段は休日でも日が落ちるまで練習しているナイン達だが、この日、グラウンドに彼らの姿はなかった。

 

 ここは下町のはずれにある、うなぎ屋「松羽」である。この日は夕方より、墨高野球部の甲子園出場を祝して、OB会主催の祝勝会が催されていた。

「えーっ、それではこれより、『墨高野球部甲子園出場』の祝勝会を始めさせていただきたく存じます」

 司会に立つのは、珍しくワイシャツにネクタイ姿の田所である。

「カタイぞ司会!」

「もっと場を盛り上げてやらなくちゃ」

 OB会の面々から、容赦なく野次が飛ぶ。

「は、どうも……」

 田所はハンカチを取り出し、額の汗を拭う。その姿に、横井と戸室は目を見合わせ、二人で苦笑いする。

「さしもの田所さんも、うちのOBにはタジタジだな」

「うむ……」

 墨高ナインとOB達は、うなぎ屋の一階を貸し切り、それぞれ大テーブルの席に着いていた。彼らの眼前には、タレの香ばしいうな丼、寿司盛り、さらにビールが並べられている。もちろんナイン達には、ビールの代わりにウーロン茶とジュースであった。

「そ、それでは」

 いつになく緊張した様子で、田所は会を進めていく。

「この会の趣旨……は、言うまでもありませんね。我らが後輩達の都大会における見事な活躍ぶり、そして創部以来初の甲子園出場という快挙を祝して、ささやかながら、ここに祝勝会を催すことにします」

 一人のOBの「よっ」という掛け声で、店内は拍手に包まれる。

 OBの年齢層は、幅広い。谷口達のよく知る中山ら一期、二期上の世代、さらにその上の年代のメンバーが、この快挙を祝おうと集結していた。

「ではまず、現二、三年生と昨年までともに汗を流したOBを代表して、中山君に乾杯の音頭をお願いしたいと思います」

 やや戸惑いながら、中山がウーロン茶のコップを手に前へ出てくる。中山と同年代の山口、太田、山本の三人も、それぞれの席でウーロン茶をコップに注いでいた。言うまでもなく、彼らも未成年である。

「ええっと……昨年の送別会でも、こうしてあいさつしたのを思い出します」

 その一言に、山本らがクスクスと笑う。

「ま、それはいいとして。谷口キャプテン以下、後輩諸君。甲子園出場おめでとう!」

 いよっ、と山口が掛け声を上げると、周囲から拍手が沸き起こった。

「知ってのとおり、おれ達は昨年、準々決勝まで進出できた。おれは正直、それで十分満足だった。でも今年の谷口達の活やくを見て……まだその先があったんだなと」

 なんていえばいいのか……と、中山はしばし言葉を探す。そして生真面目な顔になり、話を再開した。

「谷口とは二年近く一緒にプレーしたが、自分はここまでだと決めつけるんじゃなく、その気になれば意外にやれるんだってことを、今年あらためて実感したよ。それから……」

 ふと山口は、司会の田所に顔を向ける。

「田所さん始め、OB会の方々。ぼくらができなかった後輩達への数々のご支援、本当に感謝します。つぎは、自分らも支援に加われるように、がんばります。というわけで……みなさま、コップの用意を」

 その言葉に、全員がコップを手にする。

「われら墨高野球部の甲子園出場を祝して、乾杯!」

 カンパーイと声が聞かれ、あちこちの席でコップが酌み交わされる。

「ありがとう中山。それじゃ、しばしご歓談を……」

 そう田所が言いかけた時だった。

「よう、谷口キャプテン」

 その時、あまり馴染みのないOBが尋ねてくる。

「はい」

「ちと気は早えがよ。甲子園では、どれくらいを目標に掲げてるんだい?」

「も、目標ですか……」

 谷口は困惑顔で、しばし黙り込む。周囲から、おおっという声が上がった。しかしOB会長の本田が、発言者を「バカ」とたしなめる。

「そりゃ気が早いつうより、無神経ってもんだ。まだ甲子園出場を決めたばかりだというののに、そんなすぐ頭を切り替えられるはずねえだろ」

「む……たしかに。キャプテン、すまなかったな」

「あ、いえ」

 戸惑いながらも、谷口は返事する。やや気まずい空気が流れかけていた。

「ぼくもそろそろ、ちゃんと目標を決めたいと思ってるのですが。なにせ初出場なもので、勝ち上がるにしてもどんな準備が必要なのか、まだ手探りなんですよ」

 キャプテンは正直に答える。その時だった。

「先輩方、お聞きになられましたか?」

 場の空気を明るくしようと、田所が声のトーンを上げて言った。

「いきなり『優勝だ』とかなんとか、浮ついたことを言わないのが、この谷口という男なんですよ。彼がちゃんと地に足の着けて、采配を振るったからこそ、今年の墨高は都大会を制することができたのです。よくお分かりになったでしょう?」

 その発言に、またも拍手が沸き起こった。

「ありがとうございます」

 谷口が小声で礼を言うと、田所は「なーに」と微笑んだ。

 そして食事と歓談の時間になる。ナインとOB達は一斉に箸を割った。

「う、うめえ! これがウナギかあ」

「おれ生まれて初めて食べるよ」

「こら、あまりがっつくな。ごはんつぶが飛ぶぞ」

 ナイン達の間から、そんな声が聞こえてくる。

「うーむ……」

 一方、どんぶりの蓋を開けてから、一口食べただけで手を止める者がいた。やはりイガラシである。

「あのー、店員さん」

 ちょうど果物の盛り合わせを運んできた店員に、声を掛ける。

「このタレ、味噌が効いてますね」

「ほう。よく分かったね、君」

 修行中らしい若い男の店員は、嬉しそうに言った。

「うちの店は、タレにこだわっててね。材料に使う味噌も、ある地域で作られる特産品だけを使用してるんだ」

 イガラシの横から、井口が「こいつの家、ラーメン屋なんです」と口を挟む。

「へえ。どおりで、野球部員なのに料理にくわしいわけだ」

 店員は感心しつつ去っていく。

「けっ。こんな席で、まあたリクツこねちゃって」

 真向いに座る丸井が、まさにがっつきながら呆れ顔で言った。

「うまいものはうまい。それでいいじゃねえか。ハフハフ……」

「丸井さんこそ。そんなにがっつくと……今に」

 イガラシが言い終える前に、丸井はむせてしまい、ケホケホと咳き込む。

「しょーがないなあ」

 溜息をつきながらも、イガラシはウーロン茶のコップを差し出した。

 店内では、誰もが思い思いに歓談を交わしている。そんな中、倉橋、横井ら三年生の面々は、やや渋い顔をしていた。

「目標かあ……」

 箸を止め、横井がポツリとつぶやく。

「考えてみりゃ、おれ達甲子園に出ることをずっと目標にやってきたが、甲子園で勝とうなんて全然考えてなかったな」

「そりゃ仕方ねえよ」

 隣の席で、戸室がうなずく。

「そもそも入部した時は、せめて一つ勝てばいいくらいの気でいたし。甲子園だなんて、恥ずかしくて口にも出せなかったよな」

 横井は「だよな」とうなずき、真向かいの倉橋に顔を向けた。

「倉橋あたりはねらってるんじゃねえの。全国優勝とか」

「バカいえ」

 倉橋は少し怒った口調で、返答する。

「そりゃ、せめて一勝したいくらいは思うがよ。いきなり全国優勝なんて。甲子園という大会のこともよく知らねえのに、そんな大それたこと考えるわけねえだろ」

「あれま。おまえさん、案外控えめなのね」

 おどける横井に、倉橋は溜息をついた。そして隣の谷口に話を振る。

「谷口。おまえは正直なところ、どう思ってんだ?」

「どうって……さっき言ったとおりさ。まだなんとも言えないよ」

 空になったどんぶりに蓋をしつつ、谷口は答える。

「準備といっても、今日まで基本練習しかできてないだろう。せめてもう少し早く組み合わせが決まれば、対策も取れるんだが。抽選は大会開幕の五日前だっていうし」

 その時だった。ジリンジリンと、店内の黒電話が鳴る。先ほどの店員が受けた。

「はい、こちらウナギの『松羽』です。ああ……はい、いらしてますよ」

 そう返答して、店員はこちらに顔を向ける。

「谷口さん、お電話ですよ」

「あ、はい」

 谷口は立ち上がり、歩み寄って店員から受話器を受け取る。

(おれに電話って、誰からだろう……)

 そう思いつつ、受話器に向かって声を発した。

「はい。墨高野球部の谷口です」

―― やあ、久しぶりだね。西将学園の中岡です。

「……えっ」

 意外な相手に、谷口は目を丸くした。

 

 

2.名将からのアドバイス

―― あれ。ひょっとして、忘れちゃったかい?

 受話器からクスクスと笑い声が聞こえてくる。

「え……六月の招待野球で戦った西将の、あの中岡監督さんでしょうか?」

―― よかった、ちゃんと覚えててくれたんだね。

「そんな、忘れるはずないじゃありませんか。あの試合があったからこそ、ぼくらは谷原に勝って、甲子園に……あ、ご存知でしたか?」

―― もちろん。それで「おめでとう」を言おうと思って、学校へ電話したんだが、今日はそこで祝勝会だと聞いてね。お楽しみのところ、悪かった。

「いえそんな……あ、あのう」

 谷口はしばし逡巡したが、思い切って尋ねてみた。

「しょうじき甲子園へ向けて、どんな準備をしたらいいのか分からなくて、困ってるんです。こんなこと聞いていいのか分からないんですけど……甲子園経験の豊富な監督さんに、教えていただけたらと」

―― ああ、かまわないよ。

 事もなげに、中岡は言った。

「ほ、ほんとうですか?」

―― もちろん。君らとは、甲子園でもう一度戦いたいと思ってる。ほかの学校にあっさりやられてもらったんじゃ、困るからね。

「な、なるほど……」

 有名監督の余裕綽々な態度に、谷口は思わず苦笑いする。

―― それじゃ言うよ。ポイントは、たった二つ。

 そう切り出し、中岡は告げた。

―― まずは、暑さ対策だね。

「暑さですか。それなら、東京都大会で十分……」

―― と思うだろう? しかし、甲子園の特別なんだ。球場がすり鉢状になっていてね、熱気がこもる。要するに、蒸し風呂の中でプレーするのと同じさ。

「む、蒸し風呂……」

―― この暑さにやられて、力を出し切れずに負けていくチームもたくさんある。まだ日はあるんだし、君らなりに知恵を絞って、対策に当たるといい。

「はい、分かりました。それであと一つは?」

―― 二つ目は、時間に追われないようにすることだ。

「えっ……どういうことですか?」

夏の甲子園は準々決勝まで、ほぼ一日に四試合が組まれる。ということは、速く試合を進行させないと間に合わない。ちょっとでもダラダラ行動したら、審判や球場係員に急かされる。そうなると、試合に集中するのがむずかしいだろう」

「なるほど、機敏に行動することを心掛ければいいのですね?」

―― そういうことだ。では、今日はこれで失礼するよ。まずは来週の組み合わせ抽選会で、君達と再会できることを楽しみにしている。

「はい。本当に、ありがとうございました!」

 谷口はつい、その場で会釈してしまう。

―― どういたしまして。では、がんばりたまえ。

 そう言い置き、中岡は電話を切った。

 

 

「みなさま。宴もたけなわではございますが……」

 歓談タイムの後、再び田所が司会として前に立つ。

「そろそろ時間になります。会の締めくくりとして、墨高を甲子園に導いた最大の立役者、谷口キャプテンより一言あいさつをしてもらいたいと思います」

「あっ、はい……」

 谷口はやや照れた表情ながらも、すっと立ち上がり、田所の横に並ぶ。

「墨高野球部キャプテンの谷口です。まずはOB会の本田会長、そしてこちらにいらっしゃる田所先輩……多くの方のご支援のおかげで、目標だった甲子園出場を果たすことができました。心から感謝申し上げます」

「よ、よせやい」

 突然名前を呼ばれ、田所は早くも目を潤ませる。

「ハハ。律儀なキャプテンだな、どういたしまして。べつに大したことはしてないがよ」

 一方、OB会会長の本田は、照れる素振りもなく返答した。

「と、とんでもありません!」

 谷口は大きくかぶりを振る。

「やはり……あの河川敷のグラウンドを貸しきって下さったことは、いつも狭いグラウンドで練習しているわれわれにとって、本当に大きなプレゼントでした」

 OB会長の本田が「どうだ」と言わんばかりに、胸を張る。

「おかげさまで、より実践的な練習や、数々の練習試合を組むことができ、過去にないチーム強化を図ることにつながりました。われわれ野球部一同、改めてお礼を言わせて下さい」

 そう言って、谷口はナイン達へ手振りで合図した。すると全現役部員が、それぞれの席ですっと立ち上がる。

「ありがとうございました!!」

 全員で声を揃え、深く一礼した。OB達から再び拍手が贈られる。

 

 

 外はすっかり暗くなっていた。

「キャプテン」

 散会後。谷口が帰りの途へつこうとした時、背後から声を掛けられる。振り向くと、そこにイガラシが立っていた。

「なんだ、まだ帰ってなかったのか」

「ええ。ちょっとキャプテンに、聞きたいことがありまして」

 いつになく、イガラシは生真面目な顔である。

「甲子園での目標の話ですが」

「ああ。さっき、OBの人から聞かれたことか」

「はい……ぼくはてっきり、キャプテンなら『優勝をねらう』と言うと思ってました」

「そうか。がっかりさせて、悪かったな」

 谷口はおどけて言った。

「あ、いえ……そういうわけじゃありませんが」

「でもイガラシ。おまえなら、きっとそう言ってたろう」

「……ええ、たぶん」

 イガラシは苦笑いしつつ答える。

「でも言わなかったのは、キャプテンなりに理由があるのでしょう?」

「まあな。おっと……もうこんな時間だし、歩きながら話そう」

 下町の細道を歩きながら、二人は言葉を交わす。

「うちの野球部が、ちょっと前まで一つ勝つのもやっとだったというのは知ってるか?」

「ええ。たしか、横井さんから聞きました」

「そんなチームが、わずか三年で甲子園だなんて、とてつもないことなんだ。しかしそれゆえに……おまえのように、すでに先を見ている者と、未だに甲子園に出られたことが信じられないという者とが混在してる。つまり今、チームの心は一つじゃないんだ」

 イガラシは「なるほど」と、うなずく。

「今まで甲子園なんて夢のまた夢だと思ってた人達に、いくら『つぎは甲子園で優勝をねらう』なんて言っても、響かないだろうというわけですか」

「そういうことだ」

 足を止めて、谷口は答えた。

「それは、よく分かります。しかしキャプテン」

 渋い顔で、イガラシはさらに尋ねる。

「西将や箕輪のように、始めから優勝をねらっている強豪がごろごろしてるのが、甲子園という大会でしょう。そんな相手に、目標のはっきりしていないチームが、果たして勝負になるんでしょうか」

 その言葉に、谷口は一瞬口をつぐむ。「たしかにそのとおりなんだが……」と、胸の内につぶやく。

「……とにかく、できるかぎりの準備はする。イガラシ」

 谷口はそう言って、後輩の左肩をポンと叩く。

「おれだって同じ気持ちだ。一つでも多く勝ちたいし、できれば優勝したい。そのために力を貸してくれ。いいな?」

「ええ。それは、もちろんですよ」

 イガラシはようやく、少し微笑んだ。

いつの間にか、二人は荒川沿いの道に出ていた。水の音が静かに聴こえてくる。川辺では、まるで電飾のように蛍が二、三匹飛んでいた。

 

 

 翌朝、墨高グラウンド。

「ようし。みんな、いったん集まってくれ」

 キャッチボールの後、谷口は全員をベンチ前に集合させた。ナイン達は円座になる。

「今日からいよいよ、甲子園へ向けての本格的な練習を行う。と……その前に、甲子園での戦い方について、基本的な考え方を説明する」

 そう言って、まず半田に声を掛けた。

「記者の清水さんから借りたノートにのってた、全出場校の地方大会のイニングスコア、書き写してくれたか?」

「あ、はい。でも……あれだけで分析するのは、ちょっとむすかしいです」

 半田は、少し申し訳なさそうに答える。

「たとえばあまり点を取れてないチームでも、相手投手のレベルもありますから、いちがいに打線が弱いとは決めつけられないんですよ。ぎゃくもまた、同じで」

「ありがとう半田。それについては、おれだって分かってるさ」

 そう言って、キャプテンは全員を見回す。

「だから……あえて初戦に関しては、事前のデータをアテにしないことにした」

 ええっ、とナイン達から驚きの声が上がる。キャプテン、と丸井が発言した。

「甲子園に出てくるチームは、各地方大会の優勝校なんですよ。そんな強敵相手に、データなしでマトモに戦えるのですか?」

「いや。丸っきり、データを使わないわけじゃない」

 謎かけのような言葉に、ナイン達は戸惑う。

「正確に言うと……」

谷口は端的にポイントを告げた。

「データは試合中に、戦いながら集めるんだ」

 あっ、とナイン達から声が漏れる。キャプテンはさらに話を続けた。

「べつに新しいことをするわけじゃない。今までだって試合中に気づいたことをもとに、ねらいダマをしぼったり、ピッチャーの投球の組み立てに生かしたりしてじゃないか。ただ今度は、それに比重が傾くだけだ」

「……ま、そうするしかあるまい」

 倉橋が応える。

「中途半端なデータで、先入観を持ってしまうのも良くないからな。それなら始めから、ないものとして戦った方が、かえって相手をじっくり見ようって気になれるだろう」

「倉橋の言うとおりだ」

 谷口は大きくうなずいた。

「これは初戦に限らずだが、甲子園ではよりベンチの役割が大きくなる。試合に出ている者も出ていない者も、絶えず相手を観察すること。そうやって全員の力で、まずは初戦突破を目指そう。いいな!」

 オウヨッ、と快活な声が返ってきた。

 その時である。「すいませーん」と、部室方向から声がした。剣道部の男子部員が六人、剣道着の入ったダンボール三箱を二人ずつで運んでくる。

「こちらでよろしいですか?」

「ああ、すまない。後で取りに行くと言ってたのに」

「いえいえ。今ちょうど部室を片付けるところで、いらない物を捨てるついででしたから」

「ありがとう」

 ベンチ前に、剣道着のダンボールが三箱並ぶ。

「おい谷口。まさか……」

 横井が苦笑いを浮かべる。

「今さら、打球のスピードに慣れる練習かよ」

「む。そういえば昨年、専修館と戦う前に、あれを着て練習したっけな」

 傍らで、戸室も思い出したように言った。

「いや……今回は、スピードに慣れるのが目的じゃない」

 キャプテンは微笑んで答える。

「甲子園の暑さに慣れるためだ」

 またナイン達から「ええっ」と、声が漏れる。

「じつはきのうの祝勝会の最中、西将学園の監督さんから電話があったんだ」

 その言葉に、ざわめきが起こる。

「せ、西将って……あの招待野球で戦った?」

 丸井の問いに、谷口はうなずいた。そして中岡に教えてもらった、甲子園で戦う上で大切な二つのポイントについて説明する。

「……なるほど、暑さと時間ね」

 横井が納得したようにうなずいた。

「そういや毎年テレビで見てても、かなり暑そうだものな。東京の暑さもたいがいだが、甲子園のそれは特別ってことか」

「時間についても納得だぜ」

 隣で戸室も同調する。

「なにせあの大会、一日に四試合もこなすものな。全試合消化するために、スピーディーさを求められるのは、当然と言えば当然か」

 うむ、と倉橋も首肯する。

「試合中に、審判や係員から急かされると、けっこう気をそがれるしな。あの監督、けっこういい助言をくれたよ」

「しかしキャプテン」

 島田が挙手し、憂うように言った。

「いくら招待野球で縁があったからといって、敵の監督の言うことを信用して、だいじょうぶでしょうか?」

「それだけ余裕しゃくしゃくなんでしょう、あちらさんは」

 代わりに答えるように、イガラシが口を挟む。

「なにせ春の甲子園では、あの谷原を力でねじ伏せたチームですよ。ぼくらに多少有利な情報を与えたところで、自分達を脅かすことはないと思ってるんじゃありませんか」

 丸井が「うーむ」と腕組みする。

「そう考えると、なんだか悔しいな」

 ここで谷口は、パンパンと両手を鳴らした。

「話はそこまでだ。今のところ、有効な情報はこれだけなんだし、しっかりと生かさなきゃ。さ、シートノックを始めるぞ。みんな胴着を着るんだ」

 キャプテンの言葉を合図に、ナイン達はユニフォームの上から胴着を身につけ、面も被る。

「わっ。着るだけで、もう蒸し暑いぜ」

「うう……なんだか頭が、くらくらしてきた」

 ナイン達の間から、そんな声が聞こえてきた。

「こらっ。まだ練習も始めてないというのに、そんな心意気でどうするんだ」

 谷口は自らも胴着と面を纏いつつ、檄を飛ばす。

「この暑さに慣れないと、相手以前に、自分達の力を出せないまま負けてしまうぞ!」

 その様子に、横井と戸室は目をぱちくりさせ、互いに向かい合う。

「なあ戸室。谷口のやつ、きのうは目標なんて口にできないとか言ってたが、なんだかまたムキになってねえか?」

「ああ。ひょっとして……内心じゃ、優勝旗をねらってたりして」

 おいおい、と倉橋が笑う。

「なにを今さら。やつがムキになることで、うちはここまで来れたんじゃねーか」

「……ま、それもそうだな」

 横井は肩をすくめた。

 やがてナイン達は、いつものそれぞれのポジションに着く。傍目には、剣道着姿の野球部員が守備位置に散っている、奇妙な光景だ。

ノッカーは、キャプテン谷口自らが務める。

「よし、いくぞ。まずサード!」

 面越しに、谷口は掛け声を上げて、バットを振るう。

 カキッ。規則的なバウンドのゴロが、サードに着く岡村の正面に飛んだ。岡村は少し待ってから捕球し、一塁へ送球する。

「どうした岡村。足をしっかり動かせと言ってきたのを、もう忘れたか!?」

「あっ……」

「他の者にも言えることだが、ちょっと特別な練習をしてるからって、基本を忘れちゃ話にならないぞ。さ、もういっちょ……サード!」

 谷口はもう一度、岡村へノックを打った。今度は言われたとおり、岡村はしっかりと足を動かして捕球し、素早く一塁へ送球する。

「やればできるじゃないか岡村! その調子だ」

「は、はい。しかし……だいぶ頭がくらっときますね」

「最初はそんなものさ。つぎ、ショート!」

 今度はイガラシの正面へ、また規則的なゴロを打つ。さすがにイガラシは分かっているらしく、バウンドに合わせて足を動かした上で、顔の近くで捕球する。そして矢のような送球を一塁へ投じた。

「いいぞイガラシ。もういっちょ、ショート!」

 次は横井の前に、同じようなゴロを打つ。横井もイガラシに負けまいとするのか、流れるようなフィールディングを見せ、素早く一塁へ送球する。

 

―― こうして墨高ナインは、着実に甲子園への準備を進めていく。

 さらに五日が過ぎた。そしていよいよ、墨高ナインが甲子園へ出発する日を迎えたのである。

 

 

 その日。墨高グラウンドには、早朝にもかかわらず、甲子園へ出発するナイン達の勇姿を一目見ようと、大勢の人が詰めかけていた。学校関係者や一般生徒、野球部OBだけでなく、近所の野球ファンの姿も見られる。

 墨高ナインは、バスを貸し切り、大阪の地へ向かおうとしていた。

「全員乗ったか? 忘れ物はないな」

 キャプテン谷口が車内に声を掛けると、ナイン達から「はーい」と返事がされる。

「ちょっとまっててくれ」

 それから、一旦バスから降りた。グラウンドには学校関係者と野球部OB、それに父兄が並んでいる。

 まず田所や中山やOBが、数歩前に出る。

「谷口!」

 田所がそう言って、右手を差し出した。谷口はこの最も関わってくれた先輩と、固く握手を交わす。

「おまえ達ががんばって手にした、晴れの舞台だ。思いきり暴れてこい!」

「はい。応援よろしくお願いします」

 それから中山ら他のOB達とも握手を交わす。

「おーい、タカ!」

 ふいに後列から、両親が声を掛けてきた。父はこれから仕事に行く予定らしく、大工の半纏(はんてん)姿である。

「テレビで見てるから、がんばるんだぞ!」

 父の愉快そうな顔に、谷口は「ああ」と応える。

 最後は拍手に見送られ、谷口はバスに乗り込み、自分の席に座った。ふとつぶやきが漏れる。

「はて……なにか、忘れてるような」

 その時だった。

「おーい、まってくれい!」

 校舎の脇から、旅行バッグを手に部長が駆けてくる。

「あぶない。部長を置いていくとこだった」

 谷口は窓から顔を出し、「もう出発しますよ!」と声を掛ける。

 部長はバスに駆け込むと、空いている席の下にドサッと旅行バッグを落とし、倒れ込むように席に乗り込む。

「昨晩、またテストの採点とかしてたんです?」

 横井がおどけて尋ねると、部長は「バカいえ」と怒鳴り返した。

「おまえ達が甲子園に出るからって、バスや旅館の手配から、色々な手続きをやってたんだ。まったく、こんなに骨が折れる作業だとは思わなかったぞ」

 その返答に、横井はきょとんとして、隣の戸室と顔を見合わせる。

「あの部長、まるで野球のこと知らないと思ったら」

「けっこうおれ達のために……見えないところで、働いてくれてたんだな」

「む。てっきりほかの先生達が、代わりに動いてると思ってたぜ」

 全員で声を揃えて、「ありがとうございます!」と礼を述べる。

「ハハ。なーに、これぐらい」

 息を弾ませながら、部長は言った。

「おまえ達に課題の提出を求めた手前、こっちもやるべきことをしなかったら、教師として格好がつかないからな」

 コホンと咳払いして、部長は後方へ顔を向ける。

「ところでおまえ達。課題はちゃんと終わらせたんだろうな。まだ何名か、未提出の者がいるようだが」

 その一言に、丸井ら勉強の苦手な者数名が、うつむいてしまう。

「フン、まあいい」

 部長は鼻を鳴らし、席に座り直した。

「大会開幕まで、まだ五日ある。それまで時間はあるだろうから、旅館ででも寝る前にやっておきなさい」

 丸井らはホッと安堵の吐息をつく。

「……あ、あのう」

 そろりと挙手したのは、根岸だった。

「課題を家に忘れた者は、どうすりゃいいんでしょう?」

「はあ? しょうがないな、まったく」

 溜息混じりに、部長は答える。

「向こうでノートを買ってやるから、それに答えを写して提出しなさい」

「えっ、わざわざノートに?」

 根岸は顔を引きつらせる。

「いやなら、べつにかまわないぞ。ベンチ入りメンバーから外すだけだからな」

「は、はい……」

 大柄な一年生は、シュンとして小さくなる。

「それじゃ、出発しますよ」

 口髭の特徴的な運転手が、ナイン達に声を掛けてきた。

「ちと長旅になるので、覚悟してください」

 ナイン達は「は、はいっ」と声を揃える。

 ほどなくバスが動き出し、校舎脇から校門を通り抜ける。その際、まだ近くにいた一般生徒やファンから声援を受けた。

「がんばってこいよ」

「墨谷の底力、見せてやれ」

「キャーッ、みんなステキよー!」

 野太い声から黄色い声援まで、様々な応援の声が入り混じる。

「なんだかおれ達、アイドルにでもなったみたい」

 鈴木が露骨に照れた顔で言った。

 やがてバスは、荒川沿いの小道を抜け、ナイン達が練習していた河川敷の傍を通り抜ける。そして大通りへと差し掛かった。

 墨高ナイン、夢の甲子園への旅路である。

 

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