第86話 全員で守りきれ!!の巻
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1
真夏の日差しが照りつける甲子園球場。
マウンド上にて、中陽のエース野中が右手にロージンバッグをパタパタと馴染ませている。その眼前では、墨高の二番打者島田が、バットを短くして構える。
試合は三回表に入っていた。バックスクリーンのスコアボードには、墨高の得点が「2」、中陽の得点が「5」とそれぞれ表示されている。アウトカウントのランプが、すでに二つ光る。塁上にランナーはいない。
三塁側アルプススタンドでは、墨高応援団の懸命な声援が続く。
―― かっとばせー、しーまーだ!! カッセカッセ、しーまーだ!!
(さ、しあげはこれよ)
ホームベース奥にて、キャッチャー小山が右手の指でサインを出し、ミットを内角低めに構えた。
「む…」
野中はうなずくと、ロージンバッグを足下に放り、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。左足で踏み込み、右腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
スピードを殺したボールが、内角低めに投じられた。さらにホームベース手前ですうっと沈む。
「うっ・・」
島田は上体を崩しながらも、ボールをすくい上げるようにして打ち返した。カキ、と乾いた音が響く。
しかし打球は、平凡なレフトフライ。
「ああ…」
一塁側ベンチとスタンドから、落胆の声が聞かれる。レフト田中が「オーライ!」と大きく両手を広げて合図し、難なく顔の前で捕球した。
「アウト、チェンジ!」
アンパイアのコール。墨高ナインの面々は、一様にうつむき加減になる。
「ほら、みんな下を向くんじゃない!」
その時、キャプテン谷口が声を上げた。ナイン達はハッとした顔になる。
「まだ先は長いじゃないか! このウラをおさえて、つぎこそチャンスを作ろう!」
キャプテンの言葉に、墨高ナインは「お、おうっ」と声を揃える。
一方、守備を終えベンチへと引き上げていく中陽ナイン。
「ナイスピーよ野中!」
「さすがエース! この調子でいこうぜ!!」
声を掛けていく野手陣に、野中は「あ、ああ…」と応えた。しかし渋面のままフウと吐息をつき、一人歩き出す。
「手こずらせやがって」
野中の傍らで、小山が「まったく…」と同調した。
「三者凡退にこそ打ち取ったが、四十球近く投げさせられたな」
ああ、と野中はうなずく。
「なかなか油断ならない打線だぜ。こっちが打たせて取る投球に変えたと見るや、すぐさま球数を投げさせる作戦に切りかえやがった」
「うむ。おまけに、どいつもこいつも選球眼がいい。なかなか切れ目のない打線だぜ」
二人がベンチに戻った時、すでに他の中陽ナインは円陣を組んでいた。
「どうした二人とも」
監督が腕組みしつつ、訝しげに尋ねてくる。
「は、はあ。思いのほか、ねばられたもんで…」
小山はバツが悪そうに返答し、野中と一緒に円陣に加わる。
「うむ、そりゃ何人もの好投手を攻りゃくしてきたチームだ。あれぐらいの抵抗はしてくるだろうさ」
監督はそう言って、他のナインへも顔を向ける。
「おまえ達も、たかだが三点差で勝ったと思うなよ。ここから得点できずにいると、流れが相手に渡ってしまう。それを防ぐためにも、クリーンアップから始まるこの回、なんとしても追加点をもぎ取るんだ! いいな!!」
ナイン達は「はいっ」と、快活に声を揃えた。
グラウンド上。キャッチャー倉橋はホームベース手前に立ち、掛け声を発す。
「バッター三番からだ! しっかり守っていこうぜ!!」
墨高野手陣は「オウヨッ」と、力強く応えた。しかしマウンド上の井口は、一人こわばった表情で、足下をスパイクでガッガッと固める。
「井口!」
今度はキャプテン谷口が声を掛けた。
「リキむんじゃないぞ! バックを信じて、打たせていけ!」
「は、はい……」
返事するも、井口は明らかに落ち着きなさげだ。谷口は「まずいな…」と、渋面になる。
(井口の自信が揺らいでる。あれだけ連打を浴びちゃ、ムリもないが……)
一方、ネクストバッターズサークルでは、この回先頭の常盤がマスコットバットで素振りしていた。ビュッ、ビュッと風を切る音。
―― 三回ウラ、中陽高校の攻撃は……三番、ライト常盤君!
ウグイス嬢のアナウンス。サードベース横で、谷口は前傾姿勢を取る。
(井口を立ち直らせるためにも。なんとしてもこの回、0点で切りぬけるんだ!)
谷口と墨高ナインの眼前で、常盤が左打席に入ってきた。スパイクでガッガッと足下を均してから、バットを長くして構える。
(三番か…)
キャッチャー倉橋が、マスク越しに打者を観察する。
(前の回、スローカーブをまぜるようになって、どうにか後続はおさえたが。はたしてクリーンアップにも通用するか……)
束の間思案した後、倉橋は「まずこれよ」と右手の指でサインを出し、ミットを真ん中低めに構えた。
「む…」
井口はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
スピードを殺したボールが、真ん中高めに投じられた。そこから斜めにくくっと大きく曲がる。スパン、と倉橋のミットが鳴る。
「おっと」
常盤は一瞬ピクッと体を動かすも、バットは振らず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。倉橋は「ナイスボールよ!」と井口に声を掛け、返球する。
(井口のやつ、どうしてどうして。ホームランこそ許したが、その後はちゃんとスローカーブを低めに決めてきやがる)
感心しつつ、倉橋は「つぎはこれよ」と二球目のサインを出す。
(なるほど。緩急をつけようってことね…)
井口はサインの意図を理解し、すぐに投球動作を始めた。再びワインドアップモーションから、二球目を投じる。シュッ、と風を切る音。
外角低めの速球。常盤は右足で踏み込み、バットを振り抜いた。
カキッ、と快音が響く。痛烈なライナーが、二塁ベース左を襲う。「うっ」と、井口は顔を歪める。
「く…」
ショートのイガラシが横っ飛びするも及ばず。打球はそのままセンターへ抜け、島田の前でツーバウンドした。
打った常盤は、一塁ベースを回ったところでストップ。島田は中継のイガラシに返球するも、イガラシは一塁へ投げる構えをしただけ。
センター前ヒット、ノーアウト一塁。
(うーむ。ちと、分かりやすい組み立てだったかな…)
倉橋はホームベース手前に立ち、苦い顔でマスクを被り直す。一方、井口はマウンド上で帽子のつばを摘まみ、うつむき加減になる。
「井口!」
すかさずキャプテン谷口が声を掛ける。
「クリーンアップが相手なんだ。これぐらいで気落ちしちゃ、勝負にならんぞ!」
「は、はい…」
井口は顔を上げたものの、まだこわばった表情である。
(ムリもない)
両手を腰に当て、谷口は胸の内につぶやく。
(自慢の速球とシュートが、ああも立てつづけに打たれちゃあな……)
ホームベース奥にて、倉橋が屈み込む。そして次打者の野中が右打席に入ってきた。同時にウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 四番、ピッチャー野中君!
野中もバットを長くして構えた。
倉橋は「まずこれよ」と右手の指でサインを出し、ミットを内角低めに構えた。しかし井口はうなずいたものの、すぐに投球動作を始められず。
「どったの、カモン」
野中の挑発に、井口はムッとした顔になる。
(こんにゃろ。調子にのりや…)
「落ちつけ井口!」
今度は倉橋が声を掛けた。
「おれのミットだけ見ろ! 投球に集中するんだ!!」
「は、はいっ」
井口は返事して、ようやく投球動作へと移る。セットポジションから右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
スピードのあるボールが、打者の膝元へ喰い込むようにくくっと鋭く曲がる。野中は微動だにせず。ズバン、と倉橋のミットが鳴った。
「ストライク!」
アンパイアのコール。はて、と倉橋は首を傾げる。
(さっきはシュートを打ってきたが、今度はあっさり見逃したか。なにねらってやがる…)
しばし思案の後、倉橋は右手の指で二球目のサインを出し、ミットを内角低めに構えた。
(こいつで様子を見よう)
井口は「む」とうなずき、すぐにセットポジションから投球動作を始めた。その指先からボールが放たれた瞬間、倉橋は顔をしかめた。
(ま、また中に……)
内角低めの速球。野中は迷いなく強振した。パシッ、と快音が響く。
火を吹くような打球が、ワンバウンドで三遊間の真ん中を破った。サードの谷口、ショートのイガラシが横っ飛びするも及ばず。ランナー常盤は、二塁ベースを回りかけたところでストップ。
レフト前ヒット。ノーアウト一、二塁。
「な、なんて打球だよ」
イガラシが顔を引きつらせた。さらにホームベース手前で、倉橋が唇を歪める。
(ボールにするはずが、まるで見入られたみてえに……)
マウンド上では、井口が苛立たしげにスパイクで足下をガッガッと削る。丸井と加藤は、呆然と立ち尽くす。
(まずい…)
周囲の重苦しい雰囲気に、谷口は胸の内につぶやく。そして「タイム!」と、三塁塁審に合図した。
「みんな集まれ!」
キャプテンの呼びかけに、墨高内野陣とバッテリーはマウンド上に集まる。
三塁側ベンチ。前列にて、鈴木が「うーむ」と頭を抱える。
「どうにも雲ゆきがあやしい……て、あり?」
鈴木がふと見ると、半田がスコアブックを付ける手を止め、ぼんやりとグラウンド上を眺めている。
「お、おい半田」
ちょんちょんとユニフォームの袖を指先でつつくと、半田がハッとして顔を向けた。そのつぶらな瞳をパチクリさせる。
「な…なんだい?」
「どったの。そんな、ハトが豆鉄砲を食ったような顔しちゃって」
鈴木がおどけて尋ねると、半田は「うん…」と生真面目な顔で答えた。
「今の三、四番…なんだか前の打席と、フォームがちがってたような……」
後列で、戸室が「なんだって」と立ち上がる。
「フォームがちがうってことは、ねらいダマを変えてきてるってことじゃねえのか?」
「ええ、たぶん…」
「だったら、すぐにでもみんなに伝えてこいよ!」
背後から半田の肩をつかみ、戸室は怒鳴った。
「は、はい。そうしたいんですけど…」
半田は戸惑った顔になる。
「どこがどうちがうのか、ちょっとまだ分からないんですよ」
三人の視線の先。マウンド上では、墨高内野陣とバッテリーが集まり、一様に険しい表情を浮かべている。
2
「どしたい井口」
マウンド上にて、まず倉橋が口を開く。
「コントロールがずれてきてるぞ! まだ五点取られたショックを引きずってるのか」
「す、すみません…」
井口はうつむき加減で答える。その姿に、倉橋は困惑した顔で谷口と目を見合わせた。
「こら井口。しっかりしろよ!」
イガラシが怒鳴った。しかし井口は、うつむいたまま「ああ…」と力なく返事する。
「なあ、みんな」
そしてキャプテン谷口が、マウンド上の全員に呼びかける。
「こうなったいじょう、バックの力でアウトをもぎ取っていこう」
他のメンバーは、ハッとして顔を上げた。谷口は話を続ける。
「バッテリーがどうくふうしても、向こうのバッティングが上回っているのだから、しかたあるまい」
その発言に、井口が「くっ・・」と悔しげに唇を噛みしめる。
「井口、カン違いするなよ」
谷口はすかさず一年生投手に声を掛けた。
「なにもおまえの力をアテにしないわけじゃない。完全におさえることはむずかしくても、大量失点しないくふうはできるはずだ」
そう言って、今度は倉橋に顔を向ける。
「倉橋。せめて長打のリスクを減らすために、てっていして低めを突いてくれ」
「分かった。あとは速球一本やりじゃねらい打ちされるおそれがあるし、スローカーブは使っていこうと思う」
「む、そこは倉橋にまかせるよ。予選とちがってデータが少ないぶん、攻め方を考えるのも難しい思うが、なんとかたのむ」
おう、と倉橋は応える。谷口はさらに、内野陣にも指示を出す。
「おれと加藤はライン際をかためよう。三塁線と一塁線を抜かれたら、ほぼ長打になってしまうからな」
加藤は「分かりました」とうなずく。
「イガラシと丸井は、ベース寄りに守ってくれ。ダブルプレーのシフトはいい」
谷口の指示に、丸井は「はい!」と返事した。しかしイガラシは「でもキャプテン」と、目を見上げ尋ねてくる。
「それだと左中間、右中間に打球が飛びやすくなって、かえって長打のリスクが高くなりませんか?」
「うむ。だから二人とも、深めに守って守備範囲を広くしてくれ。もちろん外野もバックさせる」
「なるほど…分かりました」
イガラシも納得して返事する。
「いいかみんな!」
再び全員の顔を見回し、谷口は言った。
「バッテリーを孤独にはさせない。ナイン全員の力で、このピンチを切り抜けるぞ! いいな!!」
キャプテンの檄に、ナイン達は「オウヨッ」と快活に応える。
ほどなくタイムが解かれ、井口以外のメンバーは守備位置へと散った。サードのポジションに就いた谷口は、一人渋面になる。
(はて、なにかが引っかかるような気がするが……)
ふと横を見ると、イガラシも何やら考え込む表情で立っていた。
「イガラ…」
しかし谷口が声を掛けようとした時、遮るようにウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 五番、キャッチャー小山君!
ホームベース奥にて、倉橋は「外野バック!」と手振りを交え指示した。レフト横井、センター島田、ライト久保の三人はフェンスの数メートル手前まで下がる。また、セカンド丸井、ショートイガラシも深めの守備位置を取る。
「ノーアウト一・二塁だ! しっかり守っていこうぜ!!」
倉橋の掛け声に、ナインは「オウッ!」と応えた。それから倉橋はマスクを被り直し、その場に屈み込む。フウと溜息をつく。
(まったく、こんなに頭のいてえ試合は初めてだぜ…)
そして中陽の五番小山が、右打席に入ってきた。フフ…と不敵な笑みを浮かべる。
「ちょっと相談したくらいで、ウチの打線をおさえられると思ってんのかね」
小山はそう言い放ち、前打席と同じくバットを長くして構える。倉橋は唇を歪めた。
(余裕あんね、ちくしょう)
正面に視線を戻すと、マウンド上で井口が顔をこわばらせている。
声を掛けると、井口は「は、はい」と返事して、肩を上下させた。倉橋は胸の内につぶやく。
(ここはどうあっても、切り抜けねば……)
やがて、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げた。
(とにかく低め、低めよ)
倉橋は両手のジェスチャーで井口に伝え、サインを出す。
「む…」
井口はうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
外角低めの速球。小山は手を出さず。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアのコール。ほう、と小山は目を丸くした。
(まだコーナーを突くコントロールは残っているようだな…)
倉橋はテンポよく、右手の指で二球目のサインを出した。
(つぎはコレよ)
井口は「む」とうなずき、すぐに投球動作へと移る。その指先からボールを放つ。
スローカーブが投じられた。小山は一瞬ピクッと体を動かすも、バットは振らず。ボールはくくっと大きな弧を描き、内角低めに構えた倉橋のミットに吸い込まれる。
「ボール、ロー!」
アンパイアが手振りも交えコールした。倉橋は「ナイスボールよ!」と井口に声を掛け、返球する。井口はポーカーフェイスでボールを受ける。
(なんでえ…)
小山はあっけに取られた顔をした。
(ずいぶん長く打ち合わせてたが、たんに低めに集めようって話だったのかい。外野もバックさせて、長打だけはさけようってハラか)
フン、と小山は鼻を鳴らす。
(さしものやつらも、万策つきたってとこか。こちとら、べつに長打ねらいってわけじゃねえんだ…)
そう胸の内につぶやき、すっとバットの握りを短くした。打者の動きに、倉橋は「うっ・・」と苦い顔になる。
(握りを短くしやがった。長打より、かく実にランナーを返そうってんだな)
すぐに「外野、前だ!」と手振りも交え声を掛けた。外野陣の横井、島田、久保の三人が、守備位置を数メートル前に移す。
(こうなると、ますます打ち取りづらく……ん?)
その時、倉橋はあることに思い至った。横目で打者を見やる。
(気のせいか。このバッター、なんだか前の打席と雰囲気がちがうような……)
正面に向き直ると、マウンドより井口が怪訝げな目を向けていた。
「あ、すまん」
倉橋は苦笑いして、「つぎはこれね」と右手の指でサインを出す。
(思い悩んでもしかたねえ。今はとにかく、長打だけはさけねえと…)
井口はサインにうなずき、またもセットポジションから投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
外角低めの速球。小山は「いまだっ」とスイングする。カキッ、と快音が響いた。痛烈な打球がワンバウンドで一・二塁間を抜けていく。オオッ、と内外野スタンドの観衆が沸き立つ。
「くっ・・」
セカンド丸井が横っ飛びするも及ばず。ライト前ヒット。倉橋は「やられた…」とマスクを脱ぎ、立ち上がる。
「すと…お、おい……」
ランナー常盤はコーチャーの制止を聞かず、三塁ベースを蹴りホームへと向かう。
「させるか!」
ライト久保がダッシュしながら、シングルハンドで打球をグラブに収め、直接バックホームした。ノーバウンドのストライク返球。ホームベース前に立った倉橋が、ミットをほぼ動かすことなく捕球する。
「う…」
ランナー常盤がタッチを搔い潜ろうと、滑り込んでホームベースへ左手を伸ばす。しかしその手の甲を、倉橋のミットがはらう。
砂塵が舞う。一瞬の静寂。
「あ、アウト!」
アンパイアが右手を突き上げコールした。ホッ、と倉橋は安堵の吐息をつく。
「おおっ」
「ああ……」
球場全体を、観衆の安堵と落胆の入り混じった声が包む。
「ナイスプレーよ久保!」
キャプテン谷口が、好返球の久保に声を掛ける。久保は「へへ」と笑みを浮かべ、元のポジションへと戻る。
「し、しまった・・」
アウトになった常盤は、気まずそうにベンチへと引き上げていく。その横顔に、一塁ベース上にて、打者走者の小山が青筋を立てる。
「あのバカ。なにをあせって、突っこんでやがんだ!」
常盤はベンチに戻ると、険しい表情で腕組みする監督に「すみません」と頭を下げた。
「どうした? あんな強引に突っこむなんて、おまえらしくもない」
「は、はい…」
監督は他のメンバーにも呼びかける。
「おまえ達もいいか! 墨谷は今、うちの打線に圧倒されてるんだ。いくら点が欲しいからって、こっちがムリする必要はないんだからな!」
はいっ、と中陽ナインは声を揃えた。
(どうもおかしい…)
監督は一人腕組みしたまま、胸の内につぶやく。
(さっきの中継プレーの乱れといい、今の走塁といい、うちにしてはミスが多い。やはり得体の知れない相手ということで、どうも浮き足立ってしまうようだな……)
渋面の指揮官をよそに、試合は進んでいく。
―― 六番、ファースト後藤君!
ウグイス嬢のアナウンスの後、六番打者の大柄な後藤が右打席に入ってきた。小山と同じく、バットを短くして構える。
(こいつも長打より、かく実にヒットねらいか……?)
倉橋はふと、打者をじっと頭のてっぺんからつま先まで見つめた。
「なんだい」
打席の後藤は挑発的に言った。
「そんな見つめたところで、おれの弱点は探れないぜ」
「いや、そういうつもりじゃねえよ」
相手捕手の素っ気ない物言いに、後藤は「れ」とずっこける。
(構えを変えたせいなのか。いや、それだけじゃねえ…)
倉橋は胸の内につぶやく。
(このバッターも、どこか前の打席とちがうような……)
うつむき加減になり、首を横に振る。ボスンと右こぶしでミットを叩く。
(いかんな。おれがこんなこっちゃ…)
正面に向き直り、マウンド上の井口に右手の指でサインを出す。
(まずこれよ)
む、と井口がうなずく。倉橋はさらに「低め、低めよ」と両手のジェスチャー交じりに声を掛けた。
ワンアウト一・三塁。三塁ランナーの野中が、じりじりとリードを広げ眼前のホームをうかがう。
やがて井口が、セットポジションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
真ん中低めに投じられたボールが、速いスピードでくくっと鋭く外へ曲がる。
(やはり・・)
後藤は踏み込んでバットを振り抜いた。カキッ、と快音が響く。痛烈な打球が三遊間を襲う。
「くわっ!」
イガラシが横っ飛びした。そのグラブの先に、打球が収まる。すぐに立ち上がり、三塁へ投げる構えをする。
「おっと」
三塁ランナー野中は慌てて帰塁した。二塁ベースカバーに入った丸井が「へい!」と声を掛ける。イガラシは片膝立ちのまま、素早く二塁へ送球した。
「く・・」
小山が右足からスライディングするも及ばず。
「アウト!」
二塁塁審が右こぶしを突き上げた。
丸井はすかさずファースト加藤へ転送するも、寸前で後藤がベースを駆け抜けた。
一塁はセーフの判定。それでもピンチで飛び出したファインプレーに、墨高応援団の陣取る三塁側スタンドがワアッと沸き立つ。
「フウ、あぶねえ…」
倉橋はホームベース手前に立ち、苦笑いした。
「深く守っていて助かったぜ」
一方、イガラシは無言で立ち上がり、左手でユニフォームの土をはらう。
「ナイスプレーよ! イガ・・」
キャプテン谷口が声を掛ける。しかしイガラシは、なぜか浮かない表情のままだ。
「た、タイム」
谷口は三塁塁審に合図してから、イガラシのところへ歩み寄る。
「どうしたんだイガラシ」
イガラシは顔を上げて返事した。
「さっきから、しかめっ面(つら)しちゃって」
「いえ。べつに、作戦がどうのってわけじゃないんスけど…」
「なんだいイガラシ。おまえにしちゃ、歯ぎれが悪いじゃないか」
微笑んで谷口は言った。
「いいから、思っていることを言ってみろ」
「は、はあ…」
渋面のまま、イガラシは話し出す。
「いぜん似たようなことがあったのを、思い出しましてね」
「似たようなこと?」
「はい。キャプテンもおぼえてるでしょう? 墨二時代の地区予選で、金成中と戦った時のことを」
む、と谷口はうなずく。
「あんときゃ金成のデータ野球に、さんざん苦しめられたんだったな」
「ええ。こっちがウラをかこうとすればするほど、ずるずると相手の術中にはまっちゃいましたよね」
ちらっと、イガラシは一塁側ベンチを見やる。
「どしたい墨高! いくらじらしたって、うちの攻撃は止められねえぞ!!」
「へいへい、思いきっていこうぜ!」
ベンチ後列では、中陽の監督がなおも腕組みしつつ、厳しい表情を浮かべている。イガラシはもう一度谷口に顔を向け、口を開く。
「今のぼくらも同じだと思うんですよ。相手のねらいダマをさぐろうとして、ことごとくはずされてるじゃありませんか」
「ああ……」
その時、頭の中にひらめくものがあった。谷口は「そうか!」と胸の内につぶやく。
(分かったぞ。さっきから、ずっとなにに引っかかっていたのかが)
イガラシが「キャプテン?」と怪訝げな目になる。その左肩を、谷口はポンと叩く。
「ありがとうイガラシ。おかげで大事なことに気づかされたよ」
谷口はそう言って、他のメンバーに「みんな来てくれ!」と声を掛けた。
キャプテンの指示により、ほどなくマウンドにて、さっきと同様にバッテリーと内野陣が集まる。
「どしたい二人とも」
まず倉橋が尋ねてきた。
「打ち合わせどおり、バックでツーアウトを奪ったってのに」
「倉橋。みんなも聞いてくれ」
声をひそめて、谷口は言った。
「われわれは、とんだ思いちがいをしていたようだ」
傍らで、丸井が「思いちがいですか?」と首を傾げる。
「ああ。この試合、われわれは中陽の監督のねらいをはずそうとしてきたが、それこそ相手の思うツボだったんだ」
「た、たしかに…」
井口が苦々しげに口を開く。
「やつらが最初、ツーストライクの後のシュートをねらい打ちしてきたもんで、ちがうタマに変えたんスが…それも打たれちまって」
そうなんだよ、と倉橋も同調する。
「向こうのウラをかこうととすればするほど、後手をふんじまうんだ」
谷口は「すまん…」と、神妙な表情で言った。
「もっと早く気づくべきだった。あの監督は、甲子園で何度も優勝旗を争ってきた人物だ。われわれが読み合いの勝負でかなう相手じゃない」
「じゃあ、なにもしないってことですか?」
加藤が問うてくる。
「やみくもに勝負したら、それこそ相手の思うツボじゃ…」
「そうじゃない」
谷口は首を横に振り、短く答えた。
「相手の監督じゃなく、バッターを見るんだ」
「バッターを?」
丸井がキャプテンの言葉を繰り返す。ああ、と谷口は穏やかな目でうなずく。
「監督の指示だろうとなんだろうと、打つのはバッターじゃないか」
その言葉に、ナイン達はハッとした顔になる。
「い、言われてみれば…」
まず倉橋が口を開いた。その隣で、井口はきょとんとする。
「え、それって…どういう……」
一年生投手の間の抜けた発言に、他のメンバーは「あーあー」とずっこける。
「ば、バカだなあ」
倉橋が呆れたふうに言った。
「どのタマを打つか決めるのは、けっきょくバッターってことよ。向こうの監督を意識しなくとも、バッターの頭の中さえ分かりゃいいんだ」
正捕手の説明に、井口は「な、なるほど…」と真顔になった。
「いいんじゃないスか」
イガラシが笑みを浮かべて言った。
「ごちゃごちゃ考えるより、その方がすっきりするってもんでしょう」
「そ、そういやキャプテン」
丸井が微笑んで、両手をパチンと打ち合わせる。
「予選で谷原と戦った時も、バッターの構えのちがいから、向こうのねらいダマを見破ったことがありましたね!」
そうだ、と谷口は満足げにうなずく。
「丸井が言ったように、われわれだってこれまでの戦いで身につけてきた力がある。むやみに相手を恐れず、今こそ自分達の力を発揮しようじゃないか!」
力強いキャプテンの言葉に、ナイン達は「オウヨ!!」と快活に応えた。
やがてタイムが解かれ、墨高ナインは再び守備位置へと散っていく。マウンドにはバッテリー二人だけが残る。
井口は鋭い眼差しで、ガッガッと足下の土をスパイクで削る。その横顔に、倉橋が「井口」と声を掛ける。
「ここからが本当の勝負だ」
小さく右こぶしを突き上げ、正捕手は言った。
「おまえのボールで、今度こそ中陽のやつらをねじ伏せてやれ!!」
井口は怒りに燃える瞳で、短く「はいっ!」と返事する。
一方、谷口はサードベース横にポジションを取り、他のメンバーに「さあ、しまっていこうよ!」と呼びかけた。外野陣の横井、島田、久保ら野手陣が「オウッ」と応える。
ふと横を見ると、ショートのポジションに就いたイガラシが、一人笑みを浮かべていた。
「どうしたイガラシ」
谷口が声を掛けると、イガラシはこちらに顔を向けて返答する。
「キャプテン。見てごらんなさいよ、井口の顔を」
「ああ」
二人の視線の先で、マウンド上の井口が眼光鋭く、左手にロージンバッグをパタパタと馴染ませている。
「やつも、ようやく闘志を取り戻せたみたいスね。そうこなくっちゃ」
「なあイガラシ」
谷口は不思議そうに尋ねた。
「ひょっとして、おれと同じことを考えてたのか?」
「さ、さあ……」
はぐらかすようにイガラシは返事する。
―― 七番、サード筒井君!
ウグイス嬢のアナウンス。ツーアウト一・三塁から試合が再開された。
そして中陽の七番打者筒井が、右打席に入ってくる。細身ながら眼光鋭く、こちらもバットを短くして構えた。
ホームベース奥に屈み込んだ倉橋は、マスク越しに打者を観察する。
(みょうだな…)
正捕手は胸の内につぶやく。
(バットの握りこそ変えてきたが、こいつは前の打席とそう雰囲気が変わらねえぞ。そういや、さっきはシュートをねらい打たれたんだったな)
フフ…と、倉橋は含み笑いを漏らす。
(おれとしたことが、相手の監督のことばかり考えて、バッターの観察がおろそかになっていたようだ。これじゃ、ピッチャーをうまくリードできるわけえねえか……)
正面に向き直り、右手の指でサインを出す。
(まずカーブで様子を見ようか)
マウンド上。井口は険しい表情で、首を横に振った。
(えっ、じゃあ速球?)
倉橋はサインを変えた。しかし井口は、またも首を横に振る。
(まさか…シュートか?)
シュートのサインを出すと、井口はようやくうなずいた。オイオイ…と、倉橋は苦笑いを浮かべる。
(さっき打たれたシュートでおさえたいって気持ちは分かるが、相手がねらってるかもしんねえのに、わざわざそれを投げてやるなんざ……まてよ)
倉橋は考え直す。
(ほんとにシュートねらいなら、打ち気を利用するテもあるな。ようし…)
束の間思案の後、倉橋はサインを出し直す。
(それならシュートを投げさせてやる。ただし、ボールにするんだ)
井口は「む」とうなずき、すぐにセットポジションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
外角低めに投じられたシュートが、ホームベース手前でくくっと鋭く曲がる。
筒井は踏み込んでスイングした。ガキ、と鈍い音。
「し、しまった・・」
打球はファースト加藤の正面へ鈍く転がった。筒井は苦い顔でバットを放り、走り出す。
加藤が前進して捕球する。ベースカバーの井口が「へい!」と合図した。加藤はタイミングを合わせ、井口へトスする。ボールを捕りベースを踏む井口。
「アウト、チェンジ!」
一塁塁審のコール。絶好機を逃し、中陽応援団の陣取る一塁側スタンドから「ああ・・」と落胆の溜息が聞かれる。
井口は打ち取った筒井を睨み「ヘン、ざまあみろ!」と吐き捨てた。そして大股歩きでベンチへと向かう。あっけに取られる筒井。
谷口家。田所と谷口の父は座敷の円卓を囲み、テレビの甲子園中継に見入っている。
父はお猪口(ちょこ)を右手でつまみ、酒をぐいっと飲み干す。隣で、田所は自分のお猪口に触れることなく、前のめりでテレビ画面を凝視していた。
テレビ画面には、三回裏の守備を終えてベンチに引き上げる谷口、倉橋ら墨高ナインの姿が映し出される。
―― 墨高、どうにかピンチをしのぎました! しかし、いぜんとして苦しい展開がつづきます……
酒に顔を赤くした父が、お猪口を手にフヒーと大きく吐息をつく。
「墨谷もよくやってるが…中陽ほどの強豪ともなりゃ、ちと別格だな」
そう言って、お猪口の酒をぐびっと飲み干す。
「タカ達の活やくも、どうやら今日が見納め…テッ」
ふいに背後からお盆を抱えた母が、父の脳天にげんこつを食らわせた。ゴチンと音がする。
「オチー。て、てめ…なにしやがる!」
父は両手で頭を押さえつつ、青筋を立てる。
「なにをエラソーに、さとったようなこと言ってやがんだい! タカががんばってるんだから、最後まで応援してやるのが親じゃないのさ!!」
「こんにゃろ、ひとを薄情者みてえに…テメーは野球を知らねえから、そんなきれいごとぬかせるんだ!」
田所が「あ、ちょいと…」と止めようとうするも、二人はさらにヒートアップする。
「なにが野球だよ! タカの応援にかこつけて、また酒をかっくらいやがって!」
「うるせーな。景気づけに一杯やって、なにがわりいんだよ! だいたいテメーは…」
傍らで、ああ…と田所は苦笑いして、再びテレビに向き直った。墨高ナインは三塁側ベンチ前にて、キャプテン谷口を中心に円陣を組む。
(たしかにつらい展開だが、気のせいか……)
右手で額の汗を拭い、じっとテレビ画面を見つめる。
(谷口のやつ、それに他の連中も。みょうにすっきりしたツラしてるような…)
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