南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

句作三年で見出した、自分なりの”答え”<俳句>

 

f:id:stand16:20190106013249j:plain

<はじめに>

 人気テレビ番組『プレバト!!』による俳句ブームに乗っかり、私が俳句を作り始めてから、早くも三年が過ぎた。

 この俳句ブームの仕掛け人・“毒舌先生”こと夏井いつき先生が、著書やユーチューブ動画の中で繰り返し述べていることがある。

―― 俳句は「自分のために」作るのだ、と。

 また夏井先生は、こうも述べておられる。

―― 俳句をまるでアクセサリーのように、「誰かに認めてもらうため」の道具として使う人がいる。そういう人は、“俳句から見捨てられる”と。

 

 先日放送されたNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』における夏井先生の特集を見ながら、私は改めて「自分は何のために俳句を始めたのか」ということについて考えてみた。

 

 正直に言う。私も「誰かに認めてもらうため」に始めたという側面が、結構強い(笑)。夏井先生の言葉を借りれば、私も一歩間違えれば“俳句から見捨てられる”可能性は十分あると思う(汗)。

 

 ただ……言い訳に聞こえるかもしれないが、私が「誰かに認めてもらうため」に俳句を始めたのには、他の人がどう思うかは別にして、自分なりに理由がある。


 結論から言うと――私は俳句を通して、主に沖縄問題等の社会事象をイデオロギー抜きで表現したいと思ったのだ。

 

1.時事俳句の難しさ

 俳句とは、元々が直接的な主義主張を入れ込むこととは、合わない文芸だ。何せ、たった十七音しかないのだから。しかしその分、読み手に想像を委ねることで、より深く沖縄のことを考えてもらうことができる。

 

 ただ、そんな句を詠むためには、ある程度“技術”が要る。技術のない下手な俳句だと、選には採ってもらえないから、まず人の目に留まることはできない。だからまず、俳句を詠む技術を磨こうと考えた。

 

 しかし始めてみて、すぐにコトはそう簡単じゃないことに気付く。

 俳句の基本は、「季語を主役に立てること」である。少々乱暴な言い方をすれば、一句に使う言葉を並べてみた時、一番目立つのが季語でなければならない。

 

 沖縄問題に限らず、時事俳句の難しさはここにある。どうしても季語より、取り合わせる社会事象の方が目立ってしまいがちなのだ。

 

 それでも何とか……これこそ「ビギナーズ・ラック」と言うべきなのかもしれないが、次の句を「青嵐俳談」(愛媛新聞の40歳以下の若者向けの俳句応募)において選に採っていただいた。

 

 ガジュマルの巻きつく空やオスプレイ

 秋天が剥がれる米軍機の部品

 冬うらら嘉手納はチューインガムのにほひ

 

2.句作の行き詰まり

 俳句を始めて一年ちょっと過ぎた頃には、前述の「青嵐俳談」だけでなく、夏井先生が選者を務める「俳句ポスト365」「俳句生活~よ句もわる句も~」(雑誌『通販生活』の一コーナー)にて、安定して二句人選を頂けるようになる。

 

 だがこの頃、欲ばりな私は、逆に句作の行き詰まりを感じていたのだ。

 

 自慢じゃないが、私は初投句となった「俳句ポスト365」の兼題「色鳥」にて、俳句は“一行書き”で書くという基本さえ知らず、見事(?)初心者コーナーにて「良くない見本」として掲載されるという、華々しいデビュー(??)を飾った(笑)。

 

 それでも初心者の頃は、選の結果が出るたびに自分の句を見直し、課題を見つけて次の句作に生かすという過程が、とても楽しかった。

 

 ところが結果が安定してくると、段々「次はどの課題を潰せばいいのか」ということが、見えづらくなってきた。

何事も自分の成長を実感できている時が、一番楽しいものである。しかしそれがなくなると、何をどうすればいいのか分からないから、途端に苦しくなってしまう。この時期の句作は、本当に苦しかった。

 

 それでも「沖縄の句を詠みたい」という初心は忘れず、どうにか捻り出したのが以下の句である。

 

 重陽泡盛は理科室のにほひ

 泡盛の壺光りけり去年今年(こぞことし)

 首里城の焦げた龍神カモミール

 

<終わりに>

 まだまだ初級者の域を抜けていないが、それでも自分なりに試行錯誤を繰り返して、(正しいかどうかは分からないが)自分なりの「答え」を一つ得ることができた。

 

 すなわち“良い俳句”とは――読み手に「良い想像を促す句」だということ。

 

 ある句を読んだ人が、全員同じ光景を思い浮かべる句は、悪い句ではないが……少々物足りない。それよりも、この句を入り口として、読んだ人を深い想像の世界へと連れていけるような句が、良い句なのだ――未熟な私なりに、このような“答え”を見出した。

 

 この“答え”を見出せたことにより、自分の句を読み返す時のポイントが変わった。「季語が主役に立っているか」「読み手に意味は通じるか」という基本は押さえた上で、“読み手が想像を膨らませる余地はあるか”ということを考えるようになった。

 

 もっとも……それが分かっていても、毎回できるわけではない。それに、私とは全然違う発想で、優れた句を詠む方も大勢いらっしゃる。

 

 ただ今のところは、自分なりに見つけた“答え”に沿って、句作を続けていこうと思う。もしかしたらその先に、新たな“答え”、俳句の“新たな世界”を見出すことができるかもしれない。その日がいつか来ることを、楽しみとしながら。

 

 断崖の色のヒヌカン寒雀

 このふんは痩せた猪きんもくせい

 校庭に珊瑚の化石秋時雨

 石鹸に嘴のあと春夕焼け