南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

※過去記事より【2013年・秋季九州大会決勝】沖縄尚学-美里工業<名勝負プレイバック> 

 

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1.はじめに

 

 先日、ある美里工業OBの方より、DMをいただいた。詳細を明かすことはできないが、当時の悔しさは今でも鮮明に覚えているとのこと。

 本人の胸中は察してあまりあるが、しかし沖縄高校野球の一ファンの立場からすれば、球児達がそれくらいの情熱を賭けていたという事実は、何とも嬉しいものだ。

 その彼とのやり取りがあって後、ワードの文書ファイルを開いてみると、スポナビ+時代に書いた記事のデータが出てきた。せっかくなので、ここに再アップする。

 奇しくも、今世代でも沖尚と美里工業は、夏の覇権を争うライバル関係である。現役の球児達の参考に……とまでは言わないが(笑)、沖縄県勢同士で九州の決勝を戦った、その激闘を振り返ってみたい。

 

2.過去記事から

 

【決勝戦】 沖縄尚学(沖縄) 4-3 美里工業(沖縄)

 

 間違いなく、今大会最高レベルの試合だったと思う。また同時に、「今までで一番強い相手」だとお互いに感じたのではないだろうか。

 

 沖縄尚学と、美里工業。両チームの選手達の個人能力、チーム戦術、体力、集中力、そして気迫……これらを総合的に見ると、やはり“沖縄2強”と呼ばれた彼らが、勝つべくして勝ったのだ。そのことを改めて実感させられた、秋季九州大会のクライマックスだった。

 

 この決勝戦のハイレベルさを、何よりも物語っていたのは――自分達の長所であったはずの部分で、双方とも思うように力を発揮できなかったことだ。

 

 まずは一回表。美里工が2番西蔵當祥の左中間への二塁打を皮切りに、沖尚の先発・山城大智に4連打を浴びせ1点を先制する。準決勝までの三試合で抜群の安定感を誇っていた山城が、初回からこれだけ集中打を浴びるのは、秋季県大会・九州大会を通じて初めて見る光景だった。

 

 山城本人の不調もあったかもしれないが、ここは美里工の“チームバッティングの徹底ぶり”を褒めるべきだろう。4連打の内訳は、いずれも「センターから逆方向」へ打ち返したものである。これが山城クラスの好投手に対してできるのは、日頃の練習からそういう意識を持って取り組んでいることの証だ。

 

 更に注目すべきは、美里工は駿足巧打の神田大輝・県大会で2本塁打を放った宮城諒大ら、各選手の能力も高いということだ。素質のある打者が揃うと、攻撃は「選手の能力任せ」になってしまいがちだが……美里工は能力の高い選手を擁しながらも、それに頼り切らないというところが強みである。

 

 しかし、沖尚もこのまま黙ってはいなかった。

 1点ビハインドで迎えた四回表、それまで好投していた美里工の先発・長嶺飛翔がやや制球を乱し、2つの四球で二死ながら一・二塁とチャンスを得る。そして迎えた7番伊良部渉太が、外角寄りにやや甘く入った変化球を見逃さなかった……打球はライト線を破る2点適時二塁打となり、沖尚が2-1と逆転に成功する。

 

 その後再逆転を許すが、八回裏にまたしても沖尚打線が底力を見せ付ける。

 この日はリリーフ登板だった美里工の主戦・伊波友和に対し、二死後に4番安里健が一・二塁間を破るヒットで出塁。続く5番上原康汰は、初球を左中間へ弾き返し二塁打となる。二死二・三塁とチャンスを拡げ、迎えた代打・金城太希が、今度はレフト線を破る2点適時打を放つ。

 二死無走者から一気の3連打、鮮やかな逆転劇である。

 

 今度は、美里工が計算を狂わされる番だった。

 彼らは今大会、本調子でないながら「要所での集中力・プレー精度の高さ」で相手を上回り、厳しい試合をモノにして勝ち上がってきた。これはチームバッティングと並ぶ、彼らの大きな武器だ。

 

 だが……そんな彼らとて、どうにもならない時がある。試合の要所で、相手に自分達を上回る集中力・プレー精度を発揮された場合だ。

 

 美里工が今大会で初めて対戦した、「要所での集中力・プレー精度の高さ」の部分でも自分達と互角以上の相手――それが、同県のライバル校・沖尚だったのである。

 

 それにしても、日南学園戦・安里健の先制2点本塁打や波佐見戦の四回・五回の集中打、そして美里工戦の四回・八回の逆転劇……今大会における沖尚の勝負強さ、甘い球を確実に仕留める“一振りの精度”の高さには、何か“凄み”さえ感じる。単に「打力がある」というだけなら、沖尚より上の強豪校は全国に幾らでもあるだろう。だが、それを勝負所で発揮できるかという点で、沖尚に匹敵するチームは数少ないと思う。

 

 また今大会の沖尚は、各選手の「技術面でのレベルアップ」にも、目を見張るものがあった。

 

 県大会まで、沖尚は変化球投手を苦手とする傾向が見られた。特に美里工との県大会決勝では、その弱点を突かれ、長嶺-伊波の投手リレーの前に僅か2安打に抑えられてしまう。まったく手が出ないというわけではないのだが、内外角の厳しいコースに決められると、強引に打ちにいって凡打に仕留められるシーンが目立っていた。

 

 だが、九州大会では見事にその“解答”を示すことができた。

 その兆しが見られたのは、波佐見戦だった。各打者がベース寄りに立ち、外角の変化球を逆方向へ打ち返す――このバッティングが形になり、変化球でかわそうとした相手投手陣から大量得点を奪った。続く鎮西戦でも、同様のバッティングでサイドハンド投手・須崎琢朗から13安打を放つ。

 

 美里工との再戦となった決勝では、更に「相手に外角へ投げさせる」工夫も見られた。逆転した八回裏、沖尚の各打者はラインの内側ギリギリに立ち、「内角を封じる」策に出る。

 

 前日の疲れからか、この日の伊波はやや制球にバラつきがあった。だから沖尚の内角封じに、美里工バッテリーは“痛い所を衝かれた”と思ったことだろう。結果として、それまで内外角へ効果的に投げ分けていた伊波が、この八回裏に限っては外角一辺倒になってしまう……そこに、沖尚打線が襲いかかった。

 

 試合はそのまま、沖尚が4-3で美里工を振り切った。苦戦の連続だった美里工に比べ、大会を通して安定したパフォーマンスを発揮した沖尚が、その分だけ僅かに上回ったという印象だ。

 

 逆に言えば、それ以外はほとんど差がなかったということである。次当たった時は、おそらく同じ結果にはならないだろう。現時点で、両チームは戦力的にも戦術的にも「ほぼ互角」と見るのが妥当だ。

 

 個人的には、ここまでハイレベルな攻防を見せられると……途中から、もうどっちが勝とうが良いじゃないかという気持ちにさせられた。

 

 他の都道府県に比べると人材の限られている我が県において、全国に通用するチームが同じ世代に2つも現れたということ。それ自体が素晴らしい快挙であるし、沖縄の高校野球ファンの一人として、こんなに誇らしいことはない。夏はどちらかが出られないということが惜しい気もするが、それも贅沢な悩みだ。

  

 最後に――秋季九州大会関連記事の締めくくりとして、言わせていただきたい。

ありがとう、沖縄尚学並びに美里工業関係者の皆さん! 来年の選抜大会、あなた方が甲子園の舞台で躍動する姿を見るのが、今から本当に待ち遠しい。

 

3.終わりに

 

 沖尚と美里工業。結果として、両者は大きく明暗を分かつこととなる。

 この県勢対決を制した沖尚は、その勢いのまま明治神宮大会で優勝。さらに、翌年の春夏の甲子園大会で、ともにベスト8へ進出を果たした。

 一方、美里工業は春の選抜初戦で、関東一高と好勝負を演じたものの、終盤の逆転負けで敗退。さらに、続く春九州で初戦コールド負けを喫すると、夏の県大会では準々決勝で浦添商業に惜敗(奇しくも神谷嘉宗監督の前任校である)。沖尚との最後の決着を付けることなく、無念の夏を終えることとなった。

 

 そして、昨年秋。1年生大会の準決勝で、両校は相まみえた。

 時は巡り、メンバーも違うのだが、当時を髣髴とさせるほと素晴らしい熱戦だった。沖尚はもちろん、敗れた美里工業にも大いに期待したのだが。

……美里工業野球部諸君、そろそろ「終盤の逃げ切り方」を覚えてくれ!(苦笑)。私はほうぼうに、「美里工がまた復活する」と言いふらしているのだが、そろそろ私の見識が疑われる(笑)。

 

 冗談はさておき、今年もこの二校による、素晴らしい熱戦を期待したい。

【野球小説】続・プレイボール<第12話「河川敷のミーティングの巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  • 【前話へのリンク】
  • 第12話 河川敷のミーティングの巻
    • 1.OB田所が見た、墨高野球部の成長
    • 2.打倒・谷原への誓い
    • <次話へのリンク>stand16.hatenablog.com
      • ※感想掲示
      • 【各話へのリンク】

  

 

【前話へのリンク】

stand16.hatenablog.com

 


 


 

第12話 河川敷のミーティングの巻

www.youtube.com

 

 

※ 文中、墨高ナインが豆乳を飲むシーンがあります。これは、あくまでもOBの田所が、差し入れで持ってきそうなモノとして浮かんだので、書いただけです(なお、豆乳を飲んでいる野球部は、実際に存在します)。もちろん豆乳の効果を喧伝するためではないので、誤解なさらぬようお願い申し上げます。

 

1.OB田所が見た、墨高野球部の成長

 

 荒川近くに差し掛かると、野球の声が聴こえてきた。三叉路を左折すると、すぐに河川敷グラウンドの光景が飛び込んでくる。

「……おっ。やってるやってる」

 軽トラックのブレーキを踏みながら、田所はつぶやいた。ユニフォーム姿の後輩達が、いつものように白球を追っている。

 田所が、墨高野球部の練習に訪れるのは、約一ヶ月ぶりだ。あの谷原に、衝撃的な大敗を喫した日以来である。

 ショックを受けたであろう後輩達を励ましたかったが、話もそこそこに片瀬を病院へ連れて行くことになり、ほとんど何も言えずじまいだった。さらにあの後、家業が急に忙しくなり、母校へ顔を出す時間すら作れずにいた。

 まったく。商売繁盛はありがてぇが、この大事な時期に、OBとして何もできなかったのは心苦しいぜ……

 路肩に車を停める。降り立った瞬間、田所はびくっとした。

「よぉし。つぎは、ワンアウト一・三塁だ」

 ノックバット片手に、倉橋が野太い声を響かせる。

ダブルプレーをねらうか、バックホームか、それとも確実に一つアウトを取るか。一瞬でも迷ったら、傷口を広げてしまうぞ。判断はすばやく、いいな!」

 おうっ、とナイン達は力強い声を発した。

 どうやらシートノックの最中らしい。各ポジションに一人ずつ、さらにランナーも置き、かなり実践的だ。学校のグラウンドよりも広く使えるので、余ったメンバーは離れた場所で、個人ノックを行っている。

 マウンドには、松川が立っていた。また一塁ランナーとして、田所がスカウトした一人、駿足の岡村を置く。

 倉橋がバットを構える。その刹那、松川は一塁へ牽制球を放った。

「……わっ」

 岡村は逆を突かれたが、間一髪セーフ。

「松川、いい牽制だぞ!」

 キャプテンの谷口が、サードのポジションから声を掛けた。松川は微かにうなずく。

「おい岡村」

 今度は、倉橋が後輩に助言する。

「いまの牽制でびびってたら、相手をラクにするだけだぞ。ひるまず、つぎも長めにリードを取れ。バッテリーとしては、こういうランナーが脅威だからな」

 岡村は「はいっ」と返事して、自らを奮い立たせるように短く吐息をついた。

 倉橋が、今度はバットを振る。速いゴロが、三遊間へ飛んだ。あらかじめ深めに守っていたイガラシが捕球し、まず三塁ランナーを制してから、二塁へ。そのままセカンドの丸井、ファーストの加藤へと渡り、六-四-三のダブルプレーが完成する。

 三塁ランナー役は、島田が務めていた。すぐにキャプテンの声が飛ぶ。

「島田。安全第一もいいが、もうちょっと内野手にプレッシャーを掛けろよ」

「あ……スタートを切るふりをするとか、ですか?」

「そういうことだ。もし送球されても、俊敏なおまえなら、十分還れるだろ」

「は、はい」

 谷口は他の野手陣に向き直り、厳しい顔つきで言った。

「ほかのみんなにも言えることだが、ここまで来たら、どれだけ細かい部分まで徹底してやれるかだ。どんなプレーが効果的か、各自しっかり考えろ。そして決めたら、迷わず実行するんだ。いいなっ」

「はい!」

 眼前の光景に、すげぇ……と田所はつぶやいた。

 こりゃとても、いぜんのように「よっおまえら」なんて、気楽に入っていける雰囲気じゃねぇ。一所懸命なのはずっとだが、なんつうか、一人一人の顔つきが全然ちがう。谷原、そして箕輪と戦った経験が、こんなにもあいつらを変えたのか。

 トラックの傍らに座り、しばらく眺めていることにした。

 にしても……松川のやつ、見違えるほど牽制うまくなったな。あの岡村が、刺されそうになるなんて。

 グラウンド上。倉橋が「スクイズ!」と叫び、三塁線へ緩いゴロを転がす。サードの谷口は鋭くダッシュし、まるでボールを叩くようにグラブトスをした。キャッチャー役の根岸が捕球し、タッチアウト。

「くそっ、うまくすべり込んだと思ったのに」

 ホームベースを島田がバチっと叩き、悔しがる。谷口は「おしかったな」と励ました。

「走塁じたいは、よかったぞ。ただ頭からすべるのではなく、回り込んでベースの隅をはらうようにしたろ。こんなふうに、ちょっとした工夫が大事なんだ」

「あ、ありがとうございます」

 キャプテンはまた、全員に呼びかける。

「いまの島田の走塁、みんなも頭に入れておけ。確実にやれることをやる。こういうスキのない野球をめざそう」

 ナイン達は「おうっ」と返事した。

 遠巻きに一連の光景を眺めながら、田所は深くうなずく。あいかわらず、うまい言い方しやがるぜ……と、胸の内につぶやく。

 結果ではなく、それぞれの工夫と積極性を尊重するキャプテンの姿勢。またナイン達もよくそれに応え、緊張感はありながらも前向きな気持ちで取り組んでいる。

 これは一日やそこらで、作られる雰囲気じゃないな。日々の積み重ねだ。毎日、こんなふうに練習してたら……なるほど、強くなるワケだ。

 それから十球程度打った後、倉橋がライトの鈴木を呼んだ。

「は、はいっ」

 怒られると思ったのか、鈴木が肩を竦める。

「なにビクついてんだ」

 倉橋は苦笑いした。

「そろそろ個人ノックに回れ。代わりに、久保をこっちによこしてくれ」

「あ、はい……」

 やや安堵した顔で、鈴木は走り出す。

 田所が視線を移すと、個人ノック組には半田と数人の一年生が入っている。そのうちの一人、久保が鈴木と入れ替わり、ダイヤモンドへと駆けていく。また、ノッカーは三年生の横井が務めていた。

「おーい。平山と松本」

 倉橋が、個人ノック組の一年生二人に声を掛ける。

「二人もそろそろ呼ぶから、しっかり準備しておけよ」

「はいっ」

「わ、わかりました!」

 田所は、ごくんと唾を飲み込む。

 なるほど。レギュラー組、控え組と分けているんじゃなく、数人ずつ入れ替えながら両方させてるのか。つまり全員をレギュラーとして扱うってことだな。粒ぞろいの一年生のチカラを見込んでのことだろうし、公平っちゃ公平だが……させられる方は大変だぞ。

「ほら松本。いくぞっ」

 横井が速いゴロを打つ。松本は、少し間を置いてからダッシュした。ところが捕球しようとした時、打球がイレギュラーして横に逸らしてしまう。

「す、すみません」

「捕れたかどうかよりも……いま一瞬、迷ったろ?」

「はい」

「その迷いが、試合では命取りになるぞ。出るなら出る、待つなら待つ。さっきキャプテンも言ってたが、決めたら迷うなっ」

「わ、分かりました」

 へぇ……と、田所は吐息をついた。不覚にも、うるっと涙腺が緩んでしまう。

 あの頼りなかった横井が、後輩にここまで的確なアドバイスをできるようになるとは。ここで二年以上過ごして、やつも成長したなぁ。

 田所の感涙をよそに、横井はもう一度速いゴロを打つ。

 松本が、今度は鋭くダッシュした。またもボールはイレギュラーして、捕球し損ねたが、体に当てて止める。すかさず拾い直し、キャッチャー役の平山に送球した。

「オーケー。ナイスプレーよ、松本!」

 横井は、軽くこぶしを突き上げた。

「おまえはグラブさばきがうまい分、きれいに捕ろうとしすぎるクセがある。悪いこっちゃねぇが、よほどきれいなグラウンドじゃない限り、こんなイレギュラーはけっこうあるんだ。そんな時は、いまのように体で止めりゃいい」

「はいっ。どんな打球でも、せめて前にこぼして、必ずアウトにして見せます!」

 素直な一年生に、横井は目を細める。

「そうだ、その意気だっ。よし……つぎは、旗野いくぞっ」

「よしきたっ」

 田所は、しばし後輩達の成長ぶりに見惚れていたが、やがてハタと気付く。

 い、いけね。こうしてただ見てるだけじゃ、来た意味ねぇや。ちったぁ手伝わないと。差し入れも持ってきたし、それに……大事な伝言もある。

 よしっ、と立ち上がり、河川敷の斜面を下りていく。タイミングを見て、こちらから話しかけるつもりだったが、ナイン達にすぐ気付かれてしまう。

「た、田所さん。おひさしぶりですっ」

 横井が、まず声を掛けてきた。それに続いて、他のメンバーも練習を止め、脱帽して次々に挨拶してくる。

「こんにちはっ」

「ようこそ先輩。どうぞ、こちらに」

 田所は慌てて、右手を大きく左右に振った。

「い、いいから。俺にかまうな。気にせず、練習を続けててくれ」

 イガラシが「ははっ」と、笑い声を上げた。

「後輩思いの奥ゆかしいOBの方で、ぼくら幸せですね。そう思いませんか、丸井さん」

「あ、うむ。そうだな……って、こらイガラシ。俺が出しゃばりだって言いてぇのか」

 丸井はぎろっと、イガラシを睨む。途端、同じ墨谷二中出身の久保と加藤が、同時に吹き出した。その傍らで、島田が困ったような顔になる。

「……おい。てめぇら言いたいことは、ハッキリ言うもんだ」

「よしましょうよ。せっかく、田所さんがいらしてるのに」

「先におまえが、ヘンなこと言うからじゃねぇか」

 田所は、苦笑いしていた。

 イガラシのやつ……入部当初はもうちょいおとなしかったのに、これが地か。ずけずけ言うタイプといやぁ、倉橋もそうだったな。いまは周りも実力者ばかりだから、イガラシが浮き上がってしまう心配はなさそうだが。

「……も、もういいだろう」

 その倉橋が、笑いを堪えながら言った。

「忙しい先輩が、こうして見に来てくださってるんだ。いいとこ見せようなんて、気負う必要はねぇが、気の抜けたプレーだけはするんじゃねぇぞ」

 ナイン達の「はいっ」という返事とともに、練習が再開される。

 田所は、そのまま個人ノック組に付き添うことにした。もう一度ノックバットを持った横井に、「代わるぜ」と声を掛ける。

「後輩のコーチもいいが、それだとおまえの練習ができねぇだろ」

「えっ、だいじょうぶですよ。交替ずつやってますし。今年の一年生、中学でキャプテンしてたやつ多いので、みんなノック打てるんスよ」

「ほぉ。いや、遠慮はいらねーよ。じつはな……おまえらが谷原に負けたりケガ人が出たりして大変だった時に、OBとしてなにもできなかったのが、ちと引っかかってたんだ」

「……は、はぁ」

 横井が納得したような戸惑うような、曖昧な声を発した。

「ま、これは俺の勝手なんだが。ようするに……俺はいつでも、おまえ達のチカラになりたいってこった。だから気にしないで、なんでも言ってくれ」

「そっそれじゃあ、おねがいします」

 ノックバットを差し出すと、横井は十メートル程度下がった。そこに他の内野手も二人。さらに二十メートルほど後方には、外野手の三人がそれぞれ控える。

「さ、思いきりお願いします!」

 後輩の掛け声に、田所は「おうよっ」と答える。平山からボールを受け取り、左手でぽんっと浮かせ、バットを振った。

 しかし、ボールはバットを掠めただけで、田所の足元に転がる。

「……れ、おかしいな。このところ仕事ばっかで、ちと体がなまっちまって」

「センパーイ。無理しなくて、いいっスよ」

 横井が、妙に間延びした言い方をした。

「ケガでもされて、仕事にさわったりしたら、ぼくらも引っかかっちゃいますし」

 明らかにからかう口調だ。周囲の部員達も、一斉に吹き出す。

「ば、バーロイ! てめぇなんかに、心配される筋合いなんか、ねぇよ」

 田所はボールを拾い、もう一度バットを振り抜く。

 今度は手応えがあった。痛烈なゴロが飛ぶ。田所が「外野カバー」と言いかけたその時、横井がボールに飛び付く。バシッと音が鳴る。

 起き上がった右手に、ボールが握られていた。すかさず片膝立ちになり、送球する。ワンバウンドながら、平山はほとんどミットを動かすことなく捕球した。

 よ、横井のやつ。いつの間に、こんな腕を上げやがったんだ……

「田所さん、どうしたんです。あんぐり口を開けちゃったりして」

 ユニフォームの土をはらいながら、横井は涼しい顔で言った。後ろの数人が、またも「ぷぷっ」と吹き出し、腹を抱えている。

「まさか。もう、疲れちゃったとか?」

「ば、バカヤロー! てめぇごときが、気取りやがって」

 再びバットを構え、田所は言い放つ。

「ここから続けざまにいくからな。ほれ、後ろのやつらも構えろ。覚悟しやがれっ」

 言うやいなや、ボールを立て続けに打ち返す。カキ、カキッ……と、小気味よい音が響いた。さすがにグラブが間に合わず、外野まで転がる。

「おらぁ、どしたい。口ほどにもねぇ」

 挑発すると、横井が唇を尖らせる。

「みょうなタイミングだからですよ。まともに打ってくれたら、ちゃんと捕れますって」

「言ったな。これなら、どうだ」

「さぁ来いっ」

 火を吹くような田所の打球に、後輩達は負けじと喰らい付いた。

 

 

2.打倒・谷原への誓い

 

 日曜日とはいえ、もはや墨高ナインに休日という気分はない。

 この日も早朝から、軽いランニングと体操に始まり、キャッチボール、柔軟運動、そしてシートノック・個人ノックと、ほぼノンストップで進められていく。

 ノックの後も、僅かな休憩を挟んだだけで、ほどなく筋力トレーニングが開始された。

 

「……八十二、八十三……ほら。みんながんばれっ」

 キャプテン谷口の掛け声に、ナイン達は「おうっ」と応えた。全員で輪になり、腕立て伏せを行っている。この前に五十本ダッシュも消化しているから、すでに半数近くの部員は顔が苦しげだ。

 既定の百回を終えると、ナイン達は一斉に倒れ込む。

「はぁ。長かった」

「こ、これは……きくぜ」

 谷口は、あえて「みんな起きろ」と厳しい口調で告げた。

「これぐらい序の口だ。上級生は、夏の大会がどれだけ体力を消耗するか、よく知ってるだろ。一年生もよくおぼえとけ。あの炎天下で、何試合も勝ち抜かなきゃいけないんだ。相手より先にバテちゃ、話にならないぞ」

「……わ、わかってるよ」

 横井が息を荒げながらも、むくっと起き上がる。周囲もそれに習った。

「よし。つぎは、いつものように二人一組になれ。腹筋と背筋を五十回ずつ」

 はいっ、とナイン達はすぐにペアを作り、腹筋から始める。なんだかんだで、こちらの意図を理解してくれているな……と、谷口は満足した。

 谷口は、半田とペアを組んだ。OBの田所には、鈴木に付いてもらう。実力と意欲の両面で、とりわけ心配な二人だった。

 まだ半分もいかないところで、半田が「ううっ」と苦しげな吐息を漏らす。

「息が上がるのが、ちょっと早すぎるぞ」

 あえて厳しい言葉を掛けた。

「マネージャーの仕事にかまけて、自分も選手だってことを忘れちゃダメじゃないか。もしケガ人が出たら、君にも出番が回ってくるぞ」

 少し口調を柔らかくして、話を続ける。

「半田。うまい下手は、いい。それよりも……うちの野球部は、全員ができることを一所懸命やる。この精神を大事にしたい。君もその一翼を担っていること、忘れるな」

「……は、はい」

 顔を歪めつつも、半田はどうにか回数をこなしていく。その傍らで、鈴木も腹筋を続けている。時折小さい角度で止めようとして、田所に「妥協すんな」と叱責されたが。

 谷口は、何とか二人が五十回をこなしたタイミングで、次の指示を与えた。

「半田と鈴木。二人には、別メニューを与える」

 筋力トレーニングから解放され、二人が安堵の表情になる。すかさず「カン違いするなよ」と叱り付けた。

「二人とも、ちょっと基礎的な体力が不足している」

「は、はいっ」

「すみません……」

 背筋をぴんと伸ばして返事するので、「そんなにかしこまらなくても」と苦笑いが浮かぶ。

「そこで……これから河川敷の端から端まで、ダッシュしてもらう。せいぜい二百メートル程度だから、四十本はいけるだろ」

 二人が同時に「よ、四十本!」と声を上げる。

「これを苦しいと感じているうちは、夏の炎天下の試合で、まともにプレーできやしない。ほれ、少しは上級生として意地を見せて来い」

 観念したのか、二人は目を見合わせ「やるしかないか」とでも言いたげに、うなずく。

「田所さん。そのまま二人に、付いててもらえますか?」

 谷口がそう頼むと、田所は「まかせとけ」と快く引き受けた。

「さ、そうと決まったら……行くぞ二人とも」

「はい。お、おてやわらかに」

 鈴木が泣きそうな声で言うのを、元キャプテンは「甘ったれんな!」と一蹴した。他の部員達は、二人を幾分同情するような目で眺めている。

「この期に及んで、ダッシュ四十本たぁ……ちと気の毒だな」

 走るのが苦手な井口は、溜息混じりにつぶやく。

「なに他人事みてぇに言ってやがる」

 井口の真向かいで、根岸とペアを組むイガラシが、辛辣に言った。

「全体練習の後、俺はいつも十キロ走に出ているが、今日はおまえもつき合ってもらう。箕輪戦でよく分かったと思うが、強い相手にねばり強く投げるには、絶対的な体力が不可欠なんだ。その点、おまえはまだ足りない」

「そんな急に……く、倉橋さんの許可も取らないと」

 井口が引きつった顔で言うと、ちょうど腹筋を終えた倉橋が「俺がなんだって?」と口を挟む。いつも既定より倍の回数をこなすので、少し時間が掛かっていた。

「あ、倉橋さん。後でこいつを、ランニングに連れ出してもかまいませんか?」

 イガラシの質問に、倉橋はにやっと笑う。

「おう、もちろんだとも。なにも遠慮するこたぁない」

 正捕手の返答に、井口はがくっと肩を落とす。

 当のイガラシは、根岸と代わって腹筋運動を始めると、あっという間に五十回を終えてしまった。涼しい顔で「たりねぇな」とつぶやき、さらに回数を追加する。

「おまえ……少しペース配分とか、考えないのか」

 ペアを組む根岸が、呆れ顔で尋ねる。

「朝一人で、ランニングやら筋トレやら、散々こなしてたろ」

「なにが? あれでも午後から練習試合があるってんで、だいぶ軽めにしといたんだ。これだと物足りないから、やっぱり昼食の後にでもするかな。根岸、手伝ってくれよ」

「手伝うだけだよな? 俺までつき合わされるのは、カンベンだぞ」

「ったく、だらしねぇ。そんなんだから、このまえの練習試合で、四つも盗塁を許しちまうんだよ」

「かっカンケーねぇだろ」

「いいや大アリだ。おまえはまだ、顔つきといいプレーといい、控え丸出しなのさ。そりゃ相手にナメられる。倉橋さんから正捕手を奪うぐらい、もっと必死になんねえと、また走られ放題だぞ」

 倉橋は、二人の会話に「ぷっ」と吹き出した。

「わ、わーったよ」

 腹筋の体勢になり、根岸が言い放つ。

「百でも二百でも、つき合ってやる。こうなりゃ勝負だ。イガラシこそ、先にバテて、泣くんじゃねぇぞ。そんで……正捕手の座も、奪ってやる」

「ばかっ。失礼だぞ」

 イガラシに肘で小突かれ、あっ……と根岸が青ざめた。倉橋が「ほぉ」と凄む。

「いい度胸だな、根岸。やれるもんならやってみろよ」

「そ、そういう意味じゃ。やはり正捕手は倉橋さんじゃないと」

「安心しろ。志が高いと、感心してるのさ。そんなら……後のキャッチャー練習で、もっとビシバシやんねぇとな。覚悟しとけ」

「は、はい。ううっ」

 根岸は、涙目で返事した。

 練習風景を眺めながら、谷口は目を細めた。日々の厳しい練習に、ナイン達は何だかんだ言いながらも、誰もが前向きな姿勢で取り組んでいる。キャプテンとして、それが何よりも嬉しい。

 これなら、と胸の内につぶやいた。一月後には、夏の大会が開幕する。時期的にも、ちょうど良いタイミングだ。

 みんなに、そろそろ伝えていい頃だろう。谷原の攻略法を……

 

 すべてのメニューを消化した後、墨高ナインは一日の仕上げとして、神奈川の昨夏八強のチームと練習試合を行う。

 谷原、箕輪と対戦したナイン達にとって、もはやこのレベルの相手は問題にならなかった。谷口ら主力を温存した布陣ながら、五対〇と完勝を飾る。

 

 

「……れ、けっこう飲みやすいスね」

 水筒のコップを一口含み、横井が不思議そうな顔で言った。

「へっ。そ、そうなのか」

 戸室が手元をのぞき込んでくる。

「ああ、おまえも飲んでみろよ」

 横井に勧められるがまま、戸室も少量ながら飲み下す。

「む……ほ、ほんと。けっこうイケるぜ」

 二人の背後から、丸井が「ぼくにも一口」と手を伸ばす。

 試合後。グラウンド整備を済ませると、ナイン達は河原近くに集まった。しばし一息つく彼らに、田所から差し入れの豆乳が振る舞われる。

「おまえら慌てんな」

 田所はそう言って、持ってきたバッグから別の水筒を三本取り出した。

「ちゃんと全員分あるから、みんなでやってくれ」

「……む。飲みやすいどころか、おいしいスね」

 倉橋が珍しく、目を丸くする。

「そうだろう。この豆乳は、俺んちの近所の豆腐屋でしか扱ってない、上等なやつだからな。クセのある他の店のとは、一味ちがうわけよ」

 田所が得意げに言うと、横井がすかさず「よく田所さんの給料で買えましたね」と軽く突っ込んだ。先輩は「ありゃっ」と、分かりやすくずっこける。

「よ、余計なお世話だっ。ふふ……聞いて驚くな。この豆乳は、俺がそこの店主に頼んで、おまえらのために準備してもらったのよ」

「ええっ」

 根が生真面目な倉橋は、憂うように眉をひそめる。

「そ、そりゃ……ありがたいスけど。ちゃんと採算は取れてるんですか?」

「なぁに。うちの電器店とそこの豆腐屋は、古いつき合いでな。冷蔵庫が故障したりなんかした時に、うちが格安で修理を請け負ってるんだよ。そのよしみでな」

「でも……どうして、豆乳を?」

 鈴木が質問する。

「そりゃ、おめぇ。体にいいからに決まってんだろ」

 田所が答えると、横から丸井が補足した。

たんぱく質だから、骨や筋肉をじょうぶにするんスよね。ケガの予防にもなるとか」

「……そ、そうなんだよ」

 どうやら持ってきた本人も、よく分かっていなかったらしい。口調がしどろもどろだ。

 加藤が「それにしても」と、首を傾ける。

「この豆乳、キンキンに冷えてますね。まるで、さっき冷蔵庫から出したみたい」

「へへっ。よくぞ、聞いてくれました」

 妙に破顔して、田所は答えた。

「この水筒、いわゆる魔法瓶ってやつでな。冷たいものでも熱いものでも、そのまま保つことができるのさ。今度、うちで新発売するんだ」

「ちゃっかり自分の店の宣伝、してるじゃないスか」

 また横井が突っ込む。周囲から、どっと笑い声が上がった。

 夕方の穏やかなひと時。それを破るように、谷口はパンパンと、強く手を叩いた。ナイン達が一斉に、こちらを振り向く。

「休んでいるところ、すまない。みんなに話しておきたいことがある」

 丸井が気を利かせ「立ちますか?」と尋ねてきたが、谷口はそれを制した。

「いや、座ったままでいい。そのかわり……全員しっかり聞いてくれ」

 しばし間を置いてから、話の趣旨を告げる。

「あの谷原と、どうやって戦うのかという話だ」

 途端、辺りを緊張が走る。

「この夏、俺はほんきで甲子園をねらいたい」

 キャプテン谷口は、きっぱりと告げた。

「そのつもりで、強化を進めていきたいのだが……みんなはどうだろう」

 倉橋がすぐに「異論はねぇよ」と答えた。

「この一ヶ月半。俺達はずっと、谷原を倒すことを目標としてきた。その結果、あの箕輪高とも善戦したばかりか、他地区のシード校を圧倒できるまでになれた。こうなりゃ甲子園を射程に収めないと……むしろ、はり合いがねぇよ」

「なるほど。他のみんなも、倉橋と同意見なのか」

 少し間はあったが、ほどなく次々に声が上がる。

「もちろんじゃないですか」

「あれ……俺はとっくに、そういうつもりでしたけど」

「やってやりましょう!」

 中には無言の者もいたが、否定の顔つきではない。あの半田や鈴木でさえ、真剣な面持ちで聞いている。そして、全員が深くうなずいた。

 谷口は立ち上がり、チームメイト達へ「ありがとう」と一礼する。

「よし。全員の気持ちが固まったところで、具体的な話をしていこう」

 そう告げて、いったん谷口も座り込んだ。

「谷原について触れる前に、じつは……もう一つ懸念していることがある。上級生は、昨年かなり痛感したことと思う。すなわち日程だ」

 ああ……と、数人が溜息を漏らす。

「下級生のために、少し補足しておく」

 回想しながら、努めて端的に話を続けた。

「昨夏の五回戦で、われわれは優勝候補の専修館を破った。ところが疲労の蓄積により、続く準々決勝では力を発揮することができず、明善高に完敗した。今年も事情はほぼ変わらない。大会が進むにつれ、中二日や中一日、さらに休みなし……と厳しい日程になる」

「ち、ちょっと待て」

 戸室が挙手して発言する。

「昨年とは、だいぶ状況がちがうだろ。今回はシードを獲ったことで、俺達の試合は三回戦からだ。少しは余裕も……」

「おまえ分かってねぇな」

 横から、倉橋が答える。

「そりゃ準々決勝で終わるのなら、昨年よりは余裕あるだろうさ。けど、その先も勝ち進むとなったら、決勝まで数えると六戦。試合数は、じつは昨年と変わらねぇんだ」

「おまけに……相手のレベルも、全然ちがうぞ」

 横井が苦笑いを浮かべる。

「五回戦以降は、あの聖稜や専修館クラスのチームと連戦になる。そこまで乗り越えて、やっと谷原戦だからな。よほどうまく戦わないと……もたねぇよ」

 雰囲気が暗くなったので、谷口はとりなすように言った。

「まぁまぁ。今年は、少なくとも昨年よりも選手層が厚くなったし。あれほど消耗することはないと思う」

 やや声のトーンを落とし、話を進める。

「それより心配なのは、谷原と、どんな日程でぶつかるかだ。かりに準決勝だとしたら、勝っても翌日には決勝を戦わなければならない」

 ここで束の間、谷口は瞑目した。そして口を開く。

「俺が、もっとも恐れているのは……あの東実が、谷原戦の前後にくる場合だ」

 キャプテンの言葉に、周囲がざわめく。

「もちろん現段階で、決まったわけじゃない。しかし……これを想定しておかないと、いざそうなった時に慌ててしまう。」

 谷口は「そこで、だ」と、膝を進めた。

「この二試合、投手陣を分担して臨もうと思う」

 まず反応したのは、イガラシだった。

「なるほど。どちらか一方の試合にしか、登板させないというわけですね」

「ふふっ。さすが飲み込みが早いな」

 後輩の聡明さに、満足する。

「万全の状態でも、難しい相手だ。疲労で調子を崩していれば、まちがいなくメッタ打ちにあう。せめて先発投手は、ベストコンディションでのぞませたい」

「おい、谷口」

 ふいに倉橋が、問うてきた。

「そこまで考えてるなら、もう誰をどの試合に投げさせるかってとこまで、構想できてるんじゃないのか」

「……ああ」

 谷口は、短く答えた。またも周囲から、どよめきが起こる。

「しかし、それは後で倉橋と相談してから、ちゃんと決めようと」

「いや。きっと相談してもしなくても、結論はそう変わらねぇよ」

 倉橋は、穏やかな目で言った。

「それより、せっかく全員いるんだ。いま明らかにして、みんなで戦い方のイメージを共有した方が、ずっとチームのためだと思うが」

「……そうか。分かった」

 束の間、谷口は瞑目した。やがて口を開く。

「まず谷原戦。先発は、井口。そして後半、俺が継投する」

 井口はしばし無言だったが、イガラシに脇腹を小突かれ、ようやく「はいっ」と返事した。

「つぎに東実戦。こっちの先発は、松川。そして継投は、イガラシだ。また展開によっては、こっちも俺が、どこかで登板しようと思う」

「……ふむ。いいんじゃないの」

 にやっと倉橋が笑う。どうやら、ほぼ同じ考えだったようだ。

「その根拠も聞かせてくれたら、ありがてねぇな」

「もちろんさ」

 谷口はうなずき、質問に答える。

「谷原戦に、井口を起用したい理由は……彼の図太さと負けん気を買ってのことだ」

 井口が「いっ?」と妙な声を発した。ばーか、とイガラシに突っ込まれる。

「はっきり言って、谷原打線を完全に抑えることは難しい。ある程度の失点は覚悟しなきゃならない。だからこの試合は、打たれても打たれても、最後まで闘志を失わないことが不可欠だ。井口なら、それができると思う」

 ここで一つ吐息をつき、キャプテンは話を進めていく。

「一方で、東実戦はちょっと展開が読めない。なぜなら彼らも、うちをかなり警戒しているからだ。エース自ら偵察にやって来るくらいだからな。そこで……経験豊富な松川、さらに箕輪相手に力投したイガラシを起用したい。二人なら、相手に応じた投球ができる」

 その時、イガラシが挙手した。

「……あの、ちょっといいですか」

「うむ。なんだ?」

「谷原戦のことです。いくら井口が図太いといっても……あまり考えたくはないですけど、たとえば序盤で五、六点取られるようなことがあれば、そりゃ替えざるをえないじゃないですか。その場合、キャプテンが早い回から投げなきゃいけなくなります」

 二、三度うなずき、谷口は口を開いた。

「言いたいことは分かる。早い回からリリーフして、終盤までもつかってことだろう?」

「あ、はい」

「その件について……イガラシ。おまえにはもう一つ、役割を与える」

 さしものイガラシも「えっ?」と、目を丸くした。

「もし井口が序盤で捕まった場合は、おまえを緊急リリーフとして送りたい。一イニングだけでもしのいでくれたら、俺は余裕を持って登板できる」

「……ああ、なるほど」

 イガラシはすぐに首肯した。

「ち、ちょっと待ってください」

 丸井が口を挟む。

「つまりイガラシだけ、二試合投げるってことになるじゃないですか。いま一イニングだけっておっしゃいましたけど、相手が相手ですし、そうなるとも限らないですよ。次戦に疲れを残していたら、いくらイガラシでも」

「丸井。そのケースなら、あえて考える必要はない」

 谷口はそう言って、静かに微笑んだ。

「というのも……イガラシがそんなに長く投げなきゃいけなくなるということは、つまりうちの負けだ。東実戦にしても同様。そして敗色濃厚となれば、いずれの試合も、俺が最後のマウンドに立つ。だから、次戦のことは考えなくていい」

 ごくんと、丸井が唾を飲み込む。

「みんなも腹を決めてくれ」

 一転して、キャプテンは厳しい口調になる。

「投手陣だけじゃない。この二試合は、チーム全員が役割を果たさなければ、負ける。そのつもりで、明日からの練習に取り組んでほしい」

 そう言って、今度は口調を明るくした。

「あ、そうそう……もう一つ言っておくことがある」

 谷口は、ある一人の部員に顔を向けた。

「片瀬。立ってくれ」

「……え。あ、はい」

 思わぬ指名に、片瀬は戸惑いながらも立ち上がった。

「ケガでつらかったろうが、よくがんばってくれているな。おまえが復調したら……この二試合、もっと余裕を持って投手起用ができる」

「キャプテン。それはぼくにも、出番があるかもしれないってことですか?」

「そういうことだ」

 本人よりも、周囲がざわめく。

「みんな静かにしろ」

 倉橋が、一喝した。

「片瀬のボール、ほとんどのやつは見たことないだろ。言っておくが、いまレギュラーの者でさえ、簡単には打てねぇぞ。こいつの実力は、俺が保証する」

「あ、あの……キャプテン」

 立ったまま、片瀬がおずおずと言った。

「ぼくだけじゃなく、他のピッチャーもそうだと思うのですが、あの谷原打線をどうやって抑えていくか。その具体策がまだ見えません」

 谷口は、内心苦笑いする。痛い所を突かれたと思った。冷静で穏やかな質だが、長らく怪我と戦ってきたからか肝が据わっており、そして賢い。

 オホン……と、ふいに田所が咳払いした。

「その点について、おまえらに朗報を持ってきた」

 すぐさまナイン達の視線が、気のいいOBに集中する。

「じつはな。昨日……あの谷原高の近くに、営業へ行ってきたんだ。そしたら、近所の住人が噂してたのよ。再来週、招待野球ってのがあるらしい。都の高野連主催でな」

 ナイン達は、一様に考え込む仕草をした。

「招待野球って?」

「はて、そんなもの……あったっけ」

 田所は、笑って言った。

「おまえらが知らないのも、無理はねぇよ。なにせ、今年からだからな。まだ対戦カードも正式に決まってないらしいから、新聞報道もされてない。しかし、すでに第一シードの谷原には打診があり、やつら引き受けたそうだ」

「そりゃいいっスね!」

 ぽん、と丸井が膝を打つ。

「この機会に、やつらをじっくり偵察する。各バッターの弱点も、そん時に探り出すことができるじゃねぇか」

「……で、でも」

 加藤が、引きつった顔で言った。

「ぎゃくに……やつらの強さを、見せつけられるだけたったりして」

「いや、それも心配いらねぇよ」

 胸を張って、田所は答える。

「聞いて驚くな。来るのは……なんと、広島の広陽(こうよう)。さらに大阪の、西将(せいしょう)学園だ」

「へえ、広陽に西将ですかっ」

 全国大会に詳しい片瀬が、真っ先に声を上げる。

「えっ。そんなに、強いのか?」

 加藤が尋ねると、片瀬は深くうなずく。

「強いも何も……広陽は、昨夏の全国準優勝校。この春も四強まで進んでます。そして、なんといっても西将は、春の優勝校。準決勝で、あの谷原を破ってるんです」

 片瀬の言葉に、ナイン達はざわめく。

「まあ、そういうこった」

 田所は、吐息混じりに言った。

「そこは天下の高野連ってわけよ。谷原にコテンパンにされるような、ヘボいチームを呼んだりしたら、メンツにも関わるからな」

「……ていうか、先輩」

 なぜか横井が、田所に流し目を向ける。

「な、なんだよ」

「豆乳とか魔法瓶とか、どうでもいい話してないで、こっちを先に聞かせてくださいよ」

「ど、どうでもいいとはなんだっ。こちとら後輩のためにだな」

「もちろん感謝はしてますがね。ただ、ちと前置きが長すぎるかなと」

「そりゃ、おめーの辛抱がたらねぇんだ」

 倉橋が「あーあ」と、わざとらしい溜息をつく。

「あいかわらず、すぐムキになる先輩だぜ。わかってても、つい高めの吊り球に手を出しちまうタイプだな」

 正捕手の的を射たOB評に、ナイン達は吹き出した。

 

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【野球小説】続・プレイボール<第11話「ほんとうの勝負球!の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  • 【前話へのリンク】
  • 第11話 ほんとうの勝負球!の巻
    • 1.唐突な幕切れ
    • 2.打倒!谷原への道
    • <次話へのリンク>
      • ※感想掲示
      • 【各話へのリンク】

  

 

【前話へのリンク】

stand16.hatenablog.com

 


 

第11話 ほんとうの勝負球!の巻

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1.唐突な幕切れ

 

 八回表――守る墨谷は、この試合で最大のピンチを招いていた。

 先頭の上林にエラーで出塁を許すと、足攻にかき回され、ついにノーアウト満塁。しかも迎えるバッターは、初回にスリーランホームランを放っている、四番の堤野である。

 

 初球。イガラシは、内角へシュートを投じた。

 堤野のバットが回る。快音が響いた。打球は、レフトスタンドのポール際へ飛んでいく。周囲から「うわぁ」「やられた」と、悲鳴のような声が上がる。

 三塁塁審が、両腕を大きく左右に開いた。

「ファール!」

 ショートの横井が、軽く怒鳴る。

「おいおい。いまの、あぶねぇぞ」

 イガラシは振り返り、まぁまぁ……と笑った。向き直り、倉橋と目を見合わせる。こちらは冷静だ。返球を捕り、次のサインを確認する。

 さすがのパワーだぜ。けど、いまのはボール球だ。打ってもファールにしかならない。これに手を出してきたということは、ちょっと打ち気にはやってるぞ。

 すべて、バッテリーの計算通りだった。

 二球目は、内角低めに速球を投じた。これは見逃し、ツーストライク。やっぱりな、と胸の内につぶやく。

 この堤野というバッター、広角に打てる技術はあるが、ほんらいは外寄りのボールを引っぱるのが好きなようだ。しかも満塁なもんで、こちらがストライク先行でくると踏んでいるのか、得意なバッティングをしたがっている。

 推測を確かめるため、三球目は速球を外角低めへ。無理に引っ張ると内野ゴロ。堤野は、やはりカットしてきた。これで確信する。

 思ったとおり、好きなコースを待っているな。それなら……

 四球目。外のボール気味のコースに、チェンジアップを投じた。これは見極められ、イーブンカウントとなる。

 この時、僅かながら堤野のまなじりに笑みが浮かぶ。イガラシと倉橋は、互いに目を見合わせる。相手打者の表情の変化を、バッテリーは鋭く捉えた。

 そして五球目。倉橋がついに勝負球のサインを出す。イガラシはうなずき、ボールをグラブの中で握った。これから投じる球の軌道、腕の使い方を再度強くイメージする。

 ふん。決め球のチェンジアップを見送られて、こっちが慌てると思ったな。あいにくだが、ほんとうの勝負球は……こっちだ!

 グラブを突き出し、スパイクの左足を踏み込む。右腕を思い切りしならせる。

 ボールが、打者の左肘にぶつかる軌道で投じられる。堤野が「わっ」と叫び、除けるようにして身を屈める。

 しかし、ボールは二、三メートル手前から、鋭く変化して打者の膝元に飛び込んだ。

 キャッチャーミットの乾いた音が鳴る。束の間の静寂。

「……ストライク、バッターアウト!」

 アンパイアが右拳を突き上げ、いつになく声を張り上げた。

「すげぇぞイガラシっ」

 真っ先に声を発したのは、丸井だった。

「こんなカーブがあるのなら、もっと早く投げろよ。勿体ぶりやがって」

 その隣で、加藤が微笑んで言った。

「一瞬デッドボール、押し出しかと思ったけどな。さすがのコントロール

 横井が「ああ」と相槌を打つ。

「俺もドキッとしたぜ。あの内角へのカーブ、ずっと試してたやつだろ。満塁で投げようっていう度胸がすげぇよ」

「正直……まだ七割程度だったから、投げさせたくなかったけどな」

 倉橋はマスクを取り、小さく吐息をついた。

「こんな場面で、ドンピシャ決めてくるとは。おそれ入ったよ」

「ち、ちょっと皆さんっ。あまり褒め過ぎないでくださいよ」

 後方で、丸井が軽く抗議する。

「イガラシのやつが調子に乗るじゃないですか。まだピンチを脱したわけでもないですし」

「丸井。そんなこと言って、おまえが一番にやけ顔だぞ」

 加藤に突っ込まれ、丸井は「んなことねぇよっ」と分かりやすく反応する。

 箕輪の打順は、五番の中谷に回った。こちらも油断ならない打者だ。イガラシは頭の中で、戦況と箕輪の心理状態を分析する。

 向こうからすれば、ノーアウト満塁の絶好機に、もっとも頼りにしている打者が三振に倒れた。まだリードは保っている。あせるほどじゃないが、相手に傾きかけた流れを断ち切りたいと思っているはず。となると……おそらく、初球を狙ってくる。

 倉橋のサインにうなずく。セットポジションに着くと同時に、ファーストの加藤がすっと下がるのを、横目で確認した。そして第一球を投じる。

 バットの届きにくい外角低めに、チェンジアップ。バッテリーの計算では、さすがの中谷は、これを読んでいたのか、体勢を崩すことなく流し打つ。一、二塁間へ速いゴロが飛ぶ。

 しかし、これも墨高バッテリーの計算通りだった。

「ファースト!」

 倉橋の声よりも先に、あらかじめ深めに守っていた加藤が、難なく捕球する。そしてすかさずバックホームした。打球がショートバウンドのため、三塁ランナー上林のスタートが遅れる。

「へいっ、丸井」

 本塁フォースアウト。さらに間髪入れず、倉橋は矢のような送球をファーストへ投じた。中谷がベースに滑り込むより一瞬早く、丸井が捕球する。

「アウト! スリーアウト、チェンジっ」

 アンパイアの甲高いコールが響く。

 丸井と加藤は、互いに顔を見合わせ、にやっと笑った。その傍らで、ダブルプレーに倒れた中谷が、腰に手を突きうなだれる。

 墨谷ナインがベンチに引き上げると、キャプテン谷口が拳を小さく突き上げた。

「ナイスプレーよ、加藤に倉橋!」

 それから、少し遅れて帰ってきたイガラシに、穏やかな眼差しを向ける。

「よくしのいだな。どうやら、俺の老婆心がすぎたらしい。ナイスボール!」

 イガラシは小さくかぶりを振り、にやっと笑った。

「なぁに、あれしき。これからですよ」

 

 バックスタンド。佐野は腕組みしながら、「へぇ」と声を発した。

 数十メートル先のグラウンドでは、絶好機を逃したばかりの箕輪ナインが、各ポジションへと散っていく。心なしか、やや足取りが重い。

「ま、まさか。箕輪が一点も取れないなんて」

 傍らで、倉田が頭を抱えた。その横顔に問うてみる。

「なぁ倉田。おまえなら、投げられるか?」

「はっ。ああ、さっきのカーブですね。ううむ……さすがに躊躇するかもしれません」

 実直な後輩が「すみません」と頭を下げるので、軽く叱り付けた。

「ばぁか。誰だって一緒だ。カーブは曲がりが大きい分、制球が難しいからな」

「佐野さんなら、もっと精密に投げられるんでしょうけど」

「買いかぶりすぎだ。俺だって、内か外か、高めか低めか、くらいは投げ分けようとするが、インコース低めいっぱいに制球しようなんて発想、したことねぇよ。それを満塁で投げようなんざ、正気の沙汰じゃねぇ」

「でも、ほんとイガラシには驚かされます」

 倉田は、吐息混じりに言った。

「俺らが江田川に負けた翌日、墨二との決勝を観に行ったんですけど、あの時と比べてもかなり成長してますよ。コントロールの良さは相変わらずですけど、球種も増えましたし、おまけに球のキレもスピードも」

「ふん。イガラシに限らず、墨二の連中は歴代そういう奴ばかりだ。不器用なくせに、あきらめが悪くてしぶとい」

「……あの、先輩」

 振り向くと、倉田が不思議そうな眼差しを向けている。

「何だよ。そんな、まじまじと見つめやがって。気色わりぃ」

「いえ、その……先輩、うれしそうですね。墨高がもり返してきたので」

 呑気そうな後輩の頭を、平手で思い切りはたく。

「あたっ」

「おしゃべりがすぎるぞ。つまんねぇこと言ってないで、よく見とけ」

 

 倉橋が、ホームベースへ払うようにバットを差し出す。パシッと小気味よい音がした。速いゴロが、二遊間を抜けていく。センター前ヒット。

 後方で、ベンチが沸いた。

「うまいっ。さすが四番」

「いまのフォークだろ。引きつけて、よく打ち返したな」

 ネクストバッターズサークル。イガラシは、そっと円の中央にマスコットバットを置き、立ち上がる。

 さすが倉橋さん。はじめから、あのフォークをねらってたんだな。

 イガラシが打席に立つと、マウンド上の児玉はすぐに投球動作を始めた。初球、あの重い速球をど真ん中へ。ズバン、とキャッチャーミットが鳴った。

 つい含み笑いが漏れる。キャッチャーの中谷が、不審そうな眼差しを向けてきた。胸の内に、その手はもう喰わねぇよ……とつぶやく。

 アンタらのねらいは、とっくにお見通しだ。早いカウントでは、わざと真っすぐを高めに集めて、こっちが早打ちになるよう仕向けてたんだろう。けど……それに何度も引っかかるほど、うちは甘かねぇ。

 そこから五球、速球と変化球をいずれもコーナーに投げ分けられたが、イガラシはすべて対応した。ボール球は見極め、際どいコースはカットする。

 ふん。どれも悪くないボールだが、いったん見慣れてしまえば、なんとでもならぁ。ふつうのタマじゃ、この俺は打ち取れねぇぞ。

 マウンド上。サインを確認したのだろう、児玉が神妙な顔でうなずく。ほどなくセットポジションから、第七球を投じてきた。

 速いカーブが、膝元を抉るように飛び込んでくる。しかしイガラシは、その軌道をはっきりと両眼に捉えていた。躊躇なく、フルスイングする。

 手応えがあった。バットを放り、走り出す。

 視界の端に、ボールがレフト頭上を越えていくのが見えた。伸びる。まだ、伸びる。やがて、コーンという音が聴こえた。

 イガラシの打球は、レフトの外野席に飛び込む。ツーランホームラン。

「まさか。うそだろっ」

「す、すげぇ……イガラシ!」

 墨高ベンチが、喜ぶよりも先に驚きの声を発した。対照的に、グラウンド上の箕輪ナインは、無言で立ち尽くしている。誰もが、半ば呆れたような表情だ。

 小走りにダイヤモンドを一周しながら、イガラシは小さく舌を出した。

 ホームランたぁ、ちと出来すぎだな。ほんとうは、もうちょいジワジワ攻めて、逆転への布石を残したかったんだが。ま、とりあえず同点。これから、もう一押しといくか。

 一塁ランナーの倉橋に続き、イガラシもホームベースを踏む。このままベンチへ引き上げようとした、その刹那だった。

 カッ。上空が、青白く発光した。少し遅れて、恐ろしいほどの雷鳴が轟く。そして、さっきまで小降りだった雨足が、一気に激しさを増した。気付けば、グラウンドに溢れるほど水が溜まっていく。

「タイム!」

 アンパイアが右手を上げ、ゲームの進行を止めた。

「両軍の選手は、いったんベンチへ。危険だから急ぎなさい」

 眼前で、箕輪ナインが一斉に引き上げてくる。

 あちゃぁ……と、イガラシは小さく声を発した。ホームベース付近に放っていたバットを拾い、急いでベンチへと向かう。

 

 審判員達の協議により、雷雨のためゲーム続行は不可能と判断される。その結果、墨高と箕輪の練習試合は、八回途中ながら五対五の引き分けに終わることとなった。

 

 雷が去るまで、両チームはひとまず、それぞれの控室にて待機することとなった。

 キャプテン谷口は、全員が移動したのを確認してから、一人通路に残る。ほうっと、大きく溜息をついた。

 よかったぁ。なんとか、けが人を出すことなく終えられたぞ。

「ふふ……まだ自分が試合に出る方が、気はラクだよなぁ」

 はっとして、振り向く。箕輪の元エース・東がそこに立っていた。

「あ、どうも。あいさつが遅れてしまって」

「なぁに。この悪天候で、慌ただしかったからね。ああ同学年だし、敬語はよそう」

 二人は、固く握手を交わす。谷口は、この東という男が同学年だというのが、どうにも不思議な気がした。長身というだけでなく、なにかを悟ったような落ち着き払った雰囲気をしている。たとえるなら、修行僧に近いだろうか。

「今日は、ありがとう。箕輪高さんのようなレベルの高いチームと試合ができて、とても良い経験ができたよ」

 谷口が礼を言うと、東は「うむ。おたがいにね」と笑った。

「引き分けだからではなく、心から言わせてもらうよ。君達は、ほんとうに素晴らしいチームだ。試合中、どんどん成長していくさまが、見て取れたよ」

 そう言うと、ふいに苦笑いを浮かべる。

「われわれとしては、自分達の原点を思い出すことができた試合だったよ。いまの君達と同じように、ガムシャラだった頃の自分達をね。最近、どうもイカンのだ。甲子園だなんだと上ばかり見て、足元がおろそかになりがちだったからな」

「そ、そんな……ぼくらこそ、まだまだです」

「ふむ。まぁ、そうだな」

 真顔のまま、東は言った。

「とくに先発の松川君、いきなり四失点というのはいただけない。それと二番手の井口君。ボール自体は素晴らしかったが、速球とシュートの二択では、やがて慣れられる。どうもカーブの制球が思わしくなかったようだね」

 束の間あっけに取られていると、相手はまた笑う。

「いや、すまない。君達がよく戦えていたからこそ、改善点が目についたんだ。あとは言うことないよ。今日は、あのイガラシ君が目立ったが、他の選手もよく鍛えられている。内外野の守備、また途中出場の岡村君もスムーズに試合へ入れていた」

 よく見てるな、この人……と内心苦笑いする。同じ地区じゃないのが幸いだ。もしそうなら、予選では痛い目にあわされたことだろう。

「で、でも……そちらはいろいろと試してたろう? 公式戦では、こうはいくまい」

 谷口が尋ねると、東は小さくかぶりを振った。

「君達だって、今日は七割程度だろう。なにせ……キャプテンが出てなかったんだからな。もし君が出ていたら、おそらくひっくり返されてた」

 元エースは、にやりと笑った。

「だから、つぎは甲子園で戦おう。もちろん……今度はおたがい、グラウンドでだ」

 えっ……と思っていると、東はくるっと右肩を回して見せた。

「……あ、ああっ。東君もしかして」

 驚いていると、東は「それじゃ」と踵を返した。そのまま通路の奥へと進みながら、「君にはできる、何かが……」と、どこかで聴いたような歌を口ずさむ。

 谷口は後になって、東が馴染みの曲の歌詞を間違えていたのだと気付き、一人で吹き出してしまったが。

 

2.打倒!谷原への道

 

 選抜出場校・箕輪高との善戦は、ナイン達に貴重な経験と、大きな自信を与えることとなった。谷原戦の大敗で、しぼみかけていた「甲子園出場」の夢が、彼らの中に蘇ってくる。むしろ、いまや誰しもが、それを現実的な目標として捉えられるようになった。

 彼らにもたらされたものは、それだけではない。

 墨高が箕輪に引き分けたという情報は、すぐさま近隣有力校の間に広まる。これにより、都内だけでなく千葉や埼玉、首都圏のシード校クラスのチームから、練習試合の申し込みが殺到することとなった。

 また、負傷で一時離脱していたキャプテン谷口も、ほどなく復帰。さらに十日後、一人リハビリを続けていた片瀬も戻ってきた。

 やがて五月も半ばを過ぎる。墨高野球部は、合宿や各校との練習試合を重ねながら、着実にチーム強化を図っていく。四月当初の悲壮感が信じられないほど、すべて順調。

 しかし、人間とは贅沢な生き物。順調な時でさえ、新たな悩みは出てくるものだ……

 

 日曜日の朝。イガラシは長距離走を終えて、学校のグラウンドに戻ってきた。

 やはり、まだ誰も来ていない。スパイクに履き替え、グラブを抱えて、すぐにブルペンへと向かう。ストレッチをこなしていると、一つ足音が近付いてくる。

「おお。早いじゃないか」

 片瀬だった。全体練習には、つい三日前に復帰したばかりだ。

「イガラシ君こそ、まだ六時前だよ。いつもこの時間に来てるのかい?」

「まぁ習慣でな。すぐ谷口さんと倉橋さん、それに根岸も来ると思うぞ。松川さんは、ちと家が遠いから、もうちょいかな」

「バッテリー陣は、せいりょく的だもの……れ、井口君は?」

「井口? ほっとけ、あのネボスケは」

 イガラシは鼻で笑い、すぐ真顔に戻る。

「けど片瀬、おまえはムリすんなよ。せっかく順調に回復してるんだ。いまは上半身の筋トレと、ストレッチさえ続けときゃいい」

「ありがとう。しかし、それで夏大に間に合うだろうか」

「なに、出番があるとしたら……おそらく終盤戦だ。その頃には、きっと俺も含めて、みんな疲労してる。だからせめて、おまえには元気でいてもらわねぇと」

「わかった。それまで、しっかり備えておくよ」

 片瀬はそう言うと、ふいにおどけた笑みを浮かべた。

「と……言ったそばから、すまないが」

「むっ。なんだよ」

「ぼくのボール、受けてくれないか。ほんの十球程度でいい」

 露骨なほど、イガラシは溜息をついた。

「……おまえ。休んでる間、一人で余計なコトしてたろ」

「と、とんでもないっ」

 穏やかな片瀬が、やや狼狽えた口調になる。

「ちゃんと病院に通って、リハビリしてたさ」

「どうだか。ま……おまえらしいがよ。ほれ、さっそく始めるぞ。」

 お互い十メートルほど距離を取り、キャッチボールから始めた。以前と比べ、だいぶフォームが滑らかになっている。やはり怪我の影響は大きかったらしい。

「それで、なにを試したいんだよ」

 問うてみると、片瀬は「えっ」と声を発した。

「いまさら隠すことは、あるまい。リハビリの最中、こっそり自主練までして、なにを身につけようとしてたんだ?」

「はははっ。やはりイガラシ君には、かなわないなぁ。いや、ちゃんと説明するつもりだったんだが」

 しばし間を置き、短く告げる。

サイドスローだよ」

「へぇ、いいじゃないか」

 イガラシの言葉に、片瀬は目を見開いた。

「まだボールを見てもいないのに、賛成してくれるのかい」

「ああ。じつは、おまえが戻ってきたら、すすめようと思ってたんだ」

「どうして?」

「俺なりに、ちと調べてみたのよ。そしたら、片瀬のように上背のあるピッチャーは、けっこう膝をいためることが多いそうじゃないか」

 自分が小柄なもんで気づかなかったが、と苦笑いする。

オーバースローだと、上から下へ投げおろす分、どうしても膝に負担がくるらしい。おまえさんはそこに成長期も重なったから、よけいにシンドかったろう」

「……そうか」

 ふいに片瀬が、力なく笑う。

「中学の時、もし君がチームメイトなら……三年間も棒に振らずにすんだのかも」

「なに言ってやがる」

 イガラシは、わざと露悪的に言った。

「俺と同じチームだったら、おまえは三年間ずっと控えだ。いや……どっちみち試合にすら、出られなかったかもな。そのうち後悔することになっても、知らねぇぞ」

「ははっ、おそれ入ったよ」

 数分ほどキャッチボールを行った後、イガラシはホームベースを手前にしゃがみ、捕手用ミットを左手に嵌める。

「でも……ちょっと、意外だったよ」

 片瀬が足元を均しながら、ぽつりと言った。

「ん? なにか言ったか」

「故障上がりのぼくが、投げるなんて言ったら。もしかして君なら止めるんじゃないかと思ってたんだ」

 吐息をつく。こいつ、やっぱり賢いや……と感心する。

「どうかしたのかい?」

「あ、いや……すまん話は後だ。さ、どんどん投げろ」

 片瀬は戸惑いながらも、投球動作に移った。思った以上に、自然なサイドスローのフォームだった。速球が、ミットに飛び込んでくる。

「……あっ」

 難なく捕球したはずのミットから、ボールがこぼれ落ちる。

「わ、わりぃ」

 苦笑いしながら、投げ返す。相手は捕球すると、無言のまま次のボールを投じてきた。

 バシッ。今度こそ、とミットを構えたが、またも弾かれる。こりゃおかしいぞ、とさすがに気付く。ただの速球を、二球続けて捕り損ねるわけがない。

「なるほど。びみょうに、ボールのにぎりを変えているのか」

 返球すると、片瀬は朗らかに笑った。

「さすがイガラシ君、よく気づいたね。見てくれ」

 片瀬はこちらに駆け寄ると、イガラシの見ている前で、ボールの縫い目に指を掛けた。やはり通常の二本指でなく、ずらした位置に添えている。

「こうすると……ほんの小さくだけど、打者の手元で変化するんだ。指のかけ方によって、左右どちらにも曲がる。もっと深くにぎれば、少し落とすこともできる」

「ほぉ、やるじゃないか。こんなボールまで習得していたとは。あとは、緩急だな」

 イガラシの言葉に、片瀬はにやっと笑った。

「そう言うと思ってたよ。なら、もう少し受けてくれ」

「お、おう」

 再びホームベース手前にしゃがむ。片瀬はすぐに、投球動作へと移った。ブレーキのあるカーブが投じられ、ミットを構えたところにそのまま飛び込んでくる。

「つぎは、内角低めいっぱい」

 相手の言葉に驚く。言われたコースに構えながらも、イガラシは言った。

「なんだと。カーブをここに、制球するってのか」

 イガラシ自身が何百球と投げ込み、ようやく制球できるようになったコースだ。片瀬は無言でうなずき、投球する。

 鋭く変化したボールは、またも構えたところに飛び込んでくる。イガラシは、僅かもミットを動かさなかった。

「もう少し続けられるか」

「もちろんさ」

 片瀬は、そこから十球続けて投げ込む。

 イガラシが驚かされたのは、カーブの制球だった。内外角いずれも、ミットを構えたところに飛び込んでくる。また速球の球威も申し分ない。井口のように剛速球とまではいかないが、初見では十分「速い」と感じられるボールだ。

「ナイスボール!」

 世辞でなく、率直に言った。

「怪我さえ治りゃ、さすが元リトルの優勝投手だな」

「ありがとう。しかし、見てのとおり……真っすぐのコントロールが良くないんだ」

 片瀬の言うように、制球力抜群だったカーブと比べ、速球は少々ばらつきがあった。

「……いや。ムリに矯正する必要は、ないと思う」

 相手は、意外そうな目をした。

「どういうことだい?」

「このまえ箕輪と対戦して感じたんだが。コントロールのいいピッチャーというのは、相手からすれば、ねらい球をしぼりやすいという一面もあるんだ」

「な、なるほど」

「もちろんストライクが入らないんじゃ、話にならねぇがな。けど、おまえはそういうんじゃないし、せっかくクセ球という武器がある。これを磨いていけば、なまじバッティングに自信のあるチームほど、嫌がるタイプのピッチャーになれるんじゃねぇか」

 そう返答すると、片瀬は「ふふっ」と含み笑いを漏らす。

「どうだろう、あの谷原にも通じるだろうか」

 はっとして、イガラシは目を見開いた。

「おい。ずいぶん、大きく出たな」

「だって……君がこの頃悩んでいるのは、そのことだろう?」

 苦笑いしてしまう。なんだかこいつ、喰えねぇやつだな。丸井さんや近藤の方が、まだ分かりやすくて可愛げがある。

「片瀬。この春の甲子園で、谷原は準決勝まで進んだのだっけな」

 答える代わりに質問する。

「うむ、そうだよ」

「谷原を破ったのは、たしか大阪の……」

「西将学園ってところさ。なにせエースの竹田というピッチャーが、すごくてね。今年のドラフトで、複数のプロ球団がねらってるって話だよ」

「その西将に負けるまで、谷原はどんな勝ち上がりをしてたんだ」

「あ、あぁ……」

 片瀬は引きつった顔で答えた。

「初戦からすべて、二ケタ得点だよ」

「つまりデータ上は、プロにねらわれるほどの投手じゃないと、あの打線をおさえるのは不可能ってことになる。けどな」

 にやっと笑い、付け加える。

「通じるの、通じないのっつう話じゃねぇ。これはおまえが、長年苦しんで手にした、おまえにしか投げられないボールだ。ずっと野球をあきらめなかったその気持ち、見せつけてやれ。谷原のやつらにも」

「あ、ありがとう。イガラシ君」

 片瀬は照れくさそうに、鼻の下をこする。

「しかし……君って、いがいに情熱家なんだね」

 あらっ、とイガラシはずっこけた。

 

 校門をくぐろうとした時、谷口は一学年下の後輩、加藤と一緒になった。

「キャプテン。おはようございます」

「おはよう。どうしたんだ加藤、朝からそんな顔して」

 加藤はまるで、何か恐ろしいものを見たような表情を浮かべている。

「じ、じつは……家の近所に、ほかの学校の野球部のやつがいるんですけど。そいつが昨日、谷原と専修館の練習試合を見たそうなんですよ」

「へぇ、あの専修館が……谷原と」

 専修館とは、昨夏の五回戦で対戦し、墨高は奇跡的な勝利を収めることができた。しかし、明らかに底力は向こうの方が上だったと、谷口は思っている。現に、彼らは続く秋の大会で準決勝まで勝ち進み、シード権を獲得。新チームになっても、その強さは健在だ。

「われわれは歯が立たなかったが……専修館なら、きっと良い試合をしたのだろうな」

「い、いえ。それが」

 青ざめた顔で、加藤が言った。

「結果は……六対十八で、谷原の圧勝だったそうです。しかも専修館は、エースを先発させたそうなのですが、三回までに八点を取られたらしくて」

 思わず「なんだとっ」と、声を上げた。

 あの専修館でさえ、エースを投げさせて大量点を取られるとは。どうりで、俺がちょっと工夫したくらいじゃ、おさえられなかったはずだ。

 小さくかぶりを振る。ここ最近の懸案事項が、頭をもたげてきた。

 箕輪に善戦してから、毎週のように練習試合が組めるようになったのは、確かにありがたい。それでも、せいぜい各地の八強レベルだ。全国トップクラスのチームともなると、すでに予定を組み、強豪同士の対外試合でお互いに高め合っている。

 谷原と箕輪。考えてみれば、この二校と対戦できたことは、すごく運が良かったんだ。あのレベルを体感したことで、みんなの意識が変わってきた。あとは……

 谷口は、深く溜息をついた。

 夏の大会まで、のこり一ヶ月弱。せめて一試合、あと一試合だけでいいから……どこかで全国トップレベルのチームと、手合わせできないだろうか。

 

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【野球小説】続・プレイボール<第10話「三人のキャプテンの巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  • 【前話へのリンク】
  • 第10話 三人のキャプテンの巻
    • 1.たたみかける箕輪
    • 2.先輩の思い、後輩の思い
    • <次話へのリンク>
      • ※感想掲示
      • 【各話へのリンク】

  

 

【前話へのリンク】

stand16.hatenablog.com

 

第10話 三人のキャプテンの巻

www.youtube.com

 

 

1.たたみかける箕輪

 

「ちょっといいか」

 七回裏終了後。谷口は、マウンドへと向かうイガラシを呼び止めた。

「はい。なにか?」

 思いのほか、穏やかな眼差しを向けてくる。

「向こうの意図が分かったからといって、あまりムキになるんじゃないぞ」

 決め球をカットし続けることで、制球ミスを誘っているのではないかという見解を、さっきイガラシが伝えてきた。その観察眼の鋭さに感服しながら、同時に危惧も覚える。

 相手の思い通りにはさせまいと、この負けん気の強い後輩は、ありとあらゆる手を尽くそうとするだろう。結果として、不必要な無茶をしかねない。試合の行方よりも、谷口はその方がずっと心配だった。

「倉橋もついてる。知ってのとおり、彼は優れたキャッチャーだ。いざとなったら、おまえは余計なことを考えず、倉橋のサインだけ見て投げればいいからな」

「同じこと、倉橋さんにも言われました」

 イガラシは、そう言って微笑む。

「だいじょうぶですよ。たかが練習試合だってことぐらい、わかってますから。まぁ東実のやつらに見られてるので、なるべく弱みはさらしたくない、くらいは思ってますけど」

 ほら、これだ……と谷口は苦笑いした。

 

 八回表。箕輪の攻撃は、駿足巧打の一番打者・上林からである。イガラシと倉橋のバッテリーが、要警戒としてマークしている打者の一人だ。

 

 右打者の膝元を突いた速球が、ボール一個分外れる。上林は、微動だにせず見送った。

「ボール! ツーボール、ツーストライクっ」

 アンパイアのコールに、イガラシは唇を噛む。

 くっ、やはり手を出さねぇか。誘い球には乗ってこない、決め球はカットする、少しでも甘く入ればミートしてくる。この上林ってバッター、なんて選球眼と反射神経のよさなんだ。

 登板した六回から数えて、もう八十球近く投げただろうか。短いイニング数にしては多いのだが、それでも普段であれば、さほどの負担になる球数ではない。

 にも関わらず、この八回に入り、イガラシは疲労を感じ始めていた。原因は自覚している。ベストボールを続けなければならないプレッシャーが、じわじわと効いてきているのだ。分かっているから、なおさら忌々しい。

 その時、視界の隅に引っ掛かるものがあった。

 何かすぐに分かる。ファーストの加藤だ。さほど汚れてもいないのにユニフォームの土をはらったり、帽子のつばを直したりと、明らかに落ち着きがない。

「加藤さん」

 声を掛けると、少し間があってから「お、おう」と返事してきた。

「イーブンカウントです。やつらまた、なにか仕掛けてきますよ」

「ああ、わかってる。まかせろ」

 何となく声に張りがない。どこか傷めているふうではないから、疲れているのだろう。

 この相手じゃ、誰だってそうなるか。ほとんど打つだけだった谷原とちがって、この箕輪は大ワザ、小ワザ、足となんでもありだからな。とくに内野陣は、そりゃあ神経をすり減らすだろうよ。

 八回の攻守交代時、加藤だけでなく、いつになくナイン達の足取りは重かった。ひとたび綻びが生じれば、ガタガタと崩れかねない。

 倉橋のサインにうなずき、五球目の投球動作へと移る。内角高めの速球。空振りさせるか、詰まらせる狙いだった。

 次の瞬間、イガラシは「なにいっ」と声を発した。

 コンッ、と澄んだ音。上林がバットを斜めにして、ボールをちょうどマウンドと一塁線の真ん中付近に転がした。セーフティバント

「まかせろっ」

 ダッシュしてきた加藤にボール処理を任せ、イガラシは一塁ベースカバーに走った。

「へいっ……あぁ」

 一瞬捕球したかに見えた加藤の手から、ボールがこぼれる。慌てて拾い直した時、すでに上林は一塁ベースを駆け抜けていた。

「す、すまん……イガラシ」

 加藤が右手を縦にして、謝るポーズを取る。

「いや、どっちみちセーフです」

 イガラシは、首を横に振った。

「ぼくもウカツでした。まさかツーストライクからバントしてくるなんて、思わなかったので。それも、あんな高めの球を、ぜつみょうのコースに……相手がうまかったんです」

「わ、わりぃ」

「それより……切りかえましょう。でないとやつら、つけ込んできますよ」

「あ……あぁ、そうだな」

 先輩はうなずき、自分のポジションへと返る。その背中に、いまのは俺のせいだ……と、イガラシはひそかにつぶやく。

 さっき俺が、一声かけたせいだ。やつらそれを見て、加藤さんが集中を欠いていること、見抜いたんだ。それで一塁へ、セーフティバントを……くそっ。向こうの狡猾さを知りながら、あまりにも不用意すぎたぜ。

 ふふっと、含み笑いが漏れる。小さくかぶりを振った。

 いかんな。あまり考えすぎちゃ、こっちがつけ込まれちまう。一人ずつ、バッターを仕留めていくことに集中しねぇと……

 前傾し、倉橋のサインを確認する。

 球種は真っすぐ、高めに……ああ一球はずせってことか。なるほど、さすが倉橋さん考えてるな。しゅん足の一番が出塁して、次は小ワザのある二番の清水。なにか仕かけるには、もってこいの状況だ。盗塁か、エンドランか。とにかく、やつらのねらいを探るんだ。

 すぐには投球しない。まず一塁へ、ゆっくり牽制球。

 返球を受け取り、再びセットポジション。そして、今度はクイックモーションで牽制。やはり反応素早く、上林は難なく帰塁した。

 ちぇっ、まるで慌てねぇな。けど、そういつまでも、アンタらの好きにはさせねぇぞ。

 またもセットポジションから、今度こそ投球動作へと移った。その刹那、丸井が「走った!」と叫ぶ。

 驚くイガラシの眼前で、清水はミットにまるでバットを被せるようにして、わざと空振りした。惑わされたのか、倉橋の送球がワンテンポ遅れる。ベースカバーに入った丸井がタッチにいく間もなく、上林は難なく二塁を陥れていた。

 な、なんてやつだ。あれだけ牽制したってのに……

「タイム!」

 ふいに後方で、丸井が声を発した。こちらに駆け寄ってくる。

「びっくりしたぁ。急に、どうしたんですか」

「なに、礼を言わなきゃと思ってよ」

 丸井は、妙におどけた口調で言った。

「れ、礼って……なんの」

「エラーした加藤をはげましてくれたんだってな。ほんとうは、俺っちが言わなきゃいけないことなんだが、たすかったよ」

「それはドウモ。けど、なにも……こんな時に」

「ああ。だから、おまえが加藤に言ったのと、同じことを伝えにきた。いまのは相手がうまかったんだから、切りかえろってな」

 はっとして、口をつぐむ。

「ま、俺はピッチャーなんてしたことねぇから、えらそうなことも言えないけどよ。あまり難しく考えず、気楽にエイヤーっていった方が、案外うまくいったりするもんだぞ」

「……はい。ありがとうございます」

 素直に礼を言うと、丸井は「よっよせやい」となぜか狼狽えた。

「こちとら、思ったことを口にしたまでだ。礼なんて言われる筋合いはねぇよ」

「そんなこと言って、顔が真っ赤ですよ」

「うるせぇ。口をひらきゃ、人をからかいやが……まっ。と、とにかくだ」

 最後は「がんばるんだぞ」と告げて、ボールを手渡す。何だかんだで気のいい先輩だ。

 ほどなくタイムが解ける。イガラシがプレートを踏み、丸井もポジションに戻ると、倉橋はすぐにサインを出した。

 真っすぐを外角高め、ボールに。なるほど……もう一球はずして、様子を探るってことか。たしかにそれがけん明だろう。やつら、どうも調子づき始めてる。少しでもテンポを狂わせねぇと。

 念のため二塁へ、胸周りで牽制球を放る。まず、ゆっくりと。次はクイックで。さらに二球、繰り返す。十分にランナーを制してから、二球目の投球動作を始めた。

 その瞬間、清水もバットを寝かせた。サードの岡村、ピッチャーのイガラシ、ファーストの加藤が同時にダッシュする。

 しかし、清水は寸前でバットを引いた。決まってワンストライク。

 拍子抜けしながらも、イガラシは次のサインを確認し、三球目を投じた。外角低めへカーブ。清水はまたも、バントの構え。再び三人がダッシュした。ボールは僅かに外れ、ツーボールとなる。

 なるほど。そういうことか……

 胸の内でつぶやくのと同時に、倉橋がタイムを取り、こちらに駆けてきた。妙なタイミングを訝しく思っていると、先輩はにやっと笑う。

「べつに言うことはねぇよ。ちと間を取って、おまえを休ませようと思ってな」

「ええっ、そんな気をつかわなくても」

「なーに。やつらがバント攻めで、おまえを疲れさせようとしてるのがミエミエだからな。そのテにまんま引っかかるのも、シャクじゃねぇか」

 たしかに、とイガラシはうなずく。この局面、かさに掛かって攻めたい相手を、少しでも焦らすことができれば御の字だ。

「ま、できれば……バント守備は、加藤と岡村にまかせてほしいトコだがな。そんなこと言っても、どうせおまえは聞く耳持たねぇだろうし」

「すみません。ピッチャーとしての習性で、どうしても足が前に出ちゃうんです」

「ふふん、谷口と同じこと言いやがる。あの先輩にしてこの後輩あり、だな」

「ど、どうも」

 イガラシは頬をぽりぽりと掻き、苦笑いした。

「……ところでよ」

 倉橋がミットで口元を隠し、囁いてくる。傍から見れば、何かの作戦を伝えているように映るはずだ。

「いぜん丸井が言ってたが。おまえ、ラーメン作るの得意だそうじゃないか」

「はっ?」

「夏大へ向けて、定期的に合宿をやる予定だ。そん時、俺らにも食わせてくれよ」

「ぷっ。先輩、なにを言い出すかと思えば」

「こ、これっ。笑うな」

「あっ……」

 視線を横に向けると、アンパイアの渋い顔とぶつかった。

 タイムが解け、イガラシは再びセットポジションに着く。ツーボール・ワンストライクのカウントから、速球とカーブを一球ずつ投じる。

 やはり清水は、バントの構えで揺さぶってきた。またも寸前でバットを引き、フルカウントとなる。

 ロージンバックを拾い、イガラシはしばし間を取った。足元に放り、それから額の汗を拭う。ふぅ、とひそかに吐息をつく。

 ちぇっ。認めたかねぇが、さすがに効いてきたぜ。いつもなら、どうってことないダッシュなんだがな。あれだけ神経を使って投げてる時にやらされると、こんなにも疲れるものなのか。へへっ、俺もまだまだってことか……

 続く六球目と七球目、清水は一転してヒッティングの構えをしてきた。そして二球ともファールにされる。思った通り、こちらを疲労させるためだけの戦法だと分かったが、まんまと嵌ってしまった自分を情けなく思う。

 そして八球目。倉橋のサインに従い、イガラシは速球を内角高めへ投じた。その瞬間、清水が再びバットを寝かせる。

 なに、またバントだと……あっ。

 清水は、バットを押し出す動きをした。サード方向へのハーフライナーとなり、前進してきた岡村の頭上を越えて、ちょうど三塁ベース手前に落ちる。

「投げるなっ!」

 倉橋が叫ぶ。横井が懸命のダッシュでボールを拾いにいく間に、上林はスライディングもせず三塁を陥れていた。清水も楽々と一塁セーフ。

 イガラシは膝に右手を置き、ぐっと拳を握り込んだ。

 やられた……なにか仕かけてくると踏んでたが、まさかプッシュバントでくるとは。それも清水さんといい、さっきの上林さんといい、あんな高めのボールを。

 視線を相手ベンチへと向ける。作戦でも伝え合っているのか、何事か話していた。なるほどね……と、胸の内につぶやく。

 やつら、この八回が潮時と見ていたか。とうとう本腰を入れて、試合を決めにきたな。

「イガラシ」

 倉橋に呼ばれた。すぐにタイムを取るのかと思いきや、一塁方向を指差している。敬遠の指示だ。なるほど……と思い、それに従う。

 三番打者の児玉が一塁へ歩くと、倉橋はマウンドに駆けてきた。ここで守備のタイムが取られ、他の内野陣も集まってくる。

 

 バックスタンドは、まるで石段のような造りだった。

 佐野は、今座っている右側を、手持ち無沙汰に撫でてみる。かなり湿り気を帯びていた。こりゃ帰りは土砂降りだな、と思った矢先、さらに雨足が強まる。

「せ、先輩。移動しましょう」

 後方から、一学年下の後輩・倉田が声を掛けてきた。

「風邪でも引いたらコトですし、屋根の下にでも」

「かまわん」

 即答し、にやっと笑ってみる。

「誰がゆずるかよ。墨高のやつらを丸裸にするのに、こんな特等席ねぇぞ」

 二人の眼前。バックネットの向こうに、黒褐色のグラウンドが広がってた、土に汚れた四つの白いベースが、ダイヤモンドを形作る。

 守備側の墨高ナインは、内野陣がマウンドに集まっていた。三つの塁は、すべて埋まっている。ノーアウト満塁。

 ふん。なんとか二点差でこらえてたが、さすがにもう限界だろうな。

「……それより倉田。イガラシは、ここまで何球だ?」

「あ、はい」

 スコアブックを膝元に、倉田は指を折り曲げる仕草をした。

「ええと……八十五球です。この二イニングちょっとで」

「はっアリ地獄だな。もがけばもがくほど、箕輪の思うつぼってワケだ」

「けど、ちょっとやりすぎじゃないですか」

 倉田が鉛筆を握り、眉を顰める。

「一年生のピッチャーに、ファール攻めだなんて」

「それだけ必死なのさ」

 佐野は、吐息混じりに言った。

「おまえも聞いたろ。箕輪はエースが故障して、ほぼ再起不能だってよ。やつら控え投手だけで、夏大に臨まなきゃなんねぇんだ」

「しかも箕輪は、墨谷と同じ公立だそうで。選手起用のやりくりが大変だって、監督が新聞のインタビューに答えてました」

「ああ。んなもんだから、なりふりかまってらんねぇんだろ。どんなテを使っても、勝ち抜いてく。その戦術を磨くのに、墨谷はもってこいの相手だろう。なにせ他府県のチームで、手の内を隠す必要もねぇからな」

「けど……それを墨谷相手にできたからって、なんの保証にも」

 倉田の暢気な物言いに、苦笑いが浮かぶ。

「おい、てめぇ墨谷をナメてんのか」

「はっ。いえ、そんなつもりは……」

「昨年、うちは墨谷に負けてんだぞ。しかも内容では、はっきり言って完敗だった。俺がリリーフしたから、なんとか数字上は格好ついたがな。そうでなきゃ、もっと点差をつけられててもおかしくなかった」

 わざとらしく、はぁ……と溜息をつく。

「ボヤっとしてんな。この墨谷に余裕もって勝てるほど、うちはチカラねぇよ。もっと危機感をもて。でないと、また泣くことになんぞ。去年、江田川にやられたようにな」

 頬を紅潮させ、後輩は口をつぐむ。

「倉田。目ん玉かっぽじいて、よく見とけ」

 佐野は、厳しい口調で諭した。

「墨谷相手に、なんて言うけどよ。やつら、結果として……あの箕輪をたった二点差でしのいできてるじゃねぇか」

「……そ、そういやぁ」

「これが、やつらの怖さだ。こちらが押しているようでいて、なぜかスルリとかわされ、いつの間にかペースを握られてる。箕輪もそれがわかるからこそ、この戦術なんだろう」

 まったしかに、イガラシにはちと気の毒だがな……と、胸の内につぶやく。

 さて、どうする。箕輪はどうやら、本気でおまえらを潰しにきてるぞ。まさに絶体絶命だが、このまま順当にやられちまうのも、張り合いがねぇよ。もちっとねばって、俺を楽しませてほしいもんだぜ。

 

2.先輩の思い、後輩の思い

 

 マウンド上。加藤が「スマン」と、頭を下げた。

「俺のせいだ。やつら、さっき俺がエラーしたもんで、ねらってきやがった。つけ込むなら、いまがチャンスだと。俺のせいだ……」

「やめてください」

 イガラシは、あえて突き放すように言った。

「こうやって動揺を誘うのも、箕輪のねらいです。加藤さんが、さっきのプレーを引きずるのなら、それこそやつらの思うつぼじゃないですか」

「う……わ、わかった」

 ふいに丸井が、あっ……と声を発した。ナイン達が振り向くと、谷口がベンチを出て、こちらに駆けてくる。

 キャプテンは内野陣の輪に加わると、微笑んで言った。

「バッテリー、よく敬遠を決断したな」

「ああ……俺より、イガラシだよ」

 倉橋が、苦笑い混じりに答える。

「たしかに一・三塁だと、相手はなんでもアリだからな。せめて守りやすい方がいいと思って、俺は塁を埋める方を選んだんだが、イガラシがあっさり賛成してくれるとはな」

「うむ。俺でも、ためらうだろうな。ノーアウト満塁で四番だなんて」

 谷口の妙に優しげな口調が、イガラシは気に掛かる。

「次善の策ってやつですよ」

 訝しく思いながらも、きっぱりと返答した。

「あの児玉って三番バッターは、曲者です。ここでもう一つなにか仕かけられて、失策がらみで点を失えば、とうぶん立ち直れなくなりますよ。それよりは……満塁で、相手の四番に一本喰らうっていう方が、あきらめもつくじゃないですか」

「おまえ、そこまで考えて……」

 倉橋は溜息をつく。傍らで、谷口がしばし瞑目する。

「……さすがだな」

 やがて、キャプテンはおもむろに口を開いた。

「こんなにも冷静に、戦況を判断できるとは。イガラシのような人材は、そうそういるもんじゃない。けどな……みんなも聞いてくれ、だからこそ」

 微笑みを湛えた目で、もう一度「だからこそ」と繰り返す。

「俺は、キャプテンとして……これ以上おまえに無理させるわけにはいかない」

 イガラシは、困惑していた。谷口のひととなりについては、それなりに知っているつもりでいる。しかし今、この男が何を言おうとしているのか、皆目見当が付かない。

 それでも、ほどなく頭に浮かんでくるものがあった。相手の目を見上げる。

「……まさかキャプテン。この試合、中止にするつもりですか」

 尋ねると、谷口は短く答えた。

「そうだ」

「意味がわかりません」

 率直に答える。

「井口には五イニング投げさせたのに、こっちはまだ二イニングちょっとですよ。ずいぶん、見くびられたもんですね」

「回の問題じゃない、球数だ。おまえ気づいてないのか? この六七八回で、とっくに……井口の球数を越えてるんだぞ」

 無論、知っていた。井口も再三ピンチを背負ったが、比較的早いカウントから打ってきたので、さほど球数は費やさなかった。

「……ダメですよ」

 それでもなお、言葉を返す。

「知ってのとおり、東実のやつらが偵察もしてるんです。ここでぼくが降板すれば、墨高の投手陣は『ファール攻めに弱い』って、知らしめるようなものじゃないですか」

「気持ちはわかる。けど、これは練習試合なんだ。なにもここで、力を出し尽くすことはない。今日のところは、八回途中まで接戦できた。それで十分じゃないか」

「いいえ、わかってません」

 やや声を潜め、尋ねる。

「キャプテン。ぼくらの目標は、甲子園へ行くことなんですよね」

「ああ、そのつもりだ」

「その意味、ほんとうにわかってるんですか? ぼくらが甲子園へ行くためには、谷原や東実みたいな強敵を、いくつも倒さなきゃいけないんです。それをやるには、わずかなスキも見せちゃダメじゃないですか」

 反論しながらも、イガラシは胸が痛んだ。諦めることを知らない谷口という男が、あえて試合を捨てると言っている。それは他でもない。後輩である自分を心配してのことだ。

 案の定、谷口は険しい眼差しになる。

「敵にスキを見せないという、ただそれだけの理由のために、将来のある一年生を潰してもいいってのか」

「なにかを成しとげる上で、多少のリスクと犠牲はつきものです。キャプテンも、よくわかっているはずでしょう」

「それで中学の時みたいに、また肩をこわすのか」

 さすがに倉橋が、「落ち着けよ二人とも」と割って入る。

「どっちの言い分も、それぞれ一理あるが、ちと頭をひやせ」

 隣で、加藤が苦笑いした。

「まったく。少しは丸くなったと思ってたが、あいかわらずだなイガラシ」

 その時だった。

「……キャプテン」

 ふいに、静かな声が発せられる。思わぬ声の主に、この場にいる誰もが、意外そうな面持ちになる。

 それは、丸井だった。

「こいつの好きにさせてやりましょう」

 驚いたらしく、谷口は大きく目を見開く。

「なにを言うんだ丸井。イガラシが過去、無理なピッチングで故障してきたことは、おまえもよく知っているじゃないか。いま、また同じことがあれば……つぎはもう治らないかもしれないんだぞ」

「もちろん、わかってます。でも……イガラシが言っていることも、よくわかるんです。リスクは承知のうえで、ギリギリのところで勝負しないと、上にはいけないってことが」

 イガラシは「さすが丸井さん」と、努めて陽気に言った。

「よくわかってるじゃないですか。これまでも、そうやって戦ってきましたもんね」

 途端「てやんでえっ」と、凄まれる。

「ひとの気も知らねぇで。俺はな、キャプテンの後輩を思う気持ちに感動しながらも、あえて異を唱えてるんだ。こんなキャプテンだからこそ、一緒に甲子園へ行かなきゃってな」

 谷口が後方で、「そんな大げさな」と頬を掻く。

「だいたいだな、イガラシ」

 丸井は腕組みをして、説教じみた言い方をした。

「てめぇが全部悪いんだよ」

「はっ?」

「イガラシ。てめぇ湿っぽいピッチングしかできねぇから、キャプテンをこんなに心配させてんじゃねぇか。そんなチカラのないやつが、他校がどうの、甲子園がどうのと、えらそうに語る筋合いはねぇ」

 捲し立てるように言って、丸井はふっと笑みを浮かべる。

「そんだけデカイ口、たたくんなら……おさえてみろよ。ねばられて、球数が増えるだと? だったら、当てさせるなよ。三球でビシッと、かすらせずに仕留めてみやがれってんだ」

 おいおい……と、横井が呆れ顔で口を挟む。

「相手がどこか、わかって言ってんのか。箕輪は高校の、それもトップクラスのチームなんだぞ。イガラシはむしろ、健闘してる方じゃないか」

「こいつが、えらそうな口きくからですよ。その自信なら、箕輪どころか、王や長島でもベーブ・ルースでも、ちっとも怖かないんでしょうよ」

「……ははっ」

 思わず、笑ってしまう。

「あいかわらず、こくな“キャプテン”だぜ」

 とても愉快な気分だった。

 

 タイムが解け、内野陣がポジションへと散っていく。一人残った倉橋が、口元でミットを覆いながら「どうする?」と問うてくる。

「おまえの望みどおり、試合続行となったが、こうなればおさえなきゃ意味ねぇぞ。すでにアップアップだったってのに……なにか、策でもあるのか」

「とうぜんです」

 イガラシは即答した。

「それがなきゃ、素直に降板してますよ」

「なんだそりゃ。もったいぶらずに、さっさと教えろよ」

「そう特別なものじゃないです。今日、ゆいいつ……出してないサインがありましたよね」

 箕輪のランナーに聞かれないよう、こっそり耳打ちする。

「……おい、それって」

 倉橋の顔色が変わる。

「危険すぎねぇか。少しまちがえば、その一球で」

「もし、そうなったら……その時はおとなしく引っ込みます」

「んだよ。あんだけタンカ切っといて、もう弱気になったのか」

「まさか……でもどっちみち、こういう局面をしのぐ力がなければ、おそかれ早かれ潰されます。その意味では、いい予行演習じゃないですか」

 先輩の目を見上げ、イガラシは微笑んだ。

 二人の眼前では、箕輪の四番打者・堤野が素振りを繰り返していた。やがて、その鋭い眼光がこちらに向けられる。

 ほどなく、アンパイアが試合再開を告げた。

 

 

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【野球小説】続・プレイボール<第9話「あせるな墨高バッテリー!の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  • 【前話へのリンク】stand16.hatenablog.com
  • <登場人物紹介(その9)>
  • 第9話 あせるな墨高バッテリー!の巻
    •  1.イガラシの気づき
    • 2.それぞれの思惑
    • <次話へのリンク>
      • ※感想掲示
      • 【各話へのリンク】

  

 

【前話へのリンク】stand16.hatenablog.com

 

 

<登場人物紹介(その9)>

 岡村:一年生。右投右打。原作『プレイボール』には名前のみ登場。OBの田所にスカウトされた一人。中学時代は、駿足・強肩の“オールマイティ”の選手として活躍した。

 

第9話 あせるな墨高バッテリー!の巻

www.youtube.com

 

 

 1.イガラシの気づき

 

 墨谷対箕輪の練習試合は、前半五回を終えて三対五。打撃戦の様相を呈していた。

 初回にいきなり四点を奪われた墨谷だったが、リリーフ井口の力投で箕輪の勢いを止めると、四回裏に反撃し三点を返す。

 直後の五回表、犠牲フライにより一点を追加されたものの、甲子園出場校相手に二点ビハインドという展開は、大健闘といって良かった。

 迎えた六回表。マウンドには、ついにイガラシが上がる。

 またイガラシ登板に伴い、サードには中学時代、オールマイティーの選手として鳴らした岡村が起用された。さらに攻撃時を考え、井口はレフトで残し、戸室を下げる。

 この回――箕輪の攻撃は、厄介な一番打者・上林からである。

 

 第一球。外角低めに構えた倉橋のミット目掛け、イガラシは速球を投じた。その瞬間、上林はバットを寝かせる。

 くっ……初球から、セーフティバントかよ。

 マウンドを駆け下りる。ボールは、三塁線に転がった。この回からサードに着く岡村が「まかせろっ」と素早くダッシュして拾い、送球する。しかし加藤が捕球する前に、上林は一塁ベースを駆け抜けていた。

「ファール!」

 一塁塁審のコールに、イガラシは安堵の吐息をつく。

 あぶねぇ。代わったばかりの岡村をねらうとは、ほんと油断もスキもねぇ。しかも、あんな外角の球をきれいにサードへ転がすたぁ、なんて技術の高さだ。

「イガラシ、どんどん打たせろっ」

 岡村がサードのポジションに戻り、声を掛けてくる。

「おまえはピッチャー前だけ処理すりゃいい。あとは全部、俺がさばく」

「そりゃ頼もしいな。けど……もう数秒早く、前に出ねぇと」

 イガラシの突っ込みに、岡村は「あらっ」とずっこける仕草をした。

 とはいえ、今のダッシュからフィールディングまでの動きは、スムーズだったな。内外野、どこでも守れるってか。岡村のやつ、さすがオールマイティーの選手として鳴らしただけのことはある。

 倉橋が二球目のサインを出した。イガラシはうなずき、投球動作へと移る。

 内角の胸元へ喰い込むシュート。上林は反応せず。三球目に内角へ真っすぐ、四球目には外角へカーブを投じたが、これも手を出さない。一球外れ、もう一球は決まり、イーブンカウントとなる。

 なんだ? まるで反応するそぶりも見せないなんて。この人、打つ気がないのか……?

 不気味に感じながらも、次のサインを確認する。倉橋の指が「内に落とせ」と告げる。イガラシはうなずき、振りかぶった。

 途中までシュートと同じ軌道、ホームベース付近に差し掛かった辺りから、鋭く沈む。得意球、落ちるシュート。

 ガッ。鈍い音を立て、打球はバックネット近くまで転がる。アンパイアがポケットから代わりのボールを取り出し、倉橋に手渡す。

 へっ……と、思わず声を発していた。

 さすがだな。初見で、いつも簡単にカットしやがった。いちばん当てづらいボールを選んだってのに。ふふ、そうこなくちゃな。

 六球目。内角高めに速球を投じたが、見極められた。七球目はカーブ、八球目にシュート、九球目に再び落ちるシュートと変化球を続けていくも、すべてファールにされる。ツースリー、フルカウント。

 倉橋と目を見合わせる。マスク越しに、微かな苦笑がのぞく。さすがの倉橋さんも、ここまでカットされちゃ、リードするの大変だな……とその心中を察する。

 けどよ、とイガラシは相手打者を睨んだ。

 上林さんと言ったってか。俺はそういう、しつこい打撃には慣れっこなんだよ。ちょっと粘られたくらいで、そうやすやすと出塁されるほど、こちとら甘かねぇんだ。

 十球目。倉橋が速球、カーブ、シュート、落ちるシュート……とサインを出したが、イガラシはすべて首を横に振った。

 一瞬、正捕手は戸惑った顔になる。そして、すぐ「これか?」と言いたげに、この試合では初めてのサインを出した。

 イガラシは小さくうなずき、しばし間を置いて投球動作へと移る。

 腕の振りから速球だと思ったらしく、上林はバットの始動を早めた。しかしボールが来ない。つんのめるように、大きく体勢を崩す。なお喰らい付こうとするバットを嘲笑うかのように、ホームベース手前でボールはさらに沈む。

「ストライク、バッターアウト!」

 アンパイアの声が、甲高く響いた。

 三振を喫した上林は、しかし二、三度首を横に振っただけで、ポーカーフェイスを崩さない。むしろ軽やかな足取りで、ベンチへと引き上げていく。

「イガラシ」

 倉橋が呼んだ。すぐに返球せず、タイムを取りこちらに駆けてくる。

「ナイスボール。さすがの上林も、あのチェンジアップには対応できなかったな」

「ええ。けど、二打席目以降も通じるかどうか。この後も手を焼かされそうです」

 それに……と、イガラシはバックネット越しにスタンドを睨んだ。佐野と倉田が、時折何やら言葉を交わしながら、終始こちらに視線を注いでいる。

 チェンジアップ、佐野さん達には見せたくなかったな。けど、仕方あるまい。そのへんのチームならともかく、箕輪は手の内を隠して通用する相手じゃねぇし。東実の連中の前で、弱みをさらすわけにもいかねぇからな。

 続く二番清水は、初球、二球目といずれも速球を見送った。さらに三球目のカーブ、四球目のシュートにも手を出さず。

 ツーエンドツーとなった五球目。イガラシが外角低めにカーブを投じると、ようやくバットを出しファール。六球目は、内角に落ちるシュート。これもやはりカットされる。七球目のカーブは見送られ、フルカウント。

 一旦プレートを外し、ロージンバックを拾う。しばし間を取ってから、足元に放る。

 八球目。内角高めを突いた速球に、清水のバットが空を切った。その瞬間、周囲から「おおっ」と歓声が上がる。連続三振、ツーアウト。

 みょうだな……と、イガラシはこっそりつぶやいた。

 上林のセーフティバントの後、なぜやつら……追い込まれるまで手を出してこないんだ。ピッチャーが代わった直後だから、じっくり見るつもりなのか。けど、松川さんや井口の時は、もっと積極的に打ってきたってのに。

 次打者は、前の回から登板の三番児玉だ。ここまで三安打を放っている。

 児玉は右打席に入ると、一度素振りした。華奢にも見える体躯だが、そのスイングはやはり迫力がある。風を切り裂くような音。しかもまるで力みのない、鞭を思わせるしなやかなバットの軌道。

 バッテリーは、慎重に対した。

 初球のカーブ、二球目の速球といずれも外角低め、ボール一個分はずす。三球目は、また速球を今度は内角低めに。これは決まり、ツーボール・ワンストライク。さらに四球目、同じコースにシュートを投じるも、見送られスリーボール。

 ちぇっ。さすが、いい目してらぁ。きわどいコース、ぜんぶ見きわめやがる。

 五球目は、真ん中低めにカーブ。決まってツー・スリー、フルカウント。六球目のシュート、七球目の速球はカットされた。

 そして八球目。真ん中低めに、今度は落ちるシュートを投じる。

 児玉はつんのめる体勢になり、バットを払うようにスイングした。よし、引っかけさせた……と思った瞬間、快音が響く。速いゴロがマウンド横をすり抜け、二遊間を襲う。

 やられた、と目を瞑りかけた刹那、セカンド丸井の体が横倒しになる。パシッと捕球の音が聴こえた。そして素早く起き上がり、一塁へ送球。間一髪アウト。

「ナイス丸井さん!」

 声を掛けると、小柄な先輩は「どうってことないさ」と快活に答えた。

「キャッチャーが『真ん中』のサインを出した時は、ベース付近に寄る。さんざん練習してきたじゃないか。うちのレギュラーなら、アウトにできて当然よ」

「たのもしいですね。それにしては、ちと必死だったような」

「う、うるせっ。素直に礼を言やぁいいじゃねぇか」

「どうも、失礼しました。ありがとうございます」

「けっ。おせぇんだよ、いまさら」

 くすっと含み笑いが漏れる。

 スパイクで軽く足元を均し、イガラシはマウンドを降りた。攻守交代となり、他のナイン達も一斉にベンチへと引き上げていく。背後から「ナイスピッチャー!」「いいぞイガラシ」と声を掛けられる。

 ふぅ、と小さく吐息をついた。

 わかっちゃいたが、さすがのバットコントロールだな。並の打者なら、引っかけて凡打になるはずが、きっちりとらえてきやがった。それに……十球、八球、八球。あわせて二十六球か。たった三人のバッターに、投げすぎだ。このペースでは終盤へばっちまう。

 厄介な上位打線を抑えた安堵感は、まるでない。むしろ焦燥が募る。

 にしても……やっぱりヘンだぞ、箕輪のバッティング。厳しいコースをついたが、百戦錬磨のやつらのこと、さほど驚くようなボールでもなかったはずだ。

「よぉ。ナイスピッチング」

 ふいに背後から、声を掛けられる。

「どしたい、そんなムズカシイ顔して。仏頂面はいつものことだが」

 倉橋だった。いつの間にか、そばに来ていたらしい。

「あいにく、こういうツラなので」

「そうムクれるなよ。ま、冗談はともかく……おまえさんのことだ。相手のねらいとか、いろいろ考えてたんだろ」

「ええ」

 イガラシは、素直に答えた。

「やつらの意図が、どうも読めなくて」

「なかなか打ってこなかったことか」

「はい。いちばん簡単なのは、球数を投げさせて、消耗させようってとこですけど。言うのはシャクですが、ぼくの体つきを見れば、そういう手もアリでしょう。ただ……」

「言いたいこと分かるぜ。序盤ならともかく、もう終盤にさしかかろうとする時に、やる意味あるのかって話だろ」

「そうなんですよ。ぼくが先発していたのなら、ともかく」

「俺もリードしていて、その点が引っかかってた」

 倉橋は、深くうなずいた。その明晰さを嬉しく思う。

「しかもやつら、松川や井口の時は、けっこう早打ちだったってのに」

「ええ……まぁその二人については、だいたい分かりますけど」

 先輩は「なにっ?」と目を丸くした。

「まず松川さんは、見るからに不調だったので、いっきに畳みかけたんでしょう。次の井口は、真っすぐとシュートをどんどん投げ込んでくるので、あえてその得意球をねらったのかと。相手の自信をなくさせるように」

「ま、まさか……」

 唾を飲み込み、倉橋が言った。

「やつら相手ピッチャーに合わせて、攻め方を変えてきてるってのか」

「だと思います。どんなピッチャーなのか、調子はどうなのか。それらを観察した上で、もっとも効果的なやり方で攻略する」

「おいおい。俺達……箕輪のやつらの、練習台かよ」

「でしょうね」

 イガラシは、舌打ち混じりに返事した。

「けど、カンジンの……自分がやられている攻め方の意図が、よくつかめないんですよ。体力をけずるだけなら、分かりやすいんですけど。どうも、それだけとは思えなくて」

「もしくは、こういうことも考えられるぞ」

 ふと倉橋が真顔になり、端的に告げる。

「……そうやって、おまえを悩ませるとか」

「えっ」

 ぎくっとした。確かに、箕輪ならやりかねない。もしそうだとしたら、自分は今まさに、相手の術中に嵌っていることになる。

 ぽんと、ミットで頭を叩かれる。

「だとしても、そう心配いらねぇよ。ピッチングつうのは、なにも投手だけじゃなく、バッテリー二人で組み立てていくものだからな。いざとなったら、俺のサインだけ見てろ」

 先輩を心強く思いながらも、あえて強い言葉を返した。

「ご心配なく。いざとなったら、チカラでねじ伏せてやりますよ」

「ははっ、頼もしいな」

 倉橋は、快活に笑った。

 ベンチの手前で、イガラシはふと上空を仰いだ。僅かながら、雨粒の勢いが強まってきた。試合開始時よりも雲の暗さが増している。

 おもしろい。この俺を、頭脳戦で追いつめようって気なら……やってみろよ!

 

2.それぞれの思惑

 

 六回裏。墨高は、先頭の岡村がヒットで出塁したものの、箕輪のリリーフ児玉の素早い牽制に逆を突かれ、タッチアウト。後続も凡退し、この回けっきょく無得点に終わる。

 続く七回表、箕輪は四番の堤野から攻撃が始まった。

 堤野も、他の打者と同様、なかなかバットを出さない。それでも追い込まれてから、イガラシの鋭い変化球をことごとくカット。最後は、やはりチェンジアップで空振り三振に仕留めたものの、十三球も使ってしまう。

 

「ファール!」

 両腕を広げ、アンパイアが叫ぶ。四球続けて同じコールだ。ボールは鈍い音を立て、一塁側ベンチの方向へ転がった。

 眼前には、箕輪の五番打者・中谷が左打席に立っている。ずんぐりむっくりとした体躯。丸く大きな瞳は、どことなく愛嬌がある。

 マウンド上。イガラシは、小さく舌打ちした。

 堤野に十三球費やしたのに続き、この中谷にもすでに八球を投じていた。体躯から、力任せに振り回すタイプかと思いきや、思いのほかスイングはしなやかだ。得意球の落ちるシュートさえ、簡単にカットされる。

 けっ。顔に似合わず、ねちっこいバッティングしやがって……

 九球目。キャッチャー倉橋のサインに従い、イガラシは相手の膝元へシュートを投じた。打者の懐に喰い込み、ストライクからボールになるコース。

「ボール! スリーボール、ツーストライク」

 中谷は、悠然と見送った。

 くっ、手が出なかった……わけじゃなさそうだ。並のバッターなら、引っかけてセカンドゴロになるはずだが。いい目してるぜ。おまけにコースを散らしても、緩急をつけても、対応してきやがるし。

 溜息が漏れる。額に、汗が滲み始めた。

 さて、どう料理するか。生半可な球じゃ通用しそうにねぇし、かといってチェンジアップはそうそう多投したくない。いっそ、歩かせて……むっ。

 倉橋のサインにうなずき、ロージンバックを放る。振りかぶり、左ひざを上げ、スパイクの足を踏み出す。右腕を思い切りしならせる。

 ズバン。ボールは、内角高めに構えたミットに、勢いよく飛び込んだ。やや遅れて、中谷のバットが回る。

「ストライク、バッターアウト!」

 空振り三振。アンパイアが、拳を突き上げた。

 さすが倉橋さん。たしかに内角のスイングは、少しきゅうくつそうだったからな。よく相手バッターの弱点を探し出してくれたよ。って、感心してる場合じゃねぇか。

 中谷にも十球。この回、たった打者二人に二十三球を投じた。体力そのものに不安はないが、攻撃の時間が長くなると、チームのリズムが悪くなる。守備の集中が切れたところを付け込まれれば、機動力に優れた箕輪のこと、一点や二点では済まないだろう。

 次打者は、六番の喜多という選手だ。ここまでの打席を見る限り、バットコントロールは秀でているものの、さほどパワーはない。

 ふん。どうせこのバッターも、追い込まれるまで手を出さないつもりだろう。ったく、こっちは長打のリスクも考えて、ちゃんとコーナーを突いてるってのに……ん?

 その時、あることを閃いた。

 こちらからサインを出す。倉橋は、一瞬驚いた目をしたが、すぐにうなずいた。現状では埒が明かないという思いは、同じらしい。

 初球。イガラシは、真ん中へカーブを投じた。

 喜多が、鋭くバットを振り抜く。快音が響いた。低いライナー性の打球が、二遊間を破りセンターへ抜けていく。

 すぐに倉橋がタイムを取り、マウンドへと駆けてきた。

「……思ったとおりだな」

 ミットで口元を隠し、囁くように告げる。

「中に入ってきたボールは、ちゃんとねらってきた」

「ええ。やつら、こっちが焦れて、コントロールが甘くなるのを待ってたんですよ」

「そうと分かったら、どうする?」

「もちろん……このまま、やつらの手のひらで踊らされるのもシャクですし」

「うむ。ここはバックを信じて、打たせようか」

 倉橋がポジションに戻ると、イガラシは後方の野手陣を振り向き、右拳を突き上げた。

「いくぞバック!」

 すぐさま「おおっ」「よし来い!」と、威勢の良い声が返ってきた。

 タイムが解ける。イガラシは、セットポジションに着き、まず一塁へゆっくりと牽制球を放った。ランナーの喜多は、足から戻る。

 加藤の返球を捕り、再びセットポジション。そして、次は素早く牽制球。喜多は、今度は手から帰ったものの、まだ余裕がありそうだ。

 ふん。けん制でアウトにできるとは思ってないが、足でかき回されないよう、釘は刺しとかねぇとな。さて、つぎは七番か。

 すでに後続の七番武内が、右打席に立つ。半田の話によると、まだ一年生らしい。頬のにきび跡が、他の箕輪ナインと比べ、まだあどけない。それでも甲子園出場チームのレギュラーに抜擢されただけあり、ここまで二安打。センスの高さを見せ付けている。

 初球、倉橋は「真ん中にシュート」のサインを出した。イガラシはうなずき、セットポジションから第一球を投じる。

 バシッと音がした。速いゴロが、一・二塁間の真ん中を破る。一塁ランナーの喜多が、あっという間に二塁ベースを蹴り、三塁へと到達した。

 イガラシは、ベースカバーに回った三塁側ファールグラウンドで、ぐっと唇を噛んだ。

 やられた……打たせて取るつもりが、なんてしなやかなバッティングをするんだ。箕輪のやつら、少しでも中に入ってきたボールは、確実にヒットにする自信があるのか。

 

 この後、イガラシは八番打者を敬遠し、二死満塁。

 迎えた九番打者には、ツーストライクと追い込んでから七球粘られたが、最後は落ちるシュートで空振り三振に仕留め、辛くも無失点で切り抜ける。

 しかし、少しでも甘く入ると狙い打たれ、際どいコースを突けば粘られる。何か策を講じれば、その上を行かれる箕輪打線の狡猾さに、バッテリーは追い詰められつつあった。

 

 東信彦(ひがしのぶひこ)は、球場内の通路を通り、一塁側ベンチに出るドアを開けた。

 箕輪ナインは、ちょうど七回表の攻撃を終え、これから裏の守備に向かうところだった。東の顔を見ると、なぜか皆一様に苦笑いを浮かべる。

「おお。もどってきたか」

 キャッチャーの中谷だけが、明るく声を掛けてきた。

「どれくらい走ったんだ?」

「およそ十キロかな。球場のまわりを、三周してきたから」

「あいかわらず、せいりょく的だな」

「そんなことより……みんな、どうした。元気ないじゃないか」

「どうもこうも、ねぇよ」

 中谷は、溜息混じりに答える。

「おまえと話したっていう、あのイガラシってボウヤ、なかなかしぶとくってな。ついさっき満塁のチャンスだったんだが、山野のやつが三振しちまって」

 名指しされた山野が「わるかったな」と、バツの悪そうに言った。

「ほぉ……めずらしいな。当てるのがうまい山野が、凡打ならともかく……三振、か」

「言い訳にしか、きこえないだろうけどよ」

 うつむき加減で、山野は付け加える。

「ほかのやつの時、何球か中に入ってきてたんだ。俺もそれをねらったんだけどよ」

 傍らで、中谷が「そうそう」と相槌を打つ。

「粘っていれば、いつか甘い球がくるっていう、当初のねらい通りだったけどな。たしかにランナーがたまった後は、ぜんぶ厳しいコースだった。こいつも運がなかったわけよ」

「……いや、ちがうな」

 東は、大きくかぶりを振った。

「前のバッターに投げたという甘い球は……おそらく、わざとだ」

 山野と中谷が、同時に声を発した。

「な、なんだとっ」

「どういうことだよ」

 他のナイン達も、一斉にこちらへ顔を向ける。

「あのボウヤ、さぐりを入れてきたんだ。わざと甘いコースに投げて、こちらがどんな反応をするのか。そしてコントロールミスを誘ってるとかぎ取ったもんで、山野には一転して、厳しいコースを攻めたんだろう」

「ま、まさかぁ」

 中谷が、懐疑的に問うてくる。

「かりにも甲子園出場チーム相手に、一年生がそこまで大胆になれるものか?」

「彼ならするさ。なにせ、とても頭のキレる男だからな」

「けど、長打のリスクもあるだろうに」

「だから……甘い球といっても変化球にして、フルスイングを封じ、長打にならないようにしてなかったか?」

 図星だったらしく、ナイン達は押し黙った。

「……と、ところで中谷」

 東は、グラウンドを横目にしながら呼び掛ける。

「こんな所で、おしゃべりしてていいのか?」

「む……あっ、いけね」

 いつの間にか、アンパイアがこちらのベンチ手前に来ていた。オホンと、わざとらしく咳払いする。箕輪ナインは、慌ててベンチから飛び出していく。

 東は、一人ベンチに腰かける。三塁側の相手ベンチに目を向けると、イガラシは他のチームメイトと何事か話していた。相手はキャッチャーの倉橋と、この日は出場していないキャプテン谷口のようだ。

 ふむ。入部して間もない立場でありながら、チームの要である上級生に、どう堂々と意見を言えるのか。これは、よほどの信頼を勝ちえているのだろう。

「東さん」

 ベンチに残る控え部員の一人が、尋ねてくる。

「この後、どうされます? ストレッチなら手伝いますよ」

「ありがとう。けど……いまは、やめておくよ。しばらく観戦する。後で、みんなにコーチしてやらなきゃいけないからね」

「わ、わかりました……」

 控え部員は、ごにょごにょと何やら口ごもった。

「……なあ君」

 見かねて、東は問うてみる。

「言いたいことは、はっきり言うものだよ」

「は、はい。ではっ」

 恐縮しながらも、控え部員はおずおずと言った。

「練習試合で、ちょっと非情すぎやしませんか。この作戦……たんに、甘い球を誘うだけのものじゃないのでしょう?」

「ほう。よくわかってるじゃないか」

「だって……東さんご自身が、相手にそれをやられて……あっすみません」

「皆まで言わなくていい。すまない……気を遣わせてしまったようだ。しかし、これが勝負の現実というもの。君もいずれ、わかる時がくるさ」

 制球ミスを誘うだけではない。甘いコースを狙われ、決め球はカットされる。これをやられれば、なまじレベルの高い投手ほど、ベストボールを続けようとしがちだ。しかし、それは心身を激しく消耗させる。

 だから、この作戦は格上のピッチャーが相手の時のみと決めていた。それを甲子園三出場の、しかも一年生投手を相手に実行している。非情と言われるのも無理はない。

「この夏……われわれは甲子園へ行き、そして勝つ」

 なだめる口調で、東は言った。

「知ってのとおり、エースピッチャーの離脱という逆境の中、ナイン達は血を吐く思いで、毎日がんばってくれている。皆の思いに報いる方法は、ただ一つ……勝つことだけだ。そのための戦術を、いまで完成させなければならないからね」

「東さんの、覚悟はわかりました」

 後輩は、なおも怪訝そうに尋ねてくる。

「ですが……あのイガラシというピッチャーに、それをする価値はあるのでしょうか」

「ああ、それなら」

 ふふっ、と含み笑いが漏れる。

「……まぁ見てなさい。見ていれば、おのずと理解できる」

「は、はぁ」

 戸惑う相手を傍らに、東はグラウンドへと視線を向けた。

 それにしても……イガラシ君、お見事。こちらの意図を、半分とはいえ見破ってしまうとは。じつに興味深い。まったく、君とグラウンドで戦えないのが残念だよ。

「……たしかに、えたいの知れないチームではありますね」

 バットを並べながら、控え部員がぽつりと言った。

「君も、そう思うかい?」

「はい。初回に四点取った時は、東さんには申し訳ないですが、正直どうしてこんなチームとって思いました。でもその後は、押してこそいますけど、けっきょく突き放せないでいますし。おまけに点差を詰められてしまいました。東さん……いったい、墨谷って」

「言ったろう、底知れぬ可能性をもったチームだと」

 愉快な気持ちで答える。

「いまはまだ未熟だが、なにかキッカケさえつかめば、きっと彼らは大化けする。いや……もう、化け始めているのかもしれない」

 だからこそ君らなんだ……と、東は胸の内につぶやいた。

 この戦術は、そこらの平凡な相手にしたところで、意味がないのだ。墨高のように、成長いちじるしいチームに成功させてこそ、われわれは自信を持って夏を迎えられる。

 無意識のうちに、右肩をぐるっと回す動作をした。そして、あれっ……と思う。いつものような、途中で引っ掛かる感触がなかった。

 もう一度回してみる。信じられず、繰り返す。何度やっても、関節がきれいに回転する。久しく忘れていた感覚だ。

 大声で笑い出しそうになるのを、東は必死に堪えた。

 

 七回裏。墨谷は、先頭の丸井がヒットで出塁したものの、続く加藤が送りバントを失敗しダブルプレー。次の島田も倒れ、けっきょく三人で攻撃を終える。

 いよいよ試合は、八回・九回の攻防を残すのみとなった。

 

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