南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

東国原英夫の“LGBT”句への無粋なイチャモンに反論する――「プレバト!!」【冬麗戦】より

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 これまで、私自身の「俳句ポスト365」への投句<奮闘記>も含めた「プレバト!!」に関するエントリーは、いわば“息抜き”“遊び”感覚で、気ままに散文を綴ってきた。

 

 が……少々腹に据え兼ねることがあったので、今回ばかりはマジメに(できれば今回に限りたい)書かせていただく。まぁ、ごく一部の不届き者達の声なので、別に放っておいて構わないのかもしれない。

 

 ただ、近頃はこういう「ノイジーマイノリティ」の存在が、世の中に悪影響を及ぼすことも少なくないので、小さな芽のうちに潰しておきたい。もっとも素人ブログの影響力など、ほとんど0に等しいが、知性のない暴言には「同調しない」という意思表示のために。

 

 先日の「プレバト!!」【冬麗戦】にて、見事優勝を果たした名人10段・東国原英夫の句。昨年問題になった、某国会議員の“LGBTに生産性はない”との発言について、自身の「心に引っかかった」「納得できない」という思いを詠み込んだ、まさに迫力ある一句である。

 

凍蠅よ生産性の我にあるや東国原英夫:第1位)

 

 ところが。この句が1位を獲ったことに関して、何のかんのとイチャモンを付けたい人達がいるらしい。

 

 いや、句の優劣に関して「違うのではないか」と言うのは、個人的には(その正否は別にして)「アリ」だと思う――それならば“文芸評論”の域に収まる話だ。

 

 例えば、東国原の句が中七に“生産性”と「映像のない言葉」を用いたことに関して。

 

 一句すべてを具体的な「映像の言葉」で構成した千原ジュニアの句と比較して、メッセージ性はともかく“俳句として”どちらが上なのかと問いかけるのであれば、それは有意義な議論になるだろう。

 

皸に窓の結露を吸わせけり千原ジュニア:第2位)

 

 所謂“客観写生”の立場を採る方であれば、もしかしたら千原の句に軍配を上げるかもしれないな……と、チラッと思いはした。

 

 これは想像だが、今回の査定において、夏井いつき先生ご自身もかなり悩まれたのではないだろうか。

 

 東国原の「強いメッセージ性と迫力」を採るか、千原の「俳句としての技術的な完成度の高さ」を採るか……という二択になり、結果として、夏井先生は東国原の句の「メッセージ性」「迫力」を選んだのだろう、と。

 

 逆に言えば、それだけ甲乙付け難いハイレベルな“戦い”だったということ。

 どのような結論に達したにせよ、それは夏井先生がご自身の“俳句観”と照らし合わせ、その上で“責任”を以て下した決断として、私達は尊重すべきだろう。同時に、彼女と違う“俳句観”の方が選者であれば、結果も違っていたかもしれないとも思う。

 

 しかし……イチャモンの内容を見てみると、当然そんな高尚(?)な話ではないようだ。まぁ、分かっちゃいたが。

 

 曰く、「今さら話を蒸し返されて(某国会議員は)可哀想」だの、「あの発言はそういう真意で語られたものではない」だの、「こんな句を一位にするなんて、「プレバト!!」は偏っている」だの。こんなものは、よくいるクレーマーの類でしかない。

 

 こんな奴らに擁護(?)されては、かえってイメージが悪くなる。その某国会議員も気の毒だとすら思う。

 

 それはともかく、個人的に気分が悪かったのは――あの句を通して、別に東国原は、某国会議員を直接的に批判したわけではないということ。「心に引っかかった」「納得できない」とコメントしていたが、それは彼自身への問いかけであり、この問いかけを句に詠んだ理由の“説明”に過ぎない。

 

 自分自身への問いかけを表現することさえ、否定しようとする人間がいる。そういう空気が、現代日本には少なからず存在する。平成最後の時を迎えた今、これではあまりにも寂しい。

 

 念のため言っておくが、私は“政治家”ないし“政治評論家”としての東国原英夫を、必ずしも全面的に支持するわけではない。とある報道番組での彼の幾つかの発言に、違和感を抱いたことも少なからずある。

 

 だが……それと、彼の句をどう鑑賞するかということは、まったくの別問題だ。

 

 イチャモンを付ける有象無象の輩に言いたいのだが、政治的主張の是非よりも先に、まずあの句の「俳句としてのレベル」を論じてみよ。何なら、アンタ達も一句詠んでみせよ。

 

 アンタ達には、東国原以上に多くの人の心を揺さぶる句が、詠めるのか。たった十七音を使って、単に自分の言いたいことを述べるのではなく、あの句を読んだ多くの人達の共感を呼ぶことが、果たしてアンタ達にできるのか。

 

 できるはずがない! これは、ハッキリ断言できる。

 

 俳句は、他者の鑑賞を経てようやく成立する文芸だと言われる。

 詩やエッセイ、小説よりも遥かに、“他者”の眼差しというものを意識しなければならないのが、俳句の世界なのだ。

 

 他者をまるで理解しようともせず、ただ自分の主義主張を押し通そうとする輩に、俳句の世界を理解できるはずがない。

 

 己のしょうもない主義主張を通そうとする前に、まず俳句“そのもの”に目を向けよ。 

 できれば、自分でも何句か作って、近しい知人に見せてみればよい。俳句をある程度学べば、いかに自分が自分だけの主観に囚われているか、分かるはずだ。

 

 俳句を通して、少しは他者を思いやる心を育てて欲しい……と言いたいのだが、おそらく無理だろうなぁ。