その刹那、あっ……と声を上げていた。
10。九回裏、ツーアウト・ランナーなし。ほぼ勝敗は決しかけていた。二死から仙台育英の3番・杉山拓海がセンター前ヒットで出塁しても、大勢に影響はないように思われた。
あぁ、シングルか。長打は許さないんだよな。よく粘ったけど、ここまでか。この大阪桐蔭を倒せるチーム、あるのかな——私自身、こんなことを考えていた。準々決勝の組み合わせをチェックしながら。
この時だった。一塁走者の杉山が、スタートを切る。あと一死でも取られれば敗戦という、まさに崖っぷちにまで追い詰められた状況での“決死の盗塁”。しかも後のインタビュー記事によれば、これはベンチからのサインではなく、本人の判断だったという。
意表を突かれたのか、それまで幾度となく正確なスローイングを見せ付けていた大阪桐蔭のキャッチャー・福井章吾にしては珍しく、送球が高く逸れてしまう。盗塁成功。二死ながらランナー二塁。一打同点、がらりと局面が変わる。
今にも閉ざされようとしていた、勝利への扉。扉の僅かな隙間に手を開け、残された力で懸命にこじ開けようとする。俺達は最後まで諦めない——そんな意思の込められた、勇気ある盗塁敢行だった。
このまま10で終わっても、今大会の好ゲームの一つとして数えられていた試合だったろう。そして、たとえ敗れたとしても、ここまで“王者”を苦しめた仙台育英ナインの健闘は、称えられてしかるべきだと思った。
とりわけ長谷川拓帆渡部夏史バッテリーのコーナーワークは見事だった。徹底して、内外角低めの際どいコースを突いていく。この配球が功を奏し、長打を2本に抑える。強打を誇る相手打線に対し、僅か1失点。これ以上を求めるのは酷というものだろう。
しかし、大阪桐蔭はさすがに「勝つために鍛えられたチーム」だと感じた。特にこの日は、バッテリーを中心とした“守備力”に何度も感嘆せられる。
まず、先発の柿木蓮。二回戦の智弁和歌山戦で完投した主戦・徳山壮磨にも同じことを感じたが、高めに浮いた甘い球がほとんどない。そして球速は140キロ前後だが、伸びがあり、こちらも打力には定評のある仙台育英の各打者がことごとく詰まらされていた。
さらには、内外野の“鉄壁の守り”。圧巻は八回裏、二死一・二塁の場面だろう。レフト前ヒットで一気に本塁を狙った二塁走者・長谷川を、レフトの山本ダンテ武蔵が、ワンバウンドのストライク返球で刺す。まるでマシンのように正確な送球だった。
終盤の緊迫した場面で、こんなプレーが飛び出してしまうのである。この八回表裏の攻防で、仙台育英ナインの誰もが「やられた」と思ったことだろう。普通に考えれば、ここでほぼ勝負は決した流れだ。実際、九回裏もあっさり二者が打ち取られる。
100年近い球史の中でも、僅か7校しか成し遂げていない春夏連覇という快挙が、一つの学校によっていとも簡単に、二度も達成されてしまう。個人的には、そのことに内心複雑な思いもあった。それでも、ここまでの強さを目の当たりにすれば、それも納得するしかないのだろうなと。
だが試合は、まだ終わっていなかった。
盗塁成功、ツーアウト二塁。続く4番渡部に対し、ここまでコントロール抜群だった柿木の制球が定まらない。四球。さらには内野守備のミスも重なり、ついに満塁。
そして迎えた、馬目郁也の一振り。打球が、センター頭上を破る……
大阪桐蔭の力が足りなかった、のではない。彼らには十分、快挙を達成するだけの強さがあった。
あの逆転劇には、何というか……“見えざる手”が働いたとしか思えない。甲子園には、時々そういうことがある。いや、ツーアウトの時点では、このまま「大阪桐蔭の勝利」という結末で決まっていたはずだ。
そのシナリオが、土壇場で書き換えられた。杉山の、イチかバチか——勇気ある決断によって。多くの観客の記憶に残る、劇的な幕切れへと。
繰り返すが、大阪桐蔭の力が足りなかったのではない。ましてや、仙台育英に「負けた」のではない。人知を超えた、何かの存在に……その気まぐれさに、翻弄されてしまったのだ。それが野球の、いや甲子園という舞台の“怖さ”なのだろう。
まさに“決死の盗塁”——土壇場にそれを敢行し成功させたことで、ほぼ決まっていた試合の流れが、大きく揺らぎ始める。その直後、あまりにも劇的な結末に、私はこう思わずにはいられなかった。
野球の神様って、本当にいるんだな……と。