南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

ペトロビッチの捉え違い——「負けたが内容は悪くなかった試合」ってあるのか!?

—— 今日は残念ながら敗れたが、決して悪いゲームではなかった。ウチは負けるといつも批判されるが、今日はそんなゲームではなかった。浦和はいつも結果を厳しく見られるチームなので。今日は両チームとも素晴らしいゲームをした。スペクタクルだった。満員のスタジアムで見た方、テレビで見た方、みんなが満足しただろう。もちろん勝ちたかったが、良いゲームができたし、悪くなかった。

 先日解任された浦和レッズペトロビッチ元監督の、Jリーグワールドチャレンジ(ドルトムント戦)における試合後コメントの引用である。

 この試合に限らず、ペトロビッチは似たような発言を繰り返していた。曰く、敗れはしたが我々の方が良いサッカーをしている。もっと内容を見て欲しい。……概ね、このような趣旨である。こうした発言は、当然ながら負けたことへの言い訳として捉えられ、批判を浴びることとなった。

 私も、彼の一連の発言には賛成できない。特に五月以降、浦和はあっさりと、それも立て続けに点を取られるケースが多かった。上位チームが陥りがちな、相手に守備を固められてそれを崩せずに……というよりも、ミス絡みの自滅に近いやられ方をしているようにしか見えなかったのだ。

 ただ、サッカーの試合において“内容”を追求すること自体は、決して間違いではない。そしてペトロビッチの言うように、「勝ったが内容は良くなかった試合」「負けたが内容は悪くなかった試合」というものも、確かに存在する。最近の浦和の試合がそうだったかは別にして。

どうも彼は「捉え違い」をしていたように思えてならないのだ。すなわち——内容の良い試合=“見栄えの良い試合”だと。

 これは個人的な感想だが、件の浦和—ドルトムントの試合は、「見栄えの良い試合」ではあるが“内容の良い試合”ではないと思った。

 確かに浦和の攻撃には迫力があったし、対するドルトムントの個人技にも「さすが世界レベル」と唸らされた。そして5ゴールが飛び出し、最後まで退屈しない試合ではあった。

 しかし、相手の弱点を突いたり意図的に試合のリズムを変えたりといった“奥深さ”は感じられない。この条件下では、お互いが長所を出し合うのは当然ではないか。通用する・しないの問題ではない。そもそも、完全に抑えようと思っていないのだから。

 だからこれは、あくまでも親善試合。もっと露骨に言えば“練習試合”の域を出ない試合である。

 では、“内容の良い試合”とは、どんな試合を指すのか。それは、「狙い通りのプレー・効果的なプレー」が実行できた試合だと私は考える。

 あえて2つ書いたのには理由がある。こちらとしては狙い通りのプレーであったも、それが相手にとって効果的かどうかは別だからだ。

 例えば、戦力的に劣るチームが格上のチームと対戦した時、守備戦術が功を奏しセットプレーで挙げた1点を守り切り勝利できたら——見栄えは良くないかもしれないが、これは狙い通り・効果的なプレーが実行できた「内容の良い試合」と言って良いと思う。

 逆に、強豪チームが格下の相手と対戦し、52で勝利。スコア的には圧勝だが、守備の隙を突かれ2失点した。これは、観客にとっては面白い「見栄えの良い試合」だったかもしれないが、「内容の良い試合」ではない。こういう試合こそ「勝ったが内容は良くなかった試合」と言うのだ。

 さらに考えてみよう。それでは、“負けたが内容は悪くなかった試合”とは、どんな試合を指すのだろうか。

 例を挙げると——昨年のクラブワールドカップで、鹿島アントラーズレアル・マドリードに惜敗した試合。その鹿島アントラーズと打ち合いを演じたが、最後は押し切られた第17節の柏レイソル

 つまり、「狙い通りのプレー・効果的なプレー」を実行し五分の勝負を演じながら、相手の個人技に押し切られたり、不運に見舞われてあと一歩及ばなかったり、といった試合ではないだろうか。

 自分達にできること・やるべきことを可能な限り実行し、それでもなお僅かな差で敗れ去ったチーム。そういうチームであれば、勝者と同様に称えられるべきだと思う。

 狙い通りのプレー・効果的なプレーを実行する。それが観客から見ても“結果として”面白いと感じることがある。この順番が大事なのだ。「見栄えの良い試合」をすることが先に立つと、勝てる試合も勝てなくなってしまうに違いない。

 果たして、浦和レッズは現状を受け止め、改善させていく方向に舵を切った。だが実は、もう一つ——浦和以上に心配なチームがある。

 我らがサッカー日本代表である。

 ザッケローニ時代に批判された“自分達のサッカー”というフレーズだが、これが「狙い通りのプレー・効果的なプレー」であれば別に問題なかった。ただいつのまにか、それが「見栄えの良い試合」をすることに挿げ替えられていたように思う。

 ハリルホジッチ監督になり、“自分達のサッカー”というフレーズはほとんど聞かれなくなった。だが、その代わりにハリルホジッチの戦術にのみ縛られ、相手チームに対して効果的なプレーができなくなるのであれば、結果は同じだ。

 今回のペトロビッチ解任劇に至る、浦和レッズ低迷の一連の流れは、日本サッカーに重要な示唆を与えているように思う。自分達の得意なプレーをしようが、監督の注文通りのプレーをしようが、それが効果的でなければ意味はない。

 もう、そろそろ気づいて欲しい。現実も知らずに見栄えの良いサッカーをしようとするのも、監督の戦術で選手達を縛りすぎるのも、「相手チームのことを見ていない」という点で根は一緒なのだと。

 気づかないのなら……今度は日本中のサッカーファンが、今の浦和サポーターと同じ思いをすることになるだろう。