先に、結論から述べることとする。
件の「辺野古移設問題」について、私の立場は――“移設はやむを得ない”である。
賛成か反対かではなく「やむを得ない」と書いた、この“微妙な感覚”をご理解いただけるだろうか。
私は現在、沖縄本島中部の職場に勤めている。出勤時、小中学校の前をよく通るのだが、そこから車で数分ばかり移動すると、大通り沿いに普天間基地の鉄網が広がっている。鉄網の前を、通学の小中学生達が行き来する。我が県では、朝の日常的な光景だ。
毎朝のことなので、感覚がマヒしてしまうのだが……冷静に考えると、かなり危険であることは言うまでもない。
沖縄本島中部・宜野湾市にある沖縄国際大学に、米軍ヘリが墜落したのは僅か十四年前(2004年)のことだ。さらに遡れば、1959年には石川市(現うるま市)において、宮森小学校に米軍機が墜落し、多数の死傷者を出すという悲惨な事故も発生している。
どうも「基地反対」を唱えればサヨク、「基地賛成」と言えばウヨクと色分けされがちなのだが、それ以前に“人情”として、せめて学校や住宅密集地に隣接する普天間基地だけでも移転させて欲しいと思うのは、ごく自然な感情だろう。
私が“やむを得ない”と書いたのは、根底として「まず普天間を何とかして欲しい」という思いがあるからだ。「辺野古移設」が「普天間移転」の“代案”となるのなら、致し方あるまい。
この正月に、名護市在住の親戚と「辺野古移設」について話したのだが、ほぼ私と同意見だった。さらに、こうも言っていた――「そりゃあ(基地が)なくなれば、それに越したことはないさ」と。
しかし、普天間移転の“代案”が他に見付からないこと、某隣国のキナ臭さを警戒しなければならないという安全保障面、さらには経済振興その他様々な事象を考慮した結果、「辺野古移設しかないんじゃないか」という結論を出さざるを得なかった。
反対運動に首を突っ込んでいる“ちょっと特殊な人達”は別として、沖縄の一般庶民はこのような考えの方が多いように感じる。が……きっと「分かりにくい」からだろうが、こうした声がメディアで取り上げられることは少ない。
そもそも我が県では、一般庶民が基地問題に関する意見を述べること自体、なかなかリスキーな行為なのだ。
土地柄、沖縄戦で親類が犠牲になった方はとても多い。その一方で、就職先が限られていることから、基地で働いている方、あるいは土地収入を得ている方も少なくない(この「土地収入」あるいは「不労所得」というワード、ある方面の人達は“大好き”らしい)。
それ故、表立って(賛成するにせよ反対するにせよ)基地に関する意見を述べることは、わざわざ“敵”を作ろうとするものである。
この辺りの“空気感”が、民放各局の報道番組等を見ていると、どうも伝わらないように思う。本当に沖縄県民の「本音」を知りたければ、街頭インタビューではなく、無記名のアンケートや音声テープのみの取材(当然声は変える)しか方法はないのではないか。
だが、それは“手間”なのだろう。結果、声の大きい運動家の人達が、さも“沖縄県民の代表的な意見”のようにメディアで紹介される。それを見て、沖縄の現状に同情的な人にまで「なんかメンドウだな」と思われる。さらには、“ある方面の人達”に餌を与えてしまう。――まさに“悪循環”だ。
先日も、某漫才師が「県民投票」実施を巡り、辺野古でハンストを決行する若者のMさんに擦り寄っていたが(Mさんを非難する意思はない。念のため)、ハッキリ言って沖縄県民を励ますようなものではまったくない。あまりにも浅すぎる。
某漫才師は、“自分は沖縄の味方だ”とでも言いたいのか。であれば、私のような基地反対派“以外”の声にも耳を傾けるべきだと思うのだが、それはできまい。
この問題は、本来「賛成か反対か」もしくは「正しいか正しくないか」などといった、“単純二元論”で語られる性質のものでは、ない。
本当に重要なのは、辺野古移設に関して、(賛成するにせよ反対するにせよ)どのような思考の過程を経て「結論」を出すに至ったのか。その“葛藤”の部分にこそ、もっと焦点が当てられるべきだと思う。
少なくとも、反対運動をするような声の大きい人達ばかりでなく、もっと沖縄で普通に生活する一般庶民の“声なき声”を拾って欲しい。とりわけ民放メディアに対して、強く言っておきたい。