1.激しい原作との乖離
2017年4月の「プレイボール2」連載開始により始まった“プレイボール復活”キャンペーンは、公平に言って失敗だったと言わざるを得ない。
まず作者のコージィ城倉氏に、どこまで原作「プレイボール」への思い入れがあったのか疑わしい。あまりにも原作設定及び世界観との乖離が激しいからだ。
ぱっと思い付くだけでも(加藤の利き腕はケアレスミスとして目を瞑るにしても)、
・頼もしいリーダーのはずの谷口が、意地悪(井口への態度等)かつ優柔不断な性格に
・勝利優先だったイガラシが自己中心的で幼稚な性格に(“ファールをとらないで”等)
・優しく谷口達を見守っていたOB田所が小姑のよう(“墨高は猪突猛進”等)
・丸井があまりにも考え足らずに(硬式球でノックを至近距離かつ素手(!)で受けさせる等)
・原作の見所だった相手チームとの駆け引きが見られないか希薄
・原作の根本精神だった“努力”さえも否定(田所や谷原マネージャーの発言等)
「人それぞれ解釈が違う」という言い方もあろうが、それはあまりに優しすぎるだろう。ここまで乖離が激しいと、作者は原作をちゃんと読んでいないか、読んだ上で自身の価値観からすると原作世界観に何かしらの抵抗感があったのか、そのどちらかとしか思えない(せめて後者だと思いたいが)。
2.無視された原作ファンの唯一にして最大の”願い”
私だけでなく、特に連載初期の頃は、アマゾンレビュー等で私と同様の違和感を述べる意見が散見された。ただ、これでも多くの原作ファンは、多少の(どころでは段々なくなってきたが)違和感には目を瞑るつもりだったと思う――あることの実現を願って。
それこそが、「甲子園でプレーする谷口君が見たい」という願いである。
ところが、この唯一にして最大の願いさえ叶えられなかったことは、多くの原作ファンが周知の通りである。それどころか、作者は「プレイボール」の“事実上のクライマックス”と言える谷原戦の結末まで、すっ飛ばした。だから原作ファンは「甲子園でプレーする谷口君」どころか、「谷口君の最後の打席」「谷口君の最後のプレー」まで見ることができなかったわけだ。
ファンの願いは、私も一ファンとして容易に想像できる。
原作「プレイボール」の終わり方が、イガラシや井口といった「キャプテン」オールスターを終結させただけでなく、片瀬という新キャラまで登場させ、明らかに夏の戦いへ向けての伏線が張られていたこと。何より、あきご先生ご本人が「次は晴れて甲子園へ」とインタビューで答えていた記録があること。これではどうしても“甲子園編”を期待せずにはいられない。
だが作者は、ファンの願いを知っていて(ご本人は「そういう声があるのも知っている」とインタビューに答えているので)、あえて無視した。そう、無視したのである。
辛辣な言い方をすれば、「甲子園でプレーする谷口君」を実現させなかった時点で、「プレイボール2」(及び「キャプテン2」)の存在意義は消えた。私はそう思う。
ここで断っておくが、あきお先生ご本人が、実際には「甲子園でプレーする谷口君」を“描くつもりはなかった”という可能性もなくはない。インタビューでの発言は、あくまで当時の読者向けのリップサービスだったと。
だが、あきお先生の真意も、もちろんコージィ氏の意図も、もはや問題じゃない。
そもそも「プレイボール2」の企画が生まれたのか。それは多くの原作ファンが、「プレイボール」の続編を望んでいたからに他ならない。そしてなぜ、こんなにも続編が望まれたのか。
繰り返しになるが、多くの原作ファンが「甲子園でプレーする谷口君」を見たかったからに他ならない。その願いを踏みじにってはいけなかったはずだ。
念のため述べておくが、コージィ氏のオリジナル作品「グラゼニ」や「おれはキャプテン」「ロクダイ」は名作だと思うし、氏の人格を貶めたいのではない。
ただ氏の作品を読んでみると、明らかにちばあきお氏とは“野球観”、もっと言えば“人間観”が違うように感じる。どっちが優れているとかではなく、両者は致命的に「相性が悪かった」のだと思う。
いずれにせよ、結果として名作「プレイボール」の多くの原作ファンの思いが、置き去りにされてしまった。そのことが、私はファンの一人として残念なのである。