【目次】
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<外伝>
第42話 闘志を燃やせ!の巻
<登場人物紹介>
岡部:小説オリジナルキャラクター。ポジションは三塁手。春までは五番を務めていた、長身でがっしりとした体躯の右バッター。長距離ヒッターであり、クリーンアップに匹敵するパワーの持ち主。
細見:小説オリジナルキャラクター。ポジションは二塁手。長身ながら、やや華奢な体躯の左バッターである。ミート力に優れ、夏の大会では四割近い打率を記録している。
辻倉:小説オリジナルキャラクター。一年生ながら、がっしりとした体躯の持ち主。夏の大会からレギュラーに抜擢される。将来を期待されている選手。
浅井:小説オリジナルキャラクター。谷原レギュラー陣では珍しい、小兵の右バッター。しかし打撃センスは高く、都大会の打率は五割を超える。さらに俊足で、十個の盗塁を決めている。
1.谷原監督、動く!
四回裏の守備を難なく切り抜け、ベンチに引き上げてきた谷原ナイン。しかし誰もが、一様に渋い顔をしていた。
「気づけば五回か」
村井がつぶやくように言った。
「これだけチャンスを作って、たった二点しか取れてないのは、ちとマズイな」
数人がうなずく。うむ、とキャプテン佐々木も同調する。
「ヒットこそ出てるが、なんというか……タイミングを外されてる感じだな。あのボウヤ、思った以上に球威があるぞ」
さらに「ちょっといいか」と、眼鏡のマネージャーが挙手した。
「どうした?」
「守備面でも気になることがある」
マネージャーは手帳をめくり、近くのメンバーに説明した。
「三回から急に球数が増えてる。際どいコースを見られたり、ファールにされたりするようになってきてるんだ」
「む、それはおれも感じてた」
エースは素直に認めた。
「やつら速球に目が慣れてきてる。内角に投げてないから、予想はしてたが」
傍らで「いい当たりも出てるし」と、佐々木が付け加える。
「まだ焦るほどじゃないが。このままズルズルいけば、ちょっと良くないぞ」
キャプテンの発言に、周囲は押し黙る。その時だった。
「おまえ達、円陣を組め」
ベンチ隅より、監督がおもむろに口を開く。
「ほれ急ぐんだ」
「は、はいっ」
佐々木はそう返事して、他のナイン達に合図した。
「まだかね君達」
アンパイアがさすがに待ちかねたらしく、ベンチをのぞき込む。
「よ、用具が壊れちゃって。いましばらく」
咄嗟にマネージャーが言い訳した。アンパイアは「うむ、しかたあるまい」と渋々去っていく。その間、谷原ナインは監督を囲むようにして、小さく円陣を組んだ。
「ワシとしたことが、うかつだったよ」
まるで独り言のように、監督は話し出す。
「おまえ達に油断するなと言っておきながら、ワシの方こそ相手の力量を、見誤っていたらしい。まさか墨谷が、ここまでやるとは」
佐々木は「は、はぁ」と曖昧な返事になる。
「やはり誰も気づかなかったようだな」
その一言に、谷原ナインは互いに目を見合わせる。やれやれ……と、指揮官は小さくかぶりを振り、端的に告げた。
「向こうのバッテリーが、ねらい球によるバッティングフォームのちがいを見つけ、コースを外していることを」
あっ、とナイン達は驚嘆の声を発した。しかしすぐに、数人から「やはり」「言われてみれば」とつぶやきが聞かれる。
「どうりで。さっきから、ことごとくねらいが外れるわけだ」
佐々木の発言に、他のレギュラー陣はうなずく。
「ワシも細かいところまでは分からないがな」
溜息混じりに監督は言った。ひょっとして、と村井が割って入る。
「得意コースだと膝を少し上げ、苦手コースの時は重心がずれてしまわないよう、足をするように運びますが……やつらそれを」
背後から、坂元と宮田が「自分もそうだ」「おれも」と同調する。レギュラーを含め、ほとんどのメンバーに思い当たる節があった。
む、と監督は腕組みする。
「いま村井が言ったとおり。そのあたりの動作のちがいを、向こうは見抜いてるんだろう」
「……し、しかし監督」
傍らのマネージャーが口を挟む。
「毎回ヒットは出てるんですよ」
監督はすぐに答えず、逆に聞き返す。
「それなら三、四回の記録を見てくれ。なにか気づくことはないか」
「え、気づくことですか……ああっ」
自分で記録したスコアブックの一枠に、マネージャーは目を見開く。
「長打が一本もありません。それと早打ちが目立ってきてます」
束の間、ナイン達は押し黙る。
「……監督、どうします?」
沈黙を破ったのは、キャプテン佐々木である。監督は「ふむ」と顎に右手を当てた。
「いつもならおまえ達にまかせるところだが……今日はちと事情がちがう。明日にそなえ、できるだけ余力を残しておきたいからな」
そう前置きし、短く指示を伝えた。
「コースの別なく、ストライクはすべて打ち返せ」
なるほど、と佐々木がうなずく。
「ミート重視の打法ってわけですね」
「そうだ。おまえ達の力量なら、それくらいワケもないだろう」
レギュラー陣は「もちろんです!」と、声を揃える。
「ようし。いいかおまえ達」
輪の中心で、監督は小さく右拳を突き上げた。
「谷原に小細工は通用しない。このことを墨谷はもちろん、偵察してる東実の連中にも思い知らせてやれ。いいなっ」
谷原ナインは、力強く「はい!」と応えた。
グラウンド上では、墨高ナインがボール回しを行っている。
「へいっ、ショート!」
谷口、イガラシ、丸井、加藤の内野陣。さらに戸室、島田、横井の外野手三人も、それぞれ軽快な動きを見せていた。
野手陣の様子に、倉橋はひとまず安堵する。
「守備が乱れる心配はなさそうだな」
こちらは井口とキャッチボールを続けていた。そして視線を一塁側ベンチへと移す。ちょうど谷原ナインがミーティングを終えたところだ。
「わざわざタイムを取ってまで、なに話してやがったんだ」
どうしても警戒感が募る。
「さては、こっちの仕かけに気づいたのか。だとしたらキツイぜ。今でさえ紙一重でしのいでるってのに」
やがて先頭打者の三番大野が、一塁側ベンチより姿を現す。
「クリーンアップか。まためんどうだな」
その大野が右打席に入ってくる。倉橋は「タイム」とアンパイアに合図した。
「じらし戦法とはこざかしいね」
大野の皮肉に、倉橋は「お互いさまでしょ」と言い返す。あらっ、と打者はずっこける真似をした。
「フン。それで揺さぶってるつもりかよ」
相手を軽くいなし、倉橋はマウンドへと向かう。
「井口、この回だが……おい」
マズイな、と思わず唇が歪む。井口の肩を上下させる動きが目に入ったのだ。
「な、なんでしょう」
「いや。もう五回、そろそろ疲れが出てくる頃と思ってな」
井口は、苦笑いして「平気スよ」と答えた。
「やっとコツをつかんできたところなんで。まだまだ、これからス」
言葉とは裏腹に、その表情はやや苦しげである。無理もないか……と、倉橋は胸の内につぶやく。
「このガタイとはいえ、まだ一年生。あれだけ攻め立てられ、神経をはりつめた状態で投げてりゃ、とうぜん疲れも出るか」
ふと黙り込んだ先輩に、一年生投手は「倉橋さん?」と訝しげに尋ねる。
「あ、いや。とにかく」
倉橋は平静を装い、相手の右肩をポンと叩く。
「中軸からだ。おそれる必要はないが、しっかりコースをついていこう」
「は、はいっ」
きっぱりと返事したものの、心なしか汗の量も多い。
「まだ球威も変化球のキレも落ちてない。この回かぎりの予定だし、なんとか踏んばってもらいてえが」
マスクを被り、倉橋は「どうも」とアンパイアに合図した。すぐに試合再開が告げられる。
「こいつは外角が苦手。それと速球には、強いんだったな」
初球。倉橋はまず、スローカーブのサインを出した。井口がうなずき、すぐに投球動作へと移る。視界の端で、大野が摺るように左足を運ぶ。
「苦手の外角低めねらい。井口、内角だ!」
こちらの思惑通り、井口は内角にスローカーブを投じてきた。
「よし。コースいっぱい……えっ」
次の瞬間、倉橋は言葉を失う。
「なんだと!」
視界の端で、大野は体勢を崩すことなく、バットをコンパクトに振り抜いた。パシッと小気味よい音が響く。
「……れ、レフト!」
谷口が叫ぶ。しかし左翼手戸室が背走し始めて数秒後、打球はまるでピンポン玉のようにレフトフェンスを越えていた。あとはスパイクの無機質なカチャカチャという音だけが、やたら鮮明に聴こえてくる。
ソロホームラン。スコアボードの一枠がめくれ、谷原の得点に「3」が記される。
「いいところで追加点だっ」
「よく打ったぞ大野。さすが三番!」
「これで墨谷もおとなしくなるだろう」
谷原の一塁側ベンチが、久しぶりに活気づく。さらに応援スタンドも湧いた。対照的に、墨高応援団の陣取る三塁側スタンドは、まるで凍り付いたように静まり返る。
2.井口の意地
「な、なんてこった……」
三塁側スタンドの前列。田所は、ガクンと崩れるように座り込む。
「何度もピンチをしのいできたのに、ここへ来てホームランで一点をうばわれるとは」
後列で「たしかに」と、中山がうなずく。
「いまの一点はこたえるでしょうね」
「でも三点なら、まだじゅうぶん追いつけるだろう」
元エースの隣で、山口が気楽そうに言った。
「なにせこのまえは、七点差をひっくり返したんだし」
バカいえ、と太田が遮る。
「あん時とは状況がちがう。今日はたのみの打線が、さっぱりじゃねーか」
む、と山本も同調した。
「なにせ甲子園四強のエースだからな。この回だって、あと何点とられるか」
その時、田所が睨み付けてくる。
「やい、てめえら!」
後輩達はビクっとして、身構えた。
「はいっ。しーません!」
「な、なにか?」
しかし田所は「いや。なんでもねーよ」とうつむいてしまう。
「……ど、どうしたっていうんだい」
山本がヒソヒソと話し出す。
「もう怒る気力もないってか」
無理もないさ、と中山が囁き声で応える。
「あの人……仕事の合間に足しげく通って、ずいぶん野球部のためにつくしてたからな。そりゃショックもでかいだろう」
四人は揃って、黙り込む先輩へ視線を送る。田所は祈るように両手を組み、眼下のグラウンドを見つめていた。
マウンド上には、バッテリー二人を含む内野陣が集まっていた。反撃の糸口をつかめぬまま追加点を許し、誰もが渋い表情である。
「すみません。浮いてしまいました」
手痛い一発を浴びた井口が、無念そうに唇を噛む。
「ま、すんだことはしかたないさ」
倉橋はそう言って、ポンと後輩の背中を叩く。
「たしかにちょっと高かったが、ほぼねらいどおりのコースだ。あれは打ったバッターをほめるしかねえよ。問題は……」
全員の顔を見回し、正捕手はトーンの低い声で告げる。
「こっちの策、どうも向こうに見破られたらしいぞ」
「なんですって!」
井口が小さく声を上げた。傍らで、加藤と丸井も「ええっ」「ま、まさか」と驚嘆の声を漏らす。
「うむ。そのようだな」
さしもの谷口も、険しい表情になる。
「回が始まる前、みょうに長くミーティングしてたのは、やはりその話だったのか」
ええ、とイガラシが苦笑いして言った。
「それにしても……ちょっと直しただけで、ホームランとは。おそろしい打線ですね」
「ああ。しかしこんなに早く、見抜かれてしまうなんて」
キャプテンの言葉に、しばしナイン達は黙り込む。
「……そうムズカシイ話じゃありませんよ」
沈黙を破ったのは、当の井口である。
「ほかに策があるってのか」
倉橋の問いかけに、井口は「そうじゃありませんがね」と首を横に振る。
「たとえねらわれても、力でねじふせりゃいいんでしょう」
強気な発言に、丸井が「よく言うぜ」と呆れ顔になる。
「今しがた、ホームランを打たれたくせに」
「あれはカーブの失投です。速球やシュートなら、外野にも運ばせませんよ」
傍らで、イガラシが「たしかに」と同調した。
「どっちみち小細工には、限界がありますからね。後のイニングもありますし、どんなタマを投げればおさえられるのか、ここらでためしておくのも一手でしょう」
幼馴染の言葉に、井口は「へへっ」と笑い声をこぼす。
「そうこなくっちゃ」
後輩達のやり取りを、谷口は無言のまま、うつむき加減で聞いていた。それでもやがて顔を上げ、口を開く。
「……分かった。ここは井口にまかせよう」
丸井と加藤が「キャプテン!」と、驚いた声を上げる。
「だいじょうぶだ」
キャプテンは穏やかな表情で告げた。そして「倉橋」と、正捕手に尋ねる。
「いまのバッターは、苦手コースの打ち方だったな」
ああ、と倉橋は吐息混じりに言った。
「ねらいを外したはずなのに、まるで体勢をくずさなかったもんで、たまげたよ」
「ということは……谷原はミート打法に切りかえて、どのコースも打ってくるはずだ」
なるほどね、とイガラシが察しよく応える。
「ミート打法ということは、力いっぱいのスイングじゃない。それだけ井口の球威で押しきれる確率も高くなるってわけだ」
数人が「おおっ」と声を上げる。
「まだ希望は残ってるつうことか」
丸井の一言に、イガラシは「ええ」とうなずいた。
やがてタイムが解け、墨高ナインが守備位置へと戻っていく。
「バッターラップ」
アンパイアの合図と同時に、谷原の四番佐々木は右打席に入った。フフ……と、口元に笑みを浮かべる。
「なに打ち合わせしたか知らんが、もうそちらに策はないはずだ」
胸の内につぶやき、バットを構える。
「その気になれば、どのコースでも打ち返せる。これができないと谷原のレギュラーはつとまらないからな」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」とコールした。
マウンド上。井口がキャッチャーのサインにうなずき、左手のロージンバックを足もとに放る。そしてワインドアップモーションから、投球動作を始めた。
「……うっ」
初球。速いシュートが、膝元を抉るように飛び込んできた。ズバンとミットが鳴る。
「ボール!」
判定に、思わず吐息をつく。
「な、なんて鋭く曲がるんだ」
バットを短く握り直す。
「苦手コースとはいえ、ウカツに手を出してたら……きっと打ち取られてたな」
おもしろい、とつぶやきが漏れる。
「われわれに歯向かおうってんだ。これぐらいやってくれなきゃ、はり合いがねえよ」
二球目。井口が再びワインドアップモーションから、またもシュートを投じてきた。内角低め、今度はストライクコース。
佐々木は肘を畳み、外へ押し出すようにしてスイングした。
バキッと鈍い音が響く。ボールの威力に、バットの先端がへし折られた。佐々木は「ぐっ」と顔をしかめつつ、一塁へ走り出す。
「センター!」
井口が振り向いて叫ぶ。深めに守っていた島田が、前方へダッシュし飛び付く。しかし打球は、その数メートル手前で弾んだ。センター前ヒット。
カバーにきた丸井が、すぐにボールを拾い投げる構えをした。傍らで、島田が「くそうっ」と右手で芝を叩く。
一方、佐々木もベース上で唇を歪めた。
「ヒットにはなったが、完全な力負けだ。このおれがバットを折られるとは」
だがその時、次打者の村井の動きが目に入る。バッターボックスの白線の手前で、ヘルメットのつばを二度摘まむ。
「……ば、バントエンドラン? 監督からとくに指示は出てないはずだが」
訝しく思いながらも、佐々木は「了解」と合図した。
「うーむ、定位置ならとれてたな」
悔やみつつも、倉橋は手応えを感じていた。
「だが井口のやつ、ほんとうに佐々木を力で負かしてしまうとは。おそれいったぜ」
当の本人は、マウンド上で唇を歪める。よほどヒットにされたことが悔しいらしい。
「切りかえろよ井口。後続バッターをおさえりゃ、問題ねーんだ」
一声掛けると、井口はようやくこちらに向き直る。
「いまのボールなら、そうそう打たれねえよ。この調子でどんどん投げるんだ!」
「は、はいっ」
すぐに次打者の村井が、左打席に入ってくる。
「ノーアウトのランナーだが、ここはふつうに打たせるだろう」
そう判断し、倉橋は初球のサインを出した。
「ちと高めはこわいが、この村井はローボールヒッターだからな。インハイにずばっとこい」
井口はうなずき、セットポジションから一球目を投じてくる。
その瞬間、なんと一塁走者の佐々木がスタートした。さらに村井はバットを寝かせ、ボールを三塁線とマウンドのちょうど中間へ転がす。
「なにっ、バントエンドランだと?」
意表を突かれ、倉橋は小さく叫んだ。すかさず谷口が「ファースト!」と指示。井口は思いのほか素早く、マウンドを駆け下りる。
次の瞬間、倉橋は「あっ」と絶句した。
打球をグラブに収めるかに見えた井口の体が、一瞬ぐらっとしたか思うと、そのままマウンド手前で転倒してしまう。
「くそうっ」
カバーに入った谷口が拾い上げるも、すでに村井は一塁ベースを駆け抜けていた。そしてこの間、ランナー佐々木は一気に三塁を陥れる。
「や、やられた……」
呆然とする倉橋。その時、誰かが「井口!」と叫んだ。ハッとして前を見ると、井口が横向きに倒れたまま、両手で右足首を押さえている。
「た、タイム!」
アンパイアに合図し、倉橋は慌てて駆け寄った。
「どうやら足をつったようですね」
イガラシが冷静に言った。
「初回から全力でとばしてましたから。ここらで限界がくるのも、ムリはないですよ」
集まった内野陣の前で、井口が上半身を起こす。そして傍らの土を、左拳で「チキショウ!」と殴りつける。
「バカやめろっ」
やけになりかける井口を、幼馴染が叱り付けた。
「利き手をケガしちまったら、ほんとうに投げられなくなるぞ」
その言葉に、ようやく力投の一年生はおとなしくなる。
「あの、おれと代わりますか?」
おずおずと一塁手の加藤が尋ねた。
「井口ならバッティングも期待できますし、回復したらまた投げられるかも」
「いや、それはダメだ」
きっぱりと告げたのは、やはりキャプテン谷口である。
「ムリすれば悪化しかねない。それにこの足じゃ、まちがいなく谷原につけこまれる」
そう言って、肩を震わせる男の前に屈み込む。
「井口。よくがんばってくれたな、ありがとう」
「……は、はい」
辛うじて返事した口元から、無念さがこぼれ出る。
「きゃ、キャプテン!」
「おーい、だいじょうぶか井口」
ほどなく久保と控え捕手の根岸、そして半田の三人が駆けてきた。
「半田、応急処置をたのむ。それから医務室へ連れていってくれ」
「分かりました」
半田はバッグから氷袋を取り出し、ソックスを下げた井口の足首に当てる。その両脇を久保と根岸が抱え、ベンチへと下がっていく。
「これはおれの責任だ」
胸の内に、倉橋はつぶやいた。
「あいつが疲れ始めてるのは、とっくに気づいてたのに」
その時ポンと背中を叩かれる。
「自分を責めるな」
まるで思いを見透かしたのように、谷口が穏やかな眼差しで言った。
「井口は必死に戦ってくれた。それを止めることは、だれにもできないさ」
「あ、ああ……」
「彼の無念に報いるために、われわれも死力を尽くそうじゃないか」
む、と正捕手はうなずく。
「……さて。こうなったからには」
少し声を明るくして、谷口はもう一人の一年生に告げる。
「予定どおり、たのむぞイガラシ」
イガラシは帽子のつばを摘まみ、力強く「はい!」と返事した。
3.反撃への序曲
一塁ベース上。村井は腰に両手をやり、渋い表情を浮かべていた。
「ちぇっ。まるで動じてねーな」
そう吐息混じりにつぶやく。視線の先では、リリーフとして指名されたイガラシが、淡々とした顔つきで投球練習を続けている。
「うまくやったな」
ふと横から声を掛けられた。佐々木が三塁ベースを離れ、隣に来ている。
「あのピッチャーが疲れてたこと、気づいてたのか」
うむ、と村井はうなずいた。
「さっき肩を上下させるのが見えたからな。しかもおまえに力を出しきって、限界だろうと踏んだのさ。それで揺さぶってみたんだが……こんなに早くボロを出すとは」
なんだよ、と佐々木が訝しげな目を向ける。
「してやったりのわりに、浮かない顔だな」
村井は「見ろよ」と、前方へ顎をしゃくった。
「急なリリーフだってのに。あのイガラシってボウヤ、ちっとも慌ててねえや」
「む。それにほかのやつらも、みょうに落ち着いてやがるぜ」
周囲では、また内野陣がボール回しを行う。イガラシの登板に伴い、ショートには横井が着く。代わってこちらも一年生だという岡村が、空いたライトに入った。
「ちとシャクだな」
正捕手のつぶやきに、エースも「ああ」と同調する。
「少しはバタつくかと思ったが、意外にスキを見せねえんだ」
「しかしあのボウヤ。ここで出てくるとは、よほど期待されてるんだな」
佐々木が感心したふうに言った。
「さほどスピードがあるようには見えんが。今大会、ほとんど投げてないんだろ」
「む。ただ聞いた話じゃ、何種類も変化球を使い分けるそうだ。おまけに四回戦では、川北の高野から三振を奪ったらしい」
ほう、と佐々木が目を見開く。
「そりゃスゴイ。どうりで、リリーフをまかされるわけだ」
村井は「おいおい」と苦笑いした。
「感心してる場合じゃないぞ。やつらに反撃の芽を与えぬよう、ここはどうあっても突き放さにゃならん」
ほどなくイガラシが投球を終える。ネクストバッターズサークルでは、次打者の岡部がマスコットバットを置く。
「ま、つぎの岡部は今日当たってる。やつがうまくやるさ」
そう言い残し、佐々木は三塁へと戻る。
「……だといいが」
村井は一人つぶやき、試合再開を待った。
マウンド上。イガラシはちらっと、三塁側ベンチに目をやった。
先ほど降板した井口が、右足にテーピングを巻かれ、後列に座っている。どうやら、今しがた医務室から帰ってきたらしい。
「よく見てろよ井口」
足もとにロージンバックを放り、ひそかにつぶやく。
「必ずおまえを、甲子園のマウンドに上げてやる!」
ほどなく次打者の六番岡部が、右打席に入ってきた。
岡部がバットを構えると、すぐにアンパイアが「プレイ!」とコールした。
「まったく墨高も正気かね」
胸の内につぶやく。眼前では、さっきまでショートを守っていたイガラシが、今はマウンド上でキャッチャーとサインを交換している。
「こんな場面で、ほとんど登板経験のない一年生をぶつけてくるとは」
サインにうなずくと同時に、イガラシは胸元にグラブを止めた。そしてセットポジションから、左足を踏み込みグラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
「ぼ、ボール!」
判定に安堵する。思わず「なにっ」と声が漏れた。
「は、速いじゃねえか。あのヤロウ、投球練習では力を抜いてやがったのか。くそっ……なめたマネを」
すかさず「りきむな岡部!」と、一塁走者の村井が声を掛けてくる。
「どんなタマがあるか、よく分かってないんだ。慎重にいかないとやられるぞ」
「う、うむ……」
岡部は一度素振りして、バットを構え直した。するとイガラシも、テンポよく二球目の投球動作へと移る。
アウトコース高めに、ややスピードを落としたボール。それがくくっと逃げていく。岡部はこれを強振した。パシッと快音が響く。
打球はライトポール際を襲う大飛球。内外野のスタンドが、一瞬「おおっ」と湧きかけた。しかしフェンスの数メートル手前でスライスし、ファール。
いまのシュートかよ、と岡部は吐き捨てる。
「さっきの井口に比べりゃ、スピードもキレも大したことないじゃねーか」
続く三球目は、インコース高めにまたもシュート。岡部はこれも強振した。痛烈なライナーが、今度はレフト線を襲う。しかし切れてファール。
「この程度のリリーフをぶつけてこようとは、おれもナメられたものだな」
ところが、三塁走者の佐々木から「バカ!」と檄が飛ぶ。
「二球ともボールだぞ。だれが、なんでも手を出せと言ったよ」
「あっ……す、スマン」
岡部は「そういや追いこまれちまったな」と苦笑いして、バットを短く握り直す。
一方のマウンド上。ポーカーフェイスのイガラシは、しかし胸の内でほくそ笑んでいた。なるほどね……と、ひそかにつぶやく。
「高めが得意ということだが。いまの打ち方からして、どうやらアウトコースの方が好きらしいぞ」
三塁側ベンチ。戦況を見守る井口は、フフ……と笑い声をこぼす。
「な、なにがおかしいんだよ」
傍らの控え捕手根岸が、訝しげな目を向けてくる。
「二球とも、あわやホームランの当たりだったのに」
「なに。あれは、イガラシがよくやるテさ」
さも可笑しそうに、井口は答えた。
「昔からあの高めのシュートを、知らない相手によく使ってたんだ。なんでもバッターのクセが分かると言ってな」
なにっ、と根岸は目を見開く。
「じゃあ今の二球は、たんにさぐりを入れただけかよ」
「そーいうこと」
井口はおどける口調になる。
「あの様子じゃ、バッターは気づいてねえな。こりゃイガラシの勝ちだ」
マウンド上。イガラシは一旦プレートから足を外し、三塁へゆっくりと牽制球を放る。
「もはや、じらすしかテはないようだな」
フフ……と、岡部は含み笑いを漏らす。
返球を受けたイガラシは、再びセットポジションに着く。しかしまたもプレートを外し、今度は一塁へ牽制球。
いやにのんびりとした動作だ。岡部はさすがに苛立つ。
「ちぇっ、かわいげのないヤローだぜ。その余裕を泣きヅラにしてやる」
イガラシは一塁手加藤の返球を受け、またもセットポジションに着く。ボールを長く持ち、ようやく投球動作を始めた。グラブを突き出し、右手の指先からボールを放つ。
「……うっ」
肩口付近に投じられる。岡部は思わず、身をよじった。
そのまま当たるかと思いきや、ボールは視界から掻き消えた。直後、キャッチャーミットが小気味よい音を鳴らす。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコール。岡部は、ただ呆然とするほかなかった。
「う、ウソだろ……」
一塁側ベンチ。監督は「うーむ」と、険しい表情になる。
「な、なんだ今のカーブは」
傍らで、マネージャーが驚嘆の声を発した。
「あの落差で、インコース低めいっぱいに決めてくるなんて」
ちょうど引き上げてきた岡部が「そうなんだよ」と同調する。
「まんまとしてやられたぜ。あんなカーブ、甲子園でもお目にかかったことねえ」
マズイな……と、監督は胸の内につぶやく。
「可能性を秘めたチームだと思ってたが、ここまで成長スピードが速いとは。もはや都内のダークホースにはとどまらないだろう」
ガシャン、と音がした。打球がバックネットに当たったらしい。
グラウンド上では、七番打者の細見が左打席に立っていた。初球から打ちにいったが、速球に振り遅れている。
「こら細見。きさま自分の役目、分かってんのか!」
ベンチ前列より、坂元が檄を飛ばす。
「ランナーを返すことが先決だろう。大振りしやがって」
細見は「うむ」と返事して、バットを短く握り直す。しかし表情が苦しげだ。
二球目。打者を嘲笑うかのように、イガラシは膝元に落ちるシュートを投じる。細見は辛うじて、バットの先端に当てた。一塁側ベンチ方向に鈍く転がり、ファールとなる。
「ここで突き放さなければ、流れを持っていかれる」
監督は決断し、細見へサインを出した。打者は無言でうなずく。
「たのむぞ細見。せめて、バットに当ててくれ」
ツーストライクからの三球目。イガラシが投球動作を始めると同時に、細見はバットを寝かせた。さらに三塁走者の佐々木がスタートを切る。スリーバント・スクイズ。
直後、監督は「しまった」と唇を歪めた。
スピードを殺したボールが、打者の手元ですうっと沈む。予想外の軌道に、細見はバントを空振りした。必然的に、三塁走者は大きく飛び出してしまう。
ショートバウンドを捕球した倉橋は、すかさず細見の背中にタッチする。
「くそっ!」
佐々木は慌てて引き返す。だがすでに、三塁手谷口がベースカバーに入っていた。
倉橋が「へいっ」と送球し、三本間に挟む。そしてじっくりと追い込み、最後は谷口が佐々木の腰にタッチした。
三振ゲッツー、スリーアウト。
「よく一点でしのいだぞ」
「イガラシ、ナイスリリーフ!」
三塁側スタンドから、ピンチを切り抜けた安堵と称賛の声が湧き起こる。対照的に、一塁側スタンドからは「ああ……」と落胆の声が漏れた。
ベンチ隅で、監督は小さくかぶりを振った。そして立ち上がると、すでにレギュラー陣が集合している。
「す、スミマセン」
スクイズを失敗した細見が、気まずそうに頭を下げた。
「……いや。ワシの方こそ、策が強引すぎたようだ。すまなかった」
素直に非を認める。谷原ナインは戸惑ったふうに、互いの顔を見合わせた。
「さ、すんだことは仕方がない」
気持ちを切り替えさせるように、監督は穏やかな口調で言った。
「こうなったら墨谷とガマン比べだ。おまえ達、根負けするんじゃないぞ」
指揮官の激励に、ナイン達は「はいっ」と快活に応えた。
つづく五回裏――
ピンチをしのいだ勢いのまま、反撃に出たい墨高だったが、そのまえに谷原のエース村井が立ちはだかる。
ガキッと鈍い音がした。凡フライが、三塁側ファールグラウンドに上がる。
「オーライ」
三塁手岡部が周囲に声を掛け、顔の前で難なく捕球した。打ち取られた岡村は「くそっ」と顔を歪ませる。
「うーん。岡村君も代わったばかりで、よくねばったけど」
三塁側ベンチ。半田がスコアブックに記入しつつ、独り言をつぶやいた。
「たしかまだ、ノーヒットですよね」
ふと横から声を掛けられた。顔を上げると、一年生の片瀬が立っていた。
「あ、片瀬君。ピッチングはもういいのかい?」
「ええ。根岸君に付き合ってもらって、いつでも行けますよ」
端正な顔立ちの少年は、微笑んで尋ね返す。
「それで……攻りゃくの手がかり、見つかりそうですか?」
「うん。それが、さっぱり」
半田は苦笑いした。
「なにせどれも、すごいタマばっかりで。さすが谷原のエースだよ」
「いい当たりも出てるんですけどね」
やや渋い顔になり、片瀬はグラウンド上を見やる。視線の先で、八番打者の加藤が左打席へと入っていく。
そうなんだよ、と半田は応えた。
「とくに四回の、谷口さんと島田君はおしかったなあ。カーブをうまくとらえたのに」
「ええ……おっと」
その時、ふいに周囲がざわめく。
「デッドボール! テイクワンベース」
アンパイアがそう告げて、一塁方向を指差した。村井のカーブがすっぽ抜け、加藤の脇腹付近に当たったのだ。
「か、加藤。だいじょうぶか?」
ベンチを出て、キャプテン谷口が一声掛ける。
「ええ、だいじょうぶです」
幸い当人は痛がる素振りもなく、足早に一塁へと向かう。その様子に、ナイン達はひとまず安堵した。
「そういえば二回にも、同じことがありましたね」
片瀬の言葉に、半田は「む」とうなずく。
「あの時もカーブがすっぽ抜けて……れ、またカーブ?」
この時、脳裏にひらめくものがあった。半田は「そうかっ」と勢いよく立ち上がる。
「……き、急にどうしたんだよ半田」
つい大声を出してしまい、近くに座っていた倉橋が耳を押さえた。
「あっ、ごめんなさい」
しかし倉橋は、すぐに「もしや半田」と真剣な眼差しになる。
「なにか気づいたのか?」
「え、ええ。まだ確信はありませんが」
コン、と音がする。九番戸室のバントが、三塁線にゆっくりと転がった。加藤のスタートも良く、捕球した三塁手岡部はすぐに二塁を諦め、一塁へ送球。
送りバント成功。ツーアウトながら、得点圏にランナーを置く。
「ランナー二塁か。ここでイガラシと、勝負してくれりゃいいが」
前列のベンチ中央にて、谷口は険しい表情を浮かべていた。
グラウンド上では、一番イガラシが右打席へと入っていく。それと同時に、キャッチャー佐々木が立ち上がる。
「くそっ、やはり歩かされるか」
キャプテンは唇を噛む。
「ここまでイガラシを警戒してくるとは。彼がバットを振らせてもらえないとなれば、ちょっと打つ手がないぞ」
その時「キャプテン」と、半田が声を掛けてきた。
「どうした?」
「気づいたことがあるんです。じつは……」
伝えられた内容に、谷口はハッとする。
「……なるほどカーブか。言われてみれば」
すかさずダッグアウトを出て、アンパイアに「タイム!」と合図した。そして打席へ向かいかけていた次打者を、谷口は呼び戻す。
「丸井、ちょっと来るんだ」
はぁ……と丸井は戸惑いつつも、こちらに駆けてきた。
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