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<外伝>
第55話 運命の一振り!の巻
1.井口の意地
四回裏。スコアボートの枠に「1」と記され、得点表示が「1-2」と変えられた。
「よく打った佐野!」
「エース自らの一発だ。こりゃ勢いつくぜ」
「ツーアウトだが、後続は当たってる四、五番だ。まだまだ点は取れるぞ!!」
沸き上がる三塁側スタンドの東実応援団。対照的に、同点直後の一発で静まり返る一塁側スタンドとベンチ。双方の光景を見比べながら、墨高ナインはマウンドに集まっていた。
「な、なにいっ」
素っ頓狂な声を上げたのは、丸井だった。
「佐野が内角低めを苦手なのは、やつがバラ撒いたニセ情報だとお!?」
「シー、シー。丸井さん、声が大きいですよ」
イガラシがそう言って、先輩をたしなめる。
「ぼくだって確証があるわけじゃありません。でも……さっきやつが、ちょうど二塁近くをとおる時、ぼくと目が合ってニヤリとしやがったので。ひょっとして、と」
「いやイガラシ。おまえの推測は、正しいと思うぞ」
傍らで、キャプテン谷口が苦い顔で言った。
「うちが各校の情報を集めて、それで以って相手を上回り勝ってきたことは、東実でなくてもよく知られたことだ。墨谷を打倒することに執念を燃やす東実と佐野が、われわれのやり方を逆手に取ろうとするのは、なんの不思議もないさ」
谷口の言葉に、しばしナイン達は黙り込む。
「まあ、すでにツーアウトなんだ」
気まずい雰囲気を取りなすように、正捕手倉橋が言った。
「クリーンアップが続くが……あとアウト一つを取って、つぎの攻撃につなげよう」
その言葉に、墨高ナインは「オウッ」と力強く応える。
―― しかし、かけ声で流れを変えられるほど、今の東実は甘くなかった。
パシッ。快音を残して、低いライナー性の打球がセンター久保の前に落ちる。四番村野、センター前ヒット。
「くそっ……苦手コースを突いたはずだが。松川のやつ、タマが浮き始めてやがる」
続く五番中井。投げ急ごうとする松川を、倉橋は「ロージンだ」と声を掛け制する。すでに疲労困憊の彼は、肩を大きく上下させていた。それでも今度こそ投げようとする二年生投手に、今度は「けん制だ」と指示する。
クク……と、傍らで笑い声が聴こえた。五番打者の中井である。
「休ませてやりたいのも分かりますが、ちと露骨すぎやしませんか?」
なんとでも言え、と倉橋は無視する。
数分の後、ようやく倉橋はホームベース奥に屈み込む。そして「ココよ」と、中井の苦手コースである外角低めを指示した。
「データでは苦手らしいが、果たしてそれで通用するか」
不安に思いながらも、倉橋はミットを構える。その眼前で、松川はセットポジションから、投球動作へと移る。
「……うっ」
倉橋の懸念通り、またもボールが高めに浮く。中井はこれを逃さない。
パシッ。速いゴロが、飛び付いたファースト岡村のミットの先を破る。打球はそのまま地を這うように、白線に添うようにして転がっていく。ライト線、長打コース。
「や、やられた……」
さしもの倉橋も、一点を覚悟した。その時である。
「丸井さん!」
ライトポール際で大声を発したのは、井口だった。クッションボールを掬い上げる。
「もっと、もっと前へ!!」
「お、おう」
後輩の指示に従い、丸井はいつもの中継地点より数歩前へ出た。
「させるか!」
井口は助走を付けると、まるで弾丸のような送球を丸井へ投じる。
「ひゃっ」
丸井はこれを辛うじて捕球した。そして振り向いた視線の先では、すでにランナーの村野が三塁ベースを蹴っている。
「倉橋さん!」
流れるような動作で、丸井はバックホームした。矢のような送球。これをミットに収めた倉橋と滑り込んだ村野は、本塁上のクロスプレーとなる。
ベースをはらおうとする村野の左手に、倉橋のミットがかぶさってくる。
「……あ、アウトォ!!」
アンパイアのコールに、歓声と溜息の入り混じった音が、しばし球場内を包み込んだ。
「ハハ、さすがの強肩だぜ」
丸井がまだ痺れる左手をひらひらさせ、振り返る。
「ナイスライトよって……お、おい。井口!」
しかしその目に飛び込んできたのは、井口が右足首を押さえうずくまる姿だった。
「う……くそっ」
傷めたことが悔しいのか、井口は近くの土を右手で殴りつける。
「おまえ。まさか、きのうのピッチングで、つったところが……」
駆け寄った丸井に、井口は一旦「へ、平気ですよ」と強がるが、すぐに「うぐっ」と顔を歪める。すぐに三塁塁審が担架を要請し、井口はそれに載せられ、係員の手により医務室へと運ばれていった。
「井口のやつ、傷めた軸足をかばいもしねえで。ムチャしやがって」
後輩の無念さに同調し、丸井は唇を結ぶ。その時「丸井さん」と、どこからか呼ばれた。顔を向けると、傍らにイガラシが険しい表情で立っている。
「まずベンチに戻りましょう。話はそれからです」
「オ、オウ……」
二人は揃って、一塁側ベンチへと駆け出した。
やがてベンチ奥のドアが開き、白いポロシャツ姿の係員が入ってくる。
「墨谷高校のキャプテンはいるかね?」
「は、ハイ!」
谷口は強く返事して、小走りに係員のもとへ向かう。だがほどなくして、険しい表情で戻ってきた。キャプテンの表情に、誰もが井口の状態を悟る。
「井口は今日、試合には戻れない」
誰も「どうしてです?」と尋ねる者はいない。
「骨に異常はないようだが……右足首のねん挫で、これから病院へ運ばれるそうだ」
井口負傷という事態に、谷口も内心「参ったな」とつぶやく。
「バッティングで力を出し始めていたし。なによりイガラシに何かあった時、リリーフで投げてもらおうと思ってたんだが」
その時だった。傍らで「キャプテン!」と、声を掛けられる。
「外野には、ぼくが入ります」
島田だった。強く結ばれた唇が、その決意の強さを表している。そうだった……と、谷口は胸の内につぶやいた。
「チームが苦境に立たされた今こそ、自分の役目を果たさなければ」
そして、相手の方を振り向く。
「体調はもう、平気なのか?」
「ええ、おかげさまで。打撃も守備も問題ありません!」
「ようし。分かった、たのんだぞ」
「ハイ!」
また谷口は、もう一人の名前を呼んだ。
「横井」
「お、おうっ」
「六回からレフトに入ってくれ。センターは島田、ライトは久保だ」
そう言って、もう一度「横井」と声を掛ける。
「さっきベンチでみんなを盛り立ててくれたように、外野でも他のメンバーを励ましてくれ。おまえのリーダーシップに期待してる」
さらにキャプテンは、もう一人の人物に声を掛ける。
「戸室」
「な、なんだよ」
ふいに呼ばれた同級生は、少し戸惑った顔をした。
「この厳しい状況で、よく外野を盛り立ててくれたな。礼を言わせてくれ」
「なに言ってんだよ」
苦笑いして、戸室は応える。
「試合はまだ途中なんだぞ。礼を言うなら、勝ってからにしてくれや。それに……いぜんも言ったろう、おれのことは気にするなと」
さっぱりとした返答に、谷口は「ありがとう」と応える。
「ほれ谷口」
今度はダッグアウトの隅より、倉橋が声を掛けてきた。
「相手投手の代わりっぱなだし……いつものやつ、たのむよ」
「あ、うむ」
すぐにベンチ内の墨高ナイン全員が、キャプテン谷口を取り囲む。
「……さあ。向こうは、いよいよエースのお出ましだ」
輪の中心で、谷口は声を張って言った。
「はっきり言って、そうカンタンに打てる投手ではない。だからといって、必要以上に恐れることもない。さっき向こうがやったように、こっちもできるだけ粘って、球数を放らせるんだ。そうすればクセや、ねらいダマも見えてくる」
いいか、と谷口は付け加えた。
「強豪(きょうごう)との連戦。そして主力メンバーの離脱と、厳しい戦いを強いられてきたが、それでもわれわれは崩れることなく、競った試合を演じてるんだ。こっちが粘れば粘るほど、向こうは焦れてくる。そしてスキが生じる。このスキに付け込むんだ!」
キャプテンの力強い掛け声に、ナイン達は「オウ!」と応えた。
五回表。試合の流れを相手に渡さんとするのか、東実のエース佐野が早くもマウンドに上がる。それに少し遅れて、他のナイン達がポジションへと向かう。
ほどなく佐野が、規定の投球練習を始めた。一球、二球、三球……と、力の抜いた直球を投げ込んでいく。
「あの力加減で投げてくれたら、ラクなんだがな」
この回先頭の久保が、冗談めかして言った。
「ハハ。おれも同感だが、そういうわけにはいくまい」
傍らで、次打者のイガラシも笑って応える。
「なにせおまえは、前の試合で谷原の村井からサヨナラホームランを放った、要注意バッターだからな」
「よせやい。ここまで全試合敬遠のおまえに比べりゃ、どうってことないさ」
照れた口調で、久保は言った。
「やはりこの試合は、全部歩かされるんじゃないか」
「……いや、それは分からんぞ」
ふいにイガラシが、生真面目な表情で答える。
「ここまでおれを敬遠してたのは、その方が零点におさえる確率が高かったからだ。しかし、今後もそうとは限るまい。先にランナーが出ていたりしたら、おれにまで出塁を許すと、かえって失点の危険が増すからな」
「なるほど。ただどっちみち、おれも含め前の打者が出塁しないことには、おまえがバットを振ることはできないだろうか」
「うーむ、それもどうだろう」
渋い顔で、イガラシは言った。
「この試合、おれは少なくとも、この回を除いてもう一打席回ってくる。その時、どういう状況になっているか分からないからな」
久保は「なるほど」とうなずく。
「つまりこの回辺り、おまえがどういうバッティングをするか見きわめるため、あえて勝負を仕かけてくるかもしれないってことか」
「ああ。ランナーが得点圏にいないかぎり、長打じゃないと点は入らないからな」
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ!」と声を掛ける。
「イガラシ」
久保が呼んだ。
「どうにかチャンスを作ってみる。だからこのつぎ、しっかりそなえておいてくれ」
「む。アテにしてるぞ、久保」
二人の一年生は、力強く言葉を交わした。
マウンド上。佐野はロージンバックを拾い上げ、左手を馴染ませながら、墨高の先頭打者を待っていた。
「フン、なにやら話していたようだが。ちょっと打ち合わせした程度で、おれのタマは打てないぜ」
やがて九番の久保が、右打席に入ってくる。
「ほう。こいつはたしか、きのう谷原の村井から、ホームランを打ったやつだな」
ロージンバックを放り、右足でプレートを踏む。
「少しは楽しませてもらえそうだぜ」
初球。佐野は外角低めに、シュートを投じた。ホームベース手前まで速球と同じ軌道だが、そこから急速に右へ切れていく。久保のバットが回る。
パシッ。ライナー性の打球が、ライト線を襲う。
「なにいっ」
しかし打球は、僅かに白線の外側に落ちた。
「ファール、ファール!」
塁審のコールに、佐野はフウと安堵の吐息をつく。一方、久保は「くそっ」と声を上げつつ、打席に戻ってくる。
「こいつ、ヤマをはりやがったな」
佐野は胸の内につぶやいた。
「しかしいい目をしてやがるぜ。いくらヤマをはってても、あのシュートの軌道を追えなけりゃ、打ち返すことができねえからな」
それなら、とバッテリーは次のサインを交換する。
二球目。インコース高めに、快速球が飛び込んできた。久保はチップさせたものの、ボールはそのまま村野のミットに吸い込まれる。
「く……なんて威力のボールなんだ」
久保の額から、汗が流れる。一方、正捕手の村野も「やれやれ」とひそかにつぶやく。
「あのコースをチップさせるとは。さすが墨谷二中の元三番だな」
そして三球目。佐野は再びワインドアップモーションから、今度はチェンジアップを真ん中に投じた。
「……なっ」
ガキッ。鈍い音がして、久保は泳がされる。打球はピッチャー佐野の頭上へ。
「オーライ!」
佐野は難なく捕球する。ワンアウト、ランナーなし。
「や、やられた……」
青ざめた顔で、久保はベンチへと引き上げていく。
「さすがの久保も、初打席ではちと厳しかったか」
ネクストバッターズサークル。イガラシは足下にマスコットバットを放り、小走りに右打席へと入る。そしてバットを短めに握った。
初球。佐野は、内角高めに速球を投じた。コースいっぱいに決まりワンストライク。
「へえ、うれしいね」
イガラシは、口元に笑みを浮かべる。
「ランナーなしの状況とはいえ、勝負してくれるとは」
一方のマウンド上。佐野も、不敵な笑みを浮かべる。
「うれしそうだな。だが、このおれのタマを打ち返せないと、まだ敬遠の方がよかったと悔やむハメになるぜ」
続く二球目。佐野は初球と同じく、内角高めの速球。イガラシのバットが回る。カキと音がして、打球はバックネットにぶち当たる。
「いかん、振り遅れてる」
イガラシは顔を引きつらせた。
「マズイな。これで、ツーナッシングか」
三球目。今度は外角低めに、大きなカーブが投じられる。イガラシはこれに手を出さず。僅かに外れ、ワンボール・ツーストライク。
「フフ、さすがの選球眼だ」
佐野はどこか楽しげにつぶやいた。
そして四球目。佐野はまたもワインドアップモーションから、ボールを真ん中付近へ投じる。ホームベース手前まで速球と同じ軌道だったが、そこからストンと落ちた。
「ふぉ、フォーク!?」
イガラシは一瞬面食らったものの、バットが反応する。やや体勢を崩しかけたものの、ボールを掬い上げるようにピッチャーの足下へ打ち返した。
「な、なにっ」
佐野は目を見開き、打球の行方を目で追った。ボールはワンバウンドして二塁ベース上を越え、センター山井のグラブに収まる。
「おいおい。この大会で、初めて投げたボールだぞ」
呆れ顔で、佐野は一塁ベース上のイガラシを睨む。
「こいつで威嚇(いかく)してやろうと思ったのに。まさか、ヒットにされちまうとは」
一方、当のイガラシも険しい表情を崩さない。
「く……まさか、フォークまであるとは。うちの打線、ただでさえ多彩な球種と緩急に苦しめられているというのに。どうやって攻りゃくすればいいんだ」
―― この後、墨高は二番丸井、三番倉橋とも粘るが、佐野の力の前に最後はねじ伏せられ、凡退。チャンスを広げることはできなかった。
2.流れを変えろ!
「やはり、そうカンタンには打てないか」
ベンチに引き上げながら、キャプテン谷口は小さく溜息をつく。
「このままじゃ、佐野の存在が完全にゲームを支配してしまう。そうなれば、たとえ一点差であっても、ひっくり返すのは難しい。これを防ぐには……」
視線の先では、一人の男がグラブを拾い上げたところだった。谷口は束の間思案した後、その男に声を掛ける。
「イガラシ、マウンドへ行け。ピッチャー交代だ!」
小柄な一年生は、何もかも分かっていたかのように、落ちついて「はい」と返事した。
「キャプテン、どういうことですか」
マウンド上。松川が珍しく、谷口に食い下がった。
「予定じゃ、おれが五回まで投げて、イガラシは六回からのリリーフだったはずじゃありませんか。おれが信頼できないって言うんですか!?」
「ちがう、そうじゃない」
谷口は、後輩を必死になだめた。
「東実は、佐野がリリーフ登板したことで、完全に勢いに乗っている。その勢いを止めるためには、ただ一人佐野からヒットを放っている、イガラシを投打の柱に据えるしかないんだ」
「そ、それは分かってますが……」
「いい加減にしないか!」
厳しい口調で、正捕手の倉橋が言った。
「松川、ほんとは分かってるだろう。おまえはもう、東実打線に捉えられている。さっきの回だって、佐野のホームランは仕方ないにしても、村野と中井に連打を浴びて、あわや三点目を失うところだった。二球とも、ボールが高く浮いたところをねらわれたんだぞ」
同じ中学の先輩の歯に衣着せぬ言葉に、しばし松川は黙り込む。
「……松川さん」
今度はイガラシが、穏やかな口調で言った。
「まさか今日で終わりだと、思ってるんじゃないでしょうね」
えっ、と松川は意外そうな声を発した。
「知ってのとおり、この試合勝てば甲子園です。全国の強豪が相手ともなれば、松川さんの力が必要なんですよ。こんなところでつぶれてもらっちゃ、困るんです」
ですから、とイガラシはさらに付け加える。
「右手の指先のマメ、今度こそ治してきてください。でないと全国の強豪には通用しません。それに……松川さんのほんらいのピッチング、こんなものじゃないでしょう」
そう言って、後輩は微笑む。
「……わ、分かったよ」
ようやく納得したのか、松川は踵を返す。
この投手交代に伴い、墨高は大きくシートを変えることとなった。ショートのイガラシがピッチャーに入り、空いたショートには横井が着く。そしてレフトには、降板したばかりの松川が入った。
「松川さん」
二年生投手の背中に、イガラシはもう一度呼びかける。
「な、なんだよ?」
「念のため根岸あたりと、キャッチボールをしておいてください。万が一ですが、この試合また登板の機会があるかもしれません」
松川は一瞬戸惑った顔をしたが、それでも「ああ」と返事した。
「なんだよイガラシ」
からかように、丸井が言った。
「残り五イニング、投げきる自信がないのか」
「丸井さん。この試合は残り五イニングじゃ、すまないかもしれませんよ」
思わぬ返答に、丸井は「えっ」と目を丸くする。
「佐野があれだけのピッチングを見せているんです。しかもやつらは、ぼくらの弱点を調べつくしている。もう一点取るのが、やっとかも」
イガラシの珍しく弱気な発言に、丸井は思わず口をつぐむ。
「なんでえ。ずいぶん細っこいのが、リリーフかよ」
ほどなく右打席に入ってきた大柄な中尾は、そう言い捨てる。
「ま、いいや。さあこい!」
言葉とは裏腹に、中尾はバントの構えをした。そういうことね……と、イガラシは胸の内につぶやく。
「ピッチャーが代わったもんで、またバントの構えから、キャプテンと岡村を走らせてつぶそうって戦法か。だが……そうは、いかんぞ!!」
すぐにワインドアップモーションから、イガラシは第一球を投じる。右肩付近へ投じられたボールに、中尾は一瞬「わっ」と身を屈める。
「こんにゃろ。ストライクぐらい、ちゃんと……」
「ストライーク!」
アンパイアのコールに、中尾は呆然とした。
「おい、このバカ!」
一塁側ベンチより、佐野が中尾を叱咤する。
「さ、佐野さん……」
「ボールの軌道くらい、最後まで見ねえか! これだけパワーあるのに、だからてめえは六番止まりなんだよ!!」
かなり厳しい言葉を浴びせられたが、中尾は「は、はい……」と素直に返事する。
二球目。イガラシは再び、同じコースにカーブを投じた。右肩に投じられたかに見えたボールは、鋭く変化して内角低めいっぱいに決まる。
「ストライク、ツー!」
中尾は青ざめた顔になる。
「……な、なんてカーブだよ」
そして三球目。今度は真ん中にボールが投じられた。しかしスピードを殺され、思わず中尾の体は泳ぐ。どうにかカットしようとするも、さらに沈む。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールに、中尾はガクッと肩を落とす。
「あれがイガラシの新球、チェンジアップか」
打者とは対照的に、佐野は冷静に言った。
「イガラシのやつ。速球の威力も、変化球のキレもすべてレベルアップしてるが……やはりあのチェンジアップが、一番厄介だぞ。あれを決めダマとして使われないようにしねえと」
ただカンタンじゃないだろうな、と佐野はひそかにつぶやく。
―― 佐野の予感は当たった。イガラシの変幻自在の投球の前に、この後七番山井、八番鶴川も前に飛ばすことすらできず、連続三振に倒れたのである。
3.母の思い
一塁側スタンド。墨高野球部OBの田所は、揃って観戦する谷口の両親を発見した。
「ハハ。谷口の父ちゃん母ちゃんも、ラジオだけで居ても立ってもいられなくなって、球場にやってきたわけか」
声を掛けようとしたが、一瞬ためらう。
「うーむ。もう少し谷口が活やくしていたら、話しかけやすいんだが。今日はちと、あまりさえないからな」
田所の存在を、夫妻は気付いていない。大工の鳶姿で来ている父親は、カップに日本酒をなみなみと注ぎ、ガッと一気飲みする。
「むう……いい試合っちゃあいい試合なんだが、どうもピリッとしねえなあ。なにせタカが、今日はチャンスでことごとくブレーキになってるしよ」
その背後から、母親がいきなりガツンと拳骨を喰らわせる。
「テッ。おめえ、いきなりなにしやがるんでえ!」
「なにしやがる、じゃないよ。こんな人前で堂々と酒をかっ喰らって。あたしゃ、恥ずかしいったらならないよ」
「へん。おまえは野球のことが分かんねえから、そんなのんきな態度でいられるんだ。タカ達の墨高、いま劣勢に立たされてるんだぞ」
「ああ、分からないさ!!」
母親がふいに、大声を発した。父親は両耳を指でふさぎ、周囲は静まり返る。
「アンタの言うとおり、あたしゃ野球はよく知らないよ。けど……タカが思うようにプレーできてないってことくらいは、分かるさ。母親を見くびるんじゃないよ!」
すっかり萎れた父親は、苦笑いしつつ「へ、へえ……」と妙な返事をする。
「それにね、アンタ」
やや声のトーンを落とし、母親は話を続けた。
「たしかにタカは、思うようにプレーできてない。きっと調子が悪いのか、どこかケガでもしてるんだろうさ。けど……おまえさん、分からないのかい?」
「な、なにがだよ」
「あの子……タカ、がんばってるじゃないかい。調子は悪くても、一生懸命声を出して、味方を励まして。できることを精一杯やっている息子を、どうして認めてやらないんだい!」
「……お、おまえ」
父親は感心げに、目を丸くする。
「フフ……」
二人の様子に、田所は笑い声をこぼした。そして踵を返す。
「あれじゃ、どうにも話しかける余地はねえな。あいさつは試合後だ。そん時、できれば甲子園出場を決めた後なら、言うことはカンタンなんだが……」
そうつぶやき、田所は頭上の曇天を見つめた。雨粒は少しずつ、しかし確実に強さを増してきている。
「連中のプレーもそうだが……この雨が、試合にどう影響するかだな」
その時、前方の席より「田所さーん!」と呼ばれた。同じ野球部OBの後輩、中山である。
「なにやってたんスか。もう後半の六回、始まっちゃいますよ!」
「ああ、スマンスマン。いま行く」
田所はそう返事して、スタンドの階段を駆け下りた。
―― やがて始まった六回。ここから試合は、完全に投手戦へと突入した。
佐野は快速球と多彩な変化球を武器に、墨高打線をほんろう。雨の影響でテキサスヒットは二本許したものの、それ以外は六、七、八回とほぼ完ぺきな投球を見せつける。
一方、墨高のイガラシも負けていない。こちらは六、七、八回とヒットすら許さない、圧巻の投球を披露した。
そして試合は、あっという間に九回の攻防へと突入することとなった。
九回表。墨高の攻撃は、昨日の準決勝で谷原のエース村井からサヨナラホームランを放った、九番打者の久保からである。
4.運命の突風
「久保、いつものバッティングを忘れるなよ」
ネクストバッターズサークルより、イガラシが声を掛けてくる。
「今日のおまえは、ちゃんと振れてる。ねらいダマをしぼって、ボール球をよく見ていけば、佐野といえども必ず打てるはずだ」
「おう、まかせとけって!」
いつになく力強い返答を残し、久保は打席へと向かう。
マウンド上では、佐野がいつものようにロージンバックを左手にパタパタと馴染ませていた。しかし久保の姿を見るなり、足下へ放り捨てる。
おや、と久保は思った。
「この雨と蒸し暑さもあるのか。佐野のやつ、勝ち急いでるんじゃないか」
一球目。佐野の投じた速球が、外角低めいっぱいに決まる。しかし久保は、むしろ余裕を滲ませた表情である。
「今のボール。たしかに球速はあったが……いつものうなりを上げるような、佐野ほんらいのボールじゃない。ねらえば打てるぞ!」
その傍らで、キャッチャー村野が「く……」と唇を噛んだ。
「こいつ。やはり村井から一発を放っただけあって、ただの九番じゃない。佐野が本調子でないことに、気づいてやがる」
その佐野は、マウンド上でやたらと足下の土をガッガッガッと蹴り続けていた。
「佐野のやつ。この雨で、足下の土のぬかるみが気になるのか。さっきから変化球でごまかしているが、この九番にもそれで通用するか」
二球目。東実バッテリーは、外角低めのカーブを選択した。だが久保は悠然と見送る。
「ボール二個分はずれてたぞ。やはり佐野、どこかおかしい」
続く三球目。村野は「内角にシュートだ」と、佐野へサインを出す。マウンド上の投手はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
「……うっ」
次の瞬間、村野が「あっ」と声上げた。雨でボールが滑ったのか、佐野の投球はワンバウンドしてホームベース左をすり抜ける。
「さ、佐野!」
村野は慌てて、マウンドに駆け寄る。
「おまえ平気かよ」
「な、なーに。ちと雨ですべっただけさ」
エースは苦笑いして、左手で上空を指差す。
「しかし悪いタイミングで、強く降り出したな。まったくツイてない……」
「佐野!」
ふいに村野が、声を荒げる。
「こんな時に、エースが弱気になってどうすんだ!」
「ばーか。カンちがいすんな」
佐野は呆れ顔で答えた。
「おまえこそ冷静になれ。ツイてないのは、たしかだろうか。そのツイてない状況で最善をつくるのが、いまのおれ達の仕事だろう」
「……そ、そうだったな。スマン」
正捕手は苦笑いして、ポジションへと帰っていく。
「しかし、まいったな」
佐野はうつむき加減になり、ひそかにつぶやいた。
「こうなると……投げられるタマが、一つしかねえ」
プレートに右足を載せると、やはり村野が“そのタマ”のサインを出している。佐野は「しかたねえな」とうなずく。
「ここまで来たら、試してみるか。うちと墨高、どっちが運があるか」
しばし間を置き、佐野は投球動作を始めた。右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕を思い切り振る。外角への速球。
右打席の久保は、ひそかに「きたっ」とつぶやく。そしてコースに逆らわず、バットを放るような感覚でスイングした。
パシッ。鋭いライナーが、右中間を切り裂いていく。
「ライト……いや、センター!」
キャッチャー村野が叫ぶのをよそに、久保は無我夢中で一塁から二塁へと向かい、そして二塁ベースも蹴った。一気に三塁をねらい、頭から滑り込む。
「くそうっ」
中継のセカンド三嶋が三塁へ送球するも、間に合わず。ノーアウト三塁。墨高は、同点に追いつく絶好機を得たのである。
「……フフ、やはり打たれたか」
マウンド上。佐野は苦笑いを浮かべ、三塁ベース上の久保を睨む。
「変化球が指にかからないとなると、あとは真っすぐしかない。考えとしてはまちがっちゃいないだろうが……完全に読まれてしまったな」
その時である。
「佐野、村野。ちょっと来い」
声の主は、東実監督だった。バッテリーはちらっと目を合わせ、すぐに一塁側ベンチへと駆け出す。
佐野と村野が東実監督の前で脱帽した時、すでに墨高応援団の陣取る三塁側スタンドからは、大声援が聞こえてきた。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!
早くも“逆転ムード”ができ上がっている。
「佐野。どうも足場が悪くなっているようだな」
「ええ、スパイクで均すようにはしてるんですけど。すぐに水がたまっちゃって」
「む。もう少し雨が強くなれば、ここらで中断ってこともありうるが」
監督のその言葉を最後に、三人は黙り込む。周囲からは相変わらず墨高応援団の声援や、僅かながら東実への応援の声緒も聞こえてくる。
「踏んばれ佐野。おれ達がついてる」
「一点やっても、このウラ、それに延長もある。臆することはないぞ!!」
「因縁の墨谷を倒して、甲子園へ行くのはおれ達だ!」
やがて、監督が静かに口を開く。
「佐野。つぎはイガラシだが、どうする?」
東実のエースは、即答した。
「勝負します!」
おいおい……と、正捕手村野が苦笑いする。
「さっき初めて投げたフォークを打たれたの、もう忘れたのか。やつは並のバッターじゃねえ。ここは歩かせて、次打者を打ち取った方が」
「村野、聞けよ。墨高の大声援を」
「えっ……」
エースの言葉に、正捕手は黙り込む。
「やつらもう、すっかり逆転ムードだ。イガラシを歩かせたところで、このムードは消えない。いや、むしろその勢いが増して、押し流されることがないとも限らん」
「さ、佐野……」
フッ、と佐野は笑みを浮かべた。
「佐野」
東実監督が、エースの右肩をポンと叩く。
「勝負という言葉を、待っておったよ」
「監督!」
今度は監督が微笑んだ。
「おまえの言うとおりだと思う。あのイガラシを歩かせたところで、やつらの勢いは止まらん。しかしここでイガラシを打ち取れば、一気に流れをうちへ引き戻すことができるぞ」
そう言って、村野にも顔を向ける。
「村野。エースは、すでに覚悟を決めてる。おまえはどうなんだ?」
「……は、ハイ。もちろんです」
正捕手は戸惑いながらも、最後は力強く応えた。
「エースがそのつもりなら、付き合うのがキャッチャーの役目です!」
監督はしばし瞑目し、満足そうにうなずく。
「よし、分かった。行ってこい!」
バッテリーは、声を揃え「ハイ!」と力強く返事した。
「バッターラップ!」
アンパイアのコールを聞き、イガラシは右打席に入る。
ほどなく東実バッテリーが、戻ってきた。エース佐野が、小走りでマウンドに上がる。そして正捕手佐野は、てっきり左バッターボックスを外して、立ち上がったままと思われた。
「なにっ」
ところがイガラシの、そして大方の予想に反し、村野はホームベース奥に座り込む。その瞬間、球場全体から「おおっ」という感嘆の声が轟いた。
「ほほう、いい度胸してるじゃねえか」
イガラシは短めにバットを握り、構える。それでも一瞬、胸の内につぶやく。
「くそっ。これでムードの何割かを、向こうへ持っていかれた」
眼前のマウンド上。佐野がちょうど、ロージンバックを足下に放ったところだった。その間、イガラシは素早く配球を計算する。
「勝負球はさっきのフォークだろう。ストレートとカーブは、おそらくカウントを取りにくる時だ。甘く入ったらねらいたいが……本命は、あくまでもフォーク」
そして佐野は、三塁ランナーを見ることもなく、ワインドアップモーションから第一球を投じてきた。
「……えっ、まさか」
しかしイガラシの予測とは裏腹に、初球は真ん中高めの速球だった。打者は左足を踏み込み、バットを鋭くスイングする。
バシッ。打球は快音を残し、ライト方向へ飛んだ。
「やったあ、犠牲フライには十分だ」
「いや。この勢いだと、スタンドまでいくぞ」
一塁側スタンドより、早くも得点を確信した声が聞かれる。しかしイガラシは、苦い顔でバットを放り、走り出していた。
「しまった。ねらいダマじゃなかったのに、つい手がでちまって……」
それでも東実のライト倉田は、ひたすら背走していく。下がる、まだ下がる。そして倉田の背中が、とうとうフェンスに付いた。
「やった、逆転ホームランだ!!」
気の早い観客の一人が叫ぶ。しかし、その時だった。
突如、球場内を突風が走り抜ける。
「……えっ」
フェンスに背中を付けていた倉田は、打球の向きが変わったことに気付く。まずゆっくりと前進、そしてダッシュした。
「な、なんだと!」
すでに三本間の中間地点まで進んでいた久保は、慌てて帰塁する。そしてイガラシも、二塁ベースを蹴ったところで足を止めた。
「ばっ、バカな。こんなことが……」
やがて倉田が、打球をキャッチする。そしてその反動のまま、バックホームした。
「くそうっ」
久保も三塁ベースからタッチアップする。倉田の返球はワンバウンドしたものの、キャッチャー村野の構えるミットにそのまま吸い込まれた。
「させるか!」
村野はそのままタッチにいく。久保はそのミットをかわそうと、キャッチャーの背後に回り込み、左手を伸ばす。
本塁上のクロスプレー。一瞬の静寂……
「あ、アウト!!」
アンパイアの判定のコールが、静寂に包まれていた神宮球場に大きく響いた。
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