南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<野球小説>白球の“リアル”【第7話】「”魔球”披露!?」の巻 ~ ちばあきお原作『プレイボール』もう一つの続編 ~

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※前話<第6話「盲点」の巻>へのリンクは、こちらです。

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第7話「“魔球”披露!?」の巻

 

 グラウンド奥の簡易スコアボードに、上下段ともに三つずつ「0」が並ぶ

「アイツら何考えてんだ」

 攻守交替となり、墨谷高ナインがグラウンドへと散っていく。すれ違いざま、対戦相手の江戸川実業の一塁手二塁手の会話が漏れ聴こえた。

「何でなかなかバットを振らないんだ、墨高の奴ら」

「いくらなんでも慎重すぎるだろ。練習試合だってのに」

 イガラシは、思わず苦笑いしていた。

 四イニング目のマウンドに上る。ロージンバックを右手の指先に馴染ませながら、さりげないふうを装い相手ベンチを観察した。一様に、困惑げな表情を浮かべている。

「こちとらが、考えることじゃねぇんだけどよ」

 倉橋が、背後から声を掛けてきた。

「相手の先発、ここまでうちを抑えたからって、勘違いしなきゃいいんだけどな」

「どうせ勘違いするなら、いっそ『今年の墨谷はバッティングが慎重になっている』なんて話を喧伝してくれりゃ、うちにとって好都合ですよ」

 スパイクで足元をならし、顔を上げる。

「まぁ、それも杞憂に終わりそうですけどね。“制約”があっても、再三出塁しているじゃないですか。前の回は、クリーンヒットも二本。保ってあと一回……いや、一イニング保たないかも」

「ああ……一年坊にここまで言われて、江戸実の奴らも気の毒にな」

 キャッチャーミットを自分の首筋に当て、倉橋はため息をついた。

「構やしませんよ。昨夏コールド負けしたシード校が、大会まで二ヶ月を切ったこの時期に、ほぼレギュラーメンバーを揃えて練習試合の相手をしてくれてるんですよ。しかも、“期待の新戦力”まで披露して。これ以上ない、大サービスじゃないですか」

「おいおい。余裕なのは、そう悪いこっちゃないがな。おまえは大丈夫なのか」

「何がです?」

「無失点に抑えてはいるが、ここまで四安打されてる。ヒット性の当たりも多い。速球は“制約”を付けたから仕方ないとして、カーブのコントロール。おまえさんにしちゃ、今日はあまり良くない。四回の二本は、高めに入ったカーブを狙われた」

 笑いをこらえながら、努めて淡々と答える。

「さすがに以前はシードされたことのあるチームですね。甘く入った球を打ち返すチカラはあるってことだ」

「妙に他人事だな……っておまえ、まさかワザと」

「しっ。声が大きいですよ」

 自分の口元に、人差し指を立てる仕草をした。

「……注意すべきは、三番だけです。あの打者には、外角低めを突いた速球を二打席ともライトへ打ち返されました。けど……あのチームは、それだけです」

 グラブで口元を隠しながら、イガラシはささやくように言った。

「他の打者は、スピードを抑えて、なおかつ“外角しか投げない”と分かっていても、打ち損じています。だから変化球を狙う“しか”ないんですよ。あの程度の打力じゃあ、シード校クラスには太刀打ちできないでしょうね。倉橋さんもそう思ってたでしょう?」

「あっああ、確かにそうだけどよ」

 倉橋が「はぁ」と、露骨なため息をつく。

「にしても……どこの一年坊が、練習試合とはいて初登板で、相手チームの力量を探るマネするんだよ。もっと自分をアピールすることだけ考えても、別にバチは当たらねぇぞ」

「アピール? アピールって、何のですか」

「いや、だから……試合に出られるように、自分のチカラを」

「僕を使わずに済むほど、うちって投手層厚くないでしょう」

「……おまえ。よくもそんなことを、抜け抜けと」

 怒る気にもなれないらしく、倉橋は苦笑いを浮かべた。

「とにかく……倉橋さん。この試合の目的は、僕が高校では“変化球でかわす投球スタイル”だという情報を、他校に流すことですよ。ほら、見て下さいよ」

 野球部のグラウンドには、左右両翼にそれぞれ金網フェンスが設置されている。そこに、数十人の観客が詰めかけていた。「墨高の野球部は強い」と噂が立ってから、週末はいつもの光景らしい。

 観客達に紛れ込むように、ジャージ姿の影が、ちらほら覗く。中には小さな手帳に、何かメモする者もいた。

「他校の偵察にまで、気付いてたのか。呆れた奴だな」

 言葉とは裏腹に、倉橋は感心した表情で言った。

「まっ僕らも、似たようなことしてますしね……せっかくなので、わざわざ来てくれた彼らに、ちょっとした“手土産”でも渡すことにしますか。倉橋さん」

 右手の親指を除く四本の指を、くいっと捻る。“落とす”というサインだった。

「え……本気かよ」

 さすがに倉橋が、顔色を変える。

「おまえ、他校が偵察に来てると分かってて、わざわざ“あの球”を披露するのか」

「別に秘密兵器ってほどでもないですし。むしろ、この球を必要以上に警戒してくれた方が、こっちはやり易くなるので」

 主審を務める三年生の半田が、相手ベンチに「バッターラップ」と呼び掛けた。倉橋は「おっといけね」と言い残し、ホームベース後方のキャッチャーボックスへと走る。その背中に、イガラシは小さく吐息をつく。

 試合前、あえて「速球を“内角には投げない”」と提案したのは、イガラシだった。倉橋は束の間困惑したが、意図を説明すると納得してくれた。傍らで聞いていた谷口も、「思った通りやってみろ」と承認した。

 いい先輩で良かった……とは、思わない。そういう下世話な話ではない。

 勝ちたいからだ。倉橋さんも谷口さんも「勝ちたいから」こそ、提案に乗ってくれた。度量も面子も、関係ない。勝つために、やれることは何でも試してみたい。その思いにこそ、共鳴してくれたのだ。

 四回表。江戸川実業の攻撃は、九番から始まった。

 カウント、ワンエンドワンからの三球目。イガラシの投じた“甘いカーブ”が、センター前へと弾き返される。

 倉橋がマスクを取り、こちらを軽く睨んだ。「いい加減にしろよ」と言いたいのだろう。イガラシは一瞬にやっとして、軽く頭を下げた。

 打順はトップへと返る。送りバントを許すも、続く二番打者はセカンドゴロに打ち取った。ただ走者はさらに進む。

 二死ながらランナー三塁と、相手にとっては絶好の場面で、この試合二安打を放っている三番打者を迎えた。

 ゆったりとした動作で、左バッターボックスの足元をならし、バットを構える。上背はあるものの、さほどがっしりとした体躯というわけではない。ただその分、しなやかな動きが目を引く。タイプとしては、同学年の久保を思わせる。

 パワーヒッターよりもむしろ、この手の巧打者の方が厄介だ。もう一度ロージンバックを手に、じっくりと間合いを取ってから、第一球を投じる。

 三塁側ファウルグラウンドに、やや鈍い打球が転がった。やはり狙っていたのだろう、外角へ踏み込むと、躊躇なく振り抜かれる。

 だが、これは読み通りだった。狙ってくることを想定し、シュートを投じていた。ミートポイント間際で外へ逃げるように鋭く変化し、打ち損じさせる。バットの先端に当たり手が痺れたらしく、打者は左手を二、三度振った。

 二球目は速球。ただし外角へ、ボール二個分外した。シュートを意識したせいか、中途半端にバットが出てしまい、スイングを取られる。これでツーナッシング。

 三球目。カーブとシンカーのサインを出されたが、いずれも首を横に振った。倉橋が目を丸くしながらも、四つ目のサインを出す。

 今度は、うなずいた。倉橋は「やれやれ」と言いたげな顔で、ミットを構える。

 じっくりと間を取り、投球動作へと移る。速球と同じ腕の振り、ただし指の掛け方と手首の動作だけを変え、ボールの軌道を操る。

 変化球を待っていたらしく、打者はさほど体勢を崩さなかった。十分に力を溜めた状態で、バットを繰り出す。しかし、それさえ嘲笑うかのように、スピードを殺したボールは、打者の手元でさらに沈む。

 ボールが倉橋のミットに収まるのを確認してから、イガラシはマウンドを下り、ベンチへと走った。他のナイン達も、後に続く。

 最初に駆け寄ってきたのは、丸井だった。

「すげぇっ。今の球、なんだよ」

 イガラシが答える前に、この日は島田に代わりライトを守る鈴木が「そうか?」と、とぼけたような声を発する。

「ただのスローボールだろ。今のバッター予測してなくて、つい振っちまったんだろ」

「おまえは外野でぼけっとしてたから、分からなかったんだよ」

 横井が唇を尖らせる。

「丸井も見たろ? 俺もショートの位置から、はっきり見えた。今の三番、全然体勢は崩れてなかったぞ。むしろ変化球、待ってました……みたいに。なのに、捉えられなかった。それどころか、掠りもしなかったんだぞ。なぁ、イガラシ」

 面々の視線が、再びこちらに向けられる。

「……別に、大した球じゃありませんよ」

 わざとぶっきらぼうに、イガラシは答えた。

「去年の選手権で白新中学相手に投げた球を、ちょっと改良しただけです。丸井さんも知っているでしょう?」

「む。ああ、そういやぁ……俺はその試合、見に行けなかったが。後で応援団から聞かされて、実にイガラシらしい狡猾な作戦だと思ったよ」

「……丸井、それ褒めているのか嫌味なのか、分かんねえぞ」

 プロテクターを外しながら、倉橋が吐息混じりに突っ込む。イガラシには嫌味としか思えなかったが、構わず続けた。

「あの時は、スローボール主体の相手投手の攻略法を探すために使ったんですけど(※イガラシは、スローボール打ちに慣れた白新の打法を真似るため、あえて失点覚悟でスローボールを投じた)、これを速球に混ぜて使ったら効果的じゃないかと思って」

「でっでもよぉ」

 まだ興奮が収まらないらしく、丸井は急いた口調で問うてくる。

「さっきの三番、タイミングは完全に合ってたぞ。なのに空振りだ。あんな落差のある球、去年の選手権では投げてなかったじゃねぇか」

「ですから、改良したんですよ」

 イガラシは、ボールを親指と人差し指で挟み、抜くようにして見せた。

「こうすると……打者の手元で沈むんです。ただの遅い球だと思うと、さっきの三番みたいに、空振りしてしまいます。谷口さんのフォークほどスピードはないので、打者の目が慣れると当てられてしまいますけど」

 ふいに、左肩をぽんと叩かれる。

「イガラシ。この“チェンジアップ”は、きっと強力な武器になるぞ」

 谷口がヘルメットを片手に、微笑んでいた。聞き慣れないフレーズに、戸惑う。

「ち、チェンジアップ……ですか?」

「俺も最近知ったよ。級友に、大リーグの記事を取り寄せている奴がいてな。そいつに教えてもらったんだ」

「大リーグって、本場アメリカの……」

 横井が口をあんぐりと開け、吐息混じりに言った。

「ああ。アメリカの野球は、日本では考えられないほど、速球派投手がゴロゴロしているらしい。打者もパワーが違う。そんな環境だと、かえってチェンジアップのような“緩い変化球”が有効なのだそうだ」

「ああ、なるほどっ」

 丸井が掌を打ち、大仰な合点のポーズを取った。

「大リーグの速い球に見慣れている奴らは、遅い球を投げられると驚いて、ずっこけちまうんだ。さっきの三番みたいに」

「まぁ……かなり乱暴だが、そういうことだな」

 谷口は苦笑いして、なお話を続ける。

「ただ丸井、勘違いするなよ。チェンジアップというのはただの遅い球じゃない。打者の手元で沈む、立派な“変化球”なんだ」

「へっ、変化球……なんですか?」 

「む。確かに、そういう軌道だったな」

 相変わらず困惑顔の丸井を尻目に、横井は腕組みしながら大きくうなずく。

「だから向こうの三番、タイミングは合っていたのに空振りしてしまったのか」

「そうさ。それに……チェンジアップがさっき“強力な武器”だと言った理由は、もう一つある。イガラシは、もう分かるよな」

 イガラシは、「もちろんです」と即答した。

「このボール、腕の振り自体は速球と同じなので、それほど肩や肘に負担が掛からないんですよ。カーブやシュートみたいに、投げ過ぎで故障するリスクを負わなくて済むのは、かなり大きいと思います」

 その時、周囲から「おおっ」と歓声が上がった。この回の先頭、二番の島田が、ツーストライク取られた後七球粘り、四球で出塁した。

「……初めて先頭打者が出塁しましたよ、谷口さん」

 丸井が、ささやくように尋ねる。

「次は倉橋さんですけど、送るんですか?」

「いや。そのままだ」

 谷口は、きっぱりと答えた。

「倉橋だから、ではない。この試合先発の者は、最後まで“あの作戦”でいくぞ」

「分かりました……あっでも、俺っち達はいいとして、この後出場する予定の者には、ちょっと辛い条件じゃありませんか。アピールしたいでしょうし」

「ほうっ。さすが丸井らしい、思いやりだな」

 丸井が「はっいえ。そんな」としどろもどろになる。内心可笑しく思いながらも、イガラシは努めて平静に言った。

「谷口さん、そろそろネクスト行かないと」

「……あっそうだな。すまんイガラシ」

 またしても歓声。倉橋が、カウントスリーボール、ツーストライクからの九球目を捉え、ライト前へ弾き返す。速いゴロが一、二塁間を抜けていった。

 傍らで、丸井がまだ呆けた顔で立っている。ユニフォームの袖を軽く引っ張りながら、イガラシは「大丈夫ですよ」と声を掛けた。

「……へっ、何が?」

「自分で質問しておいて……試合前のミーティング、ちゃんと聞いてたんですか。谷口さんは、はっきり『今日先発の者は』と言ってたじゃないですか。しかも、鈴木さんとか戸室さんも個別に呼んで、『おまえ達は好きに打っていい』と言ってましたよ」

「えっそうなのか」

「はい。丸井さんに言われなくても、谷口さんはちゃんと分かってるんですよ。レギュラー当落線上の者には、余計な制約を与えずのびのび打たせた方がいいって」

「ほぉ……ってイガラシ。おまえの方こそ、もうすぐ打順が回ってくるぞ」

 真顔で言うので、つい吹き出してしまった。

「なっ何がおかしい」

「俺は今日、ピッチャーなので八番に下がってます。昨日ちゃんと眠れたんですか」

「ぐ……ああっ」

 丸井が小さく叫ぶのと同時に、今度は落胆の声が墨谷ベンチから上がった。ツーナッシングから三球目のカーブを降り抜いた谷口の打球は、鋭いライナーでレフト線を襲うかに見えたが、江戸川実業の三塁手にジャンプ一番、好捕されてしまう。

「大丈夫ですって」

 イガラシはもう一度、同じ言葉を発した。少しカチンときたらしく、丸井が軽く睨む。

「何だよ、大丈夫です大丈夫ですって。おまえはオウムか」

「だって……正直さすがだなぁって、思いましたもん」

「捉えたとはいえ、サードライナーだぞ。嫌味かよ」

「そうじゃなくて……どの打者も、ちゃんと谷口さんの作戦の“意図”を理解してるなぁと思って。さすが墨谷の上位打線です」

「はっありがとよ。入部一ヶ月の奴にお世辞言われても、嬉しかねぇがな」

「……頬がにやけてますよ」

「うるせっ」

 この憎めない先輩のしかめ面を横目に、イガラシは胸の内でつぶやいた。

 お世辞じゃないですって。本当に、大したもんだ。単にキャプテンの指示に従うのではなく、その意図を理解した上で、各々自分なりに“表現”している。個々の技量はともかく、ここまで意思疎通の取れたチーム、なかなかお目には掛かれないぞ。

 ツーストライク取られるまで、バットは振らない――谷口の指示はそれだけだった。

 これは墨高の長所である「選球眼の良さ」をさらに磨き上げるとともに、たったワンストライクでどう対処するか、各自考えよという意味だと、イガラシは受け取った。

心強いことに、どうやら自分だけじゃないらしい。

 例えば島田は、ファールで粘り四球をもぎ取った。続く倉橋は、同じようにファールで粘りながら、相手の制球が甘くなったところを狙い打ちした。さらに谷口は、結果的にはアウトになったものの、三球目に“決め球”として投じてきたカーブを振り抜いた。

 丸井さんにしてもそうだ……と、傍らで声援を送る先輩を、ちらっと見やる。

 ここまで三打席とも凡打に終わっているものの、島田と同様にどの打席でも粘り、三十球近く費やさせている。前の回から、やや相手の制球が甘くなり始めているが、これはかなり丸井の貢献が大きいはずだ。

「おおっ」

 ふいに丸井が、大声を発した。他の部員達も一斉に立ち上がる。

 この日は五番に入っている横井が、鋭いライナーを左中間へ弾き返す。打球はあっという間にワンバウンドで金網フェンスまで到達した。走者二人が、悠々とホームベースを踏んでいく。

「すげぇな。イガラシの予言通りじゃないか」

 ベンチに戻ってきた倉橋が、吐息混じりに言った。イガラシはうなずき、短く答える。

「まだまだ取れますよ」

 六番の戸室、七番の鈴木は、いずれも初球を引っ叩いた。戸室はレフト線を、鈴木は三遊間を破る。この間、イガラシはネクストバッターズサークルで軽く屈伸しながら、打順が回ってくるのに備えた。鈴木が一塁ベースを踏んだタイミングで、立ち上がる。

「キャプテン」

 ベンチ奥で給水している谷口に、意思を伝える。

「あの投手、もう限界ですよ。これ以上引っ張られると練習にならないので……さっさと引きずり降ろしちゃって構いませんか?」

「真顔でよく、そんな恐ろしいこと言えるな」

 谷口は一瞬苦笑いしたが、すぐに首を縦に振った。

「分かった。どうも、その方が良さそうだ」

 打席に入ると、相手投手の肩が上下する動きが目に入る。かなり息が上がってきているようだ。これ以上の続投は無意味だと、傍目にも分かる。

 初球。力のない直球が、高めに投じられる。ややボール気味ではあったが、イガラシは躊躇いなく振り抜いた。

 ボールが金網フェンスを越えるのを見届け、ゆっくりとダイヤモンドを一周する。控え部員が、簡易スコアボードに「6」と書き込むのを横目に、一塁走者だった鈴木に続いてホームベースを踏んだ。

 束の間、後方を振り返る。江戸川実業の先発投手が、内野陣が囲む中、蒼白の顔色になっていた。やがて、足取り重くマウンドを降りていく。

 ベンチに帰ると、やはり手洗い祝福が待っていた。

「このヤロっ。誰がこんな、きれいにトドメ刺せって言ったんだよ」

 丸井がそう言いながら、ヘルメットの頭や背中を叩く。そこに横井と戸室の手も重なった。

「てめっ、俺のせっかくのクリーンヒットが霞んじまったじゃねぇか」

「そうだぞ。お前が二日連続でホームランなんて打ちやがるから、横井の奴、試合に出られても下位打線確定じゃねぇか」

「まったくだ……って戸室、どさくさに紛れて俺をからかうんじゃねぇ」

 歓喜の輪が解けぬうちに、またも小気味よい音が響く。

 九番、加藤の打球が一、二塁間を破った。丸井が「おっといけね」と、慌ててバッターボックスへと走る。

 ヘルメットを脱ぎ、バットと一緒に並べていると、谷口が「ナイスバッティング」と声を掛けてきた。

「ありがとうございます。そのわりに……浮かない顔、ですね」

「分かるか」

 谷口は渋い顔で、グラウンドに視線を送る。

「ちょっと相手が、な。昨年コールドで破ったとはいえ、以前はシードされたこともある学校。向こうからも『是非』と言われたもんで、色々試すにはちょうど良いと思ったんだが」

「ですね。こんな簡単に制球を乱す投手じゃ、選球眼を磨く練習にはならないですよ」

「ああ、これなら……まだおまえや松川、うちの投手陣を相手にフリーバッティングでもした方が、遥かに効果的だろう」

 イガラシは「確かに」と、吐息混じりに返答した。

「ただ……前向きに考えれば、うちの目指す野球が形になってきた。先を考えれば、これは大きな収穫と言えるんじゃないか」

「……まぁ、そうでしょうね」

「何だよ。不服そうだな」

 谷口が含み笑いを漏らす。

「そういうわけじゃありませんけど。ただこの戦術のヒントが、あの北戸中学だというのが、ちょっと癪に障るだけです」

 あの執拗なファール戦法。体力を削られ、八回で降板を余儀なくされた。「近藤を引っ張り出したい」という相手の思惑を感じ取りながら、まんまと策に嵌ってしまった。思い出しても、まだ腹が立つ。

 勝ったとはいえ、苦い記憶の残る一戦だが……確かに「格上の相手に挑む」時の戦い方としては、重要な示唆を与えてくれる試合ではある。

 もし……と、イガラシは思った。

 あの時、もし……墨谷二中が北戸に負けていたら、どこが優勝していただろう。やはり筆頭は和合だろう。選手層の厚さ、選手の個人能力の高さは、あの青葉をも凌ぐ。対抗馬は、南海中学か。変化球投手・二谷を打ち崩すのは、和合でさえ容易ではなかったろう。

 北戸? ねぇよ……と、イガラシは胸の内で即答した。思考があらぬ方向へ飛んでしまったことに気付き、こっそり苦笑いする。

 奴らの戦力では、ギリギリ喰らい付くのが精一杯だ。最後は近藤の一発にやられたように、拮抗した展開になればなるほど、選手個々の能力がモノを言う。その“最後の一刺し”を、奴らは備えていなかった。仮に俺達を破っていたとしても、いずれ……ん?

 ふいに胸の内を、もやもやとした感覚が湧き上がってくる。経験上、あまり良くないモノだと知っていた。何だよ、これは一体……

「おい、イガラシ」

 名前を呼ばれ、現へと引き戻される。

「……へっ」

「チェンジだぞ。どうしたんだよ、ぼうっとして」

 丸井が、訝しげな眼差しを向けていた。胸元に、投手用グラブを抱えている。

「ほら、持ってきてやったぞ」

「あっドウモ……わざわざスミマセン」

「点差が付いちまったが、気を抜くなよ……っても、おまえに限ってそんなことないだろうが。大量リードで、かえって投球のリズムを崩すこともあるからな」

「そんなに点、入りましたっけ?」

「しっかりしろよ。八点だぞ、はってん。充分どころか、お釣りを返したくなる点数だろ」

 妙な例えが可笑しくて、少し吹き出してしまう。

「……で、丸井さんはまた凡退したわけですか」

「うるせぇ。センターへの犠牲フライ、打点付きだ。文句あるかっ」

「おい、おしゃべりが過ぎるぞ丸井」

 横井がすれ違いざま、丸井の後頭部をグラブで叩く。

「イガラシも、お節介な先輩の相手なんかしないで、さっさとマウンドへ行け。今日は、この回限りなんだろ?」

「ど、ドウモ……それじゃ」

「ちょっと横井さぁん。横井さんまで、あんなサルかラッキョウみたいな奴の肩、持つんですかぁ」

「イガラシがラッキョウなら、おまえはおにぎりだ。大した違いはねぇよ」

「なっ先輩、それはいくらなんでも……」

 二遊間コンビの不毛な会話を背に、イガラシはマウンドへと駆け出した。

 

第8話<「努力の天才」の巻>へのリンクは、こちらです。

 

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第1話~5話までは、以下のリンクになります。

 

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