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第19話「負けじゃない」の巻
島田が、やや体勢を崩しながら、七球目に投じられたカーブを打ち返した。西将学園の左翼手は、半身の体勢になりながら、一歩、二歩と後退していく。
「おっ……あぁ」
墨谷ベンチから、束の間の歓声。しかしすぐにため息へと変わる。左翼手は斜めに走りながらも、まだ余裕を残し捕球した。ワンアウト、ランナーなし。
「くそぅ。あと、何メートルか横に飛んでいたらなぁ」
丸井が、悔しげに呻く。
「でも、当たりは悪くなかったです」
片瀬がいつになく、力の籠った声を発した。
「ピッチャーが竹田さんに代わって、初めてヒット性の打球ですよ」
「そ、そういやぁ」
鈴木の相槌を皮切りに、ベンチが再び沸き立つ。
「よぉしっ。いけるぞ」
「試合はここからだ。倉橋、一発かませ」
凡退した悔しさに、唇を噛みながら戻ってきた島田が「どうしたんですか」と戸惑う。
「これ……一体、何の騒ぎです?」
「島田ぁ。惜しかったぞ、ナイスバッティング」
丸井の激励に、島田は「ドウモ……」と苦笑いを浮かべる。
「竹田さんのボールをあそこまで運ぶなんて、さすが三番だ」
「えっ。でも……今日はたまたま変則の打順だからじゃ」
「細かいことはいーんだよ。これで少し、希望が……ひゃあっ」
ふいに丸井が悲鳴を上げる。
倉橋のファールボールが、ベンチに飛び込んできた。丸井の頭上を掠め、左側の壁に当たって跳ね返る。
三塁塁審が走り寄ってきて、心配そうにこちらを覗き込む。
「だ、大丈夫かね? 君達」
「え……ええ、何とか」
丸井の苦しげな返答に、周囲の部員達は吹き出した。
「さすがセカンド。よける動作も素早かったですね」
加藤が持ち上げるように言うと、丸井は「そうだろそうだろ」と得意げにうなずく。
「セカンドたるもの、いつ何時でも打球の行方には敏感でないとな」
「いつ何時でもって……そのわりには今、完全に目を離してたんじゃ」
「なっこら、加藤。おまえ褒めてんのか、けなしてんのか、はっきりしろよ」
分かりやすくムキになる丸井に、ナイン達から笑い声が溢れた。
イガラシは、ふと足元に目をやった。さっきのボールが転がっている。拾い上げ、自然とつぶやいていた。
ほんと、いいチームだな……
三点差を付けられた九回裏。相手投手には、ほぼ抑え込まれている。すでにワンアウトを取られ、出塁すらできていない。客観的に見れば、完全に追い込まれた状況だ。
それでも元気を失わない。最後まで、希望を捨てずにいる。
ボールを返却するため、イガラシはベンチを出た。バックネット近くに待機していた球場係員に手渡し、試合進行の妨げにならないよう、すぐに引き返す。
視界の端に、倉橋が一旦打席を外し、素振りしてタイミングを合わせる姿を捉える。
「イガラシ」
ふいに呼ばれ、後ろを振り向いた。ネクストバッターズサークルに控える谷口が、微笑みを湛えた目をこちらに向けている。
走り寄ると、すぐに尋ねられた。
「この回、どう思う? あのバッテリー」
「散らしてきましたね」
イガラシが即答すると、キャプテンはうなずく。
「だよな。島田の時もだが、今の倉橋に対しても、やたら球数を費やしている」
「はい、ちょっと慎重になってるみたいですね。奴らはもう一試合あることですし、最後はきっちり締めて、良いイメージで終わりたいってとこじゃないですか」
「同感だ。それにしても、安心したよ」
「俺と意見が合ったことが、ですか」
軽くからかったつもりだったが、首を横に振られる。
「そうじゃない。おまえがまだ、ちゃんと頭を働かせてたことさ」
妙におどけた口調で、谷口は言った。
「さっきの打席、引きずってるんじゃないかと心配だったんでな」
「まさか。もう終わったことですし……そりゃあ悔しいですけど。あんなふざけた奴にやられたかと思うと。でも、負けは負けなので」
苦笑い混じりに言うと、谷口が「いや」と首を横に振った。
「……えっ」
キャプテンは真顔になり、短く告げる。
「負けじゃないさ」
思わぬ言葉に、イガラシは束の間言葉を失った。
「……じゃあ聞くけどな」
微かに眦を下げ、問うてくる。
「イガラシ。おまえ、あの場面でスリーバントスクイズを選択したこと、その判断まで間違っていたと思っているのか」
「そ……それは」
「もし間違いだったと、少しでも後悔しているのなら、おまえは本当に負けたことになるぞ。思い出してみろよ、今日の西将のプレーを」
快音と同時に、速いゴロが三遊間を襲う。抜けるか……と思ったのも束の間、西将の遊撃手が飛び付き、捕球する。すぐさま立ち上がり、片膝をついたまま送球する。倉橋が、一塁ベースへ頭から飛び込む。
「アウト!」
一塁塁審のコールが、無情にも響く。スタンドより「おおっ」という歓声。対照的に、墨谷ベンチから「ああ……」と大きなため息が漏れる。
―― 四番、サード、谷口君。
ウグイス嬢のアナウンスが流れたタイミングで、高山がタイムを取り、またも内野陣をマウンドに集合させた。あとワンアウトというところで、再度気を引き締め直すという意図だろう。
どこまでも抜け目がないな、高山の奴……と、イガラシは舌打ちした。
「やっぱ強いな。西将は」
谷口は、吐息混じりに言った。
「一歩目の反応が全然違いますもんね。癪ですけど、さすがとしか」
「……いや、プレーのことじゃない。俺が言いたいのは、彼らがまず、“自分自身を強く信じている”ということさ」
この男にしては珍しく、確信めいた言い方だ。
「思えば、最初からそうだ。あの先発投手も、カーブを狙われると分かりながら、それでも投げる……結果は打ち込まれたけどな。二番手の西田君も、スタミナを削られながら、交代を告げられるまで平静を装っていた」
そうか……と、イガラシは腹落ちした。確かに、このように考えれば、序盤の無策にも思えた西将の戦いぶりも、説明がつく。納得がいく。
「井口を二巡目で捉えた、控えの野手陣にしてもそう。彼らはどこまでも、自分自身の力量を信じて、それで以って相手をねじ伏せることを信条としている……正確には、それができる選手だけで、チームを構成しようとしている」
「なるほど。そうやって競争を勝ち抜いてきたのが、高山さんや竹田さん、今の西将のレギュラーメンバーというわけですね」
やがてタイムが解け、西将ナインが守備位置へと散っていく。それと同時に、アンパイアがこちらに顔を向け、「バッターラップ!」と声を掛けた。
ヘルメットを被り直し、谷口は「だからな」と付け加える。
「おまえは自分の判断を信じて、あのスクイズを敢行した。その時点で、少なくとも精神的には、彼らと対等に戦えたということだ。決して負けたわけじゃない」
谷口はそう言うと、踵を返しバッターボックスへと向かう。
アンパイアが「プレイ!」とコールする。キャッチャーの高山は、外角高めにミットを構えた。マウンド上の竹田が、サインにうなずき投球動作に入る。その、刹那。
パシッという音が、静寂を切り裂いた。
西将の右翼手が、始めゆっくりとバックする。余裕を持って落下点に入ったと思われたが、また数歩下がる。一旦止まるも打球は落ちてこず、さらに後退。そしてとうとう、外野フェンスに背中がつく。
やがてボールが落下してくる……コーンという音を立て、スタンドの客席で弾む。
マウンド上。竹田が、グラブの左手を腰に当て、二、三度かぶりを振る。ホームベース上では、高山が苦笑いを浮かべながら、指先でぽりぽりと頬を掻く。
対照的に、墨谷ベンチは沸き立つ。幾度となく雄叫びが聴かれる。
スタンドからは、自然と拍手が起こった。照れた顔でダイヤモンドを一周する背番号「1」を、まるで包み込むように。
数分後――神宮球場に、ゲームセットを告げるサイレンが鳴り響いた。
「ねえ、キャプテン」
一塁側控え室で、半田が可愛らしい声を発した。傍らで制服に着替えていたイガラシは、吹き出しそうになるのを堪える。
「球場係員の方から伝言だよ。バックネット裏の席、墨谷のために取っておいたらしいんだ。この後の第二試合を『是非観戦していって下さい』だってさ」
「へぇ、一番見晴らしの良い席を」
谷口がうなずくと、半田は「それだけじゃないんだ」と付け加える。
「僕らのために、人数分の弁当とドリンクまで用意してくれているよ」
「わぁお。そりゃ、豪勢だ」
倉橋が吐息混じりに言った。
「さすが都の高野連、金あるなぁ」
「うん。さっき見たけど、トンカツとか鶏肉とか、色々入ってて美味しそうだったよ」
「豪華な弁当を食べながら、ゆっくり野球観戦とは。優雅だなぁ」
戸室の呑気な言葉を、倉橋が「ばかっ」と窘める。
「谷原の試合なんだぞ。しっかり分析して、対策を立てないと。こんな機会、そうそうねぇんだからな」
「その通りだぞ、みんなも」
倉橋の言葉を受け、谷口が厳しい口調で続ける。
「結局、試合には負けた。しかも谷原戦と違って、何日間か準備期間があっただけでなく、相手が全員レギュラーに替えてきたのは終盤だ。それでも及ばなかった。まだ俺達には、この西将と互角の谷原を倒す力はない。今日はっきりしたのは、それだけだ」
しばし室内が、沈黙に包まれる。
九回裏。谷口が本塁打を放ち、一矢報いたものの、反撃はそこまでだった。次打者の横井は、ツーストライク取られてから三球ファールで粘ったものの、最後は竹田のフォークボールにバットが空を切る。
トータルスコア、七対九。二点届かず、墨谷は敗れた。傍から見れば、墨谷がかなり健闘したように映るかもしれない。
しかし、その実態は西将が終始意図通りに試合を進めていたこと、そもそも個々の力量差にかなりの差があったことを、ナイン達は認めざるを得なかった。点差以上の完敗だということを、誰もが痛感していた。
コンコン……と、ふいに扉がノックされる。
「はい。どうぞ」
谷口が扉を開けると、球場係員の若い男が顔をのぞかせた。
「あっうちの部員から、聞きました。席の手配、それから弁当とドリンクまでご馳走いただき、ありがとうございます」
「ど、どういたしまして。いや失礼……それとは別の、もっと大事な用なんだ」
妙に緊張した面持ちで、返答する。
「えっ。と、言いますと」
係員は一つ咳払いをして、用件を告げた。
「実は……西将学園の監督さんが、是非君達に挨拶したいとおっしゃるので、こちらにお連れしたんだ」
イガラシは、思わず「何ですって?」と口走ってしまう。
係員が引っ込むと、ほどなく眼鏡を掛けた西将のユニフォーム姿の男性が、扉の奥から姿を現した。周囲は一瞬にして、緊張に包まれる。
西将の監督は、控え室内に足を踏み入れると、帽子を取り深く一礼した。
「墨谷高校の選手諸君。はじめまして、中岡です」
おそらく一八〇センチを超える長身。また、一見すると細身ではあるが、二の腕は筋肉で盛り上がっており、自身もかなり鍛えていることが伺える。まさに堂々たる体躯の持ち主だ。
「こちらこそ。わざわざ来ていただき、ありがとうございます」
谷口が前に出て、礼を返す。
「うむ。君が、キャプテンの谷口君だね?」
「はい」
「大したものだ。聞くところによると、君達には私のように、野球専門の指導者は付いていないのだろう。それで、あれだけのチームを作れるとは」
「ど、どうも……有名監督さんに、そう言っていただけるなんて、光栄です」
さすがに緊張してしまうらしく、谷口は時折口ごもった。
「あの、お掛けになってください」
半田がどこからか折り畳み椅子を持ってきて、丁重に「どうぞ」と勧める。中岡は「すまないね」と返事して、ゆっくりと腰掛けた。そして、他のナイン達にも顔を向ける。
「私の方こそ、君達には感謝しなければならないな。この連休中、我々は各地へ遠征に回っているのだが、思った以上に良い試合ができた」
「……なるほど。確かに、そちらにとっては“良い試合”だったでしょうね」
イガラシは、皮肉を込めて言った。
「僕らを“練習台”にして、意図通りに試合を運べたわけですから」
「ば、ばかっ。イガラシ」
やはり谷口が、慌てて遮る。
「いくら何でも失礼だぞ、わざわざ来ていただいた監督さんに」
「……ふふっ、フハハハハハハ」
ふいに中岡が、高笑いの声を上げる。
「君が、イガラシ君だね。なるほど……うちの高山が、やたら君のことを意識していたが、うなずけるよ。すべてお見通しだったというわけか」
中岡は、悪びれもせず答えた。
「意図通りだったかと問われれば、確かにその通り。まず投手陣には、狙われても簡単には打てない決め球を投げられるかどうか。そして、打撃陣には“ファーストストライクを仕留めること”と“相手投手に球数を費やさせること”、二種類の攻略法を試すことができた。しかも、相手投手のタイプに合わせてね」
「何ですって?」
倉橋が、驚嘆の声を発した。
「じゃあ……谷口の言ったことは、当たってたんだ。あの、監督さん……うちのキャプテンが試合中に言ってたんですよ」
「ほぅ、それも見抜かれていたのか。まったく呆れた子達だ」
中岡のため息に、島田が「でも……」と率直に疑問を口にする。
「分からないことがあったんです。うちの投手陣のタイプを知っていたということは、監督さん、僕らのことを事前に調べていたんですよね」
「もちろん」
あまりにもあっさり言うので、イガラシも含めナイン達はますます驚かされる。
「でも……どうやって。いやそれ以前に、どうして西将ほどの名門が、うちみたいなチームのことを調べようと思ったんです? 公式戦でもないのに」
「うちみたいな、って……あのねぇ」
島田の発言に、中岡は呆れ顔でため息をついた。
「君はセンターの、島田君といったかな。君だけじゃなく、墨谷ナインの諸君は、自分達がどう見られているかということに対して、あまりにも自覚がなさ過ぎる」
そう言うと、再び谷口の方へ顔を向けた。
「この二年弱の間に、君達は東実、専修館を始め都内の有力校を次々に倒し、夏のシード校を獲得するに至った。こんな急激に伸びたチーム、他校が注目しないはずないだろう。そして……知っての通り、うちは全国に名の知れた強豪校だ」
井口が「自分で言うかよ」と、無遠慮につぶやく。思慮のない旧友の脇腹に、イガラシは肘内を喰らわせた。
「……いてっ。何すんだよ」
「今、余計な茶々入れんじゃない。黙ってろ」
くくっと含み笑いを漏らし、中岡はさらに話を続ける。
「選抜で戦った谷原だけでなく、専修館、東実、川北、明善……都内有力校の指導者やチーム関係者とは、練習試合や遠征の予定を組むのに、定期的に連絡を取り合っている。だから川北が辞退したと聞いて、すぐに各校の関係者に電話したんだ」
やはり……と、イガラシはうなずく。高山の話は事実だったのだ。
「電話というのは……川北の代わりに、招待野球に出てもらえないか、と?」
谷口が尋ねると、中岡は「いや」と首を横に振った。
「そういう調整は、都の高野連の仕事だ。私がやると、彼らに失礼に当たる。もっとも、ほとんどの有力校はこの時期、すでに日程は埋まっているから、難しいだろうと分かってはいたがね。それはともかく」
ゴホン、と一つ咳払いをして、中岡は答える。
「ん……失敬。私が各校に尋ねたのは、この時期に予定が空いてそうな学校で、近年力を付けてきたチームはあるか、ということ。そしたら、どの学校の関係者も口を揃えて答えたんだよ。今最も勢いのある新興チームは、墨谷だってね」
「それで、都の高野連にうちを推薦したわけですか」
尋ねると、名将は目を大きく見開いた。
「イガラシ君、どこでその話を? ああ……高山だな。まったく、おしゃべりな奴め」
「……そ、それじゃあ」
谷口が苦笑いを浮かべ、さらに尋ねる。
「過去にうちが対戦した学校の関係者から、情報を?」
「ご明察。彼ら、よほど君達に苦い思いをさせられたのか、詳細に覚えていたよ。とりわけ投手陣、谷口君そして松川君の特徴をね。そして……井口君」
「……は、へっ」
突然名指しされ、井口は呆けた声を発した。前方で体育座りしていた丸井が振り向き、睨み付ける。
「君のことは、うちの今年の新入部員に、青葉学院出身の子が何人かいてね。彼らに話を聞いたんだよ。君が速球と切れ味鋭い変化球、特にシュートを武器としていること。ついでに『ノーヒットノーランで全国へ行くつもりだった』というコメントもね」
「そ、そんなことまで」
井口は呆然とした顔になり、ため息をつく。中岡はおかしそうに肩を揺すった。
「それから……イガラシ君」
真顔に戻ると、中岡は妙に優しげな口調で言った。
「君は少々、誤解しているようだ。確かに我々は、ある種“練習”の意図で、この試合を活用させてもらった。しかしそれは……君達を格下のチームだと、軽んじたわけではない」
しばし間を置き、短く告げる。
「君達のようなチームと、甲子園で対戦するのを想定してのことだ」
「こ、甲子園……」
名将の思わぬ発言に、イガラシは言葉を失った。
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