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第22話「墨谷らしく」の巻
合宿四日目、朝六時。グラウンドのホームベースを囲み、墨谷ナインは円座になる。
「昨日は、長い一日だったな」
キャプテン谷口が、静かに語り始めた。
「大きな試合をこなした後に、あえて通常通りの練習をこなした。体力的に、正直辛い部分はあったと思う。けどありがたいことに、誰も不満を口にしなかった。まぁこれは、半分諦めもあっただろうが」
周囲から、笑い声が漏れる。
「でも……それだけじゃなかったのは、皆の顔を見ていてよく分かったよ」
「当たり前です」
井口が、低い声で言った。
「次奴らと当たった時は、絶対に捻り潰してやりますよ」
イガラシは、傍らに座る旧友の目元を見やる。目の下にくまができていた。昨日は試合から帰ってきた後ロードワークもこなし、かなり疲れもあったはずだが、あまり眠れなかったようだ。
「オイオイ。落ち着けよ、井口」
倉橋が冷静な口調で、鼻息の荒い後輩を窘める。
「意気込むのは良いが、あまり焦ってアレコレやろうとするのも良くないぞ」
そう言って、ふいに苦笑いを浮かべた。
「……気持ちは分かるがな。俺自身、リードしていてこんなに苦しい試合は初めてだったよ。単に打たれたというだけじゃなく、こっちの意図を相手に見透かされていたからな」
俺はどうだ……と、イガラシは自身に問うてみる。
一夜明け、意外なほど胸の内は澄んでいた。負けた瞬間は悔しかったが、いつまでも引きずるような性分ではない。それよりも、今後どうしていくのかということに思考をすでに切り替えていた。もっとも、高山の慇懃無礼な態度を思い出すと、まだ腹は立つのだが。
「……まぁまぁ。済んだことは、もうそれくらいにして」
谷口が、朗らかな声で言った。
「今日の日程を確認しようか。まずは……朝食前に、ランニングから。そして、昨日の疲れも残っているだろうから、柔軟運動をいつもより長めに行う。特に……丸井」
「……は、はいっ」
ふいに名指しされ、丸井が間の抜けた声を発した。
「おまえは、まだまだ体が硬い。セカンドがそれじゃ、いつか怪我するぞ。倉橋と組んで、しっかり体をほぐすんだ」
「え、そんな……いやっ、倉橋さんは松川さんとか井口とか、投手陣と組んだ方が」
丸井の顔が、みるみる青ざめていく。イガラシはつい、軽く吹き出した。
「なぁに。柔軟くらい、他の者と組んでも差し支えはないさ」
倉橋がにやっと笑い、拳をぽきぽきと鳴らす。
「ほら、倉橋もそう言ってくれていることだし。遠慮は無用だぞ」
「は……はいぃ」
キャプテンにダメ押しされ、丸井はがくっと頭を垂れる。
「柔軟の後は、先にフリーバッティングを行う。昨日は疲れで、皆あまり振れていなかったから、その修正を図りたい」
「……すみません。ちょっと、いいですか」
ふいに松川が挙手し、話に割り込む。イガラシはぴんときて、その眼差しを凝視した。
「どうした松川」
やはり驚いたらしく、谷口は目を見開いた。
「僕、前から気になってたんですけど。ツーストライク・バッティングの練習を始めてから、各打者のスイングが小さくなってきているように感じるんです」
「それは……つまり、この練習はやめた方が良いということか?」
キャプテンに尋ねられ、松川は「いえその……」と一瞬口ごもった。
「遠慮することはないぞ」
谷口は、穏やかな口調で先を促す。
「毎日バッティング練習で皆に対している、ピッチャーの意見だ。無下にはしない」
「はい。あの……やめた方がいい、とまでは思いません。実際、昨日の西将戦でも選球眼が良くなったことで、相手投手を苦しめることはできました。でも、以前なら長打になっていたコースの球が、シングルヒット止まりになっていたりもするので」
「それは仕方ないだろ」
丸井が口を挟む。
「この練習を取り入れて、まだ三週間足らず。そんなすぐ、何もかもできるようになるわけないじゃないか。一球しかチャンスがないとなると、慣れないうちはどうしても当てにいってしまう。けど、もっと慣れてきたら……イガラシ、おまえもそう思うよな」
「……えっ」
ふいに話を向けられ、戸惑う。
「おまえもバッティング投手を務めているから、松川と同じこと感じただろ。でも今まで何も言わなかったのは、割り切ってたからじゃないのか」
「そうですね。ただ……」
束の間逡巡するが、しゃーないか……と観念する。
「これ、ほんとは昨日の練習の時点で伝えるべきだったんでしょうけど……谷口さんの言うように、みんな疲れで本来のスイングができてなかったので、言わずにおいたんです」
「言わなかった、って……何をだよ」
丸井が意外そうな目を向ける。イガラシはきっぱりと答えた。
「結局、何をしたいか……だと思います」
さすがに分かりづらかったらしい。部員達は、ますます訝しげな目になる。
「もっと詳しく説明できるか?」
谷口に問われ、うなずいた。
「これ……根岸と西将戦の話をしている時に、気付いたんですけど。西将のバッターが怖いのは、能力もそうなんですけど、何より各打者が『相手投手を一球で仕留める』意思を持って、打席に立っているからなんです」
試合前から発していた、あの鋭い眼光を思い出す。
「丸井さんも覚えてるでしょう。俺、中学の時に北戸(きたのへ)というチームと戦って、ファール戦法に苦しめられたことがあるんですけど、あまり“怖い”とは感じませんでした。それは今思えば、相手が俺の球を打てないと分かっていたからなんです」
「……なるほど」
倉橋がうなずく。
「同じ“ファールで粘る”にしても、甘い球を待って仕留めるつもりでいるのと、投球に圧倒されて何とかファールに逃げるのとでは、印象が全然違うもんな」
「ええ。おそらく松川さんが感じてたスイングの小ささも、制約を必要以上に意識し過ぎて、打ち返すという意思が希薄になりがちだったからだと思います」
松川が「言われてみれば」と首肯した。
「つまり……ツーストライクからでも“ヒットにしてやる”という気持ちで、打席に立つということか」
「はい。そういう打線の方が、相手バッテリーにとって脅威でしょうから」
イガラシの返答に、横井が「うーん……」と渋い顔になる。
「それはあまり、現実的じゃないんじゃねぇか」
予想外の反応に、戸惑う。
「……どういうことです?」
尋ね返すと、横井は指先で頬を掻きながら、苦笑いを浮かべた。
「いや、イガラシの言っていることも分かるし、きっとイガラシには、そういうバッティングができるだろうと思う。けど……俺には難しいや」
「いや横井さん、そんなこと」
丸井がフォローすると、横井は首を二、三度横に振った。
「ありがとよ丸井。別に、自分を卑下して言っているんじゃねぇんだ。ただ……俺ももう三年、さすがに自分の力量は分かる」
「そうだな」
横井の傍で、同じ三年生の戸室がうなずく。
「俺も、そこいらの平凡なピッチャーが相手なら打ち返してやろうって気にはなれるがよ。さすがに昨日の竹田クラスの投手になると、それこそファールに逃げるってか、何とか当てるのが精一杯って感覚なんだ。誰もが、イガラシや西将のバッターと同じようにはできないさ」
どこか話がずれていると気付く。違う、俺が言いたいのはそういうことじゃ……
「違うぞ二人とも」
しばし沈黙していた谷口が、おもむろに口を開く。
「打てなくてもいいじゃないか」
思わぬ一言に、イガラシは一瞬言葉を失う。
「あ……スマン。言葉が足りなかったな」
照れたように右手を後頭部に置き、キャプテンは話を続ける。
「イガラシは何も、必ず『その打席で仕留めろ』と言っているわけじゃない。結果として凡打に終わったとしても、その一打席が終わるまで“打ち返す”という意思を持ち続ける。そういうことじゃないのか?」
イガラシがうなずくと、谷口は語気を強めて言った。
「たとえ一球打ち損じても、次の球で。その打席で凡退しても、次の打席で。点の取れないイニングが続いても、終盤にはもぎ取る。こんなふうに考えていれば、自ずと打席での仕草や表情に表れる。それが相手には脅威となる。戸室、覚えているか」
ふと優しげな口調になり、問いかける。
「去年の川北との練習試合……最終回に、唯一ヒット性の当たりを飛ばしたのは、おまえだったじゃないか」
「は。そ、そういやぁ」
「横井。おまえだって、聖陵の岩本さんからセーフティバントを決めて、逆転の足掛かりを作ったろ」
「……あ、あぁ」
「そりゃあ西将のように、一球、一打席で仕留める精度の高いバッティングは、我々には難しいだろう。けど……何度打ち取られても、最後には打ち崩す。そういう戦い方なら、十分できる。というより俺達は、今までもそうやって戦ってきたじゃないか。みんなも思い出してみろよ」
一呼吸置き、さらに畳み掛けて問う。
「俺達が、墨谷が、何をして強くなってきたか」
谷口はそう言うと、ふいに気恥ずかしげな顔になる。
「……正直、俺も焦ってたんだ」
一転して、穏やかな口調で語る。
「谷原にあそこまでやられて。今のままじゃ、どう足掻いても勝てないってな。“ツーストライク・バッティング”にしても、俺自身その狙いをきちんと消化できないまま、藁にも縋る思いで実行した。キャプテンとしては、情けない話だが」
「そっそんな……」
丸井が首を横に振ると、谷口はふっと微笑んだ。
「ありがとう丸井。でもいいんだ。最近やっと、あの試合のことを冷静に考えられるようになった……そして、ものすごく単純な要因に気付いた」
一つ吐息をついて、結論を述べる。
「あの時……急遽対戦が決まったことで、俺達はろくに相手を調べもしないまま、試合に臨んだ。おまけに、新入生を“試そう”という色気もあった。昨年の明善戦と同じだ。格上の相手に何の策も講じず、まともにぶつかれば、自ずとああいう結果になる」
「そ、それじゃあ……キャプテン」
イガラシの問いかけに、谷口は「ああ」と声を明るくして答えた。
「相手をよく研究する。どんな展開になっても、最後まで諦めず、粘り強く戦う。そう……今までの俺達、墨谷らしく戦えばいいんだ」
キャプテンの言葉に、部員達はすかさず応える。
「おおっそうだ」
「それなら、何かできそうな気がしてきたぞ」
「よし。やってやるぜ!」
意気盛んな声が、次々に聞かれる。
「……イガラシも、いいな」
谷口は、柔らかな眼差しで言った。
「偉そうに喋ったが……俺自身、やっと思考を整理できたよ。おまえのおかげだ。この“ツーストライク・バッティング”にしても、うちの持ち味である粘り強さを、より強化する。そのための練習だと捉れば、以後何の迷いもなく取り組める」
「分かってますよ」
一つ吐息をつき、返答する。
「僕だって、横井さんや戸室さんに、西将と同レベルを求めるのが無茶なことぐらい、重々分かってますから」
「こら。またそんな、棘のある言い方をして」
窘められ、イガラシは「スミマセン」と頭を下げた。密かにくすっと笑う。
その時、後方から「おぅい」と呼ぶ声がした。振り向くと、野球部の部長がグラウンドを囲む金網の手前に立っている。
「谷口、ちょっと来てくれ。伝言を預かっている」
「はい。今行きます」
谷口が駆け寄ると、部長は小さな紙切れを手渡す。何かメモが記されているようだ。
「なぁんだ」
手前で、丸井が安堵の吐息を漏らす。
「連休前の実力テストのことで、何か言われるのかと心配したよ」
勉強の苦手な丸井は、部長から成績について問い質されるのが、たまらなく辛いらしい。
「そんなに心配なら、いつでも俺に聞いてください」
イガラシがからかって言うと、丸井は「てやんでぇ」と声を上げる。
「いくら何でも、一年坊に勉強を教えてもらうほど、こちとら落ちぶれちゃいねぇよ。おっおまえこそどうなんだよ。高校の勉強は、さすがに中学のようにはいくまい」
「……ちょっと、丸井さん」
井口がちょんちょんと丸井のユニフォームの袖をつつき、声を潜めて言った。
「な、何だよ井口」
「こいつ……その実力テストで、学年三位っすよ。数学の先生から『勉強に専念すれば東大も狙えるのに』って、嘆かれてたくらいスから」
「……おい。余計なこと言うなよ」
イガラシが苦笑いすると、丸井は「かぁーっ」と頭を抱えた。
「おまえほんと、トコトン可愛げのない奴だな。野球か勉強か、どっちかにしろよ」
ほどなくして、谷口が部長を見送り戻ってくる。
「丸井。部長が『おまえにしちゃ頑張ったな』と伝えてくれ、だってさ」
「ありゃっ」
丸井が分かりやすくずっこけると、周囲から笑いが起こる。
「それより、部長が預かってた伝言というのは?」
倉橋が問うと、谷口は「それなんだが……」と困惑げな顔になる。
「どうしたんだ?」
「うむ。練習試合の申し込みなんだが……昨夜遅く、部長の自宅に電話があって、今日の朝十時までに返事が欲しいらしい」
「ほぉ、そりゃまた急な話だな」
「ああ……どうやら、この辺りに遠征で来ているらしい。予定していた他校との練習試合がキャンセルになって、困っていたんだと」
「ちなみに、どこの何ていう学校なんですか?」
イガラシが尋ねると、谷口はメモを見ながら答えた。
「む……ええと、和歌山県の学校らしい。ミノワ高校って、このメモには書いてある」
「ミノワ? はて、どこかで聞いたような」
倉橋が首を傾げる。他の部員達も、同様の仕草をした。
「……ミノワ。えっ、ミノワだってぇ!」
ふいに半田が大声を発し、立ち上がる。
「な、何だよ半田。急に叫んだりして」
倉橋が耳を塞ぎ、僅かに眉を潜める。
「そのミノワ高校、結構強いのか?」
「け、結構強い……なんてもんじゃないよ、倉橋君」
息せき切るような口調で、半田は答えた。
「和歌山県立、箕輪(みのわ)高校。昨年春の選抜甲子園大会で、初出場初優勝を果たした学校なんだよっ」
途端、ナイン達からざわめきが起こる。
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