南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第2話「イガラシの不安の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※2019.8.2リライト・2019.8.3「続・プレイボール」第2話として再構成)

※前話<第1話「あせるなバッテリー!の巻」> 

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【目次】

  

 

 <主な登場人物>

 谷口タカオ:三年生。墨谷高校野球部キャプテン。投手兼三塁手。ひたむきに努力する姿勢で、チームを引っ張る。

 

丸井:二年生。谷口の墨谷二中時代からの後輩。情に厚く、面倒見が良い。どんな時にも努力を惜しまない姿勢は、チームメイトの誰もが認める。

 

 

 

イガラシ:一年生。投手兼内野手。天才肌でありながら、努力の量は同じ墨谷二中出身の谷口や丸井にも引けを取らない。

 

井口:一年生。イガラシの幼馴染であり、中学時代には墨谷二中のライバル・江田川中のエースとして、二度に渡り鎬を削った。一昨日の招待野球では、大阪の強豪・西将(せいしょう)学園相手に力投するも、満塁本塁打を浴びるなど七失点を喫した。

 

根岸:一年生。原作には名前のみ登場。リトルリーグ時代には四番打者も務めたスラッガーだが、現在は控えに甘んじている。勝気な性格ながら、キャッチャーらしい冷静さ、観察眼を備えている。

 

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第2話「イガラシの不安の巻」

  

―― 五月の大型連休最終日。ここ荒川野球場では、墨谷高校と箕輪高校の練習試合が行われていた。

 

 箕輪は、和歌山県屈指の強豪にして、昨年春の甲子園優勝校。今年は初戦敗退を喫したものの、主戦投手を故障で欠きながら、準々決勝まで進んだ広島の代表校相手に延長戦まで縺れ込む激闘を演じ、底力を見せ付けていた。

 

 招待野球で対戦した大阪の名門・西将学園に続き、またも全国トップレベルのチームの胸を借りることとなった墨谷は、この日ついにイガラシが先発のマウンドに上った。

 

 一回表。イガラシは、多彩な変化球と精緻なコントロールを武器に、堂々と箕輪打線に立ち向かう。ヒットは一本許したものの、二つの三振を奪うなど無失点に切り抜ける。

 

 しかし、巧みなバットコントロールと選球眼の優れた箕輪各打者の前に、初回だけで球数は何と三十球。何とも不気味な箕輪というチーム、さらには雲行きの怪しい空模様も相まって、試合は早くも不穏な雰囲気が漂い始めていた。

 

1.井口と根岸

 

「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」

 アンパイアのコールが、やたら甲高く響いた。イガラシの投じたチェンジアップに、箕輪の四番・堤野のバットが空を切る。

 井口源次は、大きく吐息をついた。

 すげぇ……箕輪の主軸打者が、掠りもしねぇなんて。大した野郎だ。あれが投球練習を再開して、半月にも満たない奴の投げる球かよ。

「どしたい井口。そんな、呆けた目ぇしやがって」

 傍らで、捕手用プロテクター姿の根岸が、からかうように言った。

「イガラシとは旧知の仲なんだろ。しかも中学の地区大会決勝で、対戦したそうじゃないか。あいつの球、もう飽きるほど見てんじゃねぇか」

 二人は、三塁側ベンチ横のブルペンに立っていた。

 井口は根岸を伴い、ゆっくりながらウォーミングアップを進めている。プレイボールの掛かる直前、キャプテンの谷口から「念のため準備はしておけ」と指示されたのだ。

「……いや。全然、ちげぇよ」

 井口は、つい呻くような声を発した。

「つっても……昨年の時点で、中学レベルでは突出してたがな」

「ほぉ。青葉を完封したおまえが、そこまで言うか」

 吐息混じりに、根岸が相槌を打つ。

「ボールの威力では、俺の方が上だと思う。ただイガラシの場合、相手の弱点を突いたり裏を掻いたり。そういう駆け引きの部分が、並外れているんだ。何せ青葉から四得点した俺達、江田川の打線が、イガラシからは一点も奪えなかったからな」

 苦い記憶が、脳裏を過る。

「けど……そん時と比べても、明らかに違う」

「新しい球種も身に付けたことだしな」

 根岸が、感心しきりにうなずく。

「チェンジアップか。あれもえげつない球だが、それだけじゃねぇ」

 井口は、二、三度かぶりを振った。

「コントロールの良さは元々にしても、スピード、球のキレ、緩急……どれも格段にアップしてやがる。投球練習を再開して、まだ二週間も満たないってのに」

「まぁ、ずっと練習はしてたらしいけどよ」

 根岸の言葉に、思わず「えっ」と声が漏れる。

「……そうなのか」

「あぁ。入部当初……いや、もっと前か。って、何だよ」

 意外そうに、根岸が目を丸くする。

「幼馴染のくせに、知らなかったのか」

 根岸は、かつてリトルリーグで主軸打者を務めたスラッガーだ。ポジションはキャッチャー。墨高野球部の一年生の中では、飛び抜けて長身。がっしりとした体躯の持ち主だ。

しかし、現時点では控えに甘んじている。リトルリーグ時代には未体験だった変化球の対応に苦しみ、まだ本来のポテンシャルを発揮できずにいた。

「俺もたまたまランニングで通り掛かって、知ったんだけどよ。ほら中学校の近く、裏に空き地のある公園があんだろ。ありゃ確か……四月の中頃、谷原戦の前日だったか」

 虚空を仰ぎつつ、根岸は言った。

「とっくに夜の九時を回ってるっていうのに、イガラシの奴、工場の明かりを頼りに、投げ込みをしてやがった。弟の、ええと」

「慎二」

「そうそう、その慎二って弟を相手によ。しかも終わったら、仕上げに十キロのランニングへ行くんだと。ピッチャーでもねぇのに、何でそこまでやるんだって聞いたら……イガラシの奴、何て言ったと思う」

 井口が答えられずにいると、根岸はにやりとして口を開いた。

「『どうせ近々“お呼び”が掛かるさ。俺を内野手専念にしておけるほど、うちの投手陣は盤石じゃないからな』って、あいつ眉一つ動かさずに言いやがった。一年のくせに口が過ぎるぜと、そんときゃ思ったけどよ」

 さもおかしそうに、肩を揺する。

「実際……谷口さんは谷原戦で打ち込まれるわ、片瀬は怪我で一時離脱するわ、おまえの調子が上がらないわ。ほんとに、イガラシの言った通りになってやがる」

 相手の何気ない一言が、なぜか胸に刺さる。

「……わ、悪かったな」

「けどよ。ちょっと、らしくないよな」

 大して意味はなかったらしく、根岸はさっさと話を進めた。

「……へっ。何が、らしくないって」

「投球練習を始めたのは、てっきりキャプテンの指示だと思ったんだが、自分から言ったんだってな。やっぱピッチャーに未練あったのか」

「まさか。あいつに限って」

 率直に答える。どのポジションをやりたいとか、何番を打ちたいとか、そういう私的な感情には拘らない男だ。

 イガラシが拘るのは、ただ……勝つことのみ。

「確かに。その方が、むしろ可愛げがあるんだが」

 根岸は一瞬笑いかけたが、またすぐに口元を引き締める。

「けどよ。俺、どうにも気になるんだ」

「気になるって、何が」

「ピッチャーに戻りたいと言い出したのもそうだが、この頃……あいつ、やたら動きが派手じゃねぇか。新しい球種を覚えたり、怪我上がりの片瀬の練習に付き合ったり」

「む。でも、別に悪いことじゃ」

「ああ、そりゃ構わねぇんだが……らしくない動きをしてるってのは、確かだ」

 根岸は、一度唾を嚥下した。

「この試合だって。井口、おまえも気付いてんだろ」

「……ああ」

 不思議と躊躇いなく、返答していた。

「ボールが良過ぎる」

「だよな」

 我が意を射たりとばかりに、根岸は深くうなずいた。

「いくら格上のチームが相手だからって、飛ばし過ぎだ。ありゃ……終盤、ピンチを迎えた時の投球だ。初回からこの調子じゃあ、あっという間にガス欠しちまう」

 同感だった。確かに、らしくない。

「事情は分かるぜ。相手が選抜出場校で、しかも東実が偵察に来てて、弱みを見せたくねぇってのはよ。にしても、ちょっとムキになり過ぎだろ。公式戦とは違うってことぐらい、イガラシなら重々理解してるはずなんだけどな……あのよ、井口」

 根岸は僅かに首を傾げ、独り言のように言った。

「ひょっとして……イガラシの奴、何が不安なのか、自分でもよく分かってねぇのかも」

 思わぬ言葉に、しばし口をつぐむ。

「不安の正体が分からねぇから、さしものイガラシでさえ焦っちまう」

「……まさか。あのイガラシが、正体の分からない不安に怯えるなんてこと」

「怯えはしないさ」

 今度はきっぱりと、根岸は言った。

「けど……イガラシの場合、何か嫌な予感がするとか、少しでもそういう不安の芽があれば、摘んでおきたいって考えるタイプだろ」

 ほぉ、と吐息が漏れる。

「さすがキャッチャー。知り合って間もねぇのに、あいつの性格よく掴んでるな」

「まあな。そういうわけだから、井口」

 ふいに根岸が、にやっと笑う。

「ウォーミングアップのペース、速めていくぞ」

「はぁ?」

 つい声が裏返ってしまう。

「何が、そういう……まさかこの後、俺の登板も」

「十分あり得ると思うぜ」

 あっさり答えると、根岸はマスクを被り直す。

「この試合、イガラシは本調子じゃない。少なくとも……正常なメンタルでは、臨めていない。こりゃ危ねぇよ」

「いや、でも……試合前のミーティングで、キャプテン言ってたじゃないか。今日の二番手は松川さん、三番手は自分が行くって」

「だから、どしたい。そりゃ予定だろ。三人のうち一人でも打ち込まれたら、もう一人リリーフを送らなきゃなんねぇ。あと投げられるのは、おまえしかいねぇだろ。まさか怪我上がりの片瀬を、急ごしらえで投げさせるわけにもいくまい」

「……もういい根岸。ほっとけ、そんな腑抜け野郎のことなんか」

「ほっとけって、何が……うわっ」

 ふいに根岸が、素っ頓狂な声を発した。

「二人とも、いつまでそこで油売ってんだ」

 振り向くと、背後にイガラシが立っていた。

「とっくにうちの攻撃始まってんぞ。せめて、相手投手の観察くらいしろよな」

 マウンドには、箕輪の背番号「6」の選手が立っていた。井口は、ほぉ……と思わず吐息をつく。

「さっきの三番だろう。おまえのシンカーを打ち返した……確か、児玉とかいう」

「ああ。背番号からして、ショートも兼任なんだろう。ぱっと見、上背はあるが、わりに細身って感じだな。その分、動作がしなやかだ」

 根岸が、こくっとうなずく。

「全身バネって感じだな。当然、打者として警戒しなければならないが……投手もこなすとは。箕輪の、まさに攻守の要ってわけだ」

「おまけに、昨年からのレギュラーらしい。経験も豊富。丸井さん、どこまで粘れるか」

 イガラシはそう言って、視線をグラウンドへと流した。

 三人の眼前。外野フェンスの奥、センターバックスクリーンの中央部分には、ボールカウント表示のライトが灯る。

 バッターボックスには、先頭打者の丸井が、必死の形相でマウンド上を睨んでいた。

 児玉が振りかぶり、右腕をしならせる。その指先から放たれたボールは、打者の手元で小さくも鋭く曲がった。丸井は何とかバットを差し出し、カットする。

「ツーストライク、ワンボール。追い込まれたか」

 井口のつぶやきに、根岸は「こりゃ難しいぞ」と相槌を打った。

「初球の甘い球を見逃しちまった。丸井さん、明らかに焦ってる」

 鈍い音がした。内角高めを突いた直球に、詰まらされる。箕輪の三塁手が「オーライ」とグラブを掲げた。難なく捕球し、ワンアウト。

  イガラシが「振り遅れか」と、ため息混じりに言った。

「驚くほどのスピードじゃないが、球質はかなり重そうだ」

「にしても……今のは、良いコースに決まったな。真っすぐは、明らかにボールだったり、甘く入ったりして、そこまでコントロールは良くなさそうだが。偶然か」

 傍らで、根岸が苦笑いを浮かべる。

「ああいう適当に荒れてるタイプ、結構厄介なんだよな。的を絞りづらい」

「そうだな。おまけに……さっきの速いカーブ、あれは鋭かった。半田さんの話だと、他にも遅いが落差のあるカーブ、シュートも投げられるそうだ」

 へぇ……と、井口は一つ吐息をつく。

「半田さん、よく調べているな」

「呑気だなおめぇは」

 イガラシが、なぜか睨む目で言った。

「甲子園出場校の投手ともなりゃ、メディアの取材もあるし、テレビ中継もされる。つまり研究し放題ってこった。それくらいのデータ、簡単に集まるさ。研究されても跳ね返すくらいじゃねぇと、上には行けねぇんだよ」

「お、おう……」

 相手の剣幕に、つい気押されてしまう。

 何だよコイツ、いつになく険しいな。箕輪相手の先発登板で、神経質になっているのか。思うような投球ができなくて、イラついているのか。それとも……根岸の言うように、何か別のことで焦りでもあるのか。

「ところで、根岸」

 イガラシはふいに、囁くような声を発した。

 「松川さん、まだ来てないのか」

「む。ああ、そういやぁ」

 松川は、二番手として登板することになっている。念入りに体をほぐしたいからと、片瀬を伴いベンチ奥の通路に引っ込んだまま、二十分程姿を見せていない。

「……まさか。松川さん、どこか傷めてるんじゃ」

 根岸の懸念を、イガラシは「心配ねぇよ」とあっさり打ち消した。

「今朝のキャッチボールの様子を見てたけど、そういう素振りは見せなかったからな。ただ……疲れは溜まっているのかも。西将戦、かなり力投してたし、それでなくても連日、百球以上の投げ込みを続けてきたからな」

「ちょっと様子見てくる。井口スマンが、ちと待っててくれ」

 根岸は、すぐにベンチへと駆け出した。その背中を見送ると、イガラシはこちらに顔を向ける。

「井口。さっき根岸にも言われてたが、アップのペース速めろ。できれば……そうだな、四回には登板できるように」

「よっ四回だと?」

 つい声が大きくなった。

「いくら何でも早すぎんだろ。おまえ、そんなに抑える自信ねぇのか」

「まさか。しかし、万が一ということがあるからな。念のため準備はしてもらわねぇと」

「にしても……リリーフには、松川さんも谷口さんも控えてるんだぞ。そんなに慌てなくても」

 この男が、単なる思い付きで発言したりしないことは、重々分かっている。それでも、さすがに唐突過ぎるように思えたのだ。

「……ああ。そのことなんだが」

 イガラシがふいに、声を潜めて言った。

「松川さんはともかく……谷口さんは、ダメだ」

「はっ? おまえ、何て……」

 小声ではあるが、きっぱりと告げる。

「谷口さんを今、マウンドに上げちゃダメだ」

 

2.井口とイガラシ

 

「おい、イガラシ。ちゃんと説明しろ」

 顔色が変わるのが、自分でも分かった。思わず、相手の左肩をつかむ。

「いってぇな。そんなにイキリ立つことかよ」

「おまえが妙なこと言うからだよ。投げさせちゃいけないって、どういうこったよ」

「しっ声がでかい」

 イガラシは、人差し指を自分の唇に当て、周囲を見渡した。

「……確証がねぇから、今はおまえだけに話しておく。そのつもりで聞けよ」

 さらに声量を落とし、話し出す。

「西将戦の九回だ。谷口さん、あっけなく二失点したろ。しかも二本、速球を流し打ちでフェンス際まで運ばれてた。よほど球威がなかった証拠だ。あんときゃ八回からの登板で、二イニング目、疲労するほど投げちゃいない。となると……」

「故障か?」

 問うてみると、イガラシは深くうなずいた。

「俺はそう思ってる。たぶん……谷原戦の時だろう」

 驚嘆が、さらに大きくなる。

「まさか……いや、おかしいだろ。あの後もキャプテン、練習試合に投げて、危なげなく抑えてたじゃねぇか」

「だから、俺も今まで気付かなかったんだ。まぁ……違和感はあったけど」

「へっ……何だよ、違和感って」

「速球が全部高かった。抑えて低めを突く投球が、全然できてなかったんだ。相手は格下だったし、ボールの威力だけで抑えてはいたが……それはあの人の持ち味じゃない」

「でも……ちゃんとスピードは出てたぞ。怪我してるのに、そんなことってあるのか」

 イガラシは、二、三度かぶりを振った。

「足腰や、他の部分は何ともないんだろう。おそらく肩か肘だ」

「じゃあ……谷原戦で打ち込まれたのも、その影響か」

 質問すると、イガラシはまた首を横に振る。

「いや。痛めたのは、試合の終盤だ。谷原戦……ほとんど準備も何もなしで、臨んだからな。相手の特徴が分からない以上、ボールの威力だけで勝負するしかない。さらに、あれだけ打たれたら、ますます力んじまう。結果……肩や肘に負担がくる」

 それが不安の正体というわけか。なるほどな……と、胸の内でつぶやく。

 当初、墨高野球部の投手陣は、谷口と松川に加え、一年生の井口と片瀬の四人体制の予定だった。

 ところが、練習試合の谷原戦で主戦投手の谷口が打ち込まれ、直後に片瀬も怪我で一時離脱。井口自身も、思いのほか硬球に慣れるのに時間が掛かり、なかなか本来の力を発揮できずにいた。

 この上、谷口自身が故障を抱えているとなると、確かに大事だ。それに気付いていたのなら、イガラシでなくても焦るだろう。

「まさか、キャプテン……かなり重傷なのか」

「む……今のところは、筋肉の軽い炎症程度だろう」

 安堵の吐息が漏れる。

「何だよ、脅かしやがって。そんなら大した問題じゃ……」

「ちゃんと治療していればな」

 イガラシの眼差しが、さらに険しさを増す。

「けど俺達が知る限り、あの人フリー打撃やら投げ込みやらで、ろくに休息すら取ってねぇだろ。こんな状態で、箕輪相手に投げれば、ほんとに重傷化しちまう」

「そうだな……け、けどよ」

 井口は、首を傾げて言った。

「分からねぇんだよな。あの谷原戦、何であの人、ずっと交代しなかったんだ」

「バカかおめぇは」

 まるで吐き捨てるように、イガラシが返答する。

「なっ、ば……」

 さすがにムッとして、言い返そうとするが、相手はすぐに視線を横に向けた。グラウンド上では、児玉がカウントツーボールからの三球目を投じようとしていた。

 小気味よい音が響く。その瞬間、三塁側ベンチが沸き立つ。

 二番打者の島田が、初球の高めに入った速球を弾き返した。低いライナーがショートの右を破り、箕輪の中堅手の数メートル手前でワンバウンドする。センター前ヒット。

「さすが島田さん。甘く入った球を逃さなかったな」

 イガラシが、感心げにうなずく。

「こらイガラシ。てめぇ、馬鹿にしてんのか」

「ああ、してるさ」

 こちらに目を合わせることなく、冷たく言い放つ。

「こんな簡単なことも、分からねぇんだからな」

「なにぃ?」

 わざとらしくため息をつき、ようやく井口に顔を向ける。

「それはな……おめえらのためだよ」

 意表を突かれ、束の間言葉を失う。

「おめえら下級生を、自分と同じ目に遭わせたくなかったんだよ。入部早々、自信を失わせるわけにはいかない。ならば自分一人で……そういうトコあるからな、あの人」

 そう言うと、イガラシは拳を握り、井口の鳩尾を一突きした。

「……おふっ」

「まったく、てめぇにはガッカリだぜ。いつまで腑抜けてるつもりだ」

「腑抜けって……お、俺は別に」

「丸井さんや谷口さんにつまんねぇことで注意されるわ、硬球に慣れるだけでタラタラ時間喰うわ、不用意な投球で七点も取られるわ。これを腑抜けと言わずして、何と言うんだ」

 イガラシはふと、意地悪な笑みを浮かべた。

「谷口さんのこたぁ、どうでもいい。おめぇ少しは、自分の心配しろよ。俺がキャプテンなら……今度の夏の大会、おまえを試合に出さない。日によって、いやイニングによって良かったり悪かったり。そんな丁半博打みてぇな奴、誰がトーナメント戦で使うかよ」

「てめぇ。黙って聞いてりゃ、言いたい放題」

「ありがたく思えよ。こちとら、おめぇの現状を、親切に指摘してやってるんだぞ」

 ぐっと唇を噛みしめた。イガラシが自分を愚弄する気などないことぐらい、とっくに分かっている。

「何だよ、黙り込んじまって。情けねぇ奴だぜ。俺達を戦慄させた、あの江田川中の井口は、一体どこに行っちまったんだよ」

 一気に捲し立てると、イガラシは僅かに口調を緩めた。

「まっ俺も人のこと、偉そうに言えた義理じゃねぇがな」

 ふふっと、自嘲の笑みが浮かぶ。

「谷原戦の直後から、何かおかしいな……っていう感覚はあったんだけどよ。その正体が自分でも掴めなくて、妙に一人で焦ったりして。谷口さんが故障してるかもって、はっきり思い至ったのは、今朝のことだ。ははっ、俺もおめえを笑えねぇな」

 そう言うと、イガラシは一転して柔らかな口調になる。 

「井口。おめぇ今日辺り、松川さんや谷口さんを押し退けてでも、アピールしとかねぇと。大会期間中、ずっとブルペンをうろうろするハメになるぜ」

 またも快音。倉橋の打球が、三遊間を襲う。

 抜けるかに思われたが、箕輪の三塁手が横っ飛びで捕球する。起き上がるや否や、滑らかな動作で二塁ベース上へ送球。五-四-三。流れるような併殺プレーが完成した。

「……ちぇっ。ゆっくり話もさせてくれねぇってか」

 イガラシは踵を返し、マウンドへと駆け出した。その背中に倣うように、他の先発メンバーも各々のポジションへと散っていく。

 腑抜けか……と、井口は胸の内につぶやいた。

 確かにそう言われても、仕方ねぇな。実際、なかなか調子を上げられなかったわけだし。俺なりに、頑張ってたつもりなんだが……いや違うか。

 今の環境に不満があるわけではない。墨高野球部は、設備に恵まれているとはお世辞にも言い難かったが、狭いながらも毎日使えるグラウンドがある。広い河川敷の使用許可も得ている。さらに、田所始め熱心なOB達の支援を受けている。

 何より、弱小だった期間が長かったわりに、部員達の士気が高い。

 これは現キャプテンの谷口を始め、上級生が努力を重ねて作り上げてきた雰囲気なのだろう。もう立派に、「勝てるチーム」の空気感だ。

 江田川中野球部は、こうは行かなかった。

 井口が入部した頃、上級生達はすっかり負け犬根性に取り付かれていた。それを裏付けるように、グラウンドは荒れ放題、道具は散らかり放題。

 さほど生真面目な質ではない井口でさえ、「勘弁してくれよ」と頭を抱えてしまうほどだった。

 この劣悪な環境を、井口がいるからと付いてきてくれた同学年の部員達と共に、少しずつ改善していった。そして三年生時には、ようやく体制が整い、全国大会まであと一勝というところまで迫った。

 骨は折れたが、悪くない三年間だったな……と、振り返って思う。

 ここまで思考を巡らせた時、はたと自分の本音に気付く。今まで誤魔化していたものが、明確な形を持って浮き出てくる。

  墨高では、すでに野球に打ち込む環境は整えられている。用具の整理、練習場所の確保、やる気のない上級生達との軋轢。それらに悩まされる心配は、もはやない。逆に言えば……自分がチーム作りに立ち入る余地が、ここには存在しない。

 退屈だな……そう、心のどこかで思った。思ってしまった。

 それなりにはやっていたが、必死ではなかった。そのくせ、つまらないことで突っ張ったりした。イガラシの言った通り、確かに気が抜けていた。何の言い訳もできない。

 あいつ、見透かしてやがったか……

「おい井口」

 ふいに背後から呼ばれる。おうっ、と間の抜けた声を発してしまう。いつの間にか、根岸がブルペンに戻ってきていた。

「何だよ。また呆けた顔しやがって」

「ああ、いや……何でもない」

「まっいいや。んなことより、イガラシの言った通りだ」

 根岸はそう言って、苦い顔になる。

「松川さん、背中と腰にかなり張りがある。やっぱ西将戦、本人も気付かないうちに、かなり消耗しちまってたらしい。あれじゃ……登板しても、二イニング保つかどうかだな」

「そんなにかよ」

「ああ。だから井口、やっぱりのんびりしている余裕はなさそうだぞ」

 グラウンドでは、アンパイアが「プレイ!」と声を掛けた。

 マウンド上。イガラシは、やや前屈みになり、キャッチャー倉橋のサインを覗き込む姿勢になった。ほどなく、首をこくっと縦に振り、そのまま投球動作へと移る。

 

※<第2話「」>へと続く。

 

 ※前作「白球の“リアル”」の各話へのリンク

 

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