【目次】
- 【前話へのリンク】
- <外伝>
- 第80話 劇的な幕切れ!!の巻
- 1.墨高打線対聖明館バッテリー
- 2.まさかの結末
- <次話へのリンク>
【前話へのリンク】
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<外伝>
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第80話 劇的な幕切れ!!の巻
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1.墨高打線対聖明館バッテリー
ここは荒川近くの住宅街。電気屋の営業用軽トラックが夜道を走る。
―― 聖明館のファースト高岸、まさかの転倒でフライを落球。ツーアウトと追い詰められていた墨高、命拾いしました。
流れてくるラジオの甲子園実況に、田所は「フヒー」と大きく溜息をついた。
「あぶねえ。心臓が止まるかと思ったぜ」
ハンドルを握りつつ、独り言をつぶやく。
「しかしツイてねえな。やつらの試合の日にかぎって、営業が長引いちまうとは。今日が最後になるのなら、せめて始めから応援してやりたかったのによ」
フウと吐息をつき、なおも実況に耳を傾ける。
「神様たのんます。せめてもう少しだけ、あいつらの野球を見せてください」
祈る思いで、田所は車を走らせ続けた。
カクテル光線の降り注ぐ甲子園球場は、未だざわめきが収まらない。
「てっきり試合終了だと思ったのになあ」
「うむ。まさかあそこで、ファーストがフライを落としちまうとは」
「打球がだいぶ風に流されたものなあ」
「あのファーストのやつ気の毒に。カンジンな時に転んじまうなんて」
観客達のそんな会話が聞こえてくる。
一塁ベース上。丸井はフウと大きく息を吐いた。
「やれやれ。命拾いしたぜ」
一方、聖明館のキャッチャー香田はアンパイアに「タイム」と合図し、転倒した高岸のところへ駆け寄る。
「どしたい。そう難しいフライじゃあるまいし」
高岸は上半身だけ起こしたまま、なかなか立ち上がらない。香田はハッとして「おい高岸」と、声を掛ける。
「まさか足を痛めたのか?」
「な、なに。心配いらねーよ」
一塁手は苦笑いして答えた。
「ちょっと足をつりかけてな。けど平気さ、これぐらい」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
「よっと」
香田の眼前で、高岸は右足首を伸ばす動作をした。
「うむ。痛みはねえし、これならやれそうだ」
「まったく、おどかしやがって」
「わりぃ。おれがとってりゃ、いまごろ試合終了だったってのに」
「すんだことは気にすんな。この後ちゃんとプレーしてくれりゃ、問題ねえって」
励ますように、香田は言った。
「む。ミスした分は、しっかり取り返すからよ」
高岸がファーストのポジションに戻るのを見届け、香田は踵を返した。
(あいつ思った以上に、投球の疲れが足にきてたんだな)
そう胸の内につぶやく。
三塁側ベンチ。
「まさか高岸が落球するとは」
「それよりあいつ大丈夫か。足をつったみたいだが」
「ああ。そういや高岸のやつ、予定より早いリリーフでだいぶ投げてるからな。きっと疲れがたまってたんだろう」
「しかし、いやなムードだな。これで流れが変わらなきゃいいが」
聖明館の控え選手達が口々に、今しがたの予想外のシーンの感想を漏らす。
(マズイな……)
ベンチ奥にて、監督は立ったまま渋面になる。その視線の先には、ファーストのポジションで足下を均す高岸の姿があった。
(落球はもちろん痛いが、それ以上に気になるのは高岸の足だ。万が一の時のためにファーストに残しておいたが、あの様子じゃ再登板はできまい)
さらに視線をマウンド上へ移すと、有原がロージンバックを拾い、パタパタと右手に馴染ませている。
(なんにせよ、もうツーアウトだ。このまま有原がおさえてくれりゃいいが……)
一塁ベースより、丸井は打席へと歩き出す。
(敵さんも、なにやら大変そうだな)
その時、一塁側ベンチより「どうした丸井!」と、キャプテン谷口が声を掛けてきた。
「あんなつりダマに手を出すなんて、おまえらしくない」
「キャプテン」
丸井はベンチを振り返る。
「追いこまれたからってボールとストライクは変わらないんだ。しっかりタマを選べば、おまえなら打てるぞ。いいな!」
「は、はいっ」
そう返事して、丸井は踵を返す。
(キャプテンの言うとおりだ。あんなタマに手を出しちまうなんて、おれらしくもない)
丸井が右打席に入ると、少し遅れて聖明館のキャッチャー香田も戻ってきた。ホームベース手前に立ち、他のメンバーへ掛け声を発す。
「ツーアウトだ! ここから、気を取り直していこうよ」
オウッ、と野手陣は応えた。
香田はホームベース奥に屈み、マウンド上の有原に「念のため二、三球投げようか」と声を掛ける。
「分かった」
有原は返事して、セットポジションから投球動作へと移る。そこから速球、カーブ、シュートと投げ込んでいく。
(へえ。やっぱり、いいタマ投げてら)
打席で投球練習を観察しつつ、丸井は「む。そうだ」とあることを思い付く。
(あの投手は三番手のリリーフなんだし、ひょっとしてあまり球数を投げるのは慣れてないかも。おれっちがねばって疲れされれば、またタマが甘くなるかもしれんぞ)
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。
(ツーナッシングだったな)
香田は状況を確認してから、三球目のサインを出す。
(こいつで様子を見よう)
む、と有原はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
外角低めの速球。丸井は体をぴくっと動かすも、手を出さず。アンパイアが「ボール、ロー」とコールする。
(ほう。追いこまれてるというのに、しっかり見きわめやがった)
打者に感心しつつ、香田は「ナイスボールよ」と言って有原に返球した。
(つぎはコレね)
香田はサインを出すと、ミットを内角低めに移動する。有原はうなずくと、今度はしばし間を置いてから投球した。
内角低めのシュートが、ホームベース上で内側にくくっと曲がる。丸井はまたも手を出さず。
「ボール!」
アンパイアのコールに、香田は「ちぇっ」と舌打ちした。
(落球で落ちつかせちまったか。ボールをよく選ぶようになったな)
一方、丸井は「けっ」とマウンド上の投手を睨む。
(これぐらいの見きわめもできない、おれっちだと思うなよ!)
しばし思案の後、香田は次のサインを出す。
(こいつでしとめよう)
有原は「うむ」とうなずき、すぐに投球動作を始めた。
真ん中低め。スピードを殺したボールが、ホームベース手前ですうっと沈む。
「うっ」
丸井は上体を崩すも、辛うじてバットの先端に当てた。ガッ、と鈍い音。打球は三塁側ファールグラウンドに鈍く転がる。
(フウ。なんとかついていけたぞ)
ひたいを手の甲で拭い、丸井は安堵の吐息をつく。傍らで香田は渋面になる。
(く。チェンジアップに当てられたか)
六球目は外角低めのカーブ、七球目は内角のシュート。丸井は続けてカットした。有原は「またかよ」と顔を歪める。
(しつこいヤロウだぜ。いい加減、あきらめろってんだ)
その時、香田が「ロージンだ」と手振りで指示してきた。有原は「う、うむ」とうなずき、足下のロージンバックを拾いパタパタと右手に馴染ませる。
(さ、もういいだろ)
香田がサインを出すと、有原はロージンバックを足下に放り、投球動作へと移る。その指先からボールを放つ。
「わっと」
すっぽ抜けたボールが、打者の左肩付近に飛んでくる。丸井は身をよじってボールをよけた。
(マズイな……)
マウンド上を眺めつつ、香田は胸の内につぶやく。その視線の先では、有原がガッガッとスパイクで足下を均す。
(有原のやつ、疲れでタマのおさえが効かなくなってきてるんじゃ。こりゃ早いトコ勝負をつけないと)
香田は「コレよ」とサインを出し、ミットを真ん中低めに構えた。
(さあさあ。バックを信じて)
有原はうなずき、投球動作へと移る。次の瞬間、香田は「あっ」と顔をしかめた。カーブが高めに浮いてしまう。
「き、きたっ」
丸井はためらいなくバットを振り抜いた。パシッ、と快音が響く。低いライナー性の打球が二塁ベース左を破り、センター鵜飼の前で弾んだ。
センター前ヒット。墨高応援団の一塁側スタンドが、ワアッと沸き立つ。
「よし。どうにか後につないだぞ」
一塁ベース上にて、丸井は右こぶしを軽く突き上げる。
一塁側ベンチ。
「ナイスバッティングよ丸井!」
声を上げる戸室。その隣で、横井が「やれやれ」と安堵の吐息をつく。
「どうにか首の皮一枚つながったぜ」
たしかに、とうなずいたのは後列の加藤だ。
「フライが打ち上がった時は、もうしまいだと思いましたが。ほんとラッキーでした」
「まあツキはあったが」
倉橋がヘルメットを被りながら、笑みを浮かべる。
「丸井のやつ。追いこまれてから、よくねばってくれたよ。ありゃ敵はかなりのダメージだと思うぞ」
盛り上がる墨高ナイン。
「さあ、島田も続けよ!」
「どんどんつないで、劣勢をひっくり返してやろうぜ!!」
そんなチームメイト達を横目に、キャプテン谷口は前列にてうつむき加減で思案を巡らせる。そして「島田。ちょっと」と、ネクストバッターズサークルの次打者を一度ベンチに呼び寄せた。
「は、はい」
島田はバットを手に駆けてくる。
「いまの投球を見て分かったと思うが」
声をひそめて谷口は言った。
「あのピッチャー、疲れからか微妙なコントロールが効かなくなってきてる」
「ええ、そのようですね」
「うむ。だから丸井がしたように、あわてずねばっていけば、必ず甘いタマがくる。それをねらい打て」
「分かりました!」
力強く応えて、島田は打席へと向かう。
一方の三塁側ベンチ。
「香田。来るんだ」
聖明館監督は、メガホンで正捕手を呼ぶ。
「た、タイム」
香田はアンパイアに合図してから、一人ベンチに戻った。そして監督の前で直立不動の姿勢になる。
「有原のやつ、タマのおさえが効かなくなっているようだな」
「はい。さっきも高めに浮いたカーブをねらい打ちされました」
うーむ、と監督はしばし考え込む。
(またリリーフを送る手もあるが、今日投げた三人よりは力が落ちるうえ、この雰囲気では押し流されて自滅する可能性が高い。苦しいが、やはりここは有原にふんばってもらうしかあるまい)
「監督?」
香田は怪訝げな表情になる。やがて監督が、意を決したように口を開く。
「スピードや変化球のキレはどうだ」
「はい。それはまだ、さほど落ちていません」
「だったらこの際、コースは気にせずタマの力で勝負することだ。その方が、有原に思いきりよく腕を振らせることができるだろう」
「え、ええ。しかし上位打線相手に、それは危険じゃ」
「うむ。おまえの言うとおり、たしかに危険ではある」
指揮官はあっさり認めた。
「だがコントロールを気にするあまり、四球でランナーをためてしまう方が、よっぽどマズイ。かといって高岸はもう投げられんし、ほかのリリーフじゃ心もとない」
「は、はい。ですが……」
「香田。おまえが不安に思う気持ちは、よく分かる」
なだめるように監督は言った。
「だがこうなった以上、絶対安全なやり方というのは存在しないのだ。いまは限られた選択肢の中から、より確率の高い方法を選ぶしかないのだよ」
なあ香田、ともう一度呼び掛ける。
「ここはおたがいハラをくくろうじゃないか」
「わ、分かりました」
正捕手は神妙な顔でうなずく。
「む。さあ、残りアウトひとつ」
表情を穏やかにして、監督は言葉を重ねた。
「いま持てる力をすべて尽くして、勝利をもぎ取ってこい!」
「はいっ」
最後は力強く返事して、香田はポジションへと戻っていく。
(たのむぞ、おまえ達)
一人残された監督は、鋭い眼差しをグラウンド上のナインへ注ぐ。
(どうにかふんばってくれ)
2.まさかの結末
香田がホームベース奥に屈むと、次打者の二番島田が左打席に入ってきた。バットを短めにして構え、「さあこい!」と気合の声を発す。
(ピッチャーが右なもんで、左打席に変えたのかな)
打者を観察しつつ、香田はサインを出す。そしてミットを真ん中に構える。
「さ、まずコレよ」
有原はうなずき、すぐにセットポジションから投球動作を始めた。サイドスローのフォーム。その指先からボールを放つ。
カーブが半円を描くようにして、ミットに飛び込んだ。
「ストライク!」
アンパイアのコール。むっ、と島田は目を見開く。
(真ん中とはいえ鋭いカーブだったな。ウカツに手を出してたら、打ち取られてたぜ)
打者の傍らで、香田はフフと含み笑いを漏らす。
(監督の言ったとおり、あまりコースにこだわらない方が、やつも思いきり腕を振れるようだぜ。これなら、なんとかいけそうだ)
マウンド上の有原へ返球し、「ナイスボールよ!」と声を掛けた。そして屈み込み、二球目のサインを出す。
(つぎはコレよ)
む、と有原はうなずき、すぐに二球目を投じた。シュッ、と風を切る音。
初球と同じく真ん中に、一転して速いボール。それが打者の手元で内側に曲がる。島田はまたも手を出さず。アンパイアが「ストライク、ツー!」とコールする。
(シュートもまだキレがある)
島田はマウンド上の相手投手を睨んだ。
(くそ、しぶといやつめ)
一旦打席を外し、数回素振りする。
(落ちつけ。二球とも真ん中に投げてきたということは、もうコースを突く余力はないということだ。あのピッチャーに疲れが出ているのは、まちがいない)
そして打席に戻り、島田はバットを構え直す。
一方、香田は「ロージンだ」と有原に手振りで伝える。投手は正捕手の指示通り、足下のロージンバックを拾い右手に馴染ませる。
(そうそう。なにも、あわてる必要はない。じっくりいこうぜ)
しばし間を取ってから、香田は「つぎもコレよ」とサインを出す。有原はロージンバックを足下に放り、すぐに投球動作へと移る。
またも真ん中のシュート。島田のバットが回る。カキ、と音がした。打球は三塁側ファールグラウンドを転がっていく。
「くっ」
今度は香田が渋面になった。
(シュートのキレは悪くなかったが。コースが甘いと、やはり当てられてしまうな)
束の間思案した後、香田は「つぎはコレでいこう」とサインを出す。有原はうなずき、セットポジションから三球目を投じる。
真ん中にスピードを殺したボール。それでも島田は上体を崩すことなく、おっつけるようにしてスイングした。カキッ、と乾いた音。
「うっ」
香田はマスクを脱ぎ、立ち上がる。ライナー性の打球がファースト頭上を襲う。ジャンプした高岸のミットも及ばず。おおっ、と一塁側ベンチとスタンドが一瞬沸きかける。
しかし打球は僅かにライト線の外側で弾んだ。
「ファール、ファール!」
三塁塁審が両腕を掲げコールする。
「くそっ」
一塁へ走り出していた島田は、立ち止まり唇を歪める。
「そろそろチェンジアップがくると予測して、ねらっていたのに。ちとタイミングが早かったか」
対照的に、香田はホッと安堵の吐息をつく。
「緩急をつけて打ち取るつもりが、ヤマをはられてたようだな。あぶなかった」
その後、有原はカーブ、シュート、カーブと投じるが、島田にすべてファールにされてしまう。打球はいずれも一塁側あるいは三塁側ファールグラウンドに転がった。
なるほど、と島田は僅かに笑みを浮かべた。
(こうしてねばっているうちに、だんだんタマの軌道が分かってきたぜ)
一方、香田は「メンドウだな」と一人つぶやく。
(真ん中しか投げさせてないとはいえ、これだけねばられちゃ、そろそろボロが出ちまう。早くケリをつけねえと)
マウンド上では、有原がハァハァと肩で息をし始めている。
(くそっ。いい加減、しつこいやつめ)
その時、ショートの小松が「がんばれ有原!」と声を掛けてきた。有原はハッとして振り向く。
「こ、小松」
「負けるなよ。おれ達がついてる」
サードの糸原も「一人で野球をするな。打たせていけ」と励ます。
「あ、ああ」
こわばっていた投手の表情が、僅かに和らぐ。そして視線を前に戻すと、キャッチャー香田がサインを出した。
(こいつでケリをつけよう。さあ、バックを信じて)
有原はうなずき、しばし間を置いてから投球動作へと移る。サイドスローのフォーム。その指先からボールを放つ。
次の瞬間、香田はマスク越しに「うっ」と顔をしかめた。
力のない抜けた球が、ど真ん中に入ってくる。しめた、と島田はためらいなくスイングした。パシッ、と快音が響く。
痛烈なライナーがあっという間に一・二塁間を破り、ライト甘井の前で弾む。おおっ、と一塁側ベンチさらにスタンドが沸き立つ。
「しまった」
右手の甲を顎に当てつつ、有原が唇を噛む。
「カンジンな時に、タマが抜けちまうなんて」
ツーアウト一・二塁。敗色濃厚だったはずの墨高の思わぬ粘りに、再び甲子園球場がざわめき出す。
「なんやて、またつないだんか」
「もう聖明館の勝ちで決まりだと思うたんやが。やるやん墨谷」
「うむ。こら最後まで、分からんで」
観客のそんな会話が聞こえてくる。さらに墨高を後押しする応援の声が、一塁側スタンドから球場全体へと広がっていく。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ……
「ようし! 島田、よくつないだぞ!!」
夜の荒川沿いの河川敷。田所は営業用軽トラックを停車して、ラジオの甲子園実況に聞き入っていた。
―― さあ、大変なことになってきました。九回ウラ、ツーアウトランナーなしと土俵際まで追いつめられた墨高でしたが、そこから連打でつなぎ二塁一塁。長打が出れば同点、一発が出れば逆転という場面で、打順はクリーンアップに回ります!
田所は祈るように、両手を組む。
「たのむ倉橋。なんとかつないで、谷口まで回してくれ!」
大歓声の甲子園球場。ネクストバッターズサークルにて、墨高の三番倉橋がマスコットバットで素振りしていた。その背中に、次打者として駆けてきた谷口が「倉橋」と声を掛ける。
「いまや流れはこっちだ。つなごうなんて考えず、思いきっていけ!」
「ああ。このチャンス、なんとしてもモノにするぞ」
それだけ言葉を交わし、倉橋はゆっくりと打席へ向かう。
一方、マウンド上には聖明館バッテリーと内野陣が集まっていた。
「すまねえな、有原」
ファースト高岸がうつむき加減で告げた。
「おれがドジってなけりゃ、こんなことにはならなかったってのによ」
「ば、バカ言ってんじゃねえ!」
有原は語気を強める。
「打たれたのはおれの責任だ。てめえが勝手に背負いこむんじゃねえ」
「おいおい有原」
なだめるように、香田が言った。
「ただでさえ息が上がってるのに、そんな大声出すと、余計に疲れるぞ」
「あ、うむ。そうだったな」
有原は苦笑いする。
「しかし有原の言うとおりだ」
真顔で口を挟んだのは、小松だ。
「高岸。いい加減に、自分を責めるのはやめろ。ここまで優位に試合を進めてこられたのは、おまえの力投あってのものだってことを忘れるな」
「あ、ああ」
高岸の表情が、少し和らぐ。
「それよりみんな、弱気になるな!」
他のメンバー達の顔を見回し、香田が声を上げた。
「まだおれ達は勝ってるんだ。下を向くのは早すぎるぜ」
たしかにな、と糸原が同調する。
「あとは有原、おまえの気力次第だ。バックを信じて、思いきっていけ」
「む。分かってるって」
肩を小さく上下させつつも、有原は笑みを浮かべる。
「話はまとまったようだな」
香田は声を明るくして言った。
「さあ、みんなで力を合わせて、最後のアウトをもぎ取るぞ。いいな!」
正捕手の掛け声に、聖明館ナインは「オウッ」と力強く応える。
やがてタイムが解け、聖明館内野陣はピッチャー有原を残し、それぞれのポジションへと戻った。
キャッチャー香田はホームベース前に立ち、改めてナイン全員を見回し掛け声を発す。
「ツーアウトよ! しっかり守っていこうぜ!!」
ナイン達も「オウヨッ」「まかせとけって」と快活に応える。
香田がホームベース奥に屈み込むのと同時に、墨高の三番倉橋が右打席に入ってきた。無言でマウンド上の投手を見つめ、力みなくバットを構える。
(シュートで詰まらせよう)
サインを出し、香田はミットを真ん中に構えた。有原はうなずくと、すぐに第一球を投じる。
「っと」
投球がホームベース手前でショートバウンドする。香田は咄嗟にミットを縦にし、辛うじて捕球した。二人の走者はそれぞれ次の塁を伺うも、香田が送球の構えを見せると、すぐに帰塁する。
(指に引っかかかっちまったようだな)
香田は返球した後、両肩を上下させ「ラクにラクに」と合図する。有原はその動作を真似て、肩の力を抜こうとする。
(さ、もういっちょコレよ)
サインを出し、香田は再びミットを真ん中に置く。有原はうなずき、今度は少し間を置いてから、投球動作へと移る。
「あっ」
投球が外角高めにすっぽ抜けた。香田は左手を伸ばして捕球する。
(有原のやつ、だいぶ握力がなくなってやがる)
香田は胸の内につぶやく。
(マズイね、どうにも。いまさらリリーフにかえてもらうわけにもいかねえし。かといって、ここでさらにランナーをためて、つぎの四番に回ったりでもしたらコトだ)
傍らで、倉橋は冷静に相手バッテリーの様子を観察する。
(かなりコントロールに苦しんでるな。しかし向こうも、満塁にして四番には回したくないだろう。てことは、つぎはきっとストライクを取りにくるはず)
しばし考えた後、香田は三球目のサインを出した。
(シュートがダメなら、コレを打たせるか)
そしてミットを真ん中に構える。む、と有原はうなずき、すぐにセットポジションから投球動作へと移る。
真ん中のカーブ。倉橋はバットをフルスイングする。パシッと快音が響いた。大飛球が、レフト真壁の頭上を襲う。
「なにっ」
香田はバッとマスクを脱ぎ、目を見開く。
「れ、レフト!」
香田の指示の声よりも先に、真壁は全速力で背走し始めていた。一塁側ベンチとスタンドが「おおっ」と沸き立つ。
やがて真壁の背中がフェンスに付いてしまう。その数メートル頭上を、打球が越えていく。真壁はスタンド側を振り向き、なすすべなく打球を見送った。
三塁塁審が、右腕を大きくぐるぐると回す。その瞬間、球場全体からワアアッと地響きのような歓声が上がった。
逆転サヨナラスリーランホームラン。センターのスコアボードに、墨高の得点が「5」と表示される。
「へへっ。入っちまったぜ」
倉橋は戸惑ったふうな笑みを浮かべ、小走りにダイヤモンドを一周した。カチャカチャとスパイクの音が鳴る。
一方、痛恨の一発を浴びた有原は、マウンド上でガックリと膝に両手をつく。さらにキャッチャー香田は、ホームベース手前で呆然と立ち尽くす。
ほどなく丸井と島田に続き、倉橋もホームベースを踏む。そのままベンチへ帰ろうとすると、すでに他のナイン達が集まってきていた。
「このヤロウ、やりやがったぜ!」
横井の一言を皮切りに、墨高ナインは倉橋の頭や背中をバシバシと叩き、全員総出で手荒な祝福を浴びせる。
「さすが三番。ここぞという時に打ってくれたな」
「明日の新聞に、写真つきでのりますね」
「しびれるねえ、このこの!」
束の間ナイン達にされるがままになっていた倉橋は、顔を上げ「やいテメーら」と怒ったふうな声を上げた。
「ひとの体を気安くたたきやがって。調子にのるんじゃねえ」
しかし横井がさらにからかう。
「あらら。ガラにもなく照れちゃって、まあ」
同級生の発言に、倉橋はぐっと言葉を詰まらせる。周囲では、ナイン達が互いに勝利の喜びを分かち合っていた。
仲間達の歓喜の輪から少し離れて、キャプテン谷口は一人満足げに微笑む。
(ありがとう倉橋。みんなも、本当によくやってくれた)
そして小さく右こぶしを突き上げた。
(かつてない困難をのりこえた、今日の一勝は大きい。このチームにとって、計り知れない自信と経験を与えてくれたはずだ。それはきっと、今後の戦いのかてとなる)
スタンドの銀傘からは、まだカクテル光線が降り注ぎ、グラウンド上の墨高ナインを眩しく照らす。
ほどなく、墨高と聖明館の両チームはホームベースを挟んで整列した。そしてアンパイアが右手を掲げ告げる。
「墨谷対聖明館の三回戦は、五対四をもって、墨谷の勝ち。一同、礼!」
「アリガトウシタッ」
挨拶の後、両軍ナインはそれぞれ握手を交わし、互いの健闘を称え合う。
甲子園球場のスタンドでは、あまりに予想外の結末に、未だざわめきが収まらない。
「まさか逆転ホームランで決着とはなあ」
「しかもツーアウトランナーなしからやで。こら球史に残る試合やったな」
「せやけど初出場の墨谷が、これでベスト8進出や。おもしろうなってきたで」
観客達は一様に信じられないという表情で、口々に試合の感想を語り合うのだった。
三塁側ベンチ。まさかの敗戦に呆然とする選手達を前に、聖明館監督は束の間瞑目する。
(最後はツキがなかったか。いや……)
目を見開き、僅かに笑む。
(彼らは自分達の力でツキを呼びこみ、試合の流れをモノにしたのだ)
そして、うなだれつつ引き上げてきた有原や香田、他のナインに声を掛ける。
「おまえ達、もっと胸をはらないか」
えっ、と香田そして有原が顔を上げた。監督は穏やかに語りかける。
「われわれは十分に手をつくした。それで敗れたのなら、少しも恥じることはない。たしかに悔しいが、いまは素直に勝者をたたえようじゃないか」
ナイン達はすっと背筋を伸ばし、少し表情を明るくして「はいっ」と返事した。
―― かくして、墨高は強豪・聖明館を九回の大逆転の末破り、初出場でベストエイト入りの快挙をなしとげたのだった。
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